1989年11月 ロベルト
ある日、図書館の奥で一冊の奇妙な本を見つけた。
『魔法構造観察術――不可視術式の可視化と解析』
題名を見た瞬間、足が止まった。
それは、今まで余が魔法を見るたびに抱いてきた疑問を、そのまま題名にしたような本だった。
すぐに棚から抜き出し、近くの机へ持っていく。
知識圧縮術式を使えば、本に書かれている内容を記憶へ取り込むこと自体は一瞬だった。しかし今回は、内容を記憶した直後から、その意味をじっくり考えることになった。
かなり古い本だった。
現在ではほとんど使われなくなった魔法観測の技法をまとめた研究書らしく、その中には現代の教科書では見たことのない方法がいくつも載っている。
そのうち、特に余の目を引いたのが、魔法の痕跡そのものを視覚化するための観測法だった。
まず、特定の時刻に採取したマンドレイクの葉を乾燥させ、ほとんど光を通すほど薄い膜へ加工する。その膜を通過させた光を、今度はエルンペントの角から削り出した特殊なレンズへ導く。さらにレンズ表面へ複数の魔法薬処理を施し、最後に観測者自身の魔力を微量に流し込んで共鳴状態を作る。
その状態で周囲を観察すると、通常の人間の視覚では捉えられない魔法の痕跡が、色や光の線として知覚できるようになるという。
著者は、それを「魔法的残響」と呼んでいた。
さらに装置を細かく調整し、観測者の魔力との共鳴精度を高めることができれば、過去に使われた魔法の痕跡だけではなく、現在も機能している術式の一部まで直接観察できる可能性があるとも記されていた。
余は椅子へ深く腰を下ろし、その意味を考えた。
今までにも、魔法の結果そのものなら何度も見てきた。《ルーモス》なら光が生まれるし、《アクシオ》なら離れた物体が飛んでくる。変身術を使えば、物体の形や性質そのものが別のものへ変化する。
しかし、それらはすべて結果である。
余が本当に知りたいのは、結果の前に何が起きているのかだった。
もし、この観測方法が本当に機能するならば、魔法によって起きた現象を見るのではなく、その現象を生み出している途中の仕組みを直接観察できるかもしれない。
そして、何より。
今いる場所はホグワーツである。
千年近い年月をかけて、無数の魔法使いが魔法を積み重ねてきた城だ。
何故か勝手に移動する階段があり、肖像画の中の人物が記憶を持って会話し、扉が自分の意思でも持っているかのように開閉する。外から測った広さと中へ入ったあとの広さが一致しない部屋もあれば、魔法使いの姿現しを城全体で封じる防御魔法も存在する。
誰も気にしていないような廊下にさえ、何らかの魔法が埋め込まれている可能性がある。
もし、それらを目で見ることができるならば。
「……試さない理由がないな」
結論が出るまで、ほとんど時間は必要なかった。
ラボへ戻ると、扉を閉め、いつものように名を呼ぶ。
「ペン」
パチン、と小さな破裂音がして、黒い執事服を着た小さな屋敷しもべ妖精が何もなかった空間へ現れた。
「お呼びでしょうか、ご主人様!」
「材料が欲しい」
用意しておいた羊皮紙を渡す。
ペンはそれを両手で受け取ると、書かれている項目を一つずつ読み上げ始めた。
「エルンペントの角、マンドレイクの葉、月長石粉末、銀線、透明水晶板、それからマグル製の光学用研磨剤……」
そこまで読むと、ペンがゆっくり顔を上げた。
「ご主人様」
「何だ」
「何をお作りになるのでございますか?」
「眼鏡」
ペンはしばらく黙った。
「……眼鏡にエルンペントの角が必要なのでございますか?」
「普通の眼鏡ではない」
その瞬間。
ペンの大きな目に、わずかな不安の色が浮かんだ。
「ご主人様の『普通ではない』は、ペンは少々怖いのでございます」
「失礼な」
「先週も『普通ではない実験』でラボの天井に穴が開きました」
「小さい穴だった」
「ペンが直すのに三時間かかったのでございます!」
「今回は開かない」
「前回もそうおっしゃいました!」
どうも信用されていない。
三日後。
必要な材料がすべて揃った。
そこから、観測器の製作を始めた。
マンドレイクの葉を加工して光を通す膜を作り、エルンペントの角を少しずつ削ってレンズへ仕上げていく。
この角が想像以上に厄介だった。
削り出す角度によって、魔力を通したときの屈折特性が微妙に変わるのである。厚すぎれば像が大きく歪み、薄くしすぎれば物理的な強度が足りず簡単に割れてしまう。
そこで、何枚も試作品を作った。
月命石の粉末を混ぜた研磨剤で表面を整え、銀線を使って観測者の魔力をレンズへ均等に流す経路を作る。
試作品一号では、観測対象が左右へ二重に見えた。
二号では、魔力を流した瞬間に世界全体が鮮やかな青色に染まり、装置を外したあともしばらく青い残像が消えなかった。
三号ではようやく魔法らしき光を捉えることができたものの、五分ほど使っただけで強い吐き気に襲われた。
そして四号。
ようやく、少なくとも数十分は使用できるものが完成した。
見た目だけなら、異様に分厚い眼鏡だった。
ただ、実際にラボ内で観測眼鏡を使ってみると、また新しい問題が見つかった。
眼鏡そのものは、期待していた以上の性能を発揮していた。マンドレイクの葉とエルンペントの角を加工して作ったレンズへ魔力を流すと、通常の視覚では認識できない魔力の流れや、物体へ残された魔法的残響が、淡い光や色の濃淡として視界へ浮かび上がる。これまで結果としてしか見ることのできなかった魔法について、その内部構造らしきものを直接観察できるようになったという点では、実験は明らかに成功していた。
問題は、それと同時に普通の景色まで見えてしまうことだった。
人間の眼は当然ながら、周囲から入ってくる可視光によって机や壁、本棚といった通常の景色を認識している。その視界へ観測眼鏡によって変換された魔法的情報が重なると、強い魔法の痕跡ならともかく、微弱な残響や細い魔力経路は通常の景色へ紛れ込んでしまい、非常に見分けにくくなる。特に明るい場所ではその傾向が顕著で、せっかく観測できるようになった魔法構造の細部が、壁の模様や物体の輪郭に埋もれてしまった。
「外乱が大きいな」
試しにラボの照明をすべて消してみる。
途端に観測像が鮮明になった。
肉眼によって認識される机や壁の輪郭が暗闇へ沈む一方で、観測眼鏡が捉えている魔法的残響はほとんど変化せず、その結果、それまで背景へ埋もれていた細い魔力の筋まで明瞭に浮かび上がったのである。
どうやら問題は眼鏡の性能ではなく、通常の視覚と魔法的視覚が同時に存在していることらしい。
ならば解決方法は単純である。
普通の光だけを見えなくすればいい。
余は最初、頭から厚い黒布を被ってみた。
これなら可視光を完全に遮ることができるため、少なくとも通常の視覚が観測を邪魔することはなくなる。ところが、布を被った瞬間、期待に反して魔法的残響の像まで急激に弱くなり、ほとんど何も見えなくなってしまった。
「……駄目か」
布を外す。
再び魔法的残響が見える。
もう一度被る。
消える。
何度か繰り返してみたが、結果は同じだった。
どうやら観測眼鏡は、単純に装着者の脳へ魔法構造の情報を直接送り込んでいるわけではないらしい。外界に存在する何らかの魔法的情報をレンズが受け取り、それを人間が視覚として認識できる状態へ変換している。そのため、眼鏡と観測対象の間へ布を挟むと、可視光だけでなく、レンズが拾っている魔法的情報まで大きく減衰してしまうようだった。
ならば、可視光だけを遮断し、魔法的情報は通過させる物質を探せばいい。
そこから余は、ラボにあるものを片端から試した。
紙は駄目だった。木板も駄目だった。革も布ほどではないものの、観測像が大きく弱くなる。ガラスは魔法的情報をよく通すが、当然ながら可視光まで通してしまうので意味がない。色を付けたガラスや煤を塗った板なども試してみたが、可視光を十分に遮断できるほど厚くすると、今度は魔法的情報まで弱くなった。
どうにも都合が悪い。
可視光を通さない物質は、魔法的情報まで一緒に遮断する傾向があるらしい。
「何かないか……」
余は観測眼鏡をかけたまま、ラボの中を見回した。
そのとき、部屋の隅に置かれていた鉄製のバケツが目に入った。
以前、実験用の水を運ぶために用意したものだったが、最近は使っていない。
何となく手に取る。
当然ながら、向こう側は見えない。
鉄板なのだから当たり前である。
それでも、これまでの結果を考えれば、試すだけなら数秒で済む。
余はバケツを逆さにすると、そのまま頭からすっぽり被った。
完全な暗闇になった。
鉄板には穴も開いていない。覗き窓もなければ、光が入るような隙間もない。普通ならば、これで何かが見えるはずはなかった。
ところが。
「……ん?」
見えた。
余は一瞬、自分が何を見ているのか理解できなかった。
目の前には鉄板があるはずなのに、その鉄板そのものが視界から消えている。
代わりに、バケツの向こう側にあるラボの魔法構造が、暗闇の中へ鮮明に浮かび上がっていた。
机の形そのものは見えない。しかし、その表面へ残っている変身術の痕跡が淡い光となって見える。本棚に並んでいる本の色や題名は分からないが、そのうち何冊かに施されている保存魔法は、それぞれ細い線となって浮かんでいる。
壁へ視線を向ける。
もちろん、実際にはバケツの内側にある鉄板を見ているだけのはずである。
それなのに、そのさらに向こう側に存在するラボの壁へ施した空間拡張術式が、幾重にも重なった光の構造としてはっきり見えていた。
「……どういうことだ?」
余はバケツを外した。
普通のラボが見える。
もう一度被る。
可視光による景色が消え、魔法的構造だけが現れる。
外す。
普通の視界。
被る。
魔法的視界。
何度繰り返しても同じだった。
「鉄は遮断しないのか……いや、違うな」
先ほどまで試していた物質との違いを考える。
もし鉄が単純に魔法的情報を素通ししているだけなら、眼鏡を通して鉄板そのものの魔法的構造も見えてよいはずである。ところが、実際にはバケツそのものはほとんど視界へ現れず、その向こう側にある魔法構造だけが妙に鮮明になっている。
それどころか、眼鏡だけを使用していたときより見やすい。
普通の可視光が完全に遮断されているからというだけでは説明できないほど、微弱な魔法的残響まで明瞭になっていた。
どうやら鉄と観測レンズの間で、何らかの魔法的相互作用が起きているらしい。
観測眼鏡に使ったエルンペントの角、マンドレイクの葉、月長石粉末、銀線のうち、どれが鉄へ反応しているのかは分からない。あるいは個々の素材ではなく、それらを組み合わせた観測術式全体が、閉鎖された鉄製空間へ入ったことで別の状態へ移行した可能性もある。
理由はまだ分からない。
だが、現象そのものは明確だった。
鉄製のバケツを頭から完全に被ると、通常の可視光は物理的に遮断される。それにもかかわらず、観測眼鏡による魔法的視覚だけは鉄を越えて外界へ届き、むしろ余計な視覚情報がなくなったことで、魔法構造だけを極めて鮮明に見ることができる。
「……面白いな」
本来ならば、ここで鉄の厚さを変え、材質を変え、形状を変え、どの条件でこの現象が成立するのかを調べるべきである。
非常に調べたい。
だが、それを始めれば、今度は観測器を完成させるという本来の目的から確実に逸れる。
余は少し迷ったあと、羊皮紙へ《鉄製閉鎖空間における観測術式の透過性変化》とだけ書き残し、この問題については後日改めて調べることにした。
今重要なのは、この現象が使えるということだった。
余は改めて鉄製のバケツを手に取った。
加工する必要すら、ほとんどない。
観測眼鏡をかけ、その上から鉄バケツを頭へすっぽり被る。それだけで、通常の視覚情報を完全に遮断しながら、魔法的構造だけを見ることができる。
あとは歩いている最中に落ちないよう、革紐だけ取り付ければ十分だった。
数分後。
完成した。
余は観測眼鏡をかけ、その上から鉄バケツを頭へ被った。
ラボの景色が消え、代わりに壁や床を走る魔法構造だけが暗闇の中へ浮かび上がる。左右を向いても問題なく周囲の魔力構造を把握でき、少なくとも魔法の存在するホグワーツ城内を歩き回るだけなら、通常の視界がなくても支障はなさそうだった。
性能は申し分ない。
「……完璧だ」
後ろでは、ペンが何とも言えない顔をしている。
「ご主人様」
「何だ」
「申し上げてもよろしいでしょうか?」
「うむ」
「大変、怪しゅうございます」
「機能には関係ない」
外見など、研究結果には何の影響も与えない。
重要なのは、この装置で本当に魔法を見ることができるかどうかだ。
最初の観測対象には、レイブンクロー塔の壁を選んだ。
肉眼で見れば、ただの古い石壁である。灰色の石が規則正しく積み上げられ、長い年月の中で表面の角がわずかに摩耗している。
それ以上のものには見えない。
余は観測器を被り、レンズへ少量の魔力を流して共鳴状態を作った。
焦点を合わせる。
そして、同じ壁を見る。
「……!」
思わず息を呑んだ。
そこに見えたものは、さきほどまで目の前にあった石壁とはまったく違っていた。
石の表面を透かすようにして、淡く発光する無数の線が壁の奥へ浮かび上がっている。
数本どころではない。
数十、いや、場所によっては数百もの細い光が縦横へ伸び、途中で枝分かれし、別の光と交差し、しばらく並行して走ったあと、再び異なる方向へ分かれていく。
直線だけではなかった。
円形の構造もあれば、螺旋状に絡み合っている部分もある。複数の幾何学模様が重なり合い、その交点には他より強く光る結節点のような場所まで見えた。
それを見て最初に思い浮かんだのは、血管ではなく神経網だった。
「……これが魔法か」
もちろん、正確には魔法そのものを見ているわけではない。
術式が形成している魔力経路や、それによって残された魔法的構造を、観測器が人間の目で捉えられる光として変換しているだけなのだろう。
それでも十分だった。
今まで結果しか見ることのできなかった魔法について、初めてその内部構造の一部を直接観察できている。
その事実だけで、胸が高鳴った。
次に向かったのは、以前からずっと気になっていた動く階段だった。
何故動くのか。
いつ動くのか。
誰かが操作しているのか。
一定時間ごとに切り替わっているのか。
それとも、時間以外にも条件があるのか。
以前、余はその周期を調べるために三時間ほど廊下へ寝転がり、階段がいつ、どの方向へ移動するかを記録したことがある。しかし、そのときには明確な周期を発見できなかった。
観測器を通して階段を見ると、その理由が少し分かった。
階段の周囲には、巨大な環状術式が幾重にも重なっていた。
単純に「何分経過したら移動する」というような一つの制御魔法ではない。
術式の中には、現在位置と思われる情報を扱っている部分があり、別の部分では時間が参照されている。そのほかにも、周囲にいる人間の位置や人数らしき情報が入り込んでおり、おそらく階段を利用している人間の目的地に関する判定まで行われている。
まだ読めない部分の方が遥かに多い。
だが、それだけでも十分だった。
「なるほど……だから単純な周期ではなかったのか」
時間だけを測定しても規則性が出なかったのは当然である。
ならば、今度は階段周囲の人数や、生徒が向かおうとしている方向、時刻なども変数として記録すればよい。
余は持っていた羊皮紙へ、《階段移動条件の再解析》と新しい研究項目を書き加えた。
また一つ、やることが増えた。
そこからは止まらなかった。
城の中を歩きながら、今まで何度も通った場所を片端から観測器越しに見ていった。
隠し扉。
肖像画。
廊下。
床。
窓。
天井。
同じ場所のはずなのに、観測器を通すだけで、ホグワーツはまったく別の姿を見せた。
ある廊下には、人間の認識をわずかに逸らす術式が施されていた。
そこには普通の扉がある。
視界にも入っている。
それなのに、何となくそこへ注意が向かず、意識して探さなければ存在そのものを見落としてしまう。
別の場所では、空間そのものをわずかに折り曲げているような魔法構造が見つかった。外から測った寸法と中へ入ったあとの広さが一致しない場所があるのは、この種の術式が使われているからなのかもしれない。
そして、何より興味深かったのが、同じ場所へ異なる時代の魔法が何層にも重なっていることだった。
一番下には、おそらく創設時に近い時代へ作られた非常に古い術式がある。その一部が損傷した場所には、数百年後に別形式の魔法で補修が施されている。さらにその上から追加機能らしき魔法が重ねられ、もっと新しい時代には、その全体を安定させる別の術式まで付け足されている。
つまり、ホグワーツは一つの設計図に基づき、一人の設計者が一度に完成させた建物ではない。
創設者たちが最初の基礎を作り、その後の校長、教師、生徒、あるいは名前さえ残っていない無数の魔法使いたちが、何百年、千年近い時間をかけて手を加え続けてきた。
誰かが新しい魔法を作る。
誰かが壊れたものを直す。
誰かが便利な機能を追加する。
誰かが実験に失敗する。
その失敗した術式が完全には撤去されず放置され、数百年後の誰かが、その上へ別の魔法を重ねる。
そうしたものが、無数に積み重なっている。
「……ホグワーツは建物じゃないな」
廊下の中央で、思わず呟いた。
少なくとも、単なる建築物と呼ぶには複雑すぎる。
巨大な魔法体系。
城全体が一つの巨大な魔法装置だ。
最初はそう考えた。
しかし、観察を続けているうちに、「装置」という表現さえ少し違うように感じ始めた。
普通の装置であれば、一人ないし複数の設計者がいて、ある程度統一された構造に基づいて作られ、目的も明確である。
だが、ホグワーツは違う。
千年近い時間の中で少しずつ形を変え、古い機能を残したまま新しいものを加え、壊れれば別の方法で修復され、もはや何のために作られたのか誰も知らないような術式でさえ、完全には消えず城の一部として残っている。
異なる時代、異なる理論、異なる魔法使いによって作られた無数の術式が互いに干渉し、ときには補完し合いながら、今も城全体を動かしている。
「巨大な魔法生物みたいだな」
その表現の方が、余にはしっくりきた。
壁の内部を流れる無数の魔力経路を血管に例えることもできるし、各所で情報を処理している複雑な制御術式は神経網のようにも見える。階段や扉は外部へ働きかける手足に近く、城全体を覆う防御魔法は、侵入者を拒む免疫機構のように捉えることもできる。
もちろん、本当にホグワーツが一個の生命体であるという証拠があるわけではない。
現時点では、単なる比喩にすぎない。
それでも、観測器越しに城内を走る無数の魔力の線を見ていると、まるで巨大な何かが静かに呼吸し、長い周期で脈を打っているような錯覚を覚えた。
ホグワーツは、余が想像していたより遥かに複雑だった。
そして、その複雑さは、どうしようもなく美しかった。
観察を続けていたある日、レイブンクロー塔の上部で妙な魔法反応を見つけた。
肉眼では、そこには普通の石壁しかない。
しかし観測器越しに見ると、壁の一部だけへ、周囲とは明らかに異なる術式がかけられている。
どうやら認識を逸らす魔法らしい。
意識してそこを見ているはずなのに、何となく視線を別の場所へ移したくなる。
「ほう」
近づいて壁へ触れてみる。
見た目は周囲と同じ石なのに、手へ返ってくる感触が僅かに違った。
軽く押してみると、ほんの少し動く。
さらに力を加える。
すると壁の一部が、音もなくゆっくり内側へ開いた。
扉だった。
その向こうには、小さな書斎が隠されていた。
室内には長い年月の間に積もった厚い埃があり、古い木製の机と椅子、いくつかの書架が残されている。
そして、机や棚の上には大量の羊皮紙が置かれていた。
一枚を手に取る。
書かれている日付は、二百年以上前だった。
内容を確認する。
変身術についての研究。
別の羊皮紙には呪文学。
さらに別の束には、実験の失敗記録、未完成の術式、途中までしか検証されていない仮説、実験条件、結果に対する考察まで残されていた。
「……素晴らしい」
思わず声が漏れた。
どうやら、何百年も前のレイブンクロー生が、ここを自分だけの研究室として使っていたらしい。
そして、その人物が残した研究記録が。
誰にも読まれないまま。
数百年。
ここに残っている。
それから数日の間、余は空き時間ができるたび、この書斎へ通うようになった。
残されていた資料を一つずつ読み込み、自分用の複製を作り、内容ごとに分類する。引用されている文献が今の図書館にも残っていればそれを探し、未完成の術式については、どの段階で理論が破綻しているのかを考える。
当然ながら。
また研究課題が増えた。
それが嬉しかった。
そして別の日。
二階の女子トイレ付近を観測しながら歩いていると、床の下へ向かって、これまで見たものとは明らかに規模の違う魔法痕が伸びていることに気づいた。
他の術式とは比べものにならないほど巨大で、非常に古い。
それでいて魔力構造そのものは今も強く残っており、その存在を隠すための術式まで何重にも重ねられている。
「……これは」
見覚えがあるわけではない。
だが、何であるかは知っている。
前世の記憶にある。
秘密の部屋。
サラザール・スリザリンがホグワーツのどこかへ作った、隠された空間。
そして、その中にいるものも知っている。
バジリスク。
余はしばらく、観測器越しに床の奥へ伸びていく魔法痕を眺めた。
千年近く前の術式が、今もこれほど明確な構造を保っている。
入口はどのような条件で開くのか。
内部空間は物理的に城の地下へ存在しているのか、それとも空間そのものを拡張しているのか。
何故これほど長期間、魔法が崩壊せず維持されているのか。
そして、中にいるバジリスクは、どうやって千年近く生存しているのか。
疑問は次から次へと出てくる。
非常に調べたい。
入口の開閉機構も知りたい。
サラザール・スリザリンが千年前にどのような空間魔法を使ったのかも、可能なら直接観察したい。
しかし。
「……今はやめよう」
しばらく考えた末に、自分へそう言い聞かせた。
知的好奇心は大切だ。
余にとっては、かなり重要だ。
だが、知的好奇心と自殺願望は別物である。
秘密の部屋にいるのは巨大な蛇であり、しかも、その目を直接見れば死ぬ。
今の余には、バジリスクを安全に観察するための十分な対策がない。
この状態で入口を刺激し、もし何かの拍子に部屋が開き、中からバジリスクが出てくるようなことがあれば、研究どころではなくなる。
ならば、今は保留でいい。
まず遠隔観測の方法を作る。
次に、バジリスクの視線を直接受けずに内部を調べる方法を考える。
必要ならば、即座に退避できる仕組みも用意する。
そのあとで調べればいい。
その程度の判断力は、余にもある。
たぶん。
そうして鉄バケツを頭へ被ったまま、城内の魔法構造を観察していたある日のことだった。
廊下の壁へ浮かび上がる術式を見ていると、後ろから聞き覚えのある声がした。
「そこで何してるの?」
余は観測器から目を離さないまま答えた。
「水星と金星の距離を測っている」
「……ここ、屋内だよ」
「そうだね」
数秒ほど沈黙が続いた。
今の声。
どこかで聞いたことがある。
振り返ってみるが、鉄バケツの正面に取り付けた観測窓は普通の視界にはあまり向いていないため、相手の顔がよく見えない。
「ああ、セドリックじゃないか」
「ええと……誰?」
「余だよ」
「誰?」
仕方なく、鉄バケツを両手で持ち上げた。
「ロベルト」
セドリックの顔が固まった。
「ロベルト!?」
「久しぶり」
「何してるの、その格好!」
「今説明しただろう」
「説明になってないよ!」
何故だ。
十分に説明したつもりだった。
仕方がないので、今度は観測器そのものを指差して説明する。
「このレンズを使うと、通常の視覚では認識できない魔法構造を観察できるんだ。ただし、外部光量と周囲の魔力揺らぎを一定に保たないと観測像が乱れる。元の文献では太陽や惑星の位置を基準として補正する方法が使われているが、屋内ではそれを直接参照できないから補助術式で条件を再現して――」
「何でバケツなの?」
途中で遮られた。
「一番安定した」
セドリックが口元を押さえた。
肩が震えている。
「……笑っているな?」
「ご、ごめん。でも……」
どうやら耐えられなかったらしい。
壁へ身体を預け、そのまま腹を抱えて笑い始めた。
「だって、ロベルト……その格好で、ものすごく真面目な顔して……!」
「実験中なのだから真面目なのは当然だろう」
「ねえ、知ってる?」
「何を」
「最近、君のこと『鉄バケツ卿』って呼んでる人がいるよ」
「鉄バケツ卿」
一度、口に出してみる。
思っていたより悪くない。
むしろ、意外と語呂がいい。
「いいね。気に入った」
「気に入るの!?」
「博士号は持っていないから、卿くらいがちょうどよい」
「何の話?」
「こちらの話だ」
前世では大学院生だった。
博士号を取る前に死んだ。
ならば、博士ではない。
卿くらいでちょうどいいだろう。
何故かセドリックは、さらに笑った。
こうして話すのも久しぶりだった。
同じ一年生ではあるものの、寮が違えば授業以外で顔を合わせる機会は思っていたより少ない。しかも最近の余は大広間で食事を取らず、ラボに籠もっていることも増えていた。
「そういえば最近、大広間にいないとき結構あるよね」
「ラボで食べている」
「友達と食べないの?」
「ペンが持ってきてくれるから」
「ペン?」
そこで気づいた。
少し口が滑った。
「誰?」
「屋敷しもべ妖精だ」
「ホグワーツにいるの?」
「たまに」
「どうやって入ってるの?」
余は一瞬だけ考えた。
「……そこは研究中だ」
完全な嘘ではない。
ペンが何故ホグワーツの防御を無視して転移できるのか、その仕組みは本当に研究中である。
ただし、教師に無断で屋敷しもべ妖精を何度も城へ出入りさせ、そのうえ外から実験材料まで運び込ませていることについては、こちらから説明する必要はない。
セドリックは少し怪訝そうな顔をしていたが、しばらく余の顔を見たあと、
「まあ、ロベルトだからいいか」
と、何故か納得した。
どうしてそれで納得できるのか、余にも分からない。
「それより、本当にほどほどにね。変な実験して先生に怒られないように」
「善処する」
「それ、絶対また何かする人の言い方だよ」
「ではまた」
「うん。バイバイ、鉄バケツ卿」
「バイバイ」
セドリックが去っていくのを見送った。
良いやつだ。
レイブンクローの同級生たちは、最近何故か余と少し距離を置くようになった。
その理由はよく分からない。
先週は談話室で三冊の本を同時に読んでいただけである。
その前にはラボで小規模な爆発が一度起きたが、壁が少し焦げただけだった。
夜中にゴーストの温度を測っているところを見られたこともあるし、動く階段の移動条件を調べるために廊下へ三時間ほど寝転がっていたこともある。
その程度だ。
「……何故だろう」
本当に分からない。
その点、セドリックは余を見ても普通に話してくれる。
ありがたい。
余は再び鉄バケツを被ると、何事もなかったように魔法構造の観測を再開した。