烏の王冠   作:西雲

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一人称は余


1.魔法使い

1989年8月 ロベルト

 

「こちらがお求めの本でございます」

呼びかけに顔を上げると、執事が引き攣った笑みを浮かべながら、両腕で抱えていた分厚い革張りの本を机の上へ置いた。どすん、と重たい音が静かな書斎に響き、その拍子に積み上げてあった紙がわずかに揺れる。

「ありがとう」

余がそう言って微笑むと、執事はなぜか一層身体を強張らせた。深く頭を下げるその指先は微かに震えており、顔を上げるや否や「それでは失礼いたします」と早口に告げ、そのまま逃げるように部屋を出ていった。

閉ざされた扉をしばらく眺め、余は小さく息を吐く。

相変わらずだ。

別に怒鳴りつけたこともなければ、暴力を振るったこともない。それでも、この屋敷に仕える者たちは皆、余のそばへ来るとどこか怯えたような態度を見せる。

もっとも、その理由は分かっている。

余は、幼い頃から時折、説明のつかない現象を起こした。

赤子の頃には、泣き出すと周囲の玩具がひとりでに浮き上がり、癇癪を起こせば窓ガラスが割れたという。少し成長してからも、手の届かない本を欲しいと思っただけで棚から飛んできたことがあり、使用人たちの間では、余が機嫌を損ねれば何が起こるか分からないと囁かれていたらしい。

実際には、前世の記憶をはっきり取り戻して以降、そうした現象はある程度抑えられるようになっていた。それでも、一度染みついた恐怖というものは簡単には消えないらしく、今でも近くへ来るだけで身体を強張らせる者は少なくない。

そして、この不可思議な力以上に、余自身にはもう一つ、人に話すことのできない秘密があった。

余には前世の記憶がある。

前世では日本の大学院に通う一学徒で、研究室と自宅を往復しながら実験をし、データを取り、論文を書くという、ごくありふれた生活を送っていた。

最後の記憶も特別なものではない。学会前夜、研究室でポスター発表の練習を終え、疲れ切って帰宅したあと、明日は早いからと布団に入り、そのまま目を閉じた。それが前世における最後だった。

次に目を覚ましたときには、イングランドの片田舎にある大きな屋敷で、余は赤子になっていた。

今世で与えられた名は、ロベルト・フィッツロイ。

フィッツロイ家は裕福だった。少なくとも、十一年間暮らしてきた限り、金に困っている様子を見たことは一度もない。広大な森に囲まれた屋敷には大勢の使用人がおり、余が欲しいと言えば、大抵の物は数日もしないうちに用意された。

ただし、両親の姿を見ることだけは滅多になかった。

父はごく普通の英国紳士であり、母もまた余のような不可思議な力とは無縁だった。

だからこそ、余自身にも、自分だけがなぜこのような力を持って生まれたのかは分からなかった。

両親が余をこの屋敷へ移し、ほとんど外へ出さなくなったのも、おそらくは幼い頃から続く異常な現象を人目から遠ざけるためだったのだろう。

もっとも、余自身はこの生活にそれほど不満を持っていなかった。

外へ出られないのなら、世界の方をこちらへ持ってくればよい。

本が欲しいと言えば届いた。顕微鏡が欲しいと言えば用意され、天体望遠鏡が欲しいと言えば屋敷の一室が観測に使えるよう整えられた。化学実験に必要な器具を頼んだときなど、数週間後には小さいながらも実験室と呼べる設備まで整っていた。

そうしていつしか、書斎の壁は本で埋まり、歴史、数学、物理学、化学、生物学、哲学と、興味の赴くままに集めた書物が天井近くまで並ぶようになった。

外の世界へ自由に出られなくとも、本を開けば時代も国境も越えられる。

読書こそ、余にとっての自由だった。

「さて」

執事が持ってきた本へ手を伸ばし、革張りの表紙を撫でる。新しい知識に触れる瞬間というものは、いつになっても良いものだ。

だが、ページを開こうとしたそのとき、窓の方から小さな音がした。

コン。

最初は木の枝でも当たったのかと思ったが、すぐにもう一度、今度は明らかに意志を感じさせる音が続いた。

コン、コン。

顔を上げる。

二階の窓の向こうに、一羽の茶色い梟が留まっていた。

妙なのは、それだけではない。

梟は嘴に一通の封筒を咥えており、余と目が合っても逃げるどころか、早く窓を開けろと言わんばかりに首を傾げた。

「……余に用があるのか?」

思わずそう問いかけながら窓を開けると、梟は逃げるどころか一歩だけ窓枠の内側へ進み、咥えていた封筒を余の方へ差し出した。

余はしばらく、その封筒と梟を交互に見つめた。

「……手紙?」

思わず声が漏れる。

梟が手紙を運んできた。

その事実を理解するまでに、数秒を要した。

鳩を使った伝書なら知っている。だが、目の前にいる梟は明らかに様子が違った。単に決められた場所へ飛んできたのではなく、窓越しに余を見つけ、こちらが開けるまで待ち、さらに封筒を受け取れとばかりに差し出している。

興味と警戒が入り混じる中、余は恐る恐る封筒を受け取った。

その瞬間、梟は役目を終えたとでもいうように一度だけ羽を震わせ、窓枠の上で悠然とこちらを見返した。

「……本当に届けに来ただけなのか」

呟きながら、封筒へ視線を落とす。

宛名を見た瞬間、今度は別の意味で言葉を失った。

ハンティンドン郡ウッドウォルトン

林の中の大きな屋敷

ロベルト・フィッツロイ殿

「……どうやって届いた?」

住所と呼ぶには、あまりにも曖昧だった。

番地もない。屋敷の正式名称すら書かれていない。それなのに、この梟は広い森の中から正確にこの屋敷を見つけ、そのうえ余のいる窓まで辿り着いた。

先ほどまで「訓練された梟」という可能性を考えていたが、さすがにそれだけでは説明がつかない。

余はもう一度、窓辺の梟を見る。

梟もこちらを見る。

「お前、いったい何者だ?」

もちろん答えはない。

ただ、その丸い目が妙に知性を帯びているように見えて、余は背筋にかすかな寒気を覚えた。

怖い、というよりも。

理解できない。

そのことの方が、余にはずっと大きかった。

改めて封筒を見る。

厚手の羊皮紙。見慣れた郵便物とはまるで違う手触り。そして、どこにも切手が貼られていない。

ますます普通ではない。

余は慎重に封筒を裏返した。

そこには赤い蝋で封がされ、獅子、鷲、穴熊、蛇、そして中央に大きなHが刻まれていた。

その紋章を見た瞬間、余は動きを止めた。

記憶の奥底に沈んでいたものが、急速に形を取り戻していく。

まさか。

そんなはずはない。

そう思いながらも、指先はすでに封蝋を割っていた。

中から出てきた羊皮紙を開く。

親愛なるロベルト殿

このたびホグワーツ魔法魔術学校にめでたく入学を許可されましたこと、心よりお喜び申し上げます。教科書並びに必要な教材のリストを同封いたします。

新学期は九月一日に始まります。七月三十一日必着でふくろう便にてのお返事をお待ちしております。

敬具

副校長

ミネルバ・マクゴナガル

しばらく、何も言えなかった。

視線だけが羊皮紙の上を何度も往復する。

ホグワーツ。

ミネルバ・マクゴナガル。

そして梟便。

そこまで揃って、もはや疑う余地はなかった。

「……そういうことか」

胸の奥から笑いが込み上げてくる。

最初は小さく、それから抑えきれなくなった。

「くく……ははははっ」

十一歳にもなって、これほど心の底から笑ったことがあっただろうか。

前世で読んだ物語。

魔法使い。

ホグワーツ。

ダイアゴン横丁。

箒。

魔法薬。

変身術。

そして杖。

自分の身に起きていた不可解な現象も、これですべて説明がつく。

余が特別な超能力者だったわけではない。

魔法使いだったのだ。

「ここは、ハリー・ポッターの世界か」

そう呟いた途端、喜びとは別の感情が一気に湧き上がってきた。

知的好奇心。

前世の記憶が戻って以来、久しく味わっていなかったほど強烈なものだった。

魔法とは何なのか。

杖を振って物体を浮かせるとき、そのエネルギーはどこから供給されるのか。魔力が人体内部に存在するなら、その量には個体差があるのか。もし外部から取り込んでいるのなら、周囲の環境によって魔法の威力は変化するのか。

呪文についてもそうだ。

言葉そのものに力があるのか、それとも発音や杖の動きは魔法使いの意識を一定方向へ整えるための補助手段に過ぎないのか。

変身術では物質の質量はどうなる。

姿現しは空間を折り畳んでいるのか、それとも一度身体を別の状態へ変換しているのか。

魔法薬は化学反応と魔法反応が混在しているのだろうか。

魂、幽霊、蘇生、予言。

考え始めれば際限がなかった。

今まで本で学んできた世界の向こう側に、まったく別の巨大な学問体系が広がっている。

そう理解した途端、胸の鼓動が速くなる。

「これは……面白い」

気づけば、笑みが消えなくなっていた。

 

余はすぐに机の脇に置かれた鈴を鳴らした。

遠くでかすかに足音が聞こえ、やがて先ほどの執事が再び書斎へ姿を見せる。戻ってくるまでの時間が妙に短かったところを見ると、どうやら扉の向こうで待機していたらしい。

「お呼びでしょうか」

「これを見たまえ」

羊皮紙を差し出すと、執事は両手で受け取って目を通し始めた。

当然、驚くだろうと思っていた。

空飛ぶ梟が運んできた、魔法学校への入学許可証なのだから。

ところが予想に反して、彼の表情に大きな変化はなかった。眉がほんの少し動いただけで、読み終えると何かを納得したように静かに頷いた。

その反応の方が、余にはよほど意外だった。

「知っていたのか?」

問いかけると、執事は一瞬だけ返答をためらった。

「学校については存じません。ただ、お父上からは以前より、ロベルト様が十一歳になられた頃に、何者かが訪ねてくる可能性があると申しつけられておりました」

「何者か?」

「はい。もし奇妙な手紙や訪問者があったとしても追い返さず、ロベルト様へお知らせするように、と」

そこまで聞いて、余は少し考え込んだ。

父はマグルだ。

魔法を使えるわけではないし、魔法界の住人でもない。それでも、余が幼い頃から見せていた不可解な現象を考えれば、何らかの事情を知る人物から接触を受けていた可能性は十分にある。

あるいは、すでにホグワーツ側から説明を受けていたのかもしれない。

「父は、ほかに何か言っていたか?」

「いいえ。ただ、ロベルト様ご自身がお決めになることだ、とだけ」

「そうか」

それ以上追及しても何も出そうになかった。

父が何を知っているかは、いずれ本人に聞けばよい。

今は目の前の方が重要だ。

余は便箋を一枚取り出し、入学の意思を簡潔に記した。前世の記憶があるとはいえ、未知の世界を目前にして辞退する理由など一つもない。

むしろ、この機会を逃すことの方が考えられなかった。

返書を書き終えて封筒へ入れ、窓辺で待っていた梟へ差し出すと、梟は慣れた動作でそれを嘴に咥えた。

窓を開けると、大きな翼が広がった。

羽ばたきとともに風が入り込み、机の上の紙が揺れる。梟はそのまま夕暮れの空へ舞い上がり、森の上を越えて、やがて点のように小さくなっていった。

余はしばらく窓辺に立ったまま、その姿を眺めていた。

これまで余にとって、森の向こう側は本の中にしか存在しなかった。

だが今、その向こうには魔法界がある。

自分が知らない社会があり、知らない技術があり、知らない生物が存在し、それらのすべてが現実として動いている。

そう思うだけで、世界そのものが昨日までとは違って見えた。

 

その日の夕刻、返事は思った以上に早く届いた。

同じ梟ではなかった。

今度は灰色の大型の梟が窓枠に降り立ち、先ほどよりも少し上質な封筒を落としていった。

内容は簡潔だった。

二日後、ホグワーツの教員が迎えに来る。

必要な学用品の購入についても、その教員が案内するという。

その一文を読んでから、余は教材一覧を改めて眺めた。

制服。

教科書。

大鍋。

ガラス瓶。

望遠鏡。

真鍮製の秤。

そして杖。

最後の一項で、指が止まった。

杖。

魔法使いが魔法を行使するための道具。

原作知識が正しければ、杖なしでも魔法は使える。しかし、少なくとも英国の魔法界では杖を使うことが一般的だったはずだ。

ならば杖とは何をしているのか。

単純な増幅器か。

魔力の指向性を整える装置なのか。

それとも呪文そのものの成立に不可欠な、より複雑な役割を持っているのか。

考え始めると、早く実物を手にしたくて仕方がなくなった。

二日。

たった二日なのに、妙に長く感じた。

 

約束の日。

朝から屋敷には、どことなく落ち着かない空気が漂っていた。

使用人たちは誰も口にはしなかったが、未知の訪問者を警戒しているらしい。

余自身も書斎に籠もる気にはなれず、予定時刻より少し早く玄関広間へ下りて待っていた。

時計の長針が十時を指した。

その瞬間。

玄関の扉が叩かれた。

三度。

正確で、無駄のない音だった。

執事が扉を開ける。

外に立っていた人物を見た瞬間、余は思わず目を細めた。

背が高い。

黒いローブを身にまとい、肩まで伸びた黒髪が青白い顔を縁取っている。

口元は不機嫌そうに引き結ばれ、その黒い瞳には、初対面の相手を歓迎するような色は欠片もなかった。

しかし、その人物を余は知っていた。

前世の知識の中で、かなり印象深い人物の一人だ。

セブルス・スネイプ。

まだ若い。

原作で見た頃よりも明らかに若いが、それでも纏っている雰囲気はほとんど変わらない。

「ミスター・フィッツロイ」

低い声。

確認というより、断定に近かった。

「はい」

「吾輩はセブルス・スネイプ。ホグワーツ魔法魔術学校で魔法薬学を担当している」

「本日はよろしくお願いいたします、スネイプ教授」

そう言って頭を下げると、スネイプの眉がほんの少し動いた。

「荷物は必要ありませんか?」

「今日は買い物だけだ。終わればここへ戻る」

「では手ぶらでいきます」

余がそう答えると、スネイプはローブの袖をわずかに差し出した。

「掴みたまえ」

「何をするのです?」

「説明を聞くより経験した方が早い」

面白い。

余はためらわず袖を掴んだ。

その瞬間だった。

身体全体が、突然極端に狭い場所へ押し込まれたような感覚に襲われた。

上下左右という概念が消え、肺から空気を絞り出されるような圧迫感が走る。身体が伸びているのか縮んでいるのかも分からず、視界も音も完全に失われた。

ほんの一瞬だったはずなのに、体感では妙に長い。

そして次の瞬間、すべてが元へ戻った。

足の裏に石畳の感触。

周囲には人の声。

鼻を突く煙と食べ物の匂い。

余はすぐに袖から手を離し、数度ゆっくり呼吸した。

「体調はどうかね」

「問題ありません」

スネイプがこちらを見る。

「初めてで吐かないのは珍しい」

「多少気持ち悪さはありますが、それ以上に興味深い」

「……興味深い?」

「今の移動です。移動中の距離感覚が完全に消えました。単純な高速移動ではないでしょう。身体を一度別の状態へ変換しているのか、それとも空間そのものを――」

「ミスター・フィッツロイ」

「はい」

「買い物をする時間は有限だ」

「つまり今は質問するな、と」

「ようやく理解したようだな」

それでも興奮は収まらなかった。

姿現し。

知識として知ってはいたが、実際に体験すると印象がまるで違う。

本当に空間転移が存在する。

この世界では、それが日常的な移動手段として使われている。

前世で物理学を少しでも学んだ人間なら、これを前にして冷静でいろという方が無理だろう。

余は周囲へ視線を巡らせた。

どうやらロンドンらしい。

ただし、目の前にあるのは古びた小さなパブだった。

看板には『漏れ鍋』。

いよいよだ。

 

漏れ鍋の中へ足を踏み入れると、外の街とは空気そのものが違っていた。

薄暗い店内には何人もの魔法使いらしい人々がいて、奇妙な色のローブを着た老人が酒を飲み、隅の席では派手な帽子を被った魔女が何かを話している。

こちらを見る者もいた。

十一歳の子供が珍しいわけではないはずなので、おそらくスネイプが目立つのだろう。

あるいは、余の服装か。

今日は普通のマグル服を着ている。

スネイプは誰とも話さず、そのまま裏口へ向かった。

煉瓦壁の前で杖を取り出す。

「よく見ておきたまえ」

そう言って、数個の煉瓦を順番に叩く。

すると煉瓦が動き出した。

最初は一つ。

次にその隣。

そこから波紋のように壁全体がずれ、やがて中央に通路が開いていく。

その向こう側に広がった光景を見た瞬間、余はしばらく言葉を失った。

細長い通り。

左右にはぎっしりと店が並び、頭上には無数の看板がぶら下がっている。

箒。

鍋。

薬草。

望遠鏡。

ローブ。

ふくろう。

本。

そして、どこからともなく聞こえてくる奇妙な鳴き声と、絶えず行き交う人々のざわめき。

「これが……」

知識としては知っていた。

名前も知っていた。

だが、実際に目にするとまるで違う。

「ダイアゴン横丁」

スネイプが淡々と告げる。

余はすぐに歩き出さず、しばらくその光景を眺めた。

魔法界。

本当に存在している。

それまで頭の中の知識に過ぎなかった世界が、匂いと音と温度を伴って目の前に広がっている。

その事実だけで、胸が熱くなった。

「行くぞ」

スネイプの声で我に返る。

「まず銀行だ」

通りを歩きながら、目に入るものを一つ残らず観察する。

店先で勝手に混ざっている鍋。

籠の中で動く植物。

窓辺に並べられた、こちらを目で追ってくる人形。

どういう仕組みだ。

どこまで自律している。

魔法によって動いているのなら、継続的に魔力を供給する必要はあるのか。

それとも一度術式を固定すれば動き続けるのか。

知りたいことが多すぎる。

視線をあちこちへ向けていたせいか、前を歩くスネイプが振り返った。

「迷子になるつもりか?」

「いえ。ただ、見るものが多いので」

「学校へ入れば嫌というほど見ることになる」

「それは楽しみです」

「その好奇心が爆発事故へ繋がらなければよいがな」

「可能性は否定しません」

「否定しろ」

その言い方が少しだけ面白く、余は小さく笑った。

やがて通りの先に、周囲の店とは明らかに雰囲気の違う白い建物が見えてきた。

巨大な扉。

その前に立つ、小柄な人影。

ゴブリン。

余は自然と歩みを緩めた。

前世では完全な架空生物だった存在が、今は数十メートル先に立っている。

「じろじろ見るものではない」

すぐにスネイプから注意が飛んだ。

「失礼しました」

もっとも、その言葉を聞いたところで興味が薄れるわけではない。

建物へ近づくにつれ、周囲の空気が少しずつ張りつめていくように感じた。

魔法による防護だろうか。

それとも単なる先入観か。

どちらなのかを確かめる術を、今の余はまだ持っていない。

それが少し悔しい。

重い扉をくぐり、グリンゴッツ魔法銀行の中へ入る。

中は外観以上に広かった。

高い天井の下に長いカウンターが並び、その向こうでは何十人ものゴブリンが羊皮紙へ文字を書き込み、金貨を数え、客と何やら話をしている。

羽根ペンの音。

硬貨が触れ合う金属音。

低く交わされる会話。

それらが石造りの空間に反響し、不思議な緊張感を生んでいた。

余は周囲を見回しながら、スネイプとともに空いている窓口へ向かった。

そこにいたゴブリンは、余を見るとほんの少し目を細めた。

「本日は如何されましたかな」

「英国ポンドを魔法界の通貨へ交換したい」

そう答えて、用意していた小切手を差し出す。

五千ポンド。

ゴブリンは受け取ると、まず表を見る。

次に裏。

光へ透かし、爪先で紙面を撫で、署名や番号を一つずつ確認していく。

「……問題ありません」

確認が終わる。

ほどなくして、カウンターの奥から金貨が運ばれてきた。

ガリオン金貨。

一枚取ってみる。

思っていたよりも重い。

表面に施された刻印は細かく、光を受けると微妙に色合いが変わって見える。

「1000ガリオンと3シックルになります」

一ガリオンは約五ポンド程度と考えてよさそうだ。

もちろん、購買力まで同じとは限らない。

魔法界の物価を把握するには、まだ情報が少なすぎる。

「口座をお作りになりますかな?」

「頼む」

ゴブリンが一枚の羊皮紙を取り出した。

契約書だろうと思ったが、表面には普通のインクとは違う、淡く光る線がいくつも走っていた。

「こちらへ手を」

指示された場所へ手を置く。

瞬間。

指先から何かが引き抜かれた。

「……」

痛みはない。

だが確かに、自分の内側にある何かが羊皮紙へ流れ込んだ。

魔力。

おそらくそうだ。

羊皮紙に刻まれた線が一斉に明るくなり、紙そのものが細かく震え始める。

そして、目の前で形が変わっていった。

縮む。

折れる。

重なる。

数秒後。

そこに残っていたのは、小さな金色の鍵だった。

余は思わず身を乗り出した。

「今の変化は不可逆なのか?」

「何ですかな?」

「この鍵は元の羊皮紙へ戻せるのかと聞いている」

ゴブリンは少し黙った。

「戻す必要がありますかな?」

「必要性の話ではない。可能かどうかが知りたい」

背後から、小さなため息が聞こえた。

「ミスター・フィッツロイ」

スネイプだった。

「はい」

「ここは研究室ではない」

「残念です」

「本気で残念そうな顔をするな」

余は鍵を受け取った。

指で触れると、表面の紋様が淡く光る。

おそらく所有者を識別している。

これも興味深い。

「100ガリオンを手元へ。残りは口座に入れてくれ」

ゴブリンの片眉が少し上がった。

「新入生にしては随分と大金ですな」

「必要になるかもしれない」

「何に?」

「本」

スネイプが横で目を閉じた。

「……それだけかね」

ゴブリンが聞く。

「器具や材料にも」

「なるほど」

どういう意味の納得かは分からない。

やがて百枚のガリオン金貨が革袋へ入れられ、残りは奥へ運ばれていった。

袋を受け取る。

ずしりと重い。

研究には金がかかる。

これは前世でも同じだった。

余は金色の鍵をポケットへしまいながら、この世界でもまずは資金管理が必要になるだろうと考えていた。

知識欲というものは、存外金食い虫なのだ。

 

グリンゴッツを出ると、外の陽射しが妙に明るく感じられた。

冷えた石造りの銀行内にしばらくいたせいもあるだろうが、それ以上に、手元にある革袋の重みが現実感を伴っていた。魔法界というものは、物語の中にある曖昧な場所ではない。銀行があり、通貨があり、契約があり、信用があり、その仕組みの上で社会が動いている。

当然といえば当然のことなのだが、実際にその中へ足を踏み入れると妙に感慨深い。

「次は制服だ」

前を歩くスネイプが振り返りもせずに言う。

「その後は?」

「教材、必要品、杖だ。順序にこだわりでもあるのかね?」

「ありません。ただ全体の予定を把握しておきたいだけです」

「十一歳の子供が予定管理とは随分とせわしないことだ」

通りは相変わらず賑やかだった。ローブ姿の親子連れが店を行き来し、頭上を何羽もの梟が横切っていく。店先では羽根ペンが勝手に文字を書き、別の店では積み上げられた鍋が客の呼び声に合わせるように小刻みに震えていた。

魔法界の人間にとってはありふれた光景なのだろうが、余にはすべてが観察対象だった。

やがて、スネイプが一軒の店の前で足を止める。

看板には、マダム・マルキンの洋装店とある。

扉を開けると鈴が軽やかに鳴り、店内から柔らかな布と香料の匂いが流れてきた。壁にはさまざまなローブが掛けられ、棚には色も質感も異なる布地が隙間なく積まれている。

奥から丸顔の婦人が現れ、余を見るなり親しげに笑った。

「まあ、ホグワーツの新入生ね?」

「はい」

「こちらへいらっしゃい。採寸してしまいましょう」

勧められるまま小さな台の上へ立つと、婦人が指を鳴らした。

その瞬間、机に置かれていた巻き尺がひとりでに飛び上がる。

首。

肩。

胸。

腕。

腰。

脚。

巻き尺はまるで生き物のように身体の周囲を走り回り、次々と寸法を測っていく。

「便利ですね」

「でしょう? 新入生はじっとしていられない子も多いので」

「確かに、人間が測るより誤差も少なそうだ」

婦人が少しだけ不思議そうな顔をした。

「誤差?」

「いえ、独り言です」

巻き尺はさらに顔の近くまでやってきて、耳の位置を測り、頭の周囲を一周し、最後には鼻先まで伸びてきた。

「そこまで必要なのですか?」

「念のためですよ」

「何の念だろうな」

小声で呟くと、背後からスネイプの低い声が飛んでくる。

「魔法界のすべてに理屈を求めるつもりか?」

「理屈があるなら知りたいだけです」

「ない場合は?」

「見つけます」

スネイプは何も答えなかった。

ただ、ほんのわずかに口元が動いたように見えた。

笑ったのかと思ったが、気のせいだろう。

採寸が終わると、今度は布が宙へ浮かんだ。

鋏が自動で動き、必要な長さに裁断し、それを追うように針が走る。糸は空中でほどけることもなく、まるで何本もの見えない手が同時に作業しているかのように、布地が少しずつローブの形へ変わっていった。

余はその工程をじっと観察した。

魔法による自動化。

人間が一つ一つ手を動かさずとも、適切な命令さえ与えれば道具が仕事をする。

単純作業であればあるほど、魔法との相性は良いらしい。前世なら機械を導入し、制御系を組み、電力を供給し、保守を考えなければならなかった。しかし魔法界では、杖一本でそれに近いことが成立している。

もし大量生産へ応用したらどうなるのか。労働力はどの程度削減できるのか。魔法で動く機械と、魔法使い本人が逐一呪文をかける場合では、どちらが効率的なのか。考え始めると、また別の疑問が浮かぶ。

魔法界に産業革命が起きなかったのは、魔法がそれを代替しているからではないか。いや、そもそも人口規模が違う。市場が小さければ大量生産の恩恵も限られる。

「坊ちゃん?」

声をかけられ、我に返る。いつの間にかローブは完成していた。

婦人に促され、鏡の前へ立つ。

黒いローブ。

胸元にはまだ寮章もない。

ただそれだけなのに、妙な感覚があった。

十一年間、余はこの世界に生まれながら、魔法使いとして生きてはいなかった。屋敷に閉じこもり、普通の本を読み、普通の器具を使い、普通の学問を学んできた。だが、鏡の中に立っている少年は、どう見ても魔法学校へ向かう新入生だった。

「……悪くない」

「よくお似合いですよ」

婦人が嬉しそうに言う。

「成長期ですから、少し余裕を持たせてあります。すぐ大きくなっても安心です」

「ありがとうございます」

代金を支払い、制服一式を受け取った。

店を出ると、再び荷物が増える。

まだ教科書も鍋も薬草も買っていない。

余は数歩歩いたところで、前方のスネイプへ声をかけた。

「教授」

「今度は何かね」

「魔法界には、内部が広くなっている鞄などはありませんか?」

スネイプが足を止め、肩越しにこちらを見る。

「内部拡張された鞄のことか」

「やはりあるのですか」

「当然だ」

「なら一つ欲しいのですが」

「学校指定品には含まれていない」

「指定されていないから買ってはいけない、という規則でも?」

一拍置いて、スネイプがこちらへ向き直る。

「金を浪費するなと言っている」

「必要な投資です」

「何が必要なのだね」

「本を運ぶのに」

スネイプの眉間に皺が寄った。

「教科書なら普通の鞄で足りる」

「教科書だけとは限りません」

「……」

嫌な予感でもしたのか、スネイプは何も言わずにしばらく余を見ていたが、やがて深く息を吐いた。

「ついて来たまえ」

通りを外れ、少し細い路地へ入る。

先ほどまでの賑わいが嘘のように人通りが少なくなり、何軒か古びた店が並んでいた。その中の一つ、看板が半ば傾いた店の前でスネイプが立ち止まる。

扉を開けると、古い革と埃の匂いがした。

店内には大小さまざまな鞄、袋、箱、トランクが積み上げられている。見た目だけなら古道具屋に近いが、よく見ると留め金に小さな文字が刻まれていたり、袋の口が呼吸するように動いていたりする。

奥から、白髭を蓄えた店主が顔を出した。

「いらっしゃい。何をお探しで?」

「容量拡張された鞄を」

余が答える。

店主は一瞬こちらを見て、それからスネイプへ視線を移した。

「新入生かい?」

「そうだ」

「ずいぶん贅沢だね」

「長く使うつもりです」

店主は面白そうに笑い、いくつか品を出してきた。

最初は革製の手提げ鞄だった。

見た目は普通だが、中へ腕を入れてみると肘を越えても底に届かない。

「容量は?」

「見た目の十倍ほど」

「重量軽減は?」

「なし」

却下。

次は布製の袋。

こちらは非常に軽いが、内部が一つの空間になっているため、物を大量に入れると取り出すのが面倒そうだった。

三つ目。

黒いトランク。

金具は古びているものの、造りは頑丈で、側面には細かな紋様が刻まれている。

「これは?」

「容量拡張、重量軽減、簡単な衝撃吸収、それから防水。学生ならこれで十分だろう」

「中を見ても?」

「どうぞ」

留め金を外す。

蓋を開けると、外見から想像したより遥かに深かった。

小さな階段がついており、その下に収納空間が広がっている。

「……これは良い」

降りてみる。

中は小部屋ほどの広さがあり、壁には棚まで設けられている。

教科書だけでなく、実験器具や薬草を分けて収納できる。

さらに余裕がある。

「これを買います」

「即決かい?」

「条件を満たしているので」

「普通は値段を先に聞くものだよ」

言われて、少し考える。

確かにその通りだ。

「いくらです?」

店主が金額を告げる。

思ったより高い。

だが払えない額ではない。

「買います」

横からスネイプが呆れたように言う。

「少しは悩んだらどうだね」

「必要なものに金を惜しんでも仕方ありません」

「君の言う必要なものがどこまで増えるのか、今から恐ろしいな」

支払いを済ませ、早速制服をトランクへ入れる。

蓋を閉めて持ち上げてみると、驚くほど軽い。

「中身の重量はどの程度反映される?」

店主は目を瞬いた。

「千分の一くらいだよ」

「完全には消えないのですね」

「消したら扱いにくいからね。空の箱みたいに風で飛んでいく」

なるほど理にかなっている。何でも極端にすれば便利になるわけではない。

「ありがとうございます」

トランクを手に店を出る。

これで荷物の問題は解決した。

そして次の目的地を見た瞬間、余の足は自然と速くなった。

フローリッシュ・アンド・ブロッツ書店。

扉を開けた瞬間、紙とインクの匂いが押し寄せてくる。

余はその場で足を止めた。

天井まで続く本棚。

左右にも本。

奥にも本。

二階へ続く階段の先にも、さらに本棚が見える。

通路を梯子が勝手に滑り、注文された本を棚から抜き取り、客の元へ運んでいた。

「……」

「どうした」

スネイプが後ろから入ってくる。

余はしばらく店内を眺めたあと、真面目に尋ねた。

「ここに住むことはできますか?」

「できん」

「まだ店主に確認していません」

「確認する必要もない」

「交渉次第では」

「教科書を買え」

冷たい声で切られた。

仕方なく、指定された本を一冊ずつ集めていく。

『基本呪文学』

『魔法史』

『魔法薬調合法』

『一千種の魔法薬草とキノコ』

『変身術入門』

『闇の力――護身術入門』

それぞれ手に取るたび、ページを開きたくなる衝動に駆られたが、ここで読み始めれば日が暮れるのでどうにか堪える。

教科書を揃え終えると、今度は指定外の棚へ目が向いた。

魔法薬。

呪文学。

変身術。

魔法生物。

古代ルーン。

占い。

錬金術。

魔法界の法律。

どの棚にも、知らない知識が詰まっている。

気づけば足が動いていた。

「ロベルト君」

背後から声。

「はい」

「どこへ行く」

「少し見るだけです」

「その台詞は信用できんな」

「何故です?」

「君の顔が、すでに少しでは済まない顔をしている」

鋭い。

余は苦笑しながら棚を眺めた。

その中で、ふと思いつく。

「スネイプ教授」

「何かね」

「おすすめの本はありますか?」

「何についてだ」

「魔法薬学を」

ほんの一瞬だけ、スネイプの視線が変わった。

「何故魔法薬だ」

「体系化しやすそうだからです」

「……ほう」

「材料、投入順序、温度、時間、攪拌回数。条件を固定すれば再現性を確認できる。呪文学や変身術より、初心者でも比較実験がしやすいように思えます」

スネイプは黙って聞いていた。

その沈黙が、先ほどまでとは少し違っている。

「本に書いてある手順を覚えれば十分だとは思わないのか?」

「思いません」

即答した。

「何故その手順でなければならないのかが分からなければ、条件を変えたときに何も判断できないでしょう」

「例えば?」

「刻み方を変えたら抽出速度が変わるのか。時計回りに混ぜるのと反時計回りに混ぜるので何が違うのか。材料を一つ先に入れた場合、どの段階で反応が変わるのか。そういうものを――」

「十分だ」

言葉を遮られた。

スネイプは棚の奥へ歩いていき、しばらく背表紙を眺めたあと、一冊の分厚い本を抜き取った。

鈍い緑色の装丁。

表紙には複雑な薬瓶と植物の図が描かれている。

『魔法薬学大全』

「これを読みたまえ」

受け取る。

重い。

教科書の倍以上ある。

「難しそうですね」

「当然だ。簡単なものを勧める理由がない」

「基礎から書いてありますか?」

「基礎を軽視する者ほど応用という言葉を好む」

余は表紙を撫でた。

良い。

実に良い。

「ありがとうございます」

そう言うと、スネイプは少しだけ目を細めた。

「礼を言うのは読み終えてからにしろ。理解できなければただの重しだ」

「なら理解します」

「その自信がどこから来るのか興味深いな」

「分からないものを分かるまで読むだけです」

「……そうか」

それ以上、スネイプは何も言わなかった。

だが、先ほどまでより少しだけこちらを見る目が変わった気がした。

指定教科書と『魔法薬学大全』をトランクへ収納する。

そして余は、さらに周囲の棚を見る。

まだ買いたい。非常に買いたいが先ほどのトランク代もある。

資金は有限だ。

そこで余は自分に言い聞かせた。

今日は我慢するが必要なら後でまた来ればよい。そう考えて店を出ようとしたところで、足が止まった。

入口脇の棚。

『現代呪文学理論』

しばらく眺める。

手に取る。

「ロベルト君」

「はい」

「戻せ」

「まだ何も言っていません」

「顔で分かる」

「一冊だけです」

「さっきも似たようなことを言っていたな」

結局、買った。

スネイプは何も言わなかった。

ただ、深いため息を一つついただけだった。

書店を出る頃には、余の気分はすこぶる良かった。

残るは杖。

通りを歩きながら、無意識に歩調が速くなる。

その様子に気づいたのか、スネイプが横目で見た。

「随分楽しそうだな」

「楽しみですから」

「杖一本でそこまで浮かれるものか」

「魔法を使うための主要な道具なのでしょう?」

「主要ではある」

「なら、構造も性質も気になります」

「君は何でも分解しそうだな」

「可能なら」

スネイプが足を止めた。

「忠告しておく」

「はい」

「杖は分解するな」

「なぜです?」

「そいうものだ」

そう言って、再び歩き出す。

しばらくして、周囲の華やかな店々から少し離れた場所に、小さく古びた店が見えてきた。

看板には金色の文字で、オリバンダーの店 紀元前382年創業 高級杖メーカー と書かれている。

扉を押す。チリン、と奥で鈴が鳴った。中は薄暗かった。

狭い店内の壁という壁に細長い箱が積み上げられ、それが天井近くまで続いている。古い木と埃、それにわずかに樹脂のような匂いが混ざった、独特の空気だった。

「いらっしゃいませ」

突然、奥から声がした。

気配がなかった。気づけば一人の老人が、数歩先に立っている。

銀色の瞳でまっすぐこちらを見ていた。

「ホグワーツの新入生ですね」

「はい。ロベルト・フィッツロイです」

「フィッツロイ……」

老人は少し考えるように名前を繰り返した。

「ご両親は魔法使いではありませんね」

「二人ともマグルです」

「なるほど」

それだけだった。

父の名を知っている様子も、母について何か知っている様子もない。当然だ。二人とも魔法界とは無縁なのだから。

老人は小さく頷いたあと、手を叩いた。

どこからともなく巻き尺が飛んでくる。

「またこれか」

思わず漏らす。

巻き尺が肩から腕の長さを測り、指先へ回り、頭の周囲を測っていく。

そして当然のように鼻へ伸びてくる。

「何故、魔法界の採寸は鼻を測るのです?」

「さあ」

老人は平然と答えた。

「私も長年やっていますが、必要だった試しはありません」

「ならやめればよいのでは?」

「巻き尺が勝手にやるので」

「……なるほど」

妙に納得してしまった。

やがて巻き尺が落ちる。

老人は棚へ向かい、一つ目の箱を取った。

「栗の木。ドラゴンの心臓の琴線。十二と四分の三インチ」

杖を渡される。

思ったより軽い。

「振って」

軽く振る。

ぱち、と先端が光った。

それだけ。

老人は即座に取り上げた。

「違うのお」

二本目。

「ドッグウッド。ユニコーンの立髪。十一インチ」

握った瞬間に違和感があり、しばらくして杖が手から弾け飛んだ。棚に当たり、箱が一つ落ちる。

「これも違う」

老人は楽しそうだった。

三本目。

「カラマツ。不死鳥の羽。十三インチ」

振る。

今度は杖先から強い風が吹き出し、積み上げられた箱が一斉に崩れた。

ドドドッ、と派手な音が響く。

余は少し固まった。

「……すみません」

「構わん」

老人はむしろ嬉しそうに目を輝かせていた。

「なるほど。これは面白い」

「何がです?」

「杖があなたを選びにくい」

「それは良いことですか?」

「良いとも悪いとも言えません。ただ、珍しい」

老人はそう言うと、店のさらに奥へ消えていった。

しばらくして戻ってきたとき、その手には埃を被った細長い箱があった。

蓋を開ける。

中には黒に近い、美しい木目の杖。

「ブラックウォルナット」

老人が静かに言う。

「芯はドラゴンの心臓の琴線。十三インチ。柔軟性はやや硬め」

差し出される。

余は手を伸ばした。

指が杖へ触れた瞬間。

身体の奥で、何かが噛み合った。

音がしたわけではない。

だが、確かにそう感じた。

これまで胸の奥に曖昧に存在していた何かが、突然輪郭を持つ。

腕。

掌。

指先。

そこへ一本の道ができたように、魔力が流れる。

呼吸が自然と深くなる。

「……これか」

呟く。

杖を握っただけなのに、これまで無意識に使っていた魔法とはまるで違う。

自分の中にある力が、どこへ向かおうとしているのかが分かる。

試しに軽く振る。

眩い光が杖先から広がり、暖かな風が店内を通り抜け、積み上げられた箱が小さく震える。

老人が満足そうに頷いた。

「ブラックウォルナットは、洞察力に富み、優れた本能を持つ者を好みます。ただし、少々気難しい」

「気難しい?」

「自分自身に嘘をつく主人を嫌うのですよ」

余は手の中の杖を見る。

「杖に好き嫌いがあるのですか?」

「もちろん」

老人は当然のように答える。

「杖が魔法使いを選ぶ。相性の悪い杖でも魔法は使えますが、本来の力は引き出せません」

道具ではない。

少なくとも、単なる道具ではないらしい。

「意思がある?」

「意思という言葉をどう定義するかによりますね」

良い答えだ。

余は少し笑った。

「気に入りました」

代金として十ガリオンを支払い、店を出る。

外へ出ても、杖は手に持ったままだった。

指先にしっくり馴染む。

軽いなのに、不思議な存在感がある。

今までの魔法は、偶然に近かった。

欲しいと思えば物が動き、感情が昂れば周囲が反応した。

しかしこれからは違う。

意図して使える。

学び、練習し、制御できる。

その可能性を思うと、自然と口元が緩む。

 

二人でダイアゴン横丁を歩く。

朝から始まった買い物も、ようやく終わりに近づいていた。

トランクには制服、教科書、魔法薬学の本、呪文学の本、鍋、秤、薬瓶、望遠鏡、羊皮紙、羽根ペン。

そして懐には杖。

昨日まで存在していなかったものばかりだ。

わずか数時間で、余の世界は驚くほど広がった。

そして何より恐ろしいことに――まだ入口に立っただけなのだ。

ホグワーツにはこれ以上の知識がある。

図書館がある。

教授がいる。

授業がある。

実際に魔法を使うことができる。

そう考えるだけで、胸の奥に抑えきれない期待が湧いてくる。

「帰るぞ」

スネイプが言った。

「はい」

差し出された袖を掴む。

今度は、先ほどより少しだけ余裕があった。

世界が潰れる直前、余はもう一度ダイアゴン横丁を振り返った。

すぐにまた来ることになるだろう。

それも、おそらくかなり頻繁に。

特に書店には。

そんな予感だけは、妙に確信があった。




初めて二次小説というのを書きました。
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