二度目の初恋は神様でした。   作:怪盗エンペラー

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第4話

 

「明日は大学に行こうと思う」

 

 夏も始まったばかりの夜。いつも通りにリビングでくつろいでいるヒメノに、俺はそう告げた。

 

「む、大学はもう辞めたのでは無かったか?」

「あぁ。ただ、事務所に書類を出さなければならないんだ」

「なるほどのう」

 

 いわゆる『退学届け』というやつだ。昨日から大学は夏休みに入っているので、人も少ない明日が良いなと思った。

 

「ふむ。 ……ならばワシも一緒に行こうかのう」

 

 再開して以来、ヒメノは昼間も家にいるようになった。

 もはや同居生活とも言っても差し支えない状況。恋だとか、結婚だとか、色々すっ飛ばしている気がするが、そのことについてはもう考えないようにしていた。

 

「良いのか? 家でくつろいでいてもいいんだぞ」

「よい。たまには外出をしないと」

「そっか。なら一緒に行こう。 ……明日早いから、酒飲むなよ?」

 

 念のためにそう忠告をする。

 

「……お前、ワシが神であることを忘れておるのか? ワシは不死だから、睡眠も必要ないのじゃぞ」

 

 不機嫌そうな顔でそう言うヒメノ。

 

「そういえばそうだったな……いや、待て。お前、昼過ぎまでずっと寝ているじゃないか」

 

 普段のヒメノの行動に、俺は突っかかる。

 

「……必要ないとは言っても、欲はあるからのう。寝たいものは寝たいのじゃ」

 

 なんて神様だ。

 結局、睡眠は必要という結論になってしまい、少しばかり悲しくなった。

 

「心配せずとも、今宵は飲まん。ウエハラと一緒に行きたいからのう」

 

 そう言うや否や、俺のベッドに潜り込むヒメノ。

 

「……それならよかった。明日も早いし、寝るか」

 

 そう言い、俺はリビングの照明を落とした。

 

 

 

 

「おぉ、これが大学というものかのう」

 

 翌朝、俺とヒメノは始発の電車に乗り、大学の前に着いた。

 最寄駅から徒歩数分で行けるので、コンビニに寄り道し、ヒメノは先程買った梅おにぎりを食べていた。

 

 薄手のグレーのパーカーに黒のスキニーをすらりと履きこなしているヒメノは、シンプルなのに、普通の大学生のような雰囲気があり、違和感が無かった。

 

「そうだな。この景色も、もう見納めか」

 

 今日でこのキャンパスを拝めるのも最後かと思うと、なんとも言えない気持ちになった。

 夏休み、そして早朝ということもあって、普段過ごしていた時の喧騒が、嘘のように静かだった。通りを覆う木々の影が、ゆらゆらと歩道に揺れている。

 

「……大学生か」

 

 ヒメノは辺りをきょろきょろと見渡しながらそう呟いた。

 

「なんだ? 何か思い入れでもあるのか?」

「いや……そういうわけではないのじゃが。最近お前と一緒にいるせいか、前世の記憶が徐々に蘇っている気がするのじゃ」

「本当か?」

 

 俺はそう尋ねる。

 

「うむ。それでワシは大学生というものに憧れを持っていたらしいのじゃ」

「なんだそれ」

「ワシに言われても分からん」と肩をすくめるヒメノ。

 

 これまで、ヒメノが前世の記憶について話したことはほとんどなかった。

 初めて出会った時から、ヒメノは俺と同い年、もしくは少し年上なのではないかと思っていた。

 

 今、俺は大学生になってから三回目の夏を迎えた。ヒメノが学生で、俺と同じように過ごしていた可能性は十分にあり得る。

 

「……まぁなんにせよ、記憶が戻ってきているのは良いことではないか?」

 

 俺はそう言うと、ヒメノは不満そうに眉を寄せた。

 

「……ワシに記憶が戻って欲しいと思っておるのか?」

 

記憶が戻る。それはすなわち、ヒメノの未練が断ち切られ、本当の意味でこの世を去るということを、俺はしっかりと理解していた。

 

「……ワシは怖いのじゃ。いつか自分が自分でなくなる日が来るということが」

 

 俺は勘違いをしていた。ヒメノは神様で俺は人間。神様は何でもできるし、失敗もしない。だから俺はヒメノを人間として———普通の女性として見れていなかったのかもしれない。

 

「……俺は」

 

 言葉が詰まる。俺はヒメノにどうして欲しいのか。俺はヒメノに対してどう思っているのか。俺はヒメノに何を伝えたいのか。

 

「…………俺は、今の生活が楽しいし、これからもこんな日々を送りたいと思っている」

 

 悩んだ末にポツリと漏れた本音。

あの日、ヒメノと出会ってからの今日までの日々。

 ヒメノと出会う前の不幸な俺。出会ってからの幸福な俺。

 

 期限付きの、虚しき幸せ。

 

 俺は、やっと自分自身の考えに、一つの結論を出すことが出来た。

 

 

 それは———これからもずっとヒメノと過ごしたい、と。

 

「だから、記憶が戻っても、このままのヒメノでいて欲しい」

 

 静かに———だけどハッキリと、ヒメノに思いを伝えた。

 

「…………………………………………ふふっ」

 

 最初は驚きで固まっていたヒメノだったが、徐々に表所が緩んでいき、小さく笑った。

 

「ウエハラは、そんなにワシといたいのか?」

 

 にやりといたずらっぽい笑みをするヒメノ。

 先程まで驚いていた瞳は、どこか嬉しそうに揺れていた。

 

「……………………まぁ」

 

 直接言うのがどこか気恥ずかしく、俺は曖昧な返事をしてしまった。

 

「……そうかそうか。それならばしょうがないのう」

 

そうヒメノは言いながら、嬉しそうに俺の服の裾をつまんできた。

 

「ならば、ウエハラが死ぬまで、ワシが面倒を見てやらねばなるまいな」

「何年先の話だよ」

 

 どこかぎこちない雰囲気になりながらも、俺たちはキャンパス内を歩いた。

 道行く人が気味悪そうにこちらを見るも、俺は気にも留めなかった。

 この半年間で、ヒメノの存在は俺にとって欠かせないものとなっていた。

 

 ヒメノのことを好きなのか。と聞かれたら、俺は言葉に詰まる。

 ヒメノが俺のことを好ましく思っていることは分かっている。しかし、俺の心の奥底では、たった一つのくだらない約束に捕らわれていた。

 

 あの夏祭りの夜。 ———当時は、気にも留めなかったあの口約束。

 その約束を果たすことで、俺の中で一つのけじめがつけると思っていた。

 

 しかし、ヒメノの口ぶりから察するに、もう間もなく彼女の記憶は戻ると思われる。

 

 その時に『俺』という存在が、ヒメノの中で生き続けているのか。記憶が戻っても俺の知っているヒメノで居続けてくれるのか。

 この短くも長い、大切な半年間を覚えていてくれるのか。

 いつも明るく、時には子供のように拗ねたり、笑ったり、泣いたり、たまに変なことも言ったりする俺の記憶の中のヒメノ。

 

 

 ———そんなことを考えていると、目的の事務所に辿り着いた。

 俺はヒメノに「ちょっと行って来る」と言い、中に入った。

 

 

 

 

 手続きは何事もなく無事に終わることができ、俺は晴れて自由の身となった。

 

「遅くなった、ヒメノ」

「うむ。意外と早かったではないか」

 

 近くのベンチで座っていたヒメノは、そう言い立ち上がる。

 

「もう用事は全部すんだのか?」

「あぁ。これで思い残すことはもう無いよ」

 

 この場所でやるべきことは、もう本当に無くなった。

 短くも長い三年間。俺はそう思い、ヒメノと共に来た道を引き返した。

 

「……ウエハラ、ワシは腹が減ったのじゃ。どこか寄り道したいのう」

「さっき食べたばっかりだろ。まったく……」

 

 俺は呆れたように言う。

 

「せっかく外に出たのじゃ。どうせなら……」

 

 

 ———と、ここまでは何気ない日常の一コマだった。

 

 

 

 

「—————————ウエハラ」

 

 突然背後から名前を呼ばれ、俺は思わず振り返った。

 

「久しぶりだな」

 

 そう男は言う。確か、同じ学部の———名前は忘れた。俺を崖から突き落とした張本人———ヒムロと仲の良かった男……だった気がする。

 

「———お前、ヒムロと何があった」

 

 男は不機嫌そうな声でそう言う。

 ヒムロのことは、当然大学側から通達があった。 ———しかし、俺が関わっていたことは知らされていないはずだ。なのに、男は断定した口調でそう言う。

 

「……さぁ」

 

 俺は曖昧に返事し、背を向けようとする。

 

「おい、話は終わってねぇぞ」

 

 そう男は言い、肩に手をのせる。

 

「ヒムロから全部聞いた。お前、最低だな」

 

 男はそう言い、ヒムロから聞いたのであろう内容を話し始めた。

 要約するとこうだ。ヒムロが俺の趣味を否定して、俺が癇癪を起こし、口論になり、揉み合いの末に、誤って俺が崖から転落したのだから、正当防衛なのだと。

 

 俺はそれを聞き、思わずため息を吐いた。言っている内容と、実際起きた出来事は全然違うからだ。

 

 ヒムロは俺の趣味を否定したのでない、嘲け笑ったのだ。

 昔のクラスメイトのように。「お前が、星好きなのは似合わない」と。

 そして癇癪を起してもいない。馬鹿にされ、傷付いたのは事実だ。その一言で、ヒムロに懸けていた思いが消え失せたのも事実。

 

 その瞬間、俺の中で、ヒムロへの『期待』というものが無くなったのだろう。

 

 ヒムロに向ける俺の表情は、段々と形だけのものになっていった。そして、俺からは何も喋らず、ヒムロの言葉に適当に相槌を打つだけになった。

 

 そのことが癇に障ったのだろう。ヒムロは俺の方を向き、ありとあらゆる罵倒を始めた。

 それを聞き、俺はようやく確信した。「ヒムロは俺のことを好いてなどいなかったのだ」と。

 

 その事実に気付いた瞬間、俺は何故か笑ってしまった。あの時を振り返っても、何故俺が笑ったのかは分からない。

 それが引き金となったのだろう。頬を殴られ、勢いよく吹っ飛ばされた俺は、そのまま転落してしまった。

 

 ひょっとすると俺は、ヒムロという人物を気に入っていたのではなくて、自分の考えを肯定してくれる彼を通して、俺自身を愛していたというだけかもしれない。

 

 

「何笑っているんだよ」

 

 男は吐き捨てるような声でそう言う。

 

「いや、別に」俺はそう言い、言葉を続ける。

 

「今、この人と一緒に遊んでいて、話を聞いてなかったんだ。ヒメノっていうんだ」

 

 そう言い、俺はヒメノの肩に手を置く。男は露骨そうに不快そうな顔をした。

 

「笑えねぇよ、気持ち悪い」

「あんたがそう思うのも無理ないさ。ただ、ヒメノは確かにここにいて、俺と一緒に遊んでいるんだ。こんなところで時間を潰すのが勿体ない」

 

 これ以上、こいつと会話をする気はさらさら無かった。

 

「……あのさ、ウエハラ。前から思っていたけど、お前、頭がおかしいんだよ。自分の殻に閉じこもっていないで、ちょっとは反省でもしたらどうだ?」

 

 男は呆れたようにそう言い、去っていった。

 蝉の声が響き始め、どこまでも青い空を、俺は目を細めながら眺めた。

 

「……大丈夫じゃったか? ウエハラ」

「あぁ、俺なりにあの時のけじめは、もうついたんだ。 ……それよりも、どこか寄り道をするんだろ。どこに行きたい?」

 

 そう言い、ヒメノの方を見る。

 一瞬困ったような表情をしたヒメノだったが、すぐに明るい笑みに戻り、俺の手を握り、「ならば一つ行ってみたいところがあるんじゃ」と言った。

 

 

 

 

 それから俺たちは、近くのバッティングセンタ―に寄った。

 会計を済ませ、薄暗い屋内に入る。至る所で、バットの金属音が響いていた。

 

「ウエハラ、ワシと勝負しようぞ」

 

 そう言い、バットを握るヒメノ。

 機械が唸り、球が飛び出す。ヒメノは大きく構えてバットを勢いよく振る———が、結果は空振り。

 

「なんだよ、空振りじゃないか」

 

 ヒメノはむすっとした顔で「うるさい」と言い、バットを渡す。

 続く俺の番。放たれた球は思ったよりも速く、うっかり見逃してしまった。

 それから俺とヒメノは交互に空振りを続けていた———が、数球目、ヒメノがバットに芯を当て、気持ちの良いホームランを放った。

 

「……やったぞ、ウエハラ!」

 

 嬉しそうに跳ねるヒメノの後ろ姿を見ながら、俺は自然に表情が緩んだ。

 

 

 

 

 それからはお互い勝負の事は忘れ、俺たちは気が済むまでバットを振り続けた。

 

「ナイスじゃ!」

 

 俺の初ホームランに興奮したヒメノが、勢いのままハイタッチをしてきた。弾むような音が室内に響いた。

 

 

 結局、外に出たのは、夕方に差し掛かろうとした時間帯だった。

 近くのスーパーで食材や酒を買い、その日も、ヒメノと二人でのんびりと過ごした。

 

 

 

 ある日の朝、俺はヒメノと共に電車に乗っていた。

 なぜ俺たちがそうしているのかというと———きっかけは、昨日の一本の電話からだった。

 

 

 

 

「————悪い、ヒメノ。明日から少し家を空ける」

 

 夏も終わりを告げる昨日の夜。俺は少し申し訳ない気持ちでそう告げた。

 

「む、珍しいのう。何か用事でもあるのか?」

 

 ポテチをつまみ、こちらを見つめるヒメノ。

 

「あぁ、実は———」

 

 先程母親と電話をしたことを告げる。その内容は「今後どうするのか」についてだった。

ヒメノのおかげで立ち直ることが出来た俺は、このままじゃいけないと思い、近くの会社で働く旨を母親に伝えた。そしてその返事として、一度実家に戻りなさいということだった。

 

「……なんじゃ、そんなことだったか。ならばワシも一緒に行こうかのう」

 

 思いがけない返事に俺は思わず驚く。

 

「良いのか?」

「うむ、ウエハラの故郷をワシも見たいからのう」

「そうか、それなら一緒に行こうか」

 

 ヒメノは「楽しみじゃのう」と、嬉しそうに言った。

 

 

 

 

 電車に揺られながら、俺は久しぶりの実家について考えていた。

 高校から一人暮らしを選んでいた俺は、実家に戻ること自体は度々あった。

 

しかし、電車に乗るたびに俺は憂鬱な気分に陥っていた。

ゴミみたいな記憶しかない場所。それに嫌気がさし、「高校は一人暮らしをしたい」と母親に無理を言っていた時期が懐かしい。

 

 今にして思えば、俺は両親に、散々迷惑をかけてきたと思う。おそらくいじめのことも知っていたのだろう。両親は、俺が話したくもないことを、わざわざ聞き出したりせず、俺の意志を尊重してくれた。

 

 入院していた時に、母親は度々見舞いに来てくれた。俺がこうして元気で生きている背景には、両親の存在が欠かせなかったと思う。

 そのお礼と、今までのお礼を必ずしなければいけない。帰ってきたらその感謝の気持ちを伝えようと思った。

 

 ———そしてもう一つ、俺にはやるべきことがあった。あの夏祭りの日、ハナサトと交わした約束。

 十年後もお互いに結婚するよな相手が見つかっていなかったとしたら、そのときは、ハブられもの同士、一緒になろうと交わした約束。

 今日はその祭りが開催される日。十年後の今、俺はハナサトに伝えたいことがあった。

 

「……して、お前はそのハナサトという女が好きなのか?」

 

 隣に座るヒメノにそう聞かれる。

 

「どうだろう、俺は俺自身を好きになれていないからな。 ……だけど、昔の俺はハナサトのことを好きだったんじゃないかな……と思う」

「……そうか」

 

 車内は驚くほど静かで、俺たちの声が少しだけ響いていた。

 向かいのサラリーマンらしき男が、新聞からちらりと顔を上げ、眉を潜めながら見つめている。

 

「しかし、お前はそのハナサトという女に会うことが出来たら、約束通り結婚するのか?」

「……多分、しないと思う。そもそも、会えるかすらも怪しいからな」

 

 約束は十年前。ハナサトにとって、それが単なる気まぐれで出た発言だったとしたら、再び会えることはまずないだろう。

 

「……」

 

 それからヒメノは無言で髪をいじりながら、窓の景色を見つめていた。

 空白の車内、その静けさが車輪の響きを際立たせ、そのリズムだけが一定に流れてくる。

 俺は、コンビニで見かけたハナサトらしき女のことを思い返していた。

 絹のような美しい黒髪と、すらりとした輪郭。どこかあの頃の面影を残すような横顔。

 

 あれは俺が見た幻だったのだろうか。

 

 ———結局、俺の心は十年前のあの日から、ずっと縛られたままだった。

 

 

 

 

 駅に着いた時には、夕方も終わりを告げるような時間帯だった。

 ふと前を見ると、どこか懐かしい、見知った光景が目に入った。どうやら俺はもう一度この場所に戻って来たらしい。

 

 俺は、実家に戻るよりも先に、約束の方を優先しようと考えていた。

 十年前に交わした約束は、日にちが分かっても、時間帯が分からなかったからだ。

 

 もし、ハナサトがここに居るのなら———彼女はもう、あの場所で待っているのかもしれない。俺はそう考え、記憶を頼りに、祭りの会場に向かった。

 

 

 祭りは、駅から歩いてすぐの商店街から始まっていた。

 提灯が並ぶ商店街を、ヒメノと歩く。

 

「祭りを見るのは初めてであるな。なんとも賑わっているではないか」

 

 そう言い、ヒメノは落ち着かない様子で辺りを見回している。

 俺も祭りを見るのは十年ぶりだ。ハナサトがいなくなってからは、祭り自体に足を運ぶようなことが無くなっていたからだ。

 相変わらず小規模な祭りだ。屋台の数は二十もないだろう。しかし、それなりに活気はあった。

 

「ウエハラ。せっかく来たのじゃし、何か食べたいのだが……」

 

 そう言い、ヒメノは遠慮がちに、こちらを見ている。

 

「……そうだな。少し早いけど夜ご飯にするか」

 

 ちょうど俺も空腹を感じていたので、ヒメノの提案に、俺は賛成した。

 

 

 

 

「ウエハラ、この焼きソバはどうしてこんなにも美味しいのじゃ?」

 

 お好み焼き、フランクフルトと買い、焼きそばをすすりながら、ヒメノはそう言う。

 

「祭りの影響かな。一気に満腹になりそう」

 

 先程購入した唐揚げを食べながら、そう言う。

 その後、何をとち狂ったのか、全ての屋台で一点ずつ買い物をすることを決め、たこ焼き、かき氷、焼きトウモロコシ、チョコバナナ、イカ焼き、たこ焼き、りんご飴を買って石段に持って行った。

 

「そんなに買ってどうするのじゃ」と呆れ顔のヒメノはそう言う。

 

「子供の夢を叶えたってことかな。俺一人じゃ食べれそうにないからヒメノも食べてよ」

 

ヒメノは「……そういうことならなら遠慮なく」と言い、薄焼きを食べ始めた。

 

 神社の境内には俺とヒメノしかいなく、石段の上からは夏祭りの会場が見下ろせた。

狭い参道に屋台がぎっしりと並び、左右の提灯が滑走路のように真っすぐ続き、薄暗い境内を明るく照らしている。行きかう人々は皆上機嫌そうで……………………要するに、十年前と何一つ変わっていなかった。

 

 あの日も俺は……俺とハナサトはこうやって石段に座り、歩く人々を眺めていた。幸せになる権利はないのだ、と諦めていた。

 俺もハナサトも、自分たちを見てくれる「何か」を待っていた。全てを肯定してくれる「何か」を今でもずっと——————

 

 しかしあの日、ハナサトは予言した。「十年後、私たちは幸せになれる」のだと。

 

 隣で美味しそうに、焼きトウモロコシを頬張っているヒメノを見る。

 ———あの日、ハナサトの言った、予言に近い言葉は、見事に的中した。あの日、あの山で俺はヒメノと出会い、俺は救われた。

 

絶望の淵にいた俺が、もう一度生きたいと、心から思った出来事。

その日から今日まで、俺は初めて生きていることを誇りに思った。

 

「幸せだ」と。ハナサトと再会した時に、俺は初めにそう言うのだろうか。

「生きていてよかった」と、俺はそう告げるのだろうか。

 

 昔から俺たちは似た者同士だった。仮に今からハナサトと再会したとして、彼女もまた最初に「幸せだ」と言うのだろうか。

 

「生きていてよかった」と。あの時の、夕闇に溶けそうな儚い笑みで。

 そしてもう一つ。ハナサトは言った。十年後も、お互いに結婚するような相手が見つかっていなかったとしたら、そのときは、ハブられもの同士、一緒になろうと。

 

 

 ——————今、俺はその十年後の夏にいる。

 

 

「……ウエハラは」

 

 ヒメノは視線を地面に落としたまま、消え入りそうな声でぽつりと呟く。

 しかしすぐに「……何でもないのじゃ」と首を横に振った。

夕暮れの色が、ゆっくりと境界線を失いながら夜祭りの喧騒に溶け込んでいく。

太鼓の音が遠くでどん、と弾み、屋台の明かりがぼんやりと揺れている。

 

 

———「また会おうね」———

 

 

卒業式の日、ハナサトはそう言って、俺の前から姿を消した。

あの時の、あの悲しい笑顔は、十年経っても色褪せなかった。

 時計を見るたびに、秒針がやけに冷たく感じる。十九時を過ぎ、二十時を越えて、屋台の灯りが少しずつ減り始める。

 胸の奥がじんわりと痛んだ。それでも、俺は帰ろうと背を向けなかった。

十年分の思いが、足を地面に縫い止めるように留まっていたからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………………………来ない、か……………………………」

 

 

 

 

 

 

 気づけば、言葉がぽつりと落ちた。

人波が引き、境内に残ったのは—————————俺と、ヒメノだけだった。

 足元の砂利を指でつまんで、軽く投げる。

乾いた音が一つ。

 いつだって俺は、肝心なところでどうすることも出来ない、臆病者だった。

 

「……よいのか? もしかしたら、この後来るかもしれんぞ」

「———良いんだ。これで」

 

 俺は一言そう言い、境内を眺めた。

 これでここに来る理由はもう無くなった。

 最後にもう一度。と思い、振り返る。拝殿の前に吊るされた鈴が、微かに揺れたような気がして、俺は小さく笑った。

 

 

 

 

 帰り道、家に帰る気分にもなれなかったので、どこか適当に歩いた。

気が付けば、昔の———散々歩いた通学路に、足が向いていた。

 

 

 

 

「ここって……」

 

 着いたのは小学校———俺とハナサトが過ごした———地獄の場所だった。

 夜の校舎は、記憶にあったものとは別の建物のように見えて、あれ程高かった校門は、低く見えた。

 俺は校舎の裏口へと回り、その先にある扉を押す。すると、扉は驚くほど簡単に開いた。

 

「おぉ、開いたぞ」

「ここは、俺の知っている秘密の場所なんだ」

 

 そう言い、俺は中に入った。

 

 

 

 

 夜の校舎に入るのは、人生で二度目だ。

 廊下は息を潜めたみたいに静かで、靴底の音だけが妙に響く。

 ふと見上げた校舎のガラス窓に、昔の自分が蘇るような気がした。

 あの頃から随分と老けたものだ。一人では何もできなかった、くだらない人生。俺はもう一度、何かを求めてここに来た。

 

「……ウエハラ、一体どこに行こうとしているのじゃ?」

 

 隣でヒメノが、どこか不安そうに尋ねる。

 

「屋上に行く」俺は一言そう告げた。

 

 

 

 

 屋上へ続く階段を上る。最上段まで上ると、奥に金属製の扉が佇んでいた。

 扉を押す。しかし、扉は固く施錠されていた。取っ手を引いた瞬間、乾いた金属音が響き、閉ざされた事実を突きつけてくる。

 仕方なく俺は、隣に放置されている空の机の引き出しを漁る。

 

 あれから何年も経過していたが、目的の物———小さな金具は、引き出しの中にポツンとあった。

 俺は鍵穴の前にしゃがむ。金具を当てた瞬間カツン、と小さな音が響く。

 

 息をひそめ、指先に意識を集中させる。そして次の瞬間、内部の何かがほどけるように軽く動き、鈍い「カチリ」という音が響いた。

 

「開いた」

 

 扉は抵抗することなくゆっくりと開き、俺とヒメノは屋上に出た。

 

 

 

 

「ここって……」

 

 鉄柵の向こうに広がる街の灯りを見ながら、ヒメノは呟く。

「あぁ、俺の———俺たちの秘密基地だ」

 誰にも見つかることのない場所。夜風が吹き、ヒメノの綺麗な髪がなびく。

 

「…………ウエハラ、ワシは……」

 

 何か言いたそうなヒメノ。そして顔を横に振り「それにしても」と言う。

 

「ここは風が心地いいのう。 ……ウエハラ、どうしてワシをここに?」

 

 のびのびと腕を伸ばすヒメノを横目に「何となく、ここに来たかったから」と言う。

 

 街の灯りが遠くで瞬き、夜空の黒さを柔らかく照らしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな静けさの中、俺は——————

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「好きだ。ヒメノ」

 

 

 

 

 

 

 

 ヒメノに一言、そう告げる。

その瞬間、胸の奥の温度が急に変わった。軽くなるような、痛むような、不思議な感覚。

 

ヒメノは驚いたように目を瞬かせる。夜風に揺れる髪の影が、その頬を隠した。

 そして、彼女はゆっくりと瞬きをした。まるで、好きと言われた事実をひとつひとつ噛みしめるように。

頬がうっすらと赤みを帯びているのが、月明かりに照らされてはっきりと分かった。

 

「……っ」

 

 風が吹き、肩にかかったヒメノの艶やかな髪が揺れる。

その髪の隙間から覗く横顔は、さっきよりもずっと柔らかくて、照れを抑えきれずに滲んだ暖かさがあった。

 

 

 やがてヒメノは、そっと視線を上げた。その目は、ほんの少し潤んでいて、驚きの色をまだ残しながら、どこか覚悟を決めたようにまっすぐだった。

 

 

 

 

 そして——————ヒメノは、俺を抱きしめた。

 

 

 

 

「ワシも———ウエハラのことが大好きじゃ」

 

 

 

 

 嗚咽交じりの声で、そう言葉を紡ぐヒメノ。

 軽くて、冷たくて、でも壊れそうで。

 

「あの日、お前と初めて出会った時から……ワシはお前のことがずっと気になっておった。そして……その後お前と再会し、一緒に食べたあのすき焼きが、ワシは大好きじゃった」

 

 ヒメノは唇を結んで、絞り出すような声でそう言った。

 

「ワシはずっと一人だった。自分が誰で、何をしているのか、何のためにいるのか、ずっと分からず仕舞いだった。そんな時———ワシはウエハラと会った」

 

 俺は無言でヒメノの話を聞く。

 

「ウエハラはワシを———『いるもの』としてずっと扱ってくれた。普通の店で喋りながら飯を食ったり、一緒に買い物をしたり、ただ街を歩いたり、手を繋いで一緒に夜景を見たり、そんな些細なことが———ワシには夢のようじゃった」

 

 なんて返せばいいのか、分からなかった。

 自分が誰かに感謝されているなんて、思ってもいなかったからだ。

 

「いつしかお前のことを……好きになっていた。初恋……だったのかもしれん。ワシはもう死んでいるのに。今を生きているお前のことが……どうしても、どうしても気になって」

 

 嗚咽まじりの呼吸、肩を預ける重み、震えながらも必死に抱きしめるその腕。

その全部が———ヒメノの想いそのものだった。

 

 

 

 

「———ウエハラ。ワシには……もう時間がない」

 

ヒメノの目から、ぽろぽろと涙がこぼれる。月光に照らされ、涙が彼女の頬を伝う。

 

「時間が無いって……」

 

俺は、震える声でそう聞き返す。

ヒメノは一瞬困ったような表情を浮かべたが、すぐに首を横に振り、「……一つだけ、お願いがあるんじゃ」と言った。

 

 

 

 

「———ウエハラ、ワシを強く抱きしめてくれんかの?」

 

 

 

 

俺は手を伸ばし、ヒメノを抱き寄せた。居者でしなやかな身体を、強く強く抱きしめる。

綺麗な髪。形の良い耳。細い首。頼りない肩と背中。胸。緩やかな曲線を描く腰。

脳の一番深い部分に、ヒメノの全てを刻む。何かあっても、いつでも思い出せるように。

—————————二度と、二度と忘れないように。

 

 

 

 

「……なぁ、ヒメノ」

「なんじゃ?」

「———どうして、こんなことを?」

 

 ヒメノを抱きしめたまま、俺はそう告げる。

 

「———どうして、じゃと? ………………それは」

 

 ヒメノはまつげをゆっくり伏せ、唇の端をきゅっと小さく噛んだ。返事に迷うように視線がわずかに泳ぎ、眉がほんの少し寄って———その表情には、どうしていいか分からない戸惑いと、俺を傷つけたくない優しさが滲んでいるようだった。

 

 

 

 

「———私の未練が…………叶っちゃったから。かな」

 

 

 

 

 

 突然、ヒメノの口調と声色が変わった。

 

 

 

 

それは———俺が一番脳裏に刻み込まれた———君の話し方そのものだった。

 

 

 

 

「————ハナサト」

 

 ゆっくりと腕をほどき、俺は、その名を告げた。

 

 

「———久しぶり、ウエハラ」

 

 そう言い、目を閉じ微笑む彼女は———まさに神様のようだった。

 

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