深い紺色の空に、星の粒が細かい砂のように広がっている。息をするたび、自分の胸の内まで澄んでいくような美しさだった。
その先に、一人の美しい女が佇んでいた。
ふと、その女と視線が合う。透き通るような丸い目は柔らかな光を宿しながら、こちらをじっと見つめていて、昔と変わらないのに、どこか大人びている。すっと通った鼻筋が顔全体を際立たせ、整った眉は穏やかに弧を描いていた。光を受けてきらめく彼女の顔は、息をするのを忘れるほど———綺麗だった。
「……なんて顔をしてるの? ———ウエハラ」
困ったようで、でも嬉しそうな、ふにゃっとした微笑みをするハナサト。
「……悪い、見惚れてた」
心臓が早く打つのを、どうしても抑えることが出来なかった。ハナサトの名を呼ぼうとするだけで喉が詰まり、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「———私も。久しぶりにウエハラと会えて、ドキドキしてるよ」
彼女の声は、空気に溶けるように澄んでいた。耳に触れた瞬間、胸の奥まで静かに染みこんでいく。
「———昔の君は、そんなこと一度も言わなかったのに……どういう風の吹き回しだ?」
「———ウエハラこそ、あの頃からちっとも変っていないんじゃない? 一緒にいようって約束したのに、私ではない、私を好きになっちゃうんだから」
「勘弁してくれ」
いかにもハナサトのいいそうなことだな、と俺は心の中で呟いた。ハナサトはあの頃と、何も変わっていない。十歳の彼女もこんな風に、皮肉屋ではあるものの、どこか温かみのある喋り方をしていたものだった。
夜風がふっと吹き抜けて、ハナサトの髪が静かに揺れた。
月の淡い光に照らされて、彼女の黒髪がひと筋ずつきらりと光る。
そして、ハナサトの身体に変化が起きた。輪郭が揺れ、柔らかな光に溶け始めている。
最初に変化が現れたのは、足元だった。——————もう時間がない。
「……私、初恋だったんだ」
「……」
「ウエハラは他の人達と違う。優しくて……何より、私を一人にしてくれなかった。あなたはそんな気じゃなかったかもしれないけど、私はあなたに沢山救われた」
「———そんなことない、俺も……君に救われた」
震える声でそう言う。
「お祭りの約束、ずっと覚えていたよ。だけど、いつの間にか死んじゃって……神様になって……そして———また、あなたと会えた」
出来すぎた話だと誰もが思うだろう。でも、これは———まごうことなき神様の奇跡。
彼女を見つめるたびに、初めて出会った四歳のあの日から、彼女が転校して俺の前から姿を消す、卒業式のあの日までの思い出が一つ一つ頭をよぎる。
「もう一度抱きしめたい」
そう言い、俺はハナサトの身体を抱き寄せた。
「———好きだ。ハナサト……だから、どこにも行かないでくれ」
俺が初めて愛した女———ヒメノ。
俺を初めて愛してくれた少女———ハナサト。
「……浮気者だね。ばか」
抱き寄せた瞬間、彼女の腕がそっと背中に回ってきた。ためらいがちだったのに、次の瞬間ぎゅっと力がこもって———その温度が、胸の奥まで一気に押し寄せてきた。
———この腕をほどいたら最後、もう二度と会えなくなるかもしれない。
「頼む……どこにも行かないでくれ、神様」
泣きながら抱きしめる。もう一度奇跡よ起こってくれ、と願いながら。
「———ありがとう、ウエハラ………………だけどもう、大丈夫だよ」
その言葉を聞いてもなお、俺はハナサトを強く抱きしめる。
しかし数秒後、ハナサトの震える手が、俺の背中をさすってきた。その優しさを背中で感じ、俺は悟った。
———俺の身勝手な行動が、彼女を困らせているのだと。
———俺はゆっくりと腕をほどいた。
身体が離れていくのを感じながら、どうしても最後まで指先を握りしめていたくなる。
でも、もうハナサトは手の中にはいない———そう理解する痛みに、胸が張り裂けそうな気持ちになった。
「ありがとう。ウエハラ———くん。私、幸せだった」
腕を離した瞬間、風が強く吹き、ハナサトの輪郭が夜空に溶けていった。
透明になっても、温もりの記憶だけが腕に残った。
泣き崩れそうなになりながらも、俺は最後の最後まで夜空を見つめた。
星が静かに瞬き、街の灯りが遠くで揺れる。
抱きしめたことの重みと、放したことの痛みが、胸に深く刻まれた。
——————俺の初恋は、瞬く間に終わった。
いつの間にか眠っていたらしい。次に目を開いたのは、春の日差しが、強くなり始めた時間帯だった。
その後、俺は久しぶりの実家に戻った。目は隈だらけ、身も心もボロボロの俺だったが、両親は暖かく迎えてくれた。
無事、落ち着きを取り戻した俺は、両親にヒメノのこと。ハナサトのことを話した。
両親も初耳だったらしい。ハナサトの親に電話し、昨年、事故死したことを告げられた途端、泣き崩れてしまった。
そして俺は今——————『花里花蓮』と刻まれたお墓の前にいる。
あの後、自室に置いてあった手紙を読み返した。今はもういないハナサトの言葉に、何度も泣いた。
そして手紙の裏に書かれてあった住所を頼りに、俺はハナサト家を訪れた。
玄関で姿を現したハナサトの母親は、まるで別人のようだった。
ふわりと弾んでいた髪は、乾いた枯れ草みたいに色を失い、ところどころ乱れて頬に張りついていた。頬はこけ、皮膚の奥に沈んでしまった目は、こちらを見ているようで、どこも見ていなかった。
「ハナサト、来たよ」
手のひらサイズのぺペロミアの鉢植えを持ち、俺はそう告げる。
「知らなかったよ。初めてヒメノと会った時に、魔法で出してくれたぺペロミア。あれ、君が昔、手紙と一緒に添えてくれたのと同じだったんだね」
ぺペロミアの花言葉は『片思い』何ともわかりづらい———ハナサトらしい不器用な伝え方だなと思った。
「……俺、君に助けられてばかりだ。これから先、一人で生きていけるのか不安だ」
手を合わせながらそうつぶやくと、頬をなでるように、柔らかい風が吹いた。
草木が揺れる音が、誰かがくすりと笑った気配と重なり、思わず空を見上げる。
夕焼けの淡い光が石に反射して、どこか彼女———いや、『その人』の笑った時の表情に似ていた。
「ウエハラなら大丈夫って……まったく、買いかぶりすぎだよ」
暖かい風が、背中を押すように通り抜けた。
それだけで、もう返事をもらった気がしてしまう。
生きている頃と同じように、からかうみたいな笑顔で、黙ってこちらの弱さを受け止めてくれている———そんな気がして、胸が熱くなる。
何年疎遠になっても、ハナサトはハナサトのままでいてくれた。俺も、俺のまま———ハナサトが「好きだ」と言ってくれた、俺のままでいないといけない。
「また来るよ———花蓮」
墓前に置いたぺペロミアが風に揺れ、その揺れ方までもが、彼女がそっと微笑んでいる合図のように見えた。