1989年8月 ロベルト
屋敷へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
姿現し特有の圧迫感から解放され、見慣れた玄関広間の床を踏んだ瞬間、余は無意識に肩を回した。二度目ともなれば多少は慣れるものの、あの移動方法を快適と評する気にはなれない。少なくとも、身体がどのような状態を経て移動しているのか理解するまでは、気味の悪さが残りそうだった。
「九月一日、キングズ・クロス駅。十一時発の列車に乗りたまえ。九と四分の三番線だ」
隣に立つスネイプが淡々と告げる。
そしてスネイプは玄関へ視線を向けたあと、最後にこちらを見た。
「ミスター・フィッツロイ」
先ほどまでの声の調子と少し違っていた。
「一つ忠告しておこう」
「はい」
「好奇心は、魔法を学ぶ上では悪い資質ではない」
意外な言葉だった。スネイプから、そんな肯定的な言葉が出てくるとは思わなかった。
「だが、理解していないものを、理解したつもりで扱う者は愚か者だ。特に魔法薬では、その手の愚か者が鍋を爆発させ、周囲まで巻き込む」
「つまり、実験するなら基礎を理解してからにしろ、と」
「少しは話が通じるようだな」
「肝に銘じます」
余が頭を下げると、スネイプはしばらくこちらを見つめていたが、やがて黒いローブを翻した。
「では九月一日に」
「今日はありがとうございました、教授」
「礼を言うのは、問題を起こさず入学式まで辿り着いてからにしたまえ」
「努力します」
「努力ではなく、そうしろ」
そう言い残し、スネイプは玄関を出た。
数歩進んだところで姿が消え、乾いた破裂音だけが残る。
余は閉じられた扉をしばらく見つめた。
想像していたより、ずっとまともな教師だ。
性格に難があるのは間違いないが、少なくとも生徒の安全や学習そのものには真面目らしい。
そして何より、魔法薬について聞いたときの反応。
あれは、少し面白かった。
教科書を暗記するだけではなく、その背後にある理由を知ろうとする姿勢そのものは、嫌っていないように見えた。
「ホグワーツか」
改めて呟く。
ますます楽しみになってきた。
そのときだった。
「ロベルト様」
執事の声。
振り返る。
「何だ」
「その……お客様が」
「客?」
父母ですら来ないこの屋敷へ、今日だけで二人目の訪問者とは珍しい。
「誰だ?」
「それが……」
執事の表情がおかしい。
怯えているというより、どう説明したものか困っている顔だ。
「人ではございません」
その言葉を聞いた瞬間、余は嫌な予感より先に興味を覚えた。
「案内しろ」
「こちらでございます」
執事について廊下を進み、応接室へ向かう。
扉を開ける。
最初に目に入ったのは暖炉だった。
その前に、小さな影が立っている。
子供ほどの背丈。
いや、もっと小さい。
痩せ細った腕と脚。
身体に比して大きすぎる頭。
横へ広がった、蝙蝠を思わせる耳。
そして何より印象的なのは、顔の大半を占めるほど大きな目だった。
粗末な布切れのようなものを身にまとったその生き物は、余を見るなり飛び上がるように姿勢を正し、次の瞬間には床へ額がつくほど深々と頭を下げた。
「ロベルト・フィッツロイご主人様!」
甲高い声が部屋に響く。
「ペンと申します! 本日よりご主人様へお仕えいたします!」
やはり屋敷しもべ妖精だ。
知識としては知っていたが、実物を見ると想像以上に奇妙な生物だった。
余はすぐには返事をせず、目の前の妖精を観察した。
衣服らしいものは、古い布袋に穴を開けただけのように見える。裸足で、指は長く、身体そのものはひどく華奢だが、纏っている雰囲気は人間の子供とは明らかに違う。
そして何より、何となく感じ取れるようになった魔力の気配が、かなり濃い。
小柄な身体に似合わない。
「顔を上げろ」
「はい!」
ペンが勢いよく顔を上げる。
「誰から命じられてここへ来た?」
その質問をした途端、ペンの表情が固まった。
「……」
「答えられないのか?」
「い、いえ……」
視線が泳ぐ。
「ペンにも、分からないのでございます」
「分からない?」
「はい。ペンは気がつきましたら、このお屋敷の玄関前に立っておりました。それ以前にどこにいたのか、誰にお仕えしていたのか……何も思い出せないのでございます」
余は眉を寄せた。
「自分の名前は覚えている」
「はい」
「屋敷しもべ妖精であることも?」
「もちろんでございます」
「魔法は使える?」
「はい!」
返事と同時に、ペンが小さく指を鳴らした。
パチン。
部屋の中央に置かれていた花瓶がふわりと浮き上がり、空中を一周して元の位置へ戻る。
杖は使っていない。
呪文も唱えていない。
余は思わず目を細めた。
「もう一度」
「はい?」
「今の魔法を、もう一度やりたまえ」
「かしこまりました!」
再び指が鳴る。
花瓶が浮く。
動く。
戻る。
極めて滑らかだ。
子供の無意識魔法とは違う。
明確に制御されている。
「杖はいらないのか?」
「ペンたち屋敷しもべ妖精は杖を使いません」
「呪文も?」
「使わなくてもできます」
「なるほど」
これは非常に面白い。
魔法使いは杖を使う。
屋敷しもべ妖精は使わない。
ならば杖は、魔法そのものの発動に必須ではない。
種族によって魔法体系そのものが違う可能性もある。
さらに言えば、同じ結果を生み出すのに異なる経路が存在しているかもしれない。
「ロベルト様?」
執事の声で我に返った。
どうやら、しばらく黙っていたらしい。
「悪い。考え事をしていた」
ペンへ視線を戻す。
「つまり、自分がどこから来たか分からない。それでも余に仕えることだけは分かっている、と?」
「はい。ペンのご主人様はロベルト・フィッツロイ様でございます」
「誰がそう決めた?」
「……分かりません」
「契約か何かは?」
「ペンにも分かりません」
不審だ。
あまりにも都合が良すぎる。
記憶を失った屋敷しもべ妖精が、突然自分の前に現れ、忠誠を誓っている。
罠である可能性を考えるべきだろう。
だが、その場合も不可解だった。
余は十一歳。魔法界へ入ったばかりで狙われる理由がない。
フィッツロイ家の財産が目的なら、わざわざ魔法生物を送り込む必要もあるまい。
「ペン」
「はい!」
「余に危害を加えるつもりは?」
ペンの顔から血の気が引いた。
「そ、そのような! ペンがご主人様へ危害など! ペンはそのような恐ろしいことを考えたことすら――」
「分かった。落ち着け」
放っておけば床へ頭を打ちつけ始めそうな勢いだった。少なくとも、今の反応を見る限り、演技には見えない。もっとも、魔法の世界で見た目だけを信用するのは危険だろう。調べる手段はいずれ探す。
「まあ良い」
現段階で追い出す必要はない。
むしろ、屋敷しもべ妖精という存在について直接知る機会は貴重だ。
「執事」
「はい」
「今後、余の身の回りの世話は基本的にペンへ任せる。必要なことを引き継いでおけ」
「承知いたしました」
答えた執事の表情に、一瞬だけ明らかな安堵が浮かんだ。余の世話から解放されるのが嬉しいらしい。
それはそれとしてもう一つ気になるものがある。
「ペン」
「はい、ご主人様!」
「その格好は何だ」
ペンが自分の身体を見る。
「ペンの服でございます!」
「布袋にしか見えない」
「屋敷しもべ妖精の立派な装いでございます!」
立派。
価値観の相違というものは恐ろしい。
「いただけぬな」
そう言った瞬間。
ペンの身体が硬直した。
耳がぺたりと下がり、大きな目にみるみる涙が溜まっていく。
「……どうした」
「ご、ご主人様は……」
声が震えている。
「ペンを……お気に召さないのでございますか?」
「服の話だ」
「ペンは至らぬ妖精……ご主人様のお目にかなわず……ついにお暇を……」
「待て」
床へ崩れ落ちる。
「ペンは捨てられるのでございますぅ……!」
「違うと言っている」
「ううう……」
「ペン」
少し強い声を出すと、妖精が涙目のまま顔を上げた。
「余はお前を解雇すると言ったか?」
「……いいえ」
「では勝手に話を進めるな」
「はい……」
「その服を変えろ、と言っただけだ」
「服を……?」
「ああ。少なくとも屋敷の中で余の身の回りに仕えるなら、身なりくらい整えろ。執事のような格好でよい」
「……」
ペンが固まる。
数秒。
理解が追いついたらしい。
「ペンは……まだご主人様にお仕えしてよろしいのでございますか?」
「最初からそう言っている」
「捨てない?」
「捨てぬ」
次の瞬間。
「ご主人様ぁぁぁ!」
飛びついてきた。
「おい」
小さな身体が脚へしがみつく。
「ありがとうございます! ペンは一生ご主人様にお仕えいたします!」
「分かったから離れろ」
「はい!」
勢いよく離れる。
涙を袖で拭う。
いや、袖ではない。
布袋だ。
「では着替えてこい」
「はい!」
パチン。
空気が小さく弾けた。
ペンの姿が消える。
余は一瞬目を見開いた。
「……今のは」
姿現し。
いや。
似ているが、先ほどスネイプに連れられて移動したときとは明らかに違う。
圧迫感も空間の歪みも感じなかった。
単純に、その場から消えたように見えた。
数秒後。
再び破裂音。
ペンが現れる。
「お待たせいたしました!」
今度は全く違う姿だった。
白いシャツ。
黒い上着。
小さなベスト。
蝶ネクタイ。
細身のズボン。
靴まで履いている。
まるで小さな執事だ。
「……」
似合っている。
非常に。
「どうでございましょう?」
不安そうにこちらを見る。
余は一度上から下まで眺め、頷いた。
「うむ。その方が良い」
その一言だけで、ペンの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
また泣きそうになっている。
感情の振れ幅が大きすぎる。
「それから、先ほどの移動をもう一度見せろ」
「はい?」
「消えただろう」
「妖精の移動魔法でございます」
「屋敷の中ならどこへでも?」
「はい!」
「屋外は?」
「行けます」
「ダイアゴン横丁は?」
「もちろんでございます!」
「ホグワーツは?」
その質問をすると、ペンは少し困った顔をした。
「ホグワーツには強い魔法がかかっておりますので、普通の魔法使いでは姿現しできません。ですが、屋敷しもべ妖精の魔法なら入れる場所もございます」
「……」
非常に重要な情報だ。
つまり、魔法使いに適用される制限が、屋敷しもべ妖精には通じない場合がある。
同じ「転移」でも、やはり仕組みそのものが違う。
「ご主人様?」
「ペン」
「はい」
「今後、余が質問したことには可能な限り正確に答えろ。分からないことは分からないと言え」
「かしこまりました!」
「知ったかぶりはするな」
「知ったかぶり?」
「知らないのに知っているふりをすることだ」
「ペンはいたしません!」
「ならよい」
これは使える。いや、使えるという表現は少々問題があるかもしれない。だが少なくとも、魔法界についてほとんど知識のない余にとって、ペンは極めて重要な情報源になり得る。
何より。
「ペン」
「はい!」
「ダイアゴン横丁へ連れて行けると言ったな?」
「はい!」
「いつでも?」
「ご主人様がお望みなら!」
「そうか」
思わず笑みが浮かぶ。
書店。
薬草店。
魔法薬の材料。
必要になれば、わざわざ誰かの付き添いを頼む必要もない。
「良い」
「?」
「非常に良い」
ペンは理由が分からず首を傾げていたが、余にはすでに今後の予定が見え始めていた。
翌朝。
午前六時。
「ペン」
呼ぶ。
パチン。
「お呼びでしょうか!」
一秒もかからない。
「紅茶を。それと昨日買った『基本呪文学』を持ってきてくれ」
「かしこまりました!」
再び消える。
少しして、紅茶と本を持って現れた。
「早いな」
「ペンはご主人様のお役に立てることが幸せでございます!」
「そうか」
紅茶を受け取り、本を開く。
昨日まで机の上にあったのはマグルの学問書だった。
今日からは違う。
そこに書かれているのは、魔法。
まずは基礎から。
ホグワーツ入学まで残り一か月もない。
学校へ行ってから初めて杖を振るという選択肢もあるが、そんな悠長なことをするつもりはなかった。
指定教科書を読み進める。
最初に載っていたのは、非常に単純な呪文。
杖先に光を灯す。
「ルーモス」
杖を構える。
発音。
杖の向き。
意識。
本に書かれた通りにする。
「ルーモス」
ぽっ。
杖先に白い光が灯った。
「……」
あまりにも簡単に成功したので、逆に拍子抜けした。
ペンが大きな目を輝かせる。
「ご主人様、すごいです!」
「初歩呪文だろう?」
「初めてで成功されました!」
「そうなのか?」
「普通は何度も練習するものでございます!」
なるほど。なら、少し条件を変えてみる。
発音を意図的に崩す。
「ルーモス」
光る。
ただし先ほどより弱い。
次は杖の動きを変える。
それでも光る。
完全に無言で、光を思い浮かべながら杖を構える。
「……」
何も起こらない。
もう一度。
やはり駄目。
余は羊皮紙を取り出した。
《ルーモス》
一、正規発音・正規動作――成功。
二、発音変化――成功。ただし光量低下。
三、杖動作変化――成功。
四、無言――失敗。
ペンが横から覗き込む。
「何をなさっているので?」
「記録だ」
「何の?」
「条件を変えたときに結果がどう変わるか」
「……?」
理解できていない。
無理もない。
「同じ呪文でも、発音や動きを変えたときに同じ結果になるか確認している」
「どうしてそんなことを?」
「何故そのやり方で魔法が出るのか知りたいからだ」
ペンがしばらく余を見つめる。
「ご主人様は変わっておられますね!」
「よく言われる」
その日一日、余は教科書に載っている初歩呪文を一つずつ試した。
浮遊。
小物の移動。
簡単な変形。
成功するもの。失敗するもの。不安定なもの。
そして必ず条件を少し変える。
杖の動き。
発音。
集中の仕方。
対象までの距離。
杖先の向き。
一つの呪文につき十数回。
場合によっては数十回。
夕方には、机の上に羊皮紙が何枚も積み上がっていた。
その横で、ペンが呆れたような顔をしている。
「ご主人様」
「何だ」
「ホグワーツに行けば先生が教えてくださるのでは?」
「もちろん教えるだろう」
「では、今そんなにやらなくても……」
余は顔を上げる。
「ペン」
「はい」
「明日試せることを、何故一か月後まで待つ必要がある?」
「……」
ペンが考え込む。
「ございません?」
「そういうことだ」
納得したのかしていないのか分からない顔で頷いた。
三日目からは魔法薬へ手を出した。
スネイプから勧められた『魔法薬学大全』は、予想以上に良い本だった。
ただのレシピ集ではない。
材料の性質、保存条件、組み合わせによる変化、加熱時の注意点など、基礎的な内容からかなり詳しく書かれている。
それでも、余には不満があった。
「何故だ」
ページを見つめる。
《時計回りに三回混ぜること》
理由が書いていない。
次のページ。
《火から下ろしたあと、七秒以内に月命石の粉末を投入すること》
これも理由がない。
さらに読む。
《材料は細かく刻まず、粗く刻む》
何故。
説明がない。
「……気になる」
教科書としては正しいのかもしれない。
初心者に必要なのは、まず失敗しない手順を覚えることだ。
しかし、それだけでは満足できない。
「ペン」
「はい!」
「鍋を五つ」
「五つ?」
「同じものを作る」
「五回作るのでございますか?」
「違う。同時に五つ作る」
ペンの顔に、嫌な予感が浮かんだ。
「ご主人様?」
「条件を変える」
「スネイプ教授という方が、危ないことをなさらないようにと……」
「危険な条件は変えない」
「本当でございますか?」
「多分」
「ご主人様!」
仕方ない。
「火力、材料量、投入順は固定する。変えるのは攪拌回数だけだ」
「それなら……」
「一回、二回、三回、四回、五回」
ペンが鍋を並べる。
同じ材料。
同じ量。
同じ温度。
同じ投入時刻。
そして攪拌回数だけを変える。
一時間後。
五つの鍋には、わずかに異なる色の液体が並んでいた。
三回が最も鮮やか。
二回は少し濁る。
四回は粘度が高い。
一回と五回では明らかな沈殿。
つまり「三回」という指定には、少なくとも意味がある。
問題は、なぜ三回なのか。
攪拌による混合度だけの問題なら、回数が多い方が均一になるはずだ。
だが、そうなっていない。
ならば物理的混合とは別の要因がある。
「魔法的な反応そのものに、回転回数が影響している?」
羊皮紙へ書く。
次は回転方向。
別の日には刻み方。
その次は温度。
失敗もした。
一度など、鍋から紫色の煙が噴き上がり、部屋中が腐った卵のような臭いに包まれた。
ペンが慌てて窓を全部開ける。
「ご主人様!」
「失敗だな」
「そんな落ち着いている場合ではございません!」
「毒性は?」
「分かりません!」
「なら吸わない方がよいな」
「先に逃げてくださいませ!」
その後、実験室の換気を強化した。
スネイプの忠告は正しかった。
魔法薬は、下手をすれば本当に危険だ。
だからこそ、条件管理が重要になる。
材料がなくなれば、ペンに頼んでダイアゴン横丁へ行った。
「ペン」
「はい!」
「材料が尽きた。それと本も」
ペンの耳が少し下がる。
「またでございますか?」
「必要だ」
「前回も必要とおっしゃって九十五冊買われました」
「今回は少ない」
「何冊でございます?」
「五十冊程度だ」
「……」
何故黙る。
ペンの手を取る。
次の瞬間。
パチン。
景色が変わった。
スネイプの姿現しとはまるで違う。
締めつけられるような感覚がない。
気づけば目的地へ立っている。
「やはり違うな」
「何がでございます?」
「魔法使いの姿現しと、お前の移動だ」
「そうなのですか?」
「少なくとも体感は全く違う」
歩きながら考える。
もし術式が違うなら、ホグワーツの姿現し防止結界を妖精が無視できる理由も説明できる。
一つの防御魔法が、すべての転移魔法を封じるのではない。
特定の方式だけを阻害している。
ならば魔法というものにも、分類可能な系統がある。
その可能性を思うと、自然と足が速くなる。
フローリッシュ・アンド・ブロッツの店主とは、数回通ううちに顔見知りになった。
そして四度目の訪問。
余が籠へ本を入れていると、店主がとうとう止めに来た。
「坊ちゃん」
「何だ」
「少し相談がある」
「本なら買うぞ」
「そこなんだよ」
妙に疲れた顔をしている。
「同じ分野の本を棚から全部持っていくのはやめてくれないか」
「金は払っている」
「金の問題じゃない。他のお客さんが買えなくなる」
「補充すればよい」
「すぐには入らない本もあるんだよ」
「なら取り寄せてくれ」
「……」
店主が額を押さえた。
「坊ちゃん、ホグワーツ一年生だよな?」
「九月から」
「何で高等魔法薬学の本まで買うんだ?」
「いずれ必要になる」
「七年後くらいにね」
「なら今読んでも損はない」
「理解できるのか?」
「まだ分からない」
店主が一瞬黙り、それから笑った。
「分からないのに買うのか」
「分からないから買う」
そう答えると、店主は何故かしばらく余を見つめたあと、諦めたように両手を上げた。
「分かった。違う棚からも買ってくれよ」
仕方ない。
そうして日々は過ぎていった。
朝起きれば本を読み、午前中は呪文を試し、午後は魔法薬か理論書を読み、夜にはその日の結果を整理する。
机の周囲には羊皮紙が増え続けた。
《発声と呪文強度の関係》
《杖動作の必要性》
《対象距離による成功率》
《魔法薬における攪拌回数》
《屋敷しもべ妖精の移動魔法と姿現しの差異》
まだ仮説と呼ぶにも粗いものばかりだったが、それでも、ただ本を読むだけの生活とはまるで違った。
試して結果が返ってくる。予想と違えば理由を考え、新しい条件を設定する。また試す。前世で研究をしていた頃と同じだ。いや、それ以上かもしれない。前世の研究では、分からないことがあっても実験設備や予算、時間、倫理上の制約など、さまざまな壁があった。もちろんこの世界にも制約はあるが扱っている対象そのものが未知なのだ。何を調べても新しく何を見ても疑問が生まれる。これほど面白いことはない。
ある夜。
「ご主人様」
机に向かっていた余へ、ペンが声をかけた。
「何だ」
「もう夜中でございます」
「知っている」
「明日は早いのでございます」
「何かあったか?」
ペンが大きな目を瞬かせる。
「……ご主人様」
「何だ」
「明日は九月一日でございます」
手が止まった。
机の上の時計を見る。
午前零時を少し回ったところ。
「……そうか」
いつの間にか、そこまで来ていた。
一か月。
長いようで短かった。
椅子から立ち上がる。
窓の外には、暗い森が広がっている。
十一年間。
余はこの屋敷の中で生きてきた。
外へ出ることはほとんどなく、本を通して世界を知った。
それでも不満はなかった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
だがホグワーツから手紙が届いてからの一か月で、その認識は少し変わった。
知らないものを、本で知ることはできるが、実際に見ることとは違う。
ダイアゴン横丁の喧騒。
ゴブリンの声。
杖を握ったときの感覚。
魔法薬が色を変える瞬間。
ペンが何の前触れもなく消える光景。
どれも、文章だけでは得られなかった。
明日からは、それが日常になる。
ホグワーツ。魔法使いの学校。そこには自分以外の魔法使いがいる。
教師がいる。授業がある。図書館がある。そして、今の余が知らない魔法が、おそらく何百、何千と存在する。
不思議なことに、不安はほとんどなかった。胸の中にあるのは、ただ期待だけだった。
「ペン」
「はい」
「荷物は?」
「すべてトランクにお入れしております。制服も、教科書も、鍋も、薬瓶も、望遠鏡もございます」
「余分の羊皮紙は?」
「三百束ございます」
「インクは?」
「六瓶」
「魔法薬の材料は?」
「学校指定分と、ご主人様が勝手にお買いになった分もございます」
「勝手に、は余計だ」
「申し訳ございません!」
「いや、構わん」
杖を手に取る。
ブラックウォルナットにドラゴンの心臓の琴線、十三インチ。
一か月使い続けたことで、最初の日よりもずっと手に馴染んでいる。
軽く握るだけで、魔力が指先へ集まる感覚が分かる。
余は杖をゆっくり回した。
「ご主人様」
「何だ」
「楽しみでございますか?」
少し考え、笑う。
「ああ」
それ以外の答えはなかった。
「非常にな」
机の上に開きっぱなしになっていた本を閉じる。乾いた音が、静かな書斎へ響いた。
明日、余は初めて、この屋敷を離れて学校へ行く。
学生になるのは二度目だ。前世では大学院まで行った。まさか転生して、十一歳から学校生活をやり直すとは思わなかった。
だが、悪くない。むしろ今回は、前世よりずっと面白そうだ。何しろ学ぶのは魔法なのだから。
窓の外を見る。森の向こう。さらにその先に、ホグワーツがある。
どれほどの本があるのだろう。どれほどの呪文があるのだろう。
そして、この世界の魔法使いたちは、どこまで魔法というものを理解しているのだろう。
もしすでにすべて解明されているのなら、それを学べばいい。まだ分かっていないことがあるなら、自分で調べればいい。答えがないなら見つければいい。
胸の奥に、静かだが確かな熱が宿る。
「待っていろ、ホグワーツ」
杖先を窓へ向ける。
「この世界の魔法が、いったい何なのか」
淡い光が灯った。
「余が全部、確かめてやる」
入学初日にラボを作る主人公