砂塵が舞うアビドスの朝。それは、砂狼シロコにとって唐突な衝動から始まった。
登校中、ふと見上げた青白い空で二羽の鳥が羽を休め、寄り添うように飛んでいく姿が目に留まった。あるいは、最近の対策委員会に流れる、騒がしくも絶対的な平穏が、彼女の心の奥にある「言葉にならない何か」を刺激したのかもしれない。理屈ではなく、本能が静かに、しかし抗いようのない強さで告げていた。無性に、仲間の温もりを感じたい、と。
最初にその標的となったのは、部室で早朝の書類整理に追われていたアヤネだった。
「あ、シロコ先輩、おはようございま……っ!?」
挨拶が終わるより早く、シロコはアヤネの細い肩に腕を回し、その小柄な体をぎゅっと抱き寄せた。
「シ、シロコ先輩? どうしたんですか、突然。何か嫌なことでも……?」
アヤネは困惑し、顔を赤くしながらも、シロコの背中を優しくトントンと規則正しいリズムで撫でる。シロコはその鼓動と温かさを数秒間味わうと、満足げに喉を鳴らした。
「……ん。補給完了」
「えっ、あ、はい……?」
シロコはそれだけ言うと、未練を感じさせない手際で腕をほどき、呆然と立ち尽くすアヤネを残して風のように立ち去った。
次に遭遇したのは、廊下を歩いていたセリカだった。
「ん、セリカ……」
「シロコ先輩? どうしたのよ、こんなところでぼーっとし……うわっ!? な、何!?」
背後から音もなく忍び寄ったシロコに密着され、セリカは飛び上がらんばかりに驚く。
「なによ、寂しいの!? あんた、熱でもあるんじゃない? ほら、シャキッとしなさいよ……っ」
毒づきながらも、セリカは逃げることなく、不器用な手つきでシロコの頭を何度も撫でた。シロコはそのツンとした態度の裏にある、確かな優しさを心ゆくまで享受する。
「……ん。次へ行く」
「はぁ!? どこへよ! ちょっとシロコ先輩! せめて訳を話しなさいよ!」
呼び止める声も聞かず、シロコは軽やかな足取りで給湯室へと向かった。
そこには、お気に入りの茶葉を選んでいたノノミがいた。シロコは迷いなく、彼女の広い背中に顔を埋めるように抱きついた。
「あらあら〜、シロコちゃん甘えん坊さんですね♪」
ノノミは驚くどころか、最初から分かっていたかのようにふんわりと微笑み、シロコの手を優しく包み込んだ。そのまま彼女を正面に回すと、包容力に満ちた腕でしっかりと抱きしめる。
「よしよし、いい子ですね。シロコちゃんの柔らかい髪、大好きですよ〜」
甘い香りに包まれ、ノノミの柔らかな感触に身を委ねる。熱を帯びた愛撫をたっぷりと堪能し、シロコの心は急速に満たされていった。
仕上げと言わんばかりに、彼女は部室のソファでクジラのぬいぐるみを抱いて朝寝をしていたホシノの元へ歩み寄った。シロコは眠るホシノの横に滑り込み、ぬいぐるみごと彼女の細い体を抱きしめる。
「ん……シロコちゃん? おじさん、まだ夢の中なんだけどな〜。ふふ、よしよし、いい子だねぇ」
寝ぼけ眼のホシノは、少しだけ重たくなったまぶたを上げ、いつになく穏やかな表情でシロコの頭を小さな掌で撫でた。その掌は、過去の苦難を乗り越えてきた強さと、後輩への無尽蔵の慈愛に満ちていた。その温かさが脳に伝わった瞬間、シロコの中で全ての「チャージ」が完了した。
彼女は言葉にできないほどの幸福感に包まれながら、誰にも理由を明かさぬまま、静かに自分の席に着いて愛銃のメンテ準備を始めた。
数日後
シロコがパトロールで席を外している際、残された四人はある不思議な一致に気がついた。
「実は先日、シロコ先輩に突然抱きつかれまして……」
アヤネが切り出すと、全員が「私も!」「おじさんもだよ〜」と声を揃えた。
「シロコ先輩、何も言わずに去っていったから一日中モヤモヤしたのよね。……まぁ、別に嫌じゃなかったけど」
セリカが頬を染めて視線を逸らす。その隣で、ノノミが優しく微笑んだ。
「ふふ、シロコちゃん、なんだか少しだけ甘えたそうな顔をしていましたよね。まるで迷子の子供みたいに♪」
最年長のホシノが、目を細めて頷く。
「んー……。あの子、言葉にするのは苦手だけど、きっと少し寂しかったのかもね。あるいは、おじさんたちのことが好きすぎて溢れちゃったか」
その言葉を聞いたノノミが、悪戯っぽくホシノを見つめた。
「ホシノ先輩も似たように不器用ですからねー。そういうところ、よく似てますよ。愛情表現がちょっと極端なところとか」
「えっ、おじさんも!? いやぁ、おじさんはもっと分かりやすいでしょう?」
「いえ、全く一緒です。言葉が足りないところなんてそっくりですよ」
アヤネとセリカまでが深く頷き、ホシノは「ええ〜……」と頬をかいて困ったように笑った。
「それじゃあ」と、アヤネが眼鏡をクイッと上げる。
「次は私たちが『お返し』をしてあげませんか。シロコ先輩が一番、びっくりして安心するやり方で」
翌朝。
「ん、みんなおはよう」
いつも通り、少しだけ眠たげな瞳でシロコが部室の扉を開けた。その瞬間――。
「おはよう、シロコちゃん。覚悟〜っ!」
「おはようございます♪ シロコちゃん♪」
「おはようございます! シロコ先輩!」
「シロコ先輩! この前の仕返しよ!」
「……っ!?」
挨拶と同時に、四人の影がシロコに殺到した。
驚く間もなかった。正面からセリカとアヤネが腰に力一杯しがみつき、背後からはノノミがその豊かな包容力で全てを包み込むように密着する。そして最後に、ホシノがその上から全員を一纏めにするように、力強く腕を回した。
「……みんな、どうしたの」
「どうしたのじゃないわよ! 寂しかったら最初からそう言いなさいよね!」
「そうですよ! 私たちで良かったら、いつでも抱きしめてあげますから!」
アヤネとセリカがぐいぐいと顔を押し付け、シロコの体温を確かめる。
「シロコちゃん、今日は私たちがたっぷり補給してあげますよ〜♪ はい、よしよしです〜」
ノノミが耳元で囁きながら、シロコの髪を指で梳く。
「シロコちゃん、観念してねー? 今日はおじさんたちから逃げられないよ。おじさん、今日は一日中こうしててもいいんだからね」
ホシノの腕の力が強まり、五人の境界線が曖昧になるほどの密着感が生まれる。
四人の体温、衣類の擦れる音、そしてそれぞれの個性が混じり合った優しい香りが、シロコを全方位から圧倒した。
普段はクールで、戦場でも表情を変えないシロコの顔が、耳の先までみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「……ん。……ずるい。一気に来られると、抵抗できない」
そう言いながらも、シロコの口元は緩み、その瞳には隠しきれない喜びと安堵が宿っていた。シロコは自分を抱きしめるみんなの背中や腕に、そっと自分の手を重ね、その存在を噛み締める。
「……ん。みんな、あったかい。……すごく、いい」
シロコはそっと目を閉じ、大好きな仲間たちの温もりの中心で、心ゆくまで「幸福」を再チャージした。
今度は立ち去ることなく、彼女はいつまでも、その温かな輪の中に居続けた。外では砂嵐が吹き荒れていても、この部室の中だけは、春のような陽だまりに包まれていた。