【TS】近所のガキ達相手に師匠面して千年後、久しぶりに戻ったら色々荒れてた 作:御花木 麗
――この時、都市ミザリエに住む数十万の市民たちが、その光景を同時に目撃することになった。
突如として、外の空気が有毒な瘴気に汚染されたという恐ろしい知らせが、拡声魔法によって市民たちにもたらされた。
その知らせを聞いて、窓やドアの隙間を塞ぎ、身を寄せ合って震える家族がいた。
不安で泣き出しそうになっていた小さな娘が、ふと窓ガラスの向こうを見た瞬間だった。 泣きそうだった表情から不安が消え、ぽつりと呟いた。
「……あれ……綺麗……」
両親は顔を見合わせ、眉を顰めた。 外には紫色の瘴気が満ちているはずだ。そんな外の景色が綺麗だなんて、あまりの恐怖に娘の気が触れてしまったのではないか。
恐る恐る、両親も窓の外を覗き込んだ。 だが、その二人もまた窓越しの光景に言葉を失い、すっかり見入ってしまった。
先ほどまで抱いていた死への恐怖がすっぽりと抜け落ちたように、口を半開きにしたまま、ただただ夜空を見つめ続ける。
また、ある一人の男がいた。
男の人生はどん底にあった。長年真面目に勤めていた工房に新人が入ってきたのだが、その新人は男を邪魔に思い、ある件で濡れ衣を着せてきた。親方は長年付き合いのある自分を信用してくれるものだと思っていたにも関わらず、あろうことか新人の話を信じ、結果として男は工房を追い出された。
さらに、知人の借金まで背負わされ、数年を共にし結婚まで約束していた女には「甲斐性なし」と捨てられるなど、不幸が立て続けに起こった。
もう何もかもどうでもよくなり、薄暗い部屋の壁にもたれかかって、ほぼ飲まず食わずで数日を過ごしていた。
首を括って死んでやろうと思ったが、いざ天井にぶら下がった輪になった紐を見ると、体が震えて実行できない。
そんな死ぬ勇気すら持ち合わせていない自分を呪っていたところに、「瘴気が蔓延している」という知らせが拡声魔法で街中に響き渡った。
不幸が重なりすぎると、もはや笑いすら込み上げてくる。 どうせ死のうとしていたのだから、これは都合のいい死の救済か?
ならば、これは幸運と呼ぶべきなのだろう。世界そのものが自分という存在を底辺まで突き落とし、最後はあの工房の新人のように『邪魔なゴミ』として消し去ろうとしているのだとしか思えなかった。
だがその時、床に寝そべっていた愛犬が不意にベッドの上に飛び乗り、窓に向かって尻尾を振りながら吠え出した。
魔法生物の出現にも反応を示さなかった犬が、どうして今になって。
奇妙に思いながら、ほんの少しの好奇心を煽られ、男は重い腰を上げて窓辺に近づく。
次の瞬間、男はその光景に完全に目を奪われた。 夜空いっぱいに広がり、静かに留まっている無数の眩い光。
星ではないことは分かるが、それはまるで、星が間近まで降りてきて空で静止しているような感覚を覚える光景だった。
これが何のために空に留まっているのか、彼が知る由もない。
だが、毒に沈もうとしている街の空に浮かんだものだからか、その光はあまりにも神秘的で、圧倒的に美しかった。
もしこの世界が、男をただ絶望させて殺すだけの残酷で無慈悲な場所なら、最期だからといってこんなにも美しいものを見せてくれるはずがない。
自分が抱え込んでいた惨めな絶望すらちっぽけに思えるほどの美しさに心を打たれ、男の胸の奥底で、色褪せていた『生きたい』という感情が確かに脈打った。
「……なんだ。俺って、まだ世界に見捨てられてなかったんだな」
男の頬を、一筋の涙が伝って落ちた。
――ある老夫婦がいた。
――ある、小さい頃から仲のいい四人組の男女がいた。
――ある店の店主がいた。
他にも、この都市に住む様々な人々が、それぞれの思いでその光景を目撃した。瘴気の蔓延が不安を掻き立てる中で、各々がその光に前向きな希望を、それぞれの見方や方法で見出していた。
都市の行く末を見守る教皇宮殿の一階。 窓際に集まった聖職者や側近たちもまた、空で展開され静止している魔法を固唾を飲んで見守っていた。
「攻撃魔法の中では習得しやすい魔法とは聞きますが、あれほど莫大な数を空に留め、同時に制御するとなると……圧巻と言わざるを得ませんな」
「ええ、私は魔法の専門というわけではないのですが、あれほどの隠れた天才が世に埋もれているというのは、魔法の世界は広しといえどなかなか残酷ですな」
側近や聖職者たちがそうした感想を漏らす中、筆頭枢機卿であるベルフェツテは、ただ一人黙って夜空を見つめていた。
幼い頃から教皇の傍に仕えてきた彼は、教皇が『七魔星』という魔法に深く通じる存在であることもあり、普通の人よりも魔法に触れる機会に恵まれていた。
そして教皇の近くにいることで、魔法の界隈で天才と呼ばれる人たちを目にする機会もあった。
残念ながら彼自身にはあまり才がなかったが、それでも一般の人よりは多少なりとも知識や能力を身につけていると自負していた。
そんな彼だからこそ、彼女の魔法がどこか異質だと感じることができたのだ。
彼女は確かに、先ほどから魔法の技術力が極めて高いと分かるようなことをやってのけている。
だがそれは、これまでに現れた天才たちを測ってきた『既存の物差し』では測れない異質さだった。
これに関しては、どちらが優れていてどちらが劣るか、という話ではない。 例えば、日記と小説というものがある。
どちらも書き記したものという点では共通している。だが、記録を目的とするものと、娯楽として読んでもらう物語とでは、根本の『書き記したもの』という点以外がかけ離れており、到底同じ物差しで優劣をつけることはできない。
それと似たようなものを感じるのだ。
さすがに、今の例えほどの大きな違いはないかもしれない。ほんの少し、朝、水で顔を洗ったか洗っていないかくらいの違いだろうか。だが、今我々が使う魔法とズレを感じることには変わりない。
彼女の魔法は、出発点は同じだとしても、我々人間が魔法を手に入れて継承を繰り返しながら発展していったのとは別の、どこかで分岐した独自路線を突き進んでいる気がした。
これはあくまでベルフェツテが、彼女について自分で導き出した結論があってこその考えだ。 その結論が先になければ、このようなこと思いもしなかっただろう。
結論から逆算するように導き出した推測は、結果的に彼が抱いている疑惑を強めることになった。
やはり、あのお方は――。
窓の外を見つめながら、頭の片隅でそんな思考を巡らせていると、傍らにいた商人のサンゴエが興奮気味に口を開く。
「一時はこの瘴気でどうなることかと生きた心地がしませんでしたが、あんな美しいものを見せられては、不安な気持ちも吹き飛んでしまいますよ! 凄腕の魔術師なのではとは思っていましたが、いやはや、あれほどだとは」
ベルフェツテはそんな彼を一瞥し、静かに微笑んだ。
「……ええ。本当に、凄いお方ですよね。私もとんでもないお方がこの都市に来てくださったと思ったものです」
◇
そして――。
お師匠を中心に全方向へと広がり、街を優しく照らし出して止まっていた数百の光の弾が、一斉に動き出した。
数百発の光弾が、自らの意思が芽生えたかのように、淡くも眩い尾を引きながら、ドーム状の魔導防壁の膜に向かって飛翔していく。
それもある一点ではなく、あらかじめ設定された座標である、それぞれの魔導防壁の歪みへと向かって、夜空を縦横無尽に駆ける。
全ての光弾の目指す場所が異なるために発生するその光景に、ボクは目を奪われる。 各々の目指すところまで光の弾が走る姿は、まるで流れ星のよう。
すべての光弾が途中の障害物を滑らかに避けながら、目的の場所へと進んでいく。
空の中心でタクトを振るうように両手を動かすお師匠は、下にいながらもわかるほどに、無邪気に笑っていた。
心底、魔法で思い描いたことを実現するのが大好きな、純粋な子供のように。
この広大な夜空と都市をまるごと一枚のキャンバスに見立てて、魔法を絵筆のようにして、思いのままに絵を描いているのが、ボクのお師匠だ。
そして、都市中に散らばっていた数百に及ぶ全ての光の弾が今、魔導防壁の膜のそれぞれ異なる歪みの箇所に到達し、完全に同時に着弾しようとしている。
その直前の数秒間が、ボクにはスローモーションのように、ひどくゆっくりとしたものに感じられた。
ボクが作ったあの魔導防壁は、間違いなくボクの最高傑作だ。
千年間、来る日も来る日も防壁魔法の研鑽を重ね、血の滲むような努力の果てに辿り着いた、ボクの実力の全てを示した魔法。
それを、お師匠は今、軽々と乗り越えようとしている。
その事実を前にして、ふと、ボクの脳裏に一千年以上の遠い昔の記憶がフラッシュバックした。
◆
「ねぇジース。君は、もし望んだことが一つ叶うなら、何を望む?」
「え?」
その日、お師匠と弟子のボクは、エルフの里の裏にある山中を二人でのんびりと散歩していた。 季節は里で親しまれている茎菜類『サクリア』の収穫期。
この日は、里の住人の三分の一ほどのエルフが山に入り、みんなで競い合うようにサクリアを収穫するという、里を挙げての行事の日だった。
他の弟子たちは、「自分が一番たくさん採るんだ!」と張り切って山中に散らばっていた。
特に、普段はおっとりして何事にも消極的なシャルナでさえ、その日ばかりは目の色を変えていた。
彼女は大変な食いしん坊だ。食べ物のこととなると、普段ののんびりした性格が一変し、他の者達をしのぐ機敏さで山を駆け回るのだ。
ボクは彼女より食べているわけではないのに、明らかに最近お腹周りに肉がつき始めている気がしていた。なのに、シャルナはあんなに山ほど食べているのに、痩せている。本当に羨ましくて、その事を少し理不尽に思っていた時期でもあった。
そんな中でボクというと、収穫競争にあまり乗り気になれず、のんびりとサクリアを探すお師匠と一緒に歩いていたのだ。
そうしていると、急にお師匠から、何気ない調子でそんな質問を投げかけられた。
ボクがピンと来ていない顔をしているのに気づいたのだろう。お師匠は苦笑しながら言葉を付け加えた。
「いやね。今後、君たち弟子全員に、それぞれ違った系統の、基礎から外れた信号が複雑な番外魔法とも言うべきものを教え込もうかなと考えているんだけどね。みんなにそれぞれ、どんな分野の魔法を教えようかと考えている段階でね。参考にするために、弟子たちに聞いて回っているところなのさ」
「えっ、そんなことするんですか?」
ボクは驚いて目を丸くした。今でも信号を送り込むのにかなり苦労しているのに、更に難しくなるのかという気持ちもあった。
「基本的にはそれぞれの適性を鑑みて決めるつもりだけど……もし『こういうことがしたい』っていう強い要望があるなら、それも踏まえた上で教える魔法を選ぼうと思って」
「つまり……使ってみたい魔法、あるいは魔法で成し遂げたいことがあったりするかという認識で大丈夫ですか……?」
「んぅー……まぁ、大体そんな感じかな」
お師匠は顎に手を当てて頷いた。
その質問を受けて、ボクの心の中には、以前から密かに芽生えていたある一つの強い想いが顔を出した。
それは、里に雨が降らず、ボクの母の占いが外れて家族の立場が危うくなりかけた、あの日の出来事に起因する。
あの日、お師匠は自らの脳に多大な負荷をかけ、大変な無茶をしてまで広範囲の大気中のマナに干渉し、雲のない空から擬似的な雨を降らせてくれた。
それは、ボクとボクの家族の立場を守るためであり、ひいては干ばつに苦しむ里全体を潤すためでもあった。
そんなお師匠の背中をボクはずっと見てきた。 そしてあの件以来、自分がこれまで、どれほどお師匠に守られ、甘やかされてきたのかを痛感した。
あの日みたいに特別わかりやすい日はもちろん、それ以外の日常的な場面でも、お師匠は常にボクたちを気遣い、盾として庇ってくれていたことが多々あったのではないかと思ったのだ。
そう考えた時、ボクは、いつも守られてばかりの自分が不甲斐なくて、情けなかった。
だからこそ、ボクは――逆に自分がお師匠を守れるくらいに強い人間になりたいと、日々強く思いを募らせていた。
守られるだけの存在から、守ってあげられる存在に。
お師匠は、人類で初めて魔法に触れた、凄い人には違いない。 だが、お師匠にはそれと同時に、見ていてハラハラするような危うさが時々ある。
魔法の探求に夢中になるあまり自身の限界を顧みないところや、本当に肝心な時はなんだかんだ言って自分の命も厭わず助けてくれるところ、一人で遠い空を見つめている時の、ふとした瞬間に風に溶けて消えてしまいそうな、儚く孤独な横顔。
誰かが傍にいて、その無茶を止め、降り注ぐ火の粉を払い除けてあげなければ、この人はいつか本当に自分を壊してしまうのではないか。
その時、子供ながらに、ボクはそんな強い危機感を抱いていた。
だからこそ、ボクは――。
「……お師匠、あります」
「おぉ、いいね、あるのかい」
お師匠が興味深そうに耳を傾ける。
「聞かせておくれよ」
ボクはお師匠の黄金色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、はっきりと告げた。
「――大切なものを守れる、そんな力が欲しいです。絶対的な盾になれる、そんな力が」
その言葉を聞いたお師匠は、一瞬呆気に取られたように目をパチクリとさせた。
しかし、すぐにその整った顔が、徐々にニマニマとした意地悪そうな笑みへと変わっていった。
「ほうほう……ジースには、そこまでして守りたい大切な人がいるのか……。もしかしてこれって、好きな子がいるとかそんな感じかい……?」
「えっ」
予想外の返答に、真剣な表情をしていたボクだったが、その表情は一瞬で崩れ、動揺のあまり上擦った声を上げながら一歩下がる。
「なんでそうなるんですか!? お師匠ったら……! そんなんじゃないですよ! ……もう、ボクが真剣に応えてるのにからかって……!」
そうやって否定しても、こうなったらお師匠は止まらない。
「好きな子は……私の他の弟子の中にいるのかい? それとも里の他の子かな? だからそんな事言うんでしょ? だとしたら……たくましいねぇ。そして、青春だねぇ……!」
「なっ、ちがっ……違いますっ! 色恋沙汰と結びつけないと死んじゃう病気にでもかかっているんですか、お師匠は!
くどいようですが、そういうのじゃないんですってば!」
色恋沙汰と紐付けないと気が済まないお師匠は、そんな事ないのに他の弟子達とボクを結びつけようとしてくる。
だからと言って、素直に『お師匠を守りたい』だなんて本人に言えるわけがない。
「分かった分かった。照れなくてもいいじゃないか。このことは他のエルフには絶対秘密にしておくから、私にだけこっそり教えなさいよ、誰なのか」
「だぁから! 違うんですって!! お師匠のバカ! 色ボケお師匠!!」
ボクが抗議の意味を込めて両手を前に突き出すと、お師匠はケラケラと楽しそうに笑いながら、身を翻して山の中を走り出した。
「やぁーい! ジースが図星を突かれて怒った!」
「もぉ……! お師匠ったら時々、誰よりも子供らしくなるんですから! ボクの真剣な覚悟、返してください!」
ボクはふざけるお師匠のその後を追いかけた。
しかし、走り出したお師匠は、後ろを振り返ってボクをからかっていたせいで、足元の悪い山道に転がっていた木の根に足を引っ掛けた。
「だふっ!?」
お師匠は、情けない声を上げて顔から派手にズッコケた。 お師匠は地面に這いつくばるような体勢になる。
「あ! ちょっと、大丈夫ですか!? お師匠!?」
ボクは慌てて駆け寄り、土で汚れたお師匠を助け起こした。
鼻の頭を赤くして「い、痛てて……」と涙目になっているお師匠を見て、ボクは呆れながらも、思わずクスリと笑ってしまった。
こんなにドジで、放っておけない人。 やっぱり、ボクが守ってあげなくちゃダメだ。
そう、心に強く誓った日だった。
◆
それなのに、ボクが守りたかったその人は、あの日、ボクたちを残して一人で旅立ってしまった。
残されたボクは、お師匠のいない中で他の人たちを守ることに専念するしかなく、防壁の制作にひたすらに心血を注いできた。
その集大成が、今まさにこの都市を覆う魔導防壁だ。
だが、その絶対の魔導防壁は今、ボクが本来守りたかったその人の手によって、ボクやこの都市の人たちを守るために役目を終えようとしていた。
街中の空を走る数百の光の弾。そのすべてが、魔導防壁の各々の着弾地点である歪みへと、完全に同時に接触した。
一瞬の静寂の後、空気を震わせるような亀裂音が響き渡る。
着弾した数百箇所を起点として、魔導防壁の表面に蜘蛛の巣状の亀裂がいくつも走り始めた。歪みを突かれたことによって生じるエネルギーの逆流が魔導防壁の許容量を超え、強固だった力の均衡が完全に崩壊していく。
そして。
『――パッリンッッ!!』
鼓膜を叩く、ガラスが砕け散るような澄んだ、それでいて豪快な粉砕音。
この世界において最大の硬度と大きさを誇ったボクの魔導防壁は、一瞬にして光の粉と化し、夜空にキラキラと舞い散った。
魔導防壁が、完全に崩壊したのだ。
お師匠は、軽々とボクを超えていく。
守りたい人は、いつだってボクのずっと先を行っていて、今はその背中を追いかけるだけで必死になる。けれど、いつかはそんなお師匠の隣に立ち、守れる人になりたい。
そんな思いも、あの日、彼女を失ってしまったと思い込んだ日から、久しく忘れていた感情だった。
そんな感傷的な気持ちに浸っていると、魔導防壁が崩壊したことで支えを失い、上空でお師匠を縛り付けていたマナの糸ごと、真っ逆さまに落下し始めたのが見えた。
だが、お師匠は慌てることなく、自身を縛り付けている糸を即座に霧散させると、空中でくるりと体勢を整えた。
そして着地寸前、手のひらから下方の地面に向けて空気砲のような圧縮した風の塊を打ち込み、その反動で落下の勢いをふわりと緩める。
「よっと…………おっ」
ダンッ、と重い足音を立てて地面に舞い降りたお師匠は、着地自体は綺麗に決めたものの、直後にガクンと足元をふらつかせた。
「お師匠! 大丈夫ですか!?」
ボクは慌てて駆け寄り、足元がおぼつかないお師匠の肩を抱き留め、倒れそうになる身体を支えた。
「ふぅ……ありがとね、ジース。いやはや、ここまでやると流石に……くるものがあるね。それほど致命的ではないが、少なからず脳に負担がかかっているのがわかる。……まだ、最後にもうひと仕事、しないといけない事があるというのに」
お師匠は額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、困ったように苦笑する。
最終段階。
ボクは事前にその作戦の全容を聞いていた。
お師匠を中心に、街全体を巻き込むような大規模な渦巻く風を発生させる。その風でマチュを巻き込みながら、同時に瘴気をもさらう。
そして、魔導防壁という上限を超えた上空、大気圏へとその風を押し上げ、高高度の広大な空間で大気と混ぜ合わせることで、瘴気の濃度を人体に影響のないレベルまで希釈するというものだった。
だが、それを今の状態のお師匠がたった一人で実行するとどうなるか。
はっきり言って、先ほどまでの一連の行動である拡声魔法、数百の歪みの特定、数百発の光弾の同時精密制御をほぼ休むことなく行ったことだけでも、すでに常軌を逸した働きだ。
それに加えて、都市全体を巻き込むほどの風魔法を行使するというのだ。 おそらくそれほど強い風でなくても成立するとは思うが、やはりそれでも範囲が広い。
過去にお師匠が行ったエルフの里よりも断然だ。
いくらお師匠がこの千年間で人知を超えた進化を遂げていたとしても、これ以上、たった一人で魔法を使わせるのは気が引けた。いくらなんでも限界が近いはずだ。
「……少し、休みませんか?」
上空で瘴気を吐き出し続けるマチュを放置することはできない。だから今ボクが口にしたことは無理な提案だとわかっていても、お師匠の状態を心配して、自然とそんな言葉が口から出てしまった。
案の定、お師匠は「ここまで来たんだ。なるべく早く終わらせられるならそれに越したことはないだろうさ。そっちの方が、この都市の人たちも早く安心できる」と、首を横に振った。
そう言うだろうとは思っていた。お師匠は昔から、誰かのために自分の限界を顧みないところがある。
もっとも最たる例が、世界を守るための千年にわたる独り旅なわけだが……。
そう、あの時は、結果としてお師匠に一人きりで背負わせてしまった。
あんな元気に振る舞っているお師匠ではあるが、おそらく色々な苦難に直面することもあっただろう。
そんな時に、ボクはそばにいてやれなかった。 それを今でも後悔している。
辛い時に誰かが近くにいるだけで、やはりどこか安心できるものだ。
お師匠を失ったと思い、深い喪失感を抱えていたときに、隣にいてくれたベルフェツテがそうだった。
ずっと心の癒えない傷のようなものは残っていたが、それでもどうにか耐えることができた。 そばにいてくれる人がいなければ、それすら叶わなかったかもしれない。
だから――
「お師匠。私も最終段階の魔法、手伝わせてください。一人ではなく二人でこの作業を行えば、負担はその分、二人に分散されます」
「はいっ!? いや、君さ。ただでさえ魔力切れを起こして倒れかけていたんだよ? そんな無茶な真似、させられるわけないじゃないか」
「こうして少し休む事ができたので、幾分かマシになりました。それに、それを言ったらお師匠も同じような状態でしょうに」
「私の話は一旦置いといて、ジース、さっきの今で、すぐに回復するわけないじゃないか。見栄を張らなくていいんだよ」
「見栄というなら、そっちこそですよ! お師匠が一人で全部の負担を負う必要なんてないんですよ! これからはボクも、負える分の負担は一緒に負いますから!」
「むぅ……なんだいそれは」
お師匠は困ったように眉を寄せるが、ボクは一歩も引かずに見つめ返した。
「まぁ、にしても……確かに二人でやれば私の負担は減るけど。今からやる魔法の規模を考えれば、それでも下手したらマナ切れでかなり寝込むことになるかもしれない」
「お師匠が一人で無理をして長期間寝込まれるくらいなら、二人で短期間寝込む方を選びます」
「……頑固な子だなぁ。私、そんな強情な子に育てた覚えはないんだけどなぁ」
「ほら、いきますよ! お師匠!」
ボクはお師匠に向かって、真っ直ぐに手を差し伸べた。
お師匠はボクの顔をじーっと見つめ、その手を取るべきか迷うような仕草を見せた。だからボクは、ためらうその手を無理やりに取って引き寄せた。
少し冷たいお師匠の手。それを握りしめた。
「……やれやれ。教皇様からの直々のご命令とあっちゃ、逆らえないじゃないか」
お師匠はついに覚悟を決めたのか、柔らかく微笑むと、マチュが漂う紫色の空へと鋭い視線を向けた。
互いに手を繋いだまま、深く息を吸い込み、意識の奥底へと潜っていく。 共同で魔法を行う場合、息をピッタリ合わせる必要がある。
まずは、上空に群がるマチュの殲滅だ。
「いくよ、ジース」
「はいっ!」
足元から、ブワッと風が舞い上がるような感覚を覚えた。 ボクたち二人を中心に、空へと駆け上がる巨大な上昇気流が生まれ始める。
お師匠がメインの指向性を決定し、ボクがその風の密度と安定性を補助する。
風は瞬く間に都市部全体を覆うほどの巨大な渦へと成長していった。
都市の建物などに配慮を施しながら、絶妙な力加減で、精密な風が空を駆け巡る。 風の渦は上空の紫色の靄をさらいながら、数百体のマチュを容赦なく巻き込んでいった。
風の中に囚われたマチュたちは、風に誘導されるように、お師匠のコントロールによって空中で次々と衝突させられていく。
マチュ同士が激突し、剥き出しになった紫色のコアが次々と砕け散る。 コアが破壊され消滅する瞬間、マチュが膨大な超高濃度の瘴気を撒き散らす。
だが、その膨大な瘴気もすぐさま、お師匠の操る風が漏らさぬようにと瘴気をすべて上方向へと巻き上げていく。
数百のマチュのコアが風に運ばれ連鎖的に砕け、空に散らすことができた。 こうして地上に被害を出すことなく、空を覆っていたマチュの群れは完全に消滅した。
残るは、最後の仕上げだ。 魔導防壁内部に充満しかけていた瘴気と、マチュが最期に吐き出した超高濃度の瘴気。これらを完全に無害化しなければならない。
「じゃあこれが正真正銘最後、ジース! これまで以上に息を合わせようじゃないか!」
「はいっ!!」
ボクたちは最後の大仕事に向けて、一層の気合を入れる。 自然と、互いに握り合っていた手に力がこもった。
突風が吹き荒れ、ボクたちの法衣や髪が激しくバタバタと舞い上がる。 風の渦はさらに規模を拡大し、都市全体を包み込む。
瘴気の危険性は結局のところ濃度の問題だ。
瘴気が一箇所に滞留し濃度が高いから人を脅かす。密閉された魔導防壁の中という特殊環境だったからこそ、マチュの瘴気は脅威になり得たのだ。
しかし、魔導防壁が消滅した今、空には限界がない。
ボクたちが操作する巨大な風の渦は、都市中に漂っていた紫色の靄をかっさらって、天高く、遥か上空へと力強く押し上げる。
雲を突き抜け、空気の層が薄くなる高高度へ。 そこには、地表とは比べ物にならないほど強力な大気圏の偏西風が吹き荒れている。
風によって上空へと運ばれた瘴気は、広大な大気の流れに叩き込まれ、激しくかき混ぜられるだろう。
極限まで希釈された瘴気は、もはや人体に何の影響も及ぼさない、ただの無害な空気の一部へと成り果てる。
すべての瘴気を天空へと放逐した風の渦が、役目を終えてスッと霧散していく。
それと同時に、街を覆っていた澱んだ空気が嘘のように晴れ渡った。澄み切った、ひんやりとした空気が、ボクたちの頬を優しく撫でる。
東の空を見やれば、地平線の向こうから太陽の光が差し込み始めていた。
夜明けだ。
太陽の光が、瘴気の消え去った白亜の街並みを美しく照らし出していく。 風が駆け抜けた街は、まるで生まれ変わったように清々しい空気に満ちていた。
――終わった。
ひとまずの危機は、すべて去ったのだ。
その確かな安心感が心を支配した瞬間、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた。
それを待っていたかのように、全身の筋肉から力が抜け落ち、体力の限界が容赦なくボクの身体を支配する。
「あ……」
膝が折れ、地面に倒れ込みそうになった。 だが、地面に激突するよりも早く、ばっと伸びてきた腕がボクの腰を強く引き寄せ、しっかりと抱き留めてくれた。
「っと、危ない危ない」
お師匠の安心する匂いと温もりが、ボクを包み込む。 瞼が鉛のように重い。視界がどんどん暗く、遠ざかっていく。
「……嘘、つき……」
ボクの顔を覗き込むお師匠を視界いっぱいに映しながら、ボクはぽつりとこぼした。
「え、私、何か嘘ついたかい?」
「だって……ボク、てっきり……お師匠と一緒に、魔法の使いすぎで倒れるって思っていたのに……。倒れるのは……ボクだけ、じゃないですか……。お師匠は……ピンピンして、元気そうですし……」
意識が朦朧としてきて、言葉が途切れ途切れになっていく。 自分だけが先に限界を迎えてしまったことが、なんだか少しだけ不服だった。
すると、お師匠は困ったように、けれどどこまでも優しい声で言った。
「いやいや、これでも私も結構、気を張っているんだよ。流石に連続で規模の大きい魔法を行使しすぎたからね。立っているのがやっとなくらいさ」
「なら……」
「でも、一緒に倒れるわけにはいかないね。だって私には、頑張りすぎた君を、あの屋敷のふかふかなベッドに寝かせるという、一番肝心な任務が残っているから。それまでは、私は絶対に意識を手放せない」
お師匠は、汗で額に張り付つき目に入りそうになっている髪を指先で払っでくれながら、ふふっと笑った。
「そうやって、少しは私にかっこいい師匠面をさせてはくれないかい。ここで一緒に倒れちゃったら、格好がつかないじゃないか。これでも私にだって、ちっぽけな師匠としてのプライドがあるんだからさ」
あぁ、もう、本当に敵わない。
ボクはいつになったら彼女を守る側になれるのだろうか。
睡魔が脳を白く塗りつぶしていく。
もう限界だ。でも、眠りに落ちる前に、これだけは絶対に伝えたかった。
「――お師匠。この街を……救ってくださり、本当に……ありがとうございました」
ボクの消え入りそうな声に、お師匠は安心させるように力強く頷いてくれた。
「はいな。ジースも、本当にお疲れ様。……よく頑張ったね。ゆっくりおやすみ」
あと数話で一章は終了になります。
ようやくここまで辿り着けました。
もし、まだの方がいらっしゃいましたら、高評価を頂けると嬉しく思います。ランキングになりたい……。
感想などもお待ちしております。