弘一さんに別れを告げ、車に乗り込んだ私は七草の屋敷を後にする。
ぼんやりと窓の外を眺める私の目には町の向こうへと沈んでいく茜色の太陽が映っていた。
(もうすぐ陽が落ちる……。帰り着く頃には夜ね)
私がそんなことを考えていると、ふいに隣に座る【
「大丈夫かい?
「……何が?」
「大分、疲れたような顔をしているよ?」
「あ……そう、かな……そう、なのかも。……まぁ、当然よね。長年交際を続けていた婚約者に一方的に破談を伝えたんだもの。……無理ないわよね」
苦笑交じりに私はそう呟く。
脳裏に婚約破棄を宣言した時の彼の姿が浮かんだ。
彼は……破談を伝えてから私が帰る時まで、一言も私に何かを言おうとはしなかった。
感情的になって私を責めることも、私に別れの言葉を投げかけることもなく、ただ……銅像のように俯いて固まっているだけだった。
……いや。あれはもう、
だからこそ、嫌でも分かってしまう。弘一さんが私のことをどう想っていたのか。
(あの人……本当に私のことが好きだったのね……)
ただただ私を、一人の女性として大切にし、結婚したいと……そう……思っていたのだろう。
「
「え!?」
まるで心を読まれているのかと思うようなタイミングで【
慌てて【
「あ……うん、そうみたいね。彼、結構ショック受けてたみたいだし――」
「――違うよ、
「?」
「僕は婚約者だった彼のことを言っているんじゃない――」
「
「――っ」
一瞬、息が止まる。
……まったくこの英霊は、基本穏やかで優しいのにデリカシーの無さだけが玉に
時折発する、
――でも、何故だろうか。
私は【
だからこそ……【
「正直……
「分からない?」
「うん。……弘一さんは、本当に私のことが好きだったんだと思う。確かに最初は
「そうなのかい?」
「うん……ちょっと意地悪して、お願いやおねだりで
……崑崙方院に誘拐された時だってそうだ。
彼は命がけで私を守ってくれてたのに、右目を負傷してまで私を助けようとしてくれてたのに、私は……!
車内に短くも、重たい沈黙が下りる。
そんな空気に耐えられず、自身のスカートをギュッと握ると、私はちらりと【
「最低だと思う?」
「どうかな。どうだろう。……でも、たとえそんな気持ちを抱えたまま結婚したとして、キミは
「それは――」
――どう、なんだろうか。
夫婦仲が冷めきっていた可能性だってあるし、私が途中で心変わりをして暖かな家庭を築けた可能性だってある。想像がつかない……。
――…………………。
――いや、これ以上考えるのは……
それに、婚約破棄を宣言した後である今となっては、もう……どうこう言ったところで遅すぎる。
「……結局のところ、『分からない』が今の答えでしかないのね」
「そういう事だね。……まぁ、親友が持っていた『未来を見通す目』を僕も持っていたのならもっと良いアドバイスが出来たんだろうけど、生憎と僕にはそんな機能は無いからね。……でも、婚約破棄を行ったのは何も事前に機密漏洩の可能性を防ぐだけじゃなく、
「……うん」
【
確かに婚約破棄を行った主な目的は、七草から四葉の機密情報の漏洩が起こることを防ぐための対策ではあったが、それは逆にこれから英霊関連で様々な
今この状況で、七草という新たな繋がりを四葉が持ってしまえば、それを知った外部の者たちに七草が集中的に狙われることとなる。
もしこのまま結婚まで行っていたら、四葉と繋がりの浅い状態の七草が外部にとって情報入手のための『抜け道』として扱われ、そこをから英霊の情報を引き抜かれることになるのは目に見えていた。
最悪の場合、七草は情報入手のためのただの使い捨ての駒として利用され、四葉にかかる災厄に巻き込まれることとなり、現状四葉の双璧として名を馳せている七草にとって
「……私もお父様も、
「なら、キミが彼に『何とも想っていない』ってことは、無いんじゃないかな?」
「――え?」
【
そんな私を【
「そうでなければ、キミの口から今、彼に対して『忍びない』なんて言葉は出てこないさ」
「あ……」
「確かに
「……そう……かな」
恐る恐るそう尋ねる私に【
……少しだけ、本当にほんの少しだけ、心が軽くなるような錯覚を覚えた。
あれだけ尽くしてくれた弘一さんに対して私は最後まで恋心を持つことが出来なかった。
でも、彼をただの政略結婚の
結婚相手としても、恋人としても見れなかった。けど――。
(私はちゃんと……あの人のことを、道具としてでは無く一人の人間として見れていたのね……)
考えてみれば、彼が右目を負傷した時も私は
身近な人が傷つけられるのを目の当たりにしたのだから当然だけれど、
胸をなでおろすと同時に、フッと笑みがこぼれる。
「ありがとう、【
「うん、少し元気になったみたいで良かったよ。道具の僕が考え付く言葉で元気になるようならいくらでも声をかけてほしい。いつでも協力は惜しまないし、いくらでも使い潰してくれて構わないから」
「もう!またそうやって自分を卑下する!言っておくけど、私はアナタを道具としてみる事なんて永遠にないから!ずっと私の
「それは構わないけれど……。でもずっとってことは、キミが年老いて老婆になってもだよね?そうなると僕は英霊の肩書を捨てて介護員に転職するべきなのかな――」
「ぶん
「ごめんごめん。……でもいずれはそういう未来が来るはずだから、純粋に少し気になっちゃってね」
「そんなはるか先の未来の事なんてまだ真面目に考えなくていいわよ!」
本っっっ当にこの
なのに少しも嫌悪感を抱かない上に、話していてかえって安心する
「もしかしてこれが『恋心』っていうやつなの!?もしそうなら私の恋愛感覚どうかしてるわ!自分で自分に絶望するレベルよ!」
「落ち着いて
「悩みの
その後も車内でギャーギャーとはしたなく騒ぎまくる私をどうにか
そうしてひとしきり騒いで落ち着いた私は気恥ずかしさに顔を赤らめながら深くため息をつくと、恨みがましい目を【
「全く……自分でも不思議なくらいだわ。どうしてこんな顔だけの自虐
「うーん、そう言われても
「PTSDも医師からの宣告でまだ完治には至っていないみたいなのに、アナタとは親密な存在……お父様や深夜と同じように落ち着いて対話が出来ているのよ。他の男性とは未だに近づいただけで拒否反応が出て来るのに、本当にどうしてかしら……?実際のところ、
「どうだろうね。……あ!もしかしたら、僕が
「まさかそんなわけ…………あれ?(何故かしら?否定したいのにそれが一番しっくりくるような……?)」
【
しかしすぐにハッとなって
「ま、まあ何はともあれ、アナタに恐怖心を抱かなくなったのは大きな進歩だったわね。そうじゃなきゃ、台北で崑崙方院に追われていたあの時、一緒に逃げる事なんて出来なかっただろうし。……ひょっとしたらその時のおかげでこうやって私はアナタを信頼できているのかも?……もしかして私自身、知らず知らずの内にアナタのこと、異性として好きになってたりしてね?」
「……?
「そうよ。あの時のアナタ……今もだけど、すっごく頼もしかったし、強いし顔立ちもいいから好きになっちゃってもおかしくはないはずでしょ?」
冗談半分で【
実際のところ、先の【
「それはおそらく、
「……え?」
予想外にもきっぱりとそう否定され、私は思わず動揺する。
そんな私を前に【
「こうやってキミと会話を重ねていて、一つ気づいたことがあるんだ。……キミは時折、会話している僕に視線を向けるんじゃなく、
「それって……どういう……?」
動揺しながらもそう絞り出すように問いかける私に、【
「――キミはおそらく、
「……………………。あ、はは、まさかそんなわけ――」
【
――不意に私の視界にいる【
「!?」
驚いて目を見開く私の前で、まるで【
(
――私を
――
(――ッ!)
あの人を幻視した瞬間、私の頭の中で殴られたかのような
それは私が崑崙方院に拉致され、あの廃屋の屋敷のベッドの上で無理やり犯されそうになった時の光景。
もう駄目だと諦めかけたその時――。
『大丈夫か……?』
――典型的な
軍人に破かれた私の服を見て、その身を隠すようにと自身のパーカーを私に差し出してきたその時のあの人の姿が、
――……いや……違う。
とても口にすることが出来ないほど猛烈に恥ずかしい話ではあるが……今ならその理由が、分かる。
私はあの時、私を助けてくれたあの人の姿を、歴史や物語で見るような救世主……いや――。
――幼い子供が読むような絵本などに出て来るおとぎ話……その中に登場する古典的な『白馬の王子』を、あの人に幻視して見てしまっていたのだ。
それに気づいた瞬間、トクンと私の心臓が一度だけ大きく跳ね上がる。
これが
「
「え……あれ……?」
【
「わた、し……どうし、て……?」
自分で自分にそう問いかける。……いや、分かっている。……もう分っているのだ。
私はあの人のことを……もうこの世にはいないあの人のことを――。
――今更ながらに、どうしようもなく……恋焦がれ、
「【
そうして【
「うぁ……あぁぁ……ッ!」
私の目から溢れる涙が、【
それと同時に私の頭の中で、あの人の姿……光景が、次々と蘇ってくる。
追手から逃げるために、森に駆け込んだ直後。
背後から降りかかってきた弾丸の雨を、その流れ弾に私が当たらないよう……
その後もあの廃墟に逃げ込み、崑崙方院の追っ手に追い詰められながらも、私を守るために最後の力を振り絞って【
――そして……。
『……ごめん、な。……さい、ご、まで……まもって、やれ、なくて……』
もうすぐ命の火が消えようとしているのに、最後まで私の身を案じ、そして私を残して逝ってしまうことを謝りながらこの世を去ってしまった、あの人の声……。
そんなあの人の光景が、姿が、そして
「あぁぁぁ……!あぁぁぁぁ……!」
【
私を抱きしめる【
――……ああ……やっぱり……。
――私は最低だ。……最低で酷い女だ。
――今も生きている婚約者だった弘一さんよりも、私はあの人のことばかり
長年交流を深めていた相手よりも、一晩だけ行動を共にしただけの……今はもうどこを探してもいない相手ばかりを……!
(ごめん、なさい……弘一さん……。本当に、ごめんなさい……!)
頭の中で、つい先ほど見た
だが、分かっている。どれだけ謝ろうともはや何も変わらない。
……本当に、未練がましいにも程がある。
――ああ……弘一さん。
――……どうかこんな女のことはさっさと忘れて、貴方は貴方のことを心の底から愛してくれる
――……私のことは、どう思われようと構わない。私を恨み、憎み続けてもいい……。貴方にはその権利があるから。
(でも……それでも……!私……私はッ……!)
【
その瞳は未だ濡れてはいたものの、最奥には先程までなかった『決意』と『覚悟』の色がにじみ出ていた。
そうしてその瞳で思い起こすのは、先日邂逅を果たしてきたばかりの愛しい
それらの姿を頭の中でぐるぐると目覚ましく移ろわせながら、私は一つの『誓い』をその心に深く刻みつける――。
(――私は……あの人がこの世界に
――いつしか車窓から見える夕日に染まった茜色の世界が、静寂の夜の世界へとその姿を変えていた。
それは今までの日常が過ぎ去り、新たな日常を迎えようとしているかのようだった。
真夜と【
そして真夜は、自分でも気づかない内に『枯れ専』(それも