1989年11月 ロベルト
順調に進んでいた研究生活にも、やがてかなり大きな障害が現れた。
禁書区域である。
ホグワーツの図書館の奥には、教師の許可がなければ生徒が入ることを許されていない区域がある。
最初にその存在を知ったときには、それほど気にしていなかった。
どうせ危険な魔法についての専門書が置かれているのだろう。
ホグワーツには七年間通う予定なのだから、今すぐ読まなくても、いずれ機会はある。
そう考えていた。
ところが、一般書架にある専門書を読み進めれば読み進めるほど、その考えを維持することが難しくなっていった。
例えば精神魔術についての本を読んでいると、最も興味深い部分に差しかかったところで、
禁書棚にある本が参考資料として書かれている。
最初の一、二回なら無視できた。
どうせいずれ読める。
そう自分へ言い聞かせればいい。
しかし、それが五回、十回、二十回と続くうちに、次第に我慢できなくなってきた。
何度も、最も知りたいところへ差しかかった瞬間に「続きは禁書」で終わる。
そうなれば、当然気になる。
一体、何が書かれているのか。
そもそも何故、そこまで厳しく制限されているのか。
危険だから、という説明だけでは足りない。
何が危険なのだ。
そこに書かれた呪文そのものが危険なのか。
それとも、知識そのものに何らかの作用があるのか。
読むだけで精神へ影響する種類の魔術でも載っているのか。
あるいは、単純に強力すぎる技術なので、生徒が実践することを防ぐために制限しているだけなのか。
分からない。
そして、分からないとなれば。
知りたい。
「……読みたい」
当然、最初に考えたのは正規の方法だった。
マクゴナガル先生へ許可を申請する。
ただ、その場面を想像してみる。
「何故、この本を読む必要があるのです?」
おそらく、そう聞かれる。
余の答えは決まっている。
「知りたいからです」
そして。
おそらく却下される。
一年生が闇の魔術の専門書を読む理由として、「知りたいから」はあまりにも説得力が弱い。
ならば、別の方法を考えればいい。
そこで思い出したのが、レイブンクローの古い書斎で見つけた遠隔共鳴魔法だった。
二つの物体へ同一の魔法標識を刻み、一方へ加えられた魔法的変化を、離れた場所にあるもう一方へ共鳴させる技術である。本来は、離れた場所で同一条件の実験を行ったり、一方の変化を遠隔地で観測したりするために使われていたらしい。
これを改良できないだろうか。
余自身が禁書区域へ入る必要はない。
小さな中継機だけを禁書区域へ送り込み、その中継機を通して本をスキャンし、得られた情報だけをこちらへ送ればよい。
理屈だけを言えば単純だった。
実装は、まったく単純ではなかった。
最初に問題になったのは距離である。
次に、図書館の分厚い石壁。
さらに図書館そのものへ施されている魔法や、ホグワーツ全体を常に流れている大量の魔力が、遠隔共鳴術式に対してノイズとして入り込んでくる。
そして何より厄介だったのが、禁書区域そのものへかけられている防護魔法だった。
試作一号は、通信が途中で完全に途切れた。
二号では、送られてくる文字列の半分近くが欠落した。
三号では別の本と共鳴してしまい、一度など闇の魔術についての資料を読み取ろうとしていたはずなのに、突然頭の中へ、
《ドラゴン肉は弱火で三時間ほど煮込み、月桂樹の葉を――》
という文章が流れ込んできた。
「違う」
思わず声に出した。
どうやら、まったく別の場所にある料理本へ共鳴したらしい。
何故そんな遠くの料理本へ繋がったのかは、それはそれで興味深い問題だった。
だが、今調べるべきことではない。
余は二週間かけて術式を調整した。
共鳴周波数の幅を狭め、中継機側へ魔力安定器を追加し、情報の流れを原則として一方向へ限定する。無関係な魔法信号との共鳴を減らすためのフィルターも追加し、ホグワーツ内部の魔力揺らぎに対しては自動で補正する機構まで組み込んだ。
何度も失敗し、そのたびに魔法式を書き直す。
そうして、ようやく形になった。
余は完成した小さな金属球を手のひらへ載せた。
これが中継機本体である。
ただし、このまま小さな金属球を図書館の床へ転がしていたら、誰かに見つかったときに目立つ。
ならば、変身術を使えばいい。
杖を振る。
手のひらの上にあった金属球が小さく変形し、六本の細い脚と翅、触角を備えた黄金色の甲虫になった。
机の上へ置いて動かしてみる。
右へ進ませ、左へ曲げ、途中で停止させる。
命令どおり動く。
遠隔共鳴術式との接続も切れていない。
「よし」
その日の夜。
余は図書館から人が減る時間を待って、一般書架の奥にある机へ腰を下ろした。
自分自身は、禁書区域へ近づかない。
黄金虫だけを床へ下ろす。
小さな虫は本棚の影へ入り込み、誰にも気づかれないまま奥へ進んでいく。
余は目を閉じ、中継術式へ意識を集中した。
黄金虫がどこにいるのか、距離と方向が感覚として伝わってくる。
数メートル進む。
さらに奥へ。
やがて、禁書区域を囲っている柵の前へ到達した。
黄金虫が通れるだけの隙間はある。
黄金虫を進ませる。
小さな金属製の身体が柵の隙間を抜け、禁書区域の暗がりへ入った瞬間、自分の心臓が少し速くなったのを感じた。
黄金虫が最初の一冊へ近づく。
革張りの背表紙には、
『精神侵蝕呪術論』
と記されていた。
題名からして、普通の本ではない。
黄金虫を本へ接触させる。
中継術式を起動。
書物の内容をスキャン。
知識圧縮術式へ送信。
圧縮された情報をこちら側で受け取り、記憶領域へ展開する。
そして、本の内容が頭の中へ流れ込んできた瞬間。
余は思わず息を止めた。
これまで読んできた魔術書とは、明らかに違った。
闇の魔術。
前世でその言葉を聞いたときに抱いていたイメージは、どこか単純なものだった。
人を傷つけるための呪文。
苦しめる魔法。
呪い。
殺人。
そうした危険な魔法をひとまとめにした分野。
だが、実際に専門書を読んでみると、それだけではなかった。
そこには明確な理論があり、体系があった。
人間の感情が、魔力の出力へどのような影響を与えるのか。
恐怖、憎悪、執着、苦痛といった感情を、単なる精神状態として扱うのではなく、術式を成立させるための条件として利用する理論。
対象へ呪いを固定する方法。
術者がその場を離れたあとも、魔法そのものが自律的に効果を維持し続ける構造。
術式内部へ条件分岐を埋め込み、特定の行動を取った者に対してのみ効果を発生させる技術。
さらに、時間の経過、血縁、名前、所有関係、契約といった情報を利用して、魔法が特定の対象を識別する方法まで論じられている。
読み進めるほど、その危険性も理解できた。
これは単に、「使い方を間違えると危険」という種類の知識ではない。
目的を持って正確に使えば、人間を非常に効率よく傷つけ、精神を侵食し、本人が気づかないまま長期間影響を残すことさえできる。
だから禁じられている。
その理由は理解できる。
だが、それと同時に。
理論そのものは驚くほど高度だった。
「……面白い」
自然と声が漏れた。
黄金虫を次の本へ移す。
『魂と魔術的自己同一性』
魂。
ゴーストについて調べているときにも、何度も出てきた概念だった。
それまでの余にとって、魂という言葉は、魔法界では当然のように使われているにもかかわらず、実際には定義がかなり曖昧なものだった。
ゴーストは死者本人なのか。
それとも、死者の魂から分離した一部なのか。
記憶を持っていることと、その人物本人であることは同じなのか。
肉体が失われたあとも自己同一性を維持できるなら、それを維持しているものは何なのか。
この本では、そうした問いがかなり体系的に扱われていた。
魂と肉体の関係、死後に残るもの、自己同一性を維持する条件、魂を外部物体へ固定しようとした古い研究と、その成功例や失敗例。
そして、読み進めていくうちに、議論はさらに危険な領域へ入っていった。
魂の分割。
その言葉を認識した瞬間。
思考が一度止まった。
知っている。
前世の記憶にある。
分霊箱。
ヴォルデモートが自分の魂を分割して作ったもの。
物語としてなら知っていた。
しかし、それを魔術理論として読むことは、まったく別の経験だった。
そもそも何をもって「魂」と定義するのか。
魂のどの部分が損傷すれば、分割可能な状態になるのか。
何故、その過程に殺人という行為が必要になるのか。
殺人という行為そのものが魂へ不可逆的な変化を与えるのか、それとも殺人時に生じる特殊な魔力状態を術式が利用しているのか。
分離した魂をどうやって外部物体へ定着させるのか。
外部へ固定された魂の断片と、本体側に残った魂はどのような関係を維持するのか。
そこには理論があった。
詳細な仮説があった。
そして、その理論へ至るまでの過去の失敗記録さえ残されていた。
読むほどに、恐ろしさが増した。
これは単純な不死の魔法ではない。
自分という存在そのものを意図的に破壊し、その壊れた状態を利用して、それでも死を回避しようとする技術だ。
実践する気などまったくない。
むしろ、内容を理解すればするほど、絶対にやりたくないと思う。
それでも。
理論として眺めれば。
「……美しい」
思わず呟いた。
もちろん、魂を引き裂く行為そのものが美しいわけではない。
殺人が素晴らしいのでもない。
余が美しいと思ったのは、その理論構造だった。
精神、魂、肉体、魔力、そして死。
それまで互いに関係はあるのだろうと思いながらも、別々の研究分野として見ていた概念が、一つの体系の中で接続されている。
単なる哲学的な比喩ではない。
実際の魔法現象として、それらが相互作用している。
その構造が、恐ろしいほど整っていた。
黄金虫をさらに別の本へ移した。
そこには、呪いを術者から独立させて自律的に維持する方法が書かれていた。
次の本には感情への干渉。
さらに別の文献には、血液を媒介にして魔法的な自己同一性を判定する仕組み、契約によって複数の人間を魔法的に結びつける方法、名前そのものを対象固定へ利用する術式などが記されていた。
一つの本を理解するたび、それが別の知識へ繋がっていく。
マクゴナガル先生から聞いた変身術の安定性についての説明。
フリットウィック教授が授業で説明していた呪文固定の理論。
スネイプ教授が語った、魔法薬の調合へ術者の精神状態が与える影響。
ゴーストを観察したときに得た記録。
ペンの転移魔法。
一見するとまったく無関係だったそれらの間に、少しずつ共通する何かが見え始めていた。
まだ輪郭しか見えない。
仮説と呼べるほど整理されてもいない。
それでも、昨日までは存在にすら気づかなかった繋がりが、今は確かに見えている。
余はそこで初めて、禁書区域という場所に対する認識そのものを改めることになった。
ここは、単純に「悪い呪文が置いてある棚」ではない。
魔法社会が、危険性が高いため広く知られるべきではないと判断した知識を隔離している場所なのだ。
その判断には、当然理由がある。
知らなければ実行できない危険な魔術は確かに存在する。
何も知らない未熟な生徒が中途半端に理解し、好奇心だけで実践すれば、大きな事故へ繋がる可能性もある。
だから制限する。
その考え方そのものは理解できる。
しかし、「危険だから知らない方がよい」という考えと、「危険だからこそ、その仕組みを理解しておくべきだ」という考えの間には、大きな隔たりがある。
前世で原子核反応について学んだからといって、核兵器を作りたいと思ったわけではない。
毒物が人体へどのように作用するかを知ったからといって、人を毒殺したいと思うわけでもない。
感染症がどのように広がり、どうやって細胞へ感染するのか理解したからといって、それを誰かへ撒き散らしたいわけでもない。
知識そのものに善悪があるのか。
それとも、知識を何のために、どう使うかという人間の行為に善悪があるのか。
もちろん、実際にはそれほど単純に二つへ分けられる問題ではないだろう。
知識を広く公開することで新しい危険が生まれる場合もあるし、逆に危険なものを誰も理解していないため、対策できなくなる場合もある。
知識を持つ者には責任が生じる。
誰にでも無条件にすべて教えればよいという話でもない。
それでもなお余にとって、「危険だから知ってはいけない」という一言だけでは、到底納得できなかった。
何が危険なのか。
どう危険なのか。
どの条件で危険になるのか。
どこまでなら安全に扱えるのか。
何故この知識だけが制限され、別の知識は制限されていないのか。
その判断自体は妥当なのか。
それを考えるためにも、まず知る必要がある。
「……もっと知りたい」
自然に言葉が出た。
黄金虫が次の頁へ進む。
新しい情報が、中継術式を通して頭の中へ流れ込んでくる。
新しい概念を一つ理解すると、それが既存の知識へ繋がる。
昨日まで説明できなかった現象に、今日は一つの仮説を立てられるようになる。
そして一つの答えを得ると、その答えによって問題が消えるのではなく、むしろ新しい疑問が増えていく。
何故、この種の魔法は特定の感情を必要とするのか。
何故、ある呪いは術者が死んだあとでさえ残るのか。
何故、魔法は血縁関係を判定できるのか。
そもそも魔法は、何をもって二人の人間を「同じ家系」と識別しているのか。
血液なのか。
魂なのか。
肉体なのか。
記憶なのか。
名前なのか。
あるいは、余がまだ知らない別の情報なのか。
疑問は減らない。
三つ分かれば、五つ増える。
五つ答えを得れば、さらに十の問いが生まれる。
だが、それでよかった。
むしろ、それがよかった。
以前は、知識が増えれば世界は単純になるのだと思っていた。
物事を知れば、分からないものが減り、最終的にはすべて綺麗な答えに収束していく。
だが、実際には逆だった。
何も知らなかった頃は、目の前でどれほど不思議な現象が起きても、「魔法」という一言で終わらせることができた。
物が浮いた。
魔法だ。
人が突然消えた。
魔法だ。
外から見たより部屋が広い。
魔法だ。
肖像画が喋った。
魔法だ。
それで済んだ。
今は違う。
同じように見える現象でも、使われている経路が違う。
術式の構造が違う。
必要な条件が違う。
魔力の流れ方も違う。
一瞬で場所を移動するという同じ結果に見えても、魔法使いの姿現しと屋敷しもべ妖精の転移は、ホグワーツの防御に対してまったく違う反応を示す。
長期間残り続ける魔法であっても、単純に大量の魔力を蓄積して維持している術式と、感情や魂へ結びついた呪いとでは、内部の仕組みが違う可能性が高い。
知れば知るほど、世界は一つの大きな塊ではなく、細かな構造へ分かれていく。
それは、あの鉄バケツの観測器を初めてレイブンクロー塔の壁へ向けたときと似ていた。
何も知らなければ、ただの石壁にしか見えない。
しかし、一度その裏側を見ることができれば、そこには数百本もの魔力経路が走り、無数の術式が互いに接続されていることが分かる。
知識も同じなのだ。
知る前には一つだった世界が、知ったあとには無数の違いを持った世界へ変わる。
だから、さらに知りたくなる。
夜の図書館は静かだった。
昼間より弱く落とされた灯りが高い天井から書架を照らし、その間には深い影が落ちている。
遠くでは、ときおり誰も触っていない本の頁が自然にめくれる乾いた音が聞こえる。どこかの棚に組み込まれている小さな魔法仕掛けが動くのか、金属の擦れるような微かな音が響くこともある。
それ以外には、ほとんど何も聞こえない。
余自身は、一般書架の片隅にある机へ腰を下ろしている。
目は閉じたままだ。
何も知らない者が見れば、読書の途中で眠ってしまった一年生にしか見えないかもしれない。
余は黄金虫の向こうから流れ込んでくる新しい情報を受け取りながら、誰もいない夜の図書館で静かに口元を緩めた。
幸せだ。