【TS】近所のガキ達相手に師匠面して千年後、久しぶりに戻ったら色々荒れてた 作:御花木 麗
俺の思考が停止しようとするが、一生懸命動かす。
「なっ……!」
ジースが深刻そうな、そんな声をあげるがそれどころではない。
ゼロの魔術師って、俺のことだよな……?
ん? なんだって……ってことは、俺の卑猥な……絵画!?
「……ば、ばばば、馬鹿者ッ!! なぜ今、このタイミングでその報告を持ってきたのですか!!!」
ジースは血相を変え、側近の男に食ってかかった。
「えっ? い、いや、だって教皇様……! あの一件は、教皇様ご自身が『偉大なるゼロの魔術師様を辱める不届き者め! 地の底まで這ってでも流通の元締めを見つけ出しなさい!』と、異端審問局に直々に厳命を下されていた特命案件ではないですか!」
側近の男は、なぜ自分が怒られているのか全く理解できていない様子で、詳細を語り始めた。
「数ヶ月前から都市の裏で流通し始めたあの破廉恥極まりない背徳的絵画の件で、教皇様は夜も眠れぬほどお怒りになり、押収した証拠品をかき集めては――」
「わあああああっ!! もういいです! もういいから黙ってください!! 下がれ! 今すぐ下がってください!!」
ジースは顔を真っ赤に染めながら、側近の男の背中を半ば力任せに押し、部屋の外へと追い出した。
バタンッ! ガチャリ。
乱暴に扉が閉められ、部屋に再び重苦しい静寂が降りる。
扉に背を預けたまま、ジースはぜぇぜぇと肩で息をしている。
俺はソファに座ったまま、なんとも言えない表情で固まっていた。
ジースは顔をこわばらせたまま、恐る恐る俺の様子を窺う。
「……し、師匠? あの、今のはその……」
「うん……まだ、状況がよく呑み込めてないんだけどね」
俺はこめかみを揉みながら息を吐いた。
だが、冷静に考えてみれば、そこまで取り乱すことでもない気がしてきた。
広場で見かけたあの『ゼロの魔術師の像』は、出るところが出まくったボッキュンボンのグラマラスな美女で、俺の面影など微塵もなかったからだ。
あれが世間一般の『ゼロの魔術師像』として定着しているのなら、その絵画に描かれている人物も俺とは似ても似つかない架空の美女だろう。
つまり、俺ということになってはいるが、その実、俺自身の絵ではないのだ。
とはいえ、この件に関して自分も超間接的にであるが関わっているということになるので、興味がないと言ったら嘘になる。
「その犯人は、今捕まっているんだろう? なら、その人のところへ案内してもらえないかい? ジース」
「えっ……!? いや、でも、そんな男に師匠を会わせるわけには……!」
俺がじっと見つめると、数秒の沈黙の後、ジースは諦めたように項垂れた。
「……分かりました」
◇
ある場所の地下深く。
松明の薄暗い炎が揺れる、ひんやりとした石造りの通路を、俺とジース、そしてここの看守を先頭にしてカツカツと足音を響かせながら進む。
「……あの先にある牢に、スルジアが収容されています。私はここでお待ちしております」
ある程度進んだところで看守の男が一礼して立ち止まり、俺たちはさらに奥へと向かった。
すると、遠くから情けない叫び声が聞こえてきた。
「出してくださいよぉー!! 僕が一体何をしたって言うんですかー!!」
声のする牢の前に立つ。
そこには、鉄格子越しにぺたりと座り込む涙目の男がいた。丸眼鏡をかけ、なよなよとした印象を受けるボサボサ頭で茶髪の青年。
彼が、信仰対象である『ゼロの魔術師』の卑猥な絵画を販売していたという販売者、スルジアだろう。
俺たちの姿に気づくと、彼は鉄格子にすがりつくようにして叫んだ。
「え!? 教皇様!? ちょうど良かった……僕をここから出してください!! 僕が何やったっていうんですか!」
「……あなた、自分が犯した罪についての自覚が全くないようですね」
ジースが冷ややかに告げる。
「神聖なるゼロの魔術師様を冒涜するような下劣な絵画を描き、あろうことかそれを裏で販売して私腹を肥やしていた。プロパス教における最上位の軽蔑すべき類の人間です」
「お、お金が必要なんです!!」
スルジアは必死に弁明するが、ジースは不快そうに眉を顰めた。
「あなた、富豪のガモン氏に雇われている魔術師ですよね? 相応の報酬を得ているはず。お金に困ることなどないんじゃないですか?」
「自分のしたいことをする上では、お金なんていくらあっても足りないじゃないですかぁ!」
あっけらかんと言い放つスルジアを、ジースは汚物を見るような目で見下ろした。
「つまり、私欲のために宗教の禁忌を犯し、やってはいけないことに手を染めたと……?」
「ひぃっ……!」
ジースから放たれる圧倒的な威圧感に、スルジアは尻餅をついたまま後ずさる。
「もう行きましょう、このような人物と話す時間が無駄です」
「まぁまぁ、ちょっと待ってくれないかい」
きびすを返そうとするジースを、俺は引き止めた。
「確かに感心しない動機ではあるが……この薄暗い檻の中に閉じ込めておくほどの重罪かと言われると、私はそうは思わないんだ」
現物の絵を見ていない段階ではあるが、今のところ俺は怒る気になれなかった。
前世の感覚で言えば、歴史上の偉人を美少女化して同人誌で売っているのと同じようなノリだ。それに加えて、相手は『俺であって俺ではない架空の人物』を描いているだけなのだから、当事者意識が薄いのだ。
俺の言葉に、スルジアは声を上ずらせた。
「そうですよね……! そこのフードのお方、よく言ってくれました! それに、僕はお金のためだけじゃなく、憧れのゼロの魔術師様を心から大尊敬しているんです!」
スルジアは、突然恍惚とした表情を浮かべ、早口で熱弁を振るい始めた。
「そこで! ゼロの魔術師様の神秘性を、裸体という究極の芸術の方向性で表現することで、その魅力は最大限に引き上げられると確信しまして……! つまり、僕のこの活動も、魅力を伝える上での布教活動の一端を担っていると言っても過言ではないわけで!」
「詭弁も大概にしてください!」
ジースがドン引きしながら冷たい言葉を浴びせる。
それにしてもジース、この男に対してはどうも当たりが強いな。
すると、スルジアはふと俺と目が合い、今気がついたかのように鉄格子をガシャガシャと激しく揺らしながら興奮して叫んだ。
「……というか、あなた! フードの下から覗くそのお顔立ち、私が想像する真のゼロの魔術師様像にとても近い!! ですが、惜しいですね……あなた、耳さえ長ければ完璧だったのに!」
スルジアはさらに身を乗り出してくる。
「街の中心にあるあの像! 大人っぽい顔も含め、あんなグラマラスな女がゼロの魔術師なわけがない! 私の解釈に基づくゼロの魔術師様は、決して無いわけではないが主張しすぎない慎ましい膨らみであり、もっとこう……スレンダーで知的な美しさを持っているはずだと!」
「もうやめるのです! これ以上、ゼロの魔術師様に対して礼儀のない発言は許しませんっ!」
ジースが抗議するが、スルジアは聞く耳を持たない。
「ほら、どうです!? 私の『新解釈』の外見は、あなたにそっくりでしょう!?」
そう言って、男は自分の懐からゴソゴソと小さなハガキほどの紙切れを取り出した。
「なっ……! あなたの手元にあるものは全て押収したはずじゃっ……!」
ジースが驚愕の声を上げる。
俺は、鉄格子の隙間から突き出された紙切れに目をやった。
そこには――広場の像のような盛られたお姉さんではなく、まさにオリジナルというべき
「えぇ……」
俺は急に恥ずかしくなり、顔から火が出るかと思った。
神格化された別人のエロ絵だと思って余裕ぶっていたら、まさかの俺そっくりのヌードデッサンだった。これはキツい。羞恥心が限界突破する。
だが、なぜか隣にいるジースは、俺の数十倍恥ずかしそうに顔を茹でダコのようにしている。
スルジアが自慢げに見せびらかしたその紙は、即座にジースによってひったくられた。
「ぎゃっ! 僕の最高傑作がっ……! これだけはと密かに隠していたのに……!」
情けない声を上げるスルジアをジースは無視する。
恥ずかしいは恥ずかしいが、やはりこんな絵を売っただけで罪になるのは哀れに思えてきた。
これ以上描かないように念押しは必要だが、相手は俺の本当の姿を知る由もなく、ただ想像で描いた結果、たまたま本来の俺に似てしまったのだ。
俺はジースに顔を寄せ、耳元で小声で囁いた。
「ま、まぁ……? でもやっぱり、彼を檻の中に入れておくようなことじゃないさ。その……被害者本人が言ってるんだから」
「ですが、これは教義に関わる重大な異端行為で……」
「これが私以外の実在する女性を勝手に描いて売っていたのなら、厳しい取り締まりが必要だと思う。でも、今回はかなり特殊な事例だ」
日本にいた頃は、歴史上の偉人が女体化されたりあれやこれやされたりするのは日常茶飯事だった。そのせいで感覚が麻痺していたが、こういう宗教が絡みはじめると、問題はいろいろな思想がぶつかり合うデリケートな事案になってくる。
本来なら、俺のようなポッと出の奴が首を突っ込むのは褒められたことじゃない。
――だが、今回ばかりは話が別だ。よりによって俺の知らないところで、俺が原因となり人かがしょっぴかれようとしている。
寝覚めが悪すぎる。
「君の立場的にも難しい問題かもしれないが、どうかお願いだよ、ジース。今回ばかりは、私の顔に免じて彼を釈放してやっておくれ……」
俺は真剣な目を向け、少しだけ上目遣い気味に頼み込んだ。
ジースは数秒間、俺の顔とスルジアを交互に見比べた後、深々とため息をついた。
「…………そんな目で見つめて頼まれたら、断れませんよ……」
「ありがとう、ジース」
ふぅ、と安堵の息をついた俺に、ジースは顔を近づけ、スルジアに聞こえないよう声を潜めて耳打ちをしてきた。
「ですが、お師匠。今すぐあいつに釈放だと伝えたら、反省の色も見せずにつけあがるに決まっています。それはボクとしては癪です。異端審問局の書類手続きなどもありますし……釈放は明日にしましょう。言い渡すのも明日の手続きが終わった後にするので、今は釈放の話は内緒にしておいてください」
「私の勝手な願いを君も色々思うところを呑み込んで、譲歩してくれたんだ。私もそれくらいは呑み込むよ」
俺が小さく頷き返すと、ジースは少しだけ溜飲を下げた様子で、再びスルジアへと冷ややかな視線を向けた。
一方、牢の中のスルジアは、俺たちの会話の内容までは聞こえていなかったものの、雰囲気が和らいだのを見て期待に顔を輝かせていた。
「あ、あの……!話していた雰囲気からして、もしかして僕、ここから出られる感じですか……!?」
目をキラキラさせて鉄格子にすがりつくスルジアに、ジースはピシャリと冷酷に告げた。
「何を勘違いしているのですか。あなたの罪がそんな簡単に許されるとでも?」
「えっ?」
「あなたが犯したのは、重罪です。いつ下されるかも分からない裁きの時まで、その冷たい床の上で己の愚かさを噛み締めながら震えていることですね」
「えぇぇぇ!!!! そんなぁぁぁ!! 助けてくれる流れだったじゃないんですかぁぁ!」
再びショックを受けて崩れ落ちるスルジア。
絶望して嘆く彼には悪いが、明日になればちゃんと釈放されるはずなので、今日は大人しくそこにいてもらいたい。
「さぁ、行きましょうか。もうこんな場所に長居は無用です」
◇
異端審問局の地下収容所を離れ、再び地上へと出た時、入る前は赤く染まっていた空はすでに夜の帳を下ろしていた。
「お師匠、本日の宿などは取られておりますか?」
隣を歩くジースが、ふとそんなことを問うてきた。
「あ、忘れてた。すっかり失念していたよ。確かに宿を取らないと寝泊まりする場所がないね」
こっちの世界に帰還してからの数週間は、親切なサンゴエさんが手配してくれていたし、その前の千年間はそもそも宿を取るという概念すらない狂った空間でサバイバルしていたのだ。生活力というものが著しく欠如している自覚はある。
「あぁ、ならボクの教皇宮殿にお師匠の部屋を確保してありますので、そこで寝泊まりしてください」
「お、ありがとう。でも、すでに準備してくれていたのかい? やけに手際がいいじゃないか」
「そりゃあ、お師匠はボクにとって大切な人なんですから、先ほどの集会の後の『もしや……』の段階から、すでに手回ししていたのです。これだけじゃありませんよ……! さぁさぁ、一旦戻りましょう」
「あ、あぁ……」
ジースに手を引かれながら、白亜の街並みを歩く。
昔は、俺がこうやって彼女の手を引き、先導することはあっても、逆に引っ張られて先導されるようなことはなかった。
彼女はもう、俺の背中を見ながら後ろをついてくるだけの幼い子供ではない。今や俺が、彼女の広く頼もしい背中を見つめながら連れられて歩いているのだ。
立派になったという嬉しい気持ちと、手が離れてしまったような一抹の切なさが混ざり合い、なんとも名状しがたい感情が胸を満たしていく。
ふと、俺の足取りが重くなったことに気づいたのか、ジースが不思議そうに振り返った。
「どうかしましたか?」
「……いや、何でもないさ」
俺は一呼吸置き、努めて緩んだ笑みを作って見せた。
◇
コツコツコツ……と、乾いた音が薄暗い書斎に響き渡る。
木の重厚な机を、宝石をあしらった太い指が小刻みに叩いていた。
まるでその部屋の暗さが、その人物の今の心情をそのまま表しているかのようだった。
老人、ガモン・ゴルバーグは、湧き上がる苛立ちを隠せないでいた。
もう何度目になるか分からない頼み、己が新しく建てた別荘まで、魔導防壁の範囲を広げてほしいという要求を、またしても教皇ににべもなく断られたのだ。
おまけに、今回は筆頭枢機卿のベルフェツテに、あろうことか大声で怒鳴りつけられる始末。
「己が誰の金で存続しておるのかが分かっておらん……!」
ギリッと奥歯を噛み鳴らす。
ガモンとて、最初からこのような男だったわけではない。
若い頃の彼は、純粋で志の高い商人であり、プロパス教の熱心な信徒でもあった。ブロパス教の教えを胸に、商売で人々の生活を豊かにしようと汗水垂らして働いていたのだ。もちろん、今でも信仰心が完全に冷めきったわけではない。彼の中には確かに、神聖なるゼロの魔術師を敬う心は残っている。
ガモンの実家は、親の代から聖都ミザリエ開発組合の理事長を務めてきた、界隈で知られていた商会である。店を継ぎ、彼は周囲からの推薦を受ける形で、親が築き上げた信頼をそのままに組合も引き継いだに過ぎなかった。
だが、商会や組合をより濃く存在感を強めさせたのは、他でもないガモン自身の才覚だった。
その才覚により、成功しつづけ、彼は徐々に歪んでいった。
地位を手に入れ、名声を得て莫大な富を築き上げた。望めば大抵のものは手に入った。
そうして長年、何不自由なく思い通りに生きてきた結果、彼のプライドは年々凝り固まり、肥大化していったのだ。
いつしか己が手に入れられないものはないと、そう信じて疑わなくなっていた。
だからこそ、不可能だと突っぱねられる今の状況が許せない。
かつて若き日の彼なら、魔導防壁の維持に限界があるという教皇の説明をすんなりと受け入れていただろう。
だが今のガモンは、欲しいものが手に入らないと癇癪を起こす赤ん坊のように、ただ己の要求を通すことしか考えられなくなっていたのである。
さらに、彼の苛立ちに拍車をかけるように、もう一つ気がかりな報告が上がってきていた。
ガモンがお抱えとして雇っていた魔術師、スルジアが、異端審問局に捕らえられ地下牢にぶち込まれたというのだ。
これはまだ表沙汰になっていない情報だったが、伊達に長年ミザリエで大商人をやっているわけではない。街の裏側まで広く張り巡らせた彼自身の情報網が、いち早くその事実を掴み取っていた。
ガモンのような大富豪が屋敷に魔術師を雇い入れるのは、決して珍しいことではない。彼らの主な役割は、魔法で雇い主の生活の質を底上げし、日常をより便利で快適なものにするというもの。
例えば、定期的な燃料の補充が必要なガス灯や蝋燭に頼らずとも、なんらかの妨害を受けない限りはマナを動力源として半永久的に柔らかな光を放ち続ける光源の設置。あるいは、外の気温に関わらず屋敷内の温度と湿度を常に一定に保つ空調魔法の管理。さらには、来客の密談が漏れないようにする防音の結界など。
それらは、一般人が生活で使うささやかな魔法よりもワンランク上の魔法であり、ある程度の技術を持つ魔術師でなければ構築・維持できない代物だった。
スルジアは、そういった本業に関しては非常に優秀だった。
彼が裏でコソコソと何かをやっていることには、ガモンもうっすらと勘付いてはいた。だが、屋敷の快適さが保たれている以上、他人の余暇の過ごし方にわざわざ口を出すつもりはなく、それについて今まで深く調べることもなかった。
だが、自分の前からなんの音沙汰もなく姿を消して2週間。
今までこのような長い期間不在になることはなかった。
流石に雇っている身でもある。
これ以上この件を放っておくわけにもいかなくなった。
「だがまさか、あの腑抜けた男が、異端審問局に捕まるような真似をしておったとはな……」
罪状は、ゼロの魔術師を冒涜する猥褻な絵画の販売だという。
最近、屋敷で姿を見かけなかったのは、異端審問官から逃れるために雲隠れしていたからだろう。そう考えれば合点がいく。
若い頃のガモンであれば、プロパス教の信者の風上にも置けない不届き者め!と顔を真っ赤にして激怒していただろう。
しかし、今のガモンには、ただ「馬鹿な奴だ」という呆れの感情しか湧かなかった。信仰を汚されたことへの怒りよりも、己の生活の利便性が少し損なわれたことへの不満の方が大きかったのだ。
とはいえ、今はスルジアのことなどどうでもいい。
頭を占めているのは、今日自分に恥をかかせた教皇と、ベルフェツテに対するドス黒い感情だった。
「どうにかして、あの連中に一矢報いてやらねば、ワシの腹の虫が収まらん……!」
客間を立ち去る際、「いずれお前らは後悔することになる」と威勢のいい捨て台詞を吐いてみせたものの、実際のところ、ガモンには特段の策も何もなかった。
金銭的な支援を打ち切れば相手は困るだろうが、多くの人が信仰している宗教の支援を打ち切った組合という事で、世間から悪い印象で見られかねない。
一方的なダメージでなく、互いに傷を負う形になるのだ。
これは、怒りに任せた今だけの一瞬の気の迷いだ。
いくらガモンの性格が我儘に捻じ曲がってしまったとはいえ、仮にも自分が信仰する宗教のトップや聖都そのものを、自らの手で汚すような真似はしない。
通常のガモンであれば、一晩眠りにつき、明日になれば昨日のは少し過激だったなと頭を冷やしたかもしれない。
そう、通常であれば。
だが――。
トントントン。
控えめなノックの音が、静寂な書斎に響いた。
「……何だ」
ガモンが低い声で応じると、扉が静かに開き、使用人が恭しく一礼した。
「お客様がお見えになられています。こちらまでお連れしてもよろしいでしょうか?」
「客じゃと? 見たら分かるだろうが、ワシは今非常に機嫌が悪いんだっ!」
「申し訳ございません……」
使用人がビクッと肩を震わせる。
「――ったく。もういい……通してくれ」
ガモンは舌打ちをしながらも、そう命じた。
怒りに身を任せて無碍に追い返すのは簡単だ。だが、もしこれが新たな商談や、利益をもたらす好機であればどうする? それをみすみす逃すことほど、商人として愚かなことはない。
過去に何度も、急な来客から莫大な富を生み出す取引に繋がった経験がある。だからこその判断だった。
「畏まりました。ただいまお通しいたします」
使用人が下がり、再び書斎に静寂が落ちる。
数分後。再び、トントンというノックの音がした。
来客がここまで案内されてきたのだろう。
「入ってくれ」
その短い許可の言葉と共に、重厚な扉がギィ………………と、音を立てて開いた。
部屋に入ってきた客の姿を視界に捉えた瞬間。
ガモンは、眉を深く顰めた。
「貴様は………………」
この時、書斎の空気が、鋭く張り詰めた。