原作でも謎に包まれたアイヌ呪術連からの転入生(転生者) 作:板前さん
網走近郊、オホーツク海から吹き付ける極寒の暴風雪が、視界を白一色に染め上げていた。
その雪煙の奥から、山をも揺るがすような不気味な足音が響く。
特級相当、自然呪霊『サロルンカムイ(泥濘の捕食者)』。
それはかつて開拓民や囚人たちが、底なしの沼地に呑み込まれ、誰にも知られず消えていった孤独と飢餓の恐怖が結実した異形だった。数十本の獣の足が節足動物のようにうごめき、泥と雪が混ざり合った巨大な肉塊が、アイヌ呪術連盟の精鋭たちを蹂躙していた。
「各員、固有術式展開! 奴の足を止めろ!」
連盟の術師たちが動く。一人は『氷柱の檻』を形成し、一人は『重圧の風』で呪霊を地面に縫い付ける。彼らは個々としても優秀な術師であり、それぞれが北の大地に根ざした固有の術式を持っていた。
しかし、特級の圧倒的な呪力量の前では、個の術式は砂の城のように脆い。
「……くっ、再生が早すぎる! 全員、円陣を組め! 『同祈祷(カムイノミ)』を開始する!」
指揮官の叫びと共に、傷ついた術師たちが一つの円を描く。
これこそがアイヌ呪術連盟を「連盟」たらしめる最大の特徴。連盟に加入し、独自の契印を刻んだ者だけが使用できる、自然の理を操作する共有術式。
個々の術式を「祈り」として捧げ、一つの巨大な事象へと昇華させる合議制の呪術。
「「「カムイノミ――『シトナイの氷矢』」」」
数十人の呪力が合一し、上空に巨大な氷の矢が形成される。それは個人の限界を超えた一撃。放たれた矢がサロルンカムイの胴体を穿ち、大地を凍てつかせた。
だが、呪霊の肉体は泥のように溶け、凍土を内側から腐らせて再生する。
連盟が祈祷で編み上げる「秩序」を、泥濘という「混沌」が根底から汚染していく。
「……無駄だ。こちらの呪力が尽きるのが先か……!」
吹雪の境界線に、一人の少年が立っていた。
神遺(かむいやり)カムイ。十六歳。
かつては「神遺の異端児」と呼ばれた彼は、今や誰の目にも「怪物」として映る姿に変貌していた。冬のダイヤモンドダストを凝縮したような純白の髪が風に舞い、黄金の右目が戦場を冷徹に射抜いている。
「カムイ、来たか……」
指揮官が、屈辱と安堵が混ざり合った表情で呟く。
「連盟の決定だ。この呪霊を屠れ。これは貴殿の……実戦テストだ」
「テスト、ね。……『祈り』を捧げ合う仲間もいない俺が、どこまでやれるかってことだろ」
カムイは短く吐き捨てると、一歩踏み出した。
サロルンカムイが、新たな捕食対象を認め、数千もの泥の触手を鞭のように伸ばしてきた。一本一本が、触れたものを即座に腐敗させる必殺の攻撃。
「(カムイ、右だ。一三〇メートル、風速八。軌道はすべて見えているわ)」
カパッチリの黄金眼が、吹雪の中に隠された弾道を赤い光線として網膜に投影する。
「……遅いな。レタㇻ」
カムイの影が爆発するように広がり、白狼が実体化する。
影を介した、慣性も重力も無視した超高速移動。カムイの体は一瞬で「消失」し、次の瞬間には泥の触手が交差する僅かな隙間――死角の中をすり抜けていた。
術師たちが集団で防いでいた攻撃を、少年は独りで、踊るように回避し、呪霊の懐へと肉薄する。
「キムン。……一分だけ、枷を外すぞ」
カムイの右腕が、黒い呪印と共に岩山を削り出したかのような異形へと膨張した。キムンから直接流し込まれる「質量」という名の呪力が、カムイの血管を焼き切らんばかりに充填される。
「神遺・壊弾(かいだん)」
振り抜かれた拳が、大気を爆砕した。
ドォォォォン!! という衝撃波が網走の雪を数キロにわたって吹き飛ばし、剥き出しの黒い大地が現れる。サロルンカムイの巨大な肉塊は、再生の隙すら与えられず、その「核」ごと粉塵へと変えられた。
静寂が戻った雪原に、土煙が舞い落ちる。
生き残った連盟の術師たちは、呆然とその光景を見ていた。自分たちが誇る『同祈祷』でさえ届かなかった「災厄」を、この少年は、たった一人の「個」の暴力で、文字通り消し飛ばしたのだ。
「……カムイ殿。感謝、する。貴殿が来なければ、網走は沈んでいた」
一人の術師が、震える足で歩み寄り、頭を下げた。だが、その声は震え、視線はカムイの「黄金の目」を直視できずに泳いでいる。
「……だが。その力は、もう……『和』を尊ぶ我らアイヌの術ではない」
「……分かってるよ。言わなくていい」
カムイは、自分の右腕に刻まれた呪印を見つめる。
術師たちの目は、救世主を見るものではなかった。自分たちが守ってきた「集団での秩序」を、その圧倒的な個の暴力で踏みにじった怪物への、拭い去れぬ恐怖。
彼らにとって、連盟は「みんなで神を敬う場所」であり、同祈祷はその象徴だ。
対してカムイは、「一人で神を従え、個で世界を塗り替える異端」。
「神遺のカムイ……。貴方は、もはやアイヌの守護者ではない。……ただの、歩く特級呪霊だ」
背後から投げかけられたその言葉を、カムイは否定しなかった。
感謝の言葉すら、刃のように鋭く彼を突き放す。北海道という北の大地そのものが、自分という異物を排出しようとしているのを肌で感じていた。
「(……クク。あいつら、震えてやがる。命を救ってやった相手に、呪い避けの印を結んでやがるぜ、カムイ)」
影の中でレタㇻが皮肉げに笑う。
「……いいさ。次は、アッコロのところへ行く。……こんな冷たい場所、こっちから捨ててやるよ」
カムイは、一度も術師たちを振り返ることなく、噴火湾へと続く深い雪の中へ消えていった。