剣聖「騎士団の教官になったから、気合い入れて厳しめに鍛えたら教え子全員殺意マシマシのガンギマリ集団になった」   作:アスピラント

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狂信的な彼女は師への信仰を広める

 ああ……麗しい剣聖様。

 わたくしが貴方を信仰するのは、ずばり騎士団のためですわ。

 

 ヴァルハディス騎士団は世界最強の騎士団、気の遠くなるような昔から語り継げられる偉大なる組織。ですが今は比較的平和な世の中というのもあって、以前ほどの影響力を持っていません。

 

 すると何が起きます?

 正解は調子に乗った悪党が世界に蔓延るのです。

 

 ああああ!!! わたくしはそんな彼らの愚かな習性を心底軽蔑します!!! そのまま大人しくてしていればいいものを、なぜ彼らは自ら苦しい死を選ぶに等しい選択をするのか!!

 

 わたくしにはさっぱりわかりませんわ!

 

 ですからわたくしは決めました。

 

 剣聖様を騎士の神とし、彼から教わった価値観や教えを次の千年に渡って語り継ぐと。

 

 そうすれば愚かな者はこの世から居なくなり、わたくしが望む新世界が誕生するのです!!

 

 ああ……考えただけで脳汁が……いっけね。

 

 とにかく!!

 わたくしが言いたいのは、剣聖様万歳と崇めなさいということですわ!!

 

◇◆◇

 

 騎士団本部――その広大な敷地の一角には、奇妙な噂があった。

 

「絶対に近づくな」と。

 

 理由を尋ねても、誰もはっきりとは答えない。ただ曖昧に視線を逸らし、「知らない方がいい」とだけ言うのだ。

 

 そんな中……1人の騎士が迷い込んだ。

 新人女騎士であるカタリナは配属されて日も浅く、その噂を聞いてはいたが深く考えてなかった、ただ内容が中々興味深かったため、好奇心でこの目で見てやろうと思った。

 

(ちょっと大げさじゃない……?)

 

 今思えばこの時点で運の尽きだったのかもしれない。

 気が付けば彼女は、普段は人の気配がほとんどない廊下を歩いていた。石造りの壁はどこか古びており、外の賑やかな訓練場とはまるで別世界のように静まり返っている。

 

「……こんな場所、あったっけ?」

 

 首を傾げながら進んでいくと、やがて一つの扉に辿り着いた。

 

 重厚な木製の扉の表面には細やかな彫刻が施されており、騎士団の施設にしてはどこか宗教的な雰囲気を感じさせる。

 

「……教会?」

 

 半信半疑のまま、そっと扉を押す。

 軋む音と共に開いた先に広がっていたのは小さな礼拝堂だった。

 長椅子が規則正しく並び、奥には簡素ながらも美しく整えられた祭壇がある。色とりどりのステンドグラスがはめ込まれた窓からは、柔らかな光が差し込み、内部を静かに照らしていた。

 

 外とは完全に切り離された、異質な空間にカタリナは息を飲んだ。

 

「……なんでこんなところに……?」

 

 思わず呟く。

 騎士団の中に教会がある理由がわからない。祈りの場として存在するにしては、あまりにも人の気配がない。

 不思議な静けさに包まれながら、彼女は一歩、中へと足を踏み入れた。

 

 ――その時だった。

 

「……迷われましたの?」

 

 背後から、柔らかな声が響いた。

 

「っ!?」

 

 反射的に振り返るとそこに立っていたのは、一人の女性だった。

 長身で、しなやかな立ち姿。淡く微笑むその表情は穏やかで、見る者に安心感を与えるような落ち着きを持っている。

 

 身に纏っているのは、騎士の鎧ではない。

 白を基調とした、修道女のような衣装だった。

 胸元で静かに手を組み、まるで最初からそこにいたかのように自然に佇んでいる。

 

「え、あの……すみません! ここ、立ち入り禁止でしたか?」

 

 慌てて姿勢を正しながら謝ると、女性はゆるやかに首を横に振った。

 

「いいえ……禁じているわけではございませんわ」

 

 その声音は優しく、どこまでも穏やかだった。

 

「ですが……ここは選ばれた者しか訪れない場所でしてよ」

「え……?」

 

 意味がわからず、思わず聞き返す。

 女性は、糸のように細められた目をわずかに緩めた。

 

「ご安心ください。貴女がここへ辿り着いたのも……きっと導きでございますわ」

 

 そう言って、ゆっくりと一歩、こちらへ近づいてくる。

 足音はほとんどしない。

 なのに、なぜか距離が縮まるのがやけに早く感じた。

 

「わたくしの名は――ミネルヴァ」

 

 静かに名乗り、一礼する。

 その所作は完璧で、まるで本物の修道女のようだった。

 

「騎士であり……同時に、祈りを捧げる者でもございます」

 

 微笑みは崩れない。

 だがその奥に――ほんの一瞬だけ、得体の知れない“熱”のようなものが揺らいだ気がした。

 

「さあ……せっかくいらしたのですもの」

 

 ミネルヴァは優雅に手を差し出す。

 

「少しだけ……お話をいたしませんこと?」

「は……い」

 

 何故かはわからないが、断るという選択肢はなかった。

 

「貴女……見ない顔ですわね、新人さん?」

「はい! えっと、第三中隊の補助要員として配属されました、カタリナと申します!」

 

 少し緊張しながらも、はきはきと答える。

 ミネルヴァは満足そうに頷くと、くるりと背を向け、祭壇の脇にある小さな机へと歩み寄った。

 

「第三中隊……あら、あそこは比較的実務が多い部署ですわね。良い経験になりますわ」

 

 そう言いながら、慣れた手つきで茶器を取り出す。

 いつの間にか用意されていたティーポットから、ふわりと湯気が立ち上る。淡い香りが、静かな礼拝堂の中に広がっていった。

 

「どうぞ、少しお休みになって」

「あ、ありがとうございます……」

 

 差し出されたカップを受け取り、カタリナはおずおずと腰を下ろす。場違いな気がして落ち着かないが、不思議と嫌な感じはしない。

 

 ミネルヴァも向かいに座り、優雅にカップを手に取った。

 

「……それで貴女は……なぜ騎士団へ?」

 

 その問いは穏やかだったが、どこか核心を突くような響きがあった。

 

「えっと……その……」

 

 カタリナは少し照れくさそうに視線を逸らし、それから小さく笑う。

 

「伝説の剣聖に、憧れて……です」

 

 その言葉が出た瞬間だった。

 

「……」

 

 ミネルヴァの動きが、ぴたりと止まる。

 

 ――すっと、細められていた目が、わずかに開いた。

 

 先ほどまでの穏やかな雰囲気が、ほんの一瞬で変質する。

 静かな湖面に石を投げ込んだかのように、空気が揺らいだ。

 

「っ……?」

 

 カタリナは思わず息を呑む。

 何かを間違えたのかと、不安が胸をよぎる。

 

 だが――

 

「おほほ……」

 

 次の瞬間、ミネルヴァはいつも通りの微笑みを浮かべていた。

 

「……そのお気持ち、よく分かりますわ」

 

 優雅にカップを傾けながら、穏やかに言葉を紡ぐ。

 

「実はわたくしも……剣聖様に惹かれて、この騎士団に身を置いておりますの」

「え、そうなんですか?」

 

 ぱっと表情が明るくなるカタリナ。

 憧れの対象を共有できる相手に出会えたことが、単純に嬉しかった。

 

「はい……とても、とても……深く」

 

 ミネルヴァは微笑む。

 その笑みは変わらず美しい。

 

 ――だがその奥にある熱は、先ほどよりもはっきりと感じ取れた。

 

「剣聖様は、ただ強いだけの存在ではございませんわ。迷いなき御方であり……導く御方。わたくしたちが目指すべき、完成された騎士の在り方そのもの」

「……はい!」

 

 思わず強く頷くカタリナ。

 そこまでは、彼女の認識と何も違わない。

 

「皆……彼の刃が放つ光に焼かれていますの……」

「……ミネルヴァさんは、何かきっかけがあるんですか?」

 

 そう聞くとミネルヴァは聖母の如き笑みを携え、カタリナに向き直る。

 

「ええ、もちろん。だけど最初の頃のわたくしは……まだ彼を信じていなかったのです……」

 

 ミネルヴァは丁度良いと呟き、自らの過去を語る。

 彼女にも……彼から受けた優しさを共有すべく。

 

◇◆◇

 

 ミネルヴァは、生まれながらにして正しさに囲まれて育った。

 

 その父は、世界最大にして最も権威ある宗教――ルミナリア聖教の枢機卿だった。光を絶対の象徴とし、秩序と救済を説くその教義は、各国に深く根付き、王侯貴族すら無視できない影響力を持っている。

 

 その中枢に位置する男の一人娘として彼女は生まれた。

 

 屋敷は常に静寂に包まれていた。

 豪奢ではあるが、どこか息苦しい空間。無駄な装飾は少なく、代わりに聖句や象徴が刻まれた装飾が壁を埋め尽くしている。

 

 音を立てることすら憚られる空気の中、幼いミネルヴァは背筋を伸ばして歩いていた。

 

「姿勢を正しなさい、ミネルヴァ」

 

 威厳のある男の声が落ちる。

 振り返らずとも分かる――父だ。

 枢機卿であるその父は、常に厳格だった。

 娘に対しても例外はなく……むしろ誰よりも厳しくあった。

 

「神の御光の下にある者が、だらしない振る舞いをしてはならぬ」

「……はい、お父様」

 

 幼い声でそう答えながら、ミネルヴァはすぐに姿勢を正す。

 ほんの僅かな乱れも許されない。

 

「よろしい」

 

 それだけ言うと、父は去っていく。

 褒めることはない。

 ただ、間違いがなければそれでいいという態度だった。

 幼い頃から、彼女に与えられたものは決まっていた。

 

 祈り。

 学び。

 規律。

 

 朝は聖句の朗読から始まり、日中は神学や歴史、統治に関する教育を受ける。礼儀作法も徹底的に叩き込まれ、言葉遣い一つ、仕草一つにも意味が求められた。

 

 すべては正しくあるために。

 ミネルヴァはそれを疑わなかった。

 疑うという選択肢すら、存在しなかった。

 

 やがて年齢を重ね、彼女は魔法学院へと入学する。

 そこでも彼女は完璧だった。

 

「また首席か……」

「さすが枢機卿の娘ね……」

 

 周囲の声は、羨望と畏怖が入り混じっていた。

 魔法の適性も高く、知識も群を抜いている。

 何より、努力を怠らない。

 結果として、彼女は常に頂点に立ち続けた。

 

 

 ――順風満帆。

 

 誰が見ても、そうとしか思えない人生だった。

 

 だが。

 

(……これが、正しいのだから)

 

 そう思いながらも、胸の奥に微かな違和感があった。

 

 学院の中庭で、同級生たちが笑い合っている。

 授業の合間にくだらない話をして、時には規律を破って叱られることもある。

 

 そんな光景を、彼女は遠くから眺めていた。

 

「ミネルヴァさんも一緒にどう?」

 

 声をかけられたこともある。

 

 だが彼女は、ゆるやかに首を横に振るだけだった。

 

「申し訳ありません。わたくしには、やるべきことがありますので」

 

 それが()()()答えだったから。

 放課後も、彼女は一人で書物を開く。

 誰よりも努力し、誰よりも正確であろうとする。

 

 そうしなければならないと、信じていた。

 いや――そう教えられてきた。

 

 好きなことをする、という発想はなかった。

 何を好きか、何を望むか、考える機会すらなかった。

 すべては与えられ、すべては定められている。

 

(わたくしは……正しくあるべき存在)

 

 それが彼女の全てだった。

 だからこそ。

 

 ――それが崩された時、ミネルヴァは一度折れた。

 

 静寂は唐突に壊れた。

 いつもと同じ時間、いつもと同じように書物を開いていたミネルヴァの耳に、普段なら決して混じることのない騒めきが届いたのだ。

 

 廊下を行き交う足音が多い。

 それも、落ち着きのない、焦燥を帯びたもの。

 

(……?)

 

 違和感を覚えたその時だった。

 

「ミネルヴァ」

 

 低く、重い声が部屋の外から響く。

 

「……お父様?」

 

 すぐに立ち上がり、扉を開ける。

 そこに立っていた父の姿を見た瞬間、彼女は息を呑んだ。

 

 ――初めて見る表情だった。

 

 常に揺るがず、威厳に満ちていたはずの男が、どこか疲れ切ったような顔をしている。背筋は伸びているが、その内側にあるものが明らかに違っていた。

 

「……少し、話がある」

 

 短く告げられ、ミネルヴァは黙って頷く。

 応接室へと移動し、扉が閉められる。

 沈黙を最初に破ったのは、父だった。

 

「……騎士団が来る」

「……え?」

 

 あまりにも唐突な言葉に、理解が追いつかない。

 

「この屋敷に……踏み込む。私を含め、幹部数名を拘束するためにだ」

 

 淡々と語るにはあまりに内容が重すぎた。

 

「な、何を……」

 

 言葉が出ない。

 否定する材料も、理解する余地もない。

 ただ、父の次の言葉がミネルヴァを形成していたものを断ち切ってバラバラにした。

 

「違法な献金の受領……弱者からの搾取……その他、複数の不正が発覚した」

「…………は……っ?」

「証拠はすべて押さえられている。言い逃れはできん。……時間の問題だ」

 

 世界が崩れてゆく。

 ミネルヴァの中で、これまで積み上げられてきた正しさが、音を立てて崩壊していく。

 

(……何を……言って……?)

 

 父は絶対だった。

 神の教えを体現する存在であり、疑う余地などなかった。

 

 その父が――

 

「……すまなかった」

 

 ぽつりとそう言ったのだ。

 

「お前に……正しさを説き続けてきたこの私が……その正しさを裏切った」

 

 その声には確かに悔恨があったが、もうどうでも良かった。

 

「お前には……何も与えてやれなかったな」

 

 好きなことも。

 自由も。

 選択すらも。

 

 暗に彼はそう言った。

 

「すべてを縛り……それでいて、この様だ」

 

 自嘲するように、わずかに口元が歪む。

 その光景を前にしても――ミネルヴァは、何も感じなかった。

 

 怒りが湧くはずだった。

 裏切られたと、叫ぶはずだった。

 

(……ああ……)

 

 だけど何も浮かばない。

 胸の中が空っぽだった。

 

 これまで信じてきたもの、積み上げてきた価値観、自分という存在を形作っていたすべてが一瞬で意味を失った。

 

(……じゃあ……)

 

 わたくしは、何のために――問いは、途中で途切れた。

 答えが存在しないことを、本能的に理解してしまったから。

 

「……ミネルヴァ」

 

 父が何かを言っても意味として届かない。

 ただ口が動いているだけの、無機質な映像のようだった。

 

 やがて遠くで重い音が響いて規律正しい足音が、屋敷へと近づいてくる。

 

 騎士団が来たのだ。

 

(……どうでもいい)

 

 それすらも、どうでもよかった。

 ミネルヴァは、ただ静かに立っていた。

 何も感じないまま、何も考えられないまま、自分という存在が、空洞になっていくのをただ受け入れていた。

 

◇◆◇

 

 その後、ミネルヴァの世界は静かに壊れていった。

 騎士団による摘発は、瞬く間に各地へと広まった。ルミナリア聖教の中枢に関わる不正――それはあまりにも衝撃的で、人々の関心を一瞬で攫った。そして当然、その余波は一人の少女にも向けられることになる。

 

 枢機卿の娘、ミネルヴァ。

 かつては敬意と畏怖をもって呼ばれていたその名は、やがて別の意味を帯び始めた。

 

「……あの子でしょ?」

「ほら、例の……」

「汚職の……」

 

 魔法学院に戻った彼女を迎えたのは、以前とはまるで違う空気だった。直接的な暴力があったわけではないが、皆寄り付かなくなった。

 

 まるで触れてはいけないものを見るような目を向けたり、汚れたものを避けるような態度を取ったりなど様々だ。

 それまで彼女を取り巻いていた羨望や尊敬は、跡形もなく消え失せていた。

 

「……」

 

 ミネルヴァは何も言えなかった。

 ただ、いつも通りに席に座り、いつも通りに授業を受ける。

 

「普通、恥ずかしくて来れなくない?」

 

 ふとしたクラスメイトの一言が、静かに突き刺さる。

 言葉が届いているのに、どこか遠い場所で響いているような感覚。まるで自分自身が、ここにいないかのようだった。

 

 ノートを取る手は止まらない。魔法の詠唱も、正確に行える。だがそこに意思はなかった。ただ、これまで教え込まれてきた通りに動いているだけの――空っぽの器。

 

 そんな日々が、どれほど続いただろうか。

 

 ある日、机の上に置いていた教本が床に落ちた。誰かが、わざと払い落としたのだろう。

 

「……」

 

 何かがプツンと切れた彼女はただ、ぼんやりとそれを見つめていた。やがて授業は終わり、教室には誰もいなくなる。床に落ちたままの本。静まり返った空間。その中で、ミネルヴァはようやく決心した。

 

(……もう、いい)

 

 次の日、彼女は学院へ行かなかった。そして、そのまま戻ることもなかった。

 

 退学の手続きは、速やかに進められた。

 

 ――当然だ。彼女はもう、“正しい存在”ではないのだから。

 

 だけど行く宛はなかったし帰る場所もなかった。屋敷はすでに差し押さえられ、父は拘束されている。親族もまた、関われば自分たちにも影響が及ぶと理解して、距離を置いた。

 

 ミネルヴァは、一人になった。

 だが――それすらも、特別な感情は伴わなかった。

 

(……どうでもいい)

 

 ただ、その一言で片付いてしまう程度のことだった。

 そんな彼女を拾い上げたのは、皮肉にも騎士団だった。

 

「保護対象として受け入れる」

 

 ずっと前から引き取りたかった騎士団は、やっとミネルヴァを保護出来るようになった。そして騎士団は、彼女に住む場所を与えた。最低限の生活を保証し、教育の継続も提案した。心身のケアを担当する者もついた。

 

 ――できる限りのことは、した。

 

「……」

 

 だがミネルヴァは何も応えなかった。与えられた部屋に住み、出された食事を口にし、指示されれば動く。だがそれだけだった。誰とも積極的に関わらず、会話も最低限。感情の起伏はほとんど見られない。まるで人形のような状態。

 

「無理もない……」

「親に裏切られたのだから――」

 

 そう評する者もいた。

 すべてを失った少女に、すぐ立ち直れという方が酷だと。

 だが同時に――

 

「……どう接すればいいのか分からない」

 

 そう感じる者も多かった。

 優しさを向けても、届いているのか分からない。言葉をかけても、反応がない。拒絶すらされないが、受け入れられている気配もない。その空白が周囲を戸惑わせた。

 

 ミネルヴァ自身も、分からなかった。

 騎士団をどう思えばいいのか。父を捕らえた存在。自分の人生を壊したきっかけ。だが同時に――今の自分を支えている存在でもある。

 

(……どちらでも、ない)

 

 好きでも、嫌いでもない。感謝も、憎しみもない。ただ、そこにあるもの。それだけだった。

 

 ある日――ミネルヴァは、いつものように人気の少ない廊下を歩いていた。特に目的はない。ただ、時間が過ぎるのを待つように、足を動かしているだけ。

 

 その時だった。

 

 ――金属が打ち合う、鋭い音が響いた。

 

「……?」

 

 足が止まる。これまで何も感じなかったはずの心に、ほんの僅かな引っかかりが生まれた。

 

 音のする方へと、視線を向ける。訓練場の一角。普段は近づくことのない場所だった。

 

 だが、その日はなぜか――導かれように足を進めた。

 

 ミネルヴァは、そちらへと歩き出していた。理由は分からない。ただ、足が動いた。導かれるように。

 

 そして彼女が目にしたのは1人の男だった。

 黒髪を短く切り揃え、右眼には眼帯。杖をついた左半身が不自然なほど静止したまま、右腕だけで剣を振るっている。

 

 一見すれば、重傷者の素振りにしか見えない。

 だが――ミネルヴァは息を呑んだ。

 

 これまで、数多くの剣士を見てきた。

 騎士団の精鋭も、大会で名を馳せた武人も。父に連れられた演武の席で目にした、一流と呼ばれる者たちの技も。

 

 それらすべてを、この一振りが塗り替えた。

 剣が空気を割く。その軌跡に、一切の無駄がない。重心の移し方、刃の角度、踏み込みのない静かな体重移動。片側しか動かせない身体で、それでも剣は吸い込まれるように弧を描く。

 

 美しい、という言葉では足りなかった。

 恐ろしい、という言葉に近かった。

 どれほどそうしていただろうか。気づけば、ミネルヴァは訓練場の縁に立ったまま、ただ見ていた。

 

 不意に、剣が止まった。

 

「……枢機卿のとこの子か」

 

 振り向きもせず、低い声が言った。

 全身が強張る。

 

「す、すみません……すぐに去ります」

 

 踵を返そうとした、その時――剣聖レクスディアは声を発した。

 

「別に見ても構わない」

 

 簡潔な一言だった。

 ミネルヴァは動きを止め、恐る恐る振り返る。男はすでに剣を動かし始めていた。こちらを見ようともしない。

 

「……よろしいのですか」

「他に見るものがないんだろ」

 

 返答は素っ気なかった。だが責めるような色はどこにもない。ただ、事実を述べているだけのような声だった。

 

「暇つぶしでも構わないから」

 

 それだけ言うと、男は剣に集中した。

 ミネルヴァはしばらく立ったまま、その背中を見ていた。

 怒ってはいない。憐れんでもいない。ただ、そこにいることを許している。

 

 ――それだけのことが、どういうわけか、奇妙に胸に刺さった。

 

 翌日も、ミネルヴァは訓練場へ来た。

 特に理由はなかった。ただ、足が動いた。

 男は何も言わなかった。問いただしもせず、歓迎もせず、ただ剣を振るい続けた。

 

 その日も、その次の日も、そうだった。

 やがてそれは、いつの間にか当たり前になっていた。

 そんなある日、ミネルヴァは問いかけた。

 

「何故、強くなろうとしたのですか」

 

 レクスディアは剣を止めず、少し間を置いてから答えた。

 

「弱いと、守れないから」

「……何を、ですか」

「その時々で変わった。最初は自分。次は仲間。今は――」

 

 短い沈黙の後――レクスディアは濁した。

 

「まあ、色々だ」

 

 素っ気ない答えだったが、ミネルヴァは不思議と不満を覚えなかった。嘘をついていないことだけは、分かったから。

 

 それからも、他愛のない言葉を交わすようになった。

 好きなものを聞けば「静かな場所」と返ってきた。嫌いなものを聞けば「面倒なこと全般」と言った。ミネルヴァが「では教官は面倒ではないのですか」と尋ねると、「お前は静かだから構わない」と言った。それが褒めているのかどうか判断できず、ミネルヴァは黙った。

 

 言葉は少なかったがレクスディアは、何を聞いても必ず答えた。誤魔化さず、飾らず、思ったことだけを口にする。それがミネルヴァには、どういうわけか心地よかった。

 

 そして、ある日のことだった。

 訓練場に来たミネルヴァは、いつものように壁際に座った。レクスディアが剣を振るう音を聞きながら、しばらく黙っていた。

 

「……信じていたものが、なくなったら」

 

 気づけば、口が動いていた。

 

「どうすればいいのか……分からなくなります」

 

 剣の音が止まった。

 

「ずっと、正しいと思っていました。疑う必要なんてないと、そう思っていました。なのに――」

 

 声が自然と細くなる。

 自分の傷を晒すのはやはり怖い。

 

「全部、間違いだったなら……これから何を信じればいいのか」

 

 しばらく、沈黙が続いた。ミネルヴァは俯いたまま、答えを待つつもりもなかった。ただ吐き出したかっただけかもしれない。

 

「俺は神を信仰したことはない」

 

 だけどレクスディアの声は、いつもと変わらなかった。

 

「だが、ただ一つだけ、ずっと信じてきたものがある」

「……何ですか」

「自分自身だ」

 

 ミネルヴァは顔を上げた。

 

「どんな人間も、自分を信じられなければ何事もうまくいかない。仲間を信じるにしても、誰かのために動くにしても、根っこの部分に自分への信頼がなければ、全部ぐらつく」

「では……自分に自信を持つには、どうすれば」

「実力をつけることだ」

 

 迷いのない答えだった。

 

「積み上げてきた経験と技術は、誰にも奪えない。それがあれば、少なくとも自分だけは自分を見捨てずに済む」

 

 ミネルヴァは、その言葉をゆっくりと飲み込んだ。

 自分自身を信じる――これまで、そんなことを考えたことすらなかった。信じるべきものは常に外にあった。教義であり、父であり、剣聖という存在であった。自分自身など、その器に過ぎないと思っていた。

 

「……ただこう言ったが、何を信じるかは結局自分次第だ」

 

 杖をつきながら、ゆっくりと近づいてきた。

 

「迷ったら、信頼できる人間を一人作れ。その人のために何ができるかを考えれば、自然と動ける」

 

 それだけ言って、レクスディアは再び剣を構えた。

 ミネルヴァは黙って、その言葉の意味を考えた。

 信頼できる人間――頭の中を探した。かつての取り巻きたちは、跡形もなく消えた。父は拘束されている。親族は背を向けた。学院の誰かでもない。騎士団の担当者でもない。

 

 ――では、誰だ。

 

 答えはすぐに出た。

 今この瞬間、自分の隣にいる人物。名前も立場も関係なく、話しかければ答えてくれた唯一の人間だ。

 

 ミネルヴァはゆっくりと立ち上がった。

 

「……一つ、聞いてもいいですか」

「何だ」

「騎士団に入るには、どうすればいいですか」

 

 剣の動きが、わずかに止まる。

 

「お前が、か」

「はい」

 

 レクスディアはこちらを見た。

 値踏みするような目ではなく、本当にただ確かめているような目だった。

 

「……試験を受ければいい。ただし、生半可な覚悟では受からない」

「分かりました」

 

 ミネルヴァは頷いた。

 信頼できる人間のために、何ができるかを考える。

 ならば答えは一つだった。彼の隣に立てる人間になること。それだけが今、自分に見えている道だった。

 

 その日から、ミネルヴァの時間は変わった。

 レクスディアの訓練を眺めるだけだった時間が、自らが動く時間へと変わった。剣を握り、足を動かし、崩れた体力を一から積み上げていく。上手くいかない日も、倒れる日も、あった。だが不思議と、足は止まらなかった。

 

 信じるものができると、人はこれほど変わるのかと――ミネルヴァは、どこか他人事のように思った。

 

◇◆◇

 

 ――話を終えたあと、礼拝堂には静かな余韻が残った。

 

 ステンドグラスから差し込む光が、淡く二人を照らしている。紅茶の湯気がゆらりと揺れ、その場の空気をゆっくりと和らげていた。

 

 カタリナは、しばらく言葉を失っていた。

 ただぽかんとした表情のままミネルヴァを見つめている。まるで、聞いた話をどう受け止めればいいのか分からない、といった様子だった。

 

「……それで……」

 

 ようやく、声が漏れる。

 

「それでミネルヴァさんは……剣聖様を、信じるようになったんですか……?」

 

 どこか夢から覚めきっていないような声音だった。

 ミネルヴァはその様子を見て、ふっと柔らかく微笑む。

 

「段階的に……ですわ」

 

 優しい笑みを携えたままミネルヴァは言う。

 

「最初から信じていたわけではございません。むしろ、最初のわたくしは――何も信じておりませんでした」

 

 カップを傾け、一口だけ紅茶を含む。

 その仕草はいつも通り優雅で、乱れがない。

 

「ただ……あの方の傍にいる時間が増えるたびに、少しずつ理解していったのです」

 

 ゆっくりと言葉を選ぶように続ける。

 

「剣の在り方。生き方。そして、何よりも……迷いのなさ」

 

 細められた瞳の奥に、微かな熱が灯る。

 

「近づけば近づくほど、分かってしまうのです。あの方が、どれほど完成された存在であるのか」

「……」

「ですから――信仰は、ある日突然生まれたものではございません」

 

 ゆっくりとカタリナへ視線を向ける。

 

「積み重ねの果てに、気が付けばそこにあったもの……というべきでしょうか」

「……っ」

 

 カタリナは、小さく息を呑んだ。

 先ほどまでの戸惑いはまだ残っている。それでも、ミネルヴァの言葉には不思議な説得力があった。

 

 押し付けられているわけではないのに、心に入り込んでくる。

 

「……すごいですね……」

 

 ぽつりと、思わず言葉が漏れた。

 

「私なんて……まだ何も……」

 

 視線を落とし、指先でカップの縁をなぞる。

 ミネルヴァはその様子を静かに見つめていた。

 そして、彼女は問いかける。

 

「では、貴女は何か信じているものはございますの?」

「え……?」

 

 予想していなかった問いに、カタリナは顔を上げる。

 少しだけ考えてから、困ったように笑った。

 

「……まだ、ありません」

 

 その答えは、とても素直だった。

 飾りも見栄もない、ありのままの言葉だった。

 

「騎士団に入ったのも……憧れがあったからですけど、それが信じてるって言えるかは分からなくて……」

 

 言いながら、自分でも少し不安そうに眉を寄せる。

 

「なんとなく、目指してるだけで……ちゃんとした理由とか、まだなくて……」

 

 言葉が尻すぼみになっていく。

 そんなカタリナを見て、ミネルヴァはゆるやかに頷いた。

 

「よろしいのではなくて?」

「え……?」

「最初から確固たるものを持っている者など、そう多くはございませんわ」

 

 穏やかな声音にはこちらを導こうとする意志があった。

 カタリナは見る見る内に惹きつけられる。

 

「むしろ……何もないからこそ、選べるのですよ。何を信じるのか。何のために剣を振るうのか。どこへ向かうのか――」

 

 一つ一つ、丁寧に言葉を積み重ねていく。

 

「それを決めるのは、他の誰でもない……貴女自身ですわ」

「……」

 

 カタリナは、じっとその言葉を聞いていた。

 胸の奥に、小さな何かが灯る感覚がある。

 

「もしよろしければ」

 

 彼女は丁度いいタイミングでゆっくりと手を差し出す。

 

「わたくしも、貴女が信じるものを見つけるお手伝いをさせていただきますわ」

 

 不思議と、断る理由が見当たらなかった。

 カタリナは一瞬だけ迷った。

 けれど、その迷いはすぐに消える。

 

「……はい!」

 

 顔を上げた表情は、先ほどまでとは明らかに違っていた。

 ミネルヴァは「くふっ」と妖しく笑う。

 

「ぜひ……お願いします!」

 

 まっすぐな言葉を聞いて、ミネルヴァは満足そうに目を細める。

 

「ええ、もちろんですわ」

 

 静かにそう答えながら――その瞳の奥に、ほんのわずかに熱が宿ったことに、カタリナはまだ気づいていなかった。

 

「実はわたくし……同じように悩める後輩たちに、色々と教えていますの」

 

 するとミネルヴァの後ろから何人か騎士団員が現れた。

 カタリナの見知った顔はないが、皆優しいと評判の騎士たちだった。

 

「よかったら貴女も……わたくしたちと共に、学びませんか?」

 

 ――我々と共に。

 

 その日以来、カタリナは変わった。

 今から丁度1()()()のことである。

 

◇◆◇

 

 そして現在――剣聖主導による、伯爵逮捕作戦。

 

 夜の闇に沈む伯爵邸の外縁は、すでに戦場と化していた。石畳は砕け、庭園は踏み荒らされ、あちこちに血の跡が広がっている。

 

 本来、この区画を担当するはずだったのは――ミネルヴァ率いる一隊だった。

 

 任務は単純だ。

 伯爵が密かに用意していた強化された魔物の殲滅。

 通常の騎士では対処困難な危険個体を引き受ける、いわば最も厄介な役割である。

 

 ――だが。

 

「な、なんだよ……あいつら……!」

 

 傭兵の一人が、引きつった声を上げた。

 状況は、彼らの想定とはまるで違っていた。

 魔物を盾に優位に立つはずだった彼らは、今や完全に崩壊している。陣形は乱れ、連携は消え、誰もが我先にと逃げ出していた。

 

 狩る側のはずだった。

 それが今では――

 

「来るな……来るなよ……! イカれた連中め……!」

 

 怯えきった男の視界に、ひとつの影が飛び込む。

 次の瞬間。

 

「あははははっ!」

 

 乾いた夜気を裂くように、明るすぎる笑い声が響いた。

 振り下ろされる鈍器の後。

 

 ――ぐしゃり、と嫌に生々しい音がした。

 

 モーニングスターが男の頭部を叩き潰した音だ。

 骨が砕け、肉が弾け、赤黒い飛沫が周囲に散った。

 その中心に立っていたのは――カタリナだった。

 

「貴方達の血を……主たる剣聖様に捧げます!」

 

 頬に血を浴びながら、彼女は恍惚とした笑みを浮かべる。

 その表情には、かつての戸惑いや未熟さは一切残っていない。ただ純粋な信仰だけが宿っていた。

 

「もっと……もっと……!」

 

 荒い呼吸とともに、次の獲物を探すように視線が彷徨う。

 見つけた瞬間、迷いなく踏み込んだ。

 

「ひ、ひぃっ――」

 

 逃げようとした傭兵の背に、別の影が重なる。

 

「貴方達の罪を、赦しましょう」

 

 静かで、穏やかな声の後、クレイモアが振り抜かれ、男の身体を斜めに断ち切った。骨や肉ごと、まるで紙のように切り裂いた。

 

 血飛沫が夜に弧を描く。

 剣を振るった青年騎士は、表情ひとつ変えなかった。

 

「これで……楽になれます」

 

 まるで救済を与えたかのような口調だった。

 

「ふ、ふざけるな……!」

 

 傭兵たちは叫びながら後退する。

 だが足はもつれ、仲間同士でぶつかり、転び、起き上がる余裕すらない。

 

 恐怖が、完全に理性を上回っていた。

 こんな光景があちこちに繰り広げられているのだ。

 

「騎士団って……こんなイカれた奴らだったのかよ……!」

 

 誰かが吐き捨てるように言うが、断じて違う。

 この部隊がやばいだけである。

 

 そうとも知らない傭兵たちは次々と倒れていく仲間を前に、ただ現実を受け入れるしかなかった。

 

 やがてひとりの男が、背を向けて走り出す。

 傭兵たちのリーダーだった。

 

(どうしてこうなった……!)

 

 息を切らしながら、必死に足を動かす。

 本来の計画は、こうではなかった。

 

 伯爵の命令通り、強化された魔物を配置した。周囲を傭兵で固め、侵入してきた騎士団を迎え撃つ。

 

 数でも、戦力でも、こちらが優位のはずだった。

 

(なのに……!)

 

 結果は、あまりにも一方的だった。

 魔物はまともに動く前に斬り伏せられ、傭兵は連携を取る暇もなく崩壊した。

 

 あれは騎士ではなく別の何かだ。

 

「くそっ……!」

 

 歯を食いしばりながら、男は懐に手を突っ込む。

 そこには、黒く禍々しい杖があった。

 魔物を操るための切り札……これさえ使えば、戦況を覆せる。

 

「まだだ……まだ終わってねぇ……!」

 

 震える手で杖を握りしめる。

 詠唱を始めようとした、その瞬間――

 

「あらあら……随分と滑稽な姿ですわね」

「――っ!?」

 

 男は反射的に振り返る。

 そこに立っていたのは、一人の女だった。

 

 白を基調とした衣装。胸元で手を組み、穏やかな微笑みを浮かべている。戦場には、あまりにも不釣り合いな存在だが、その異様さが男の恐怖を駆り立てる。

 

「ひっ……」

 

 女を見た瞬間、本能が理解したのだ。

 こいつが一番ぶっ飛んでる――と。

 

「ど、どこから……」

「最初から、見ておりましたわ」

 

 ミネルヴァはゆっくりと首を傾げる。

 

「必死に足掻く様子……なかなかに見応えがございました」

「……っ、舐めやがって……!」

 

 傭兵の男は、震える手で杖を握り直した。喉の奥で、笑いとも嗚咽ともつかない音が漏れる。恐怖に呑まれかけた意識を、必死に繋ぎ止めていた。

 

(まだだ……まだ終わってねぇ……!)

 

 男は杖を地面に叩きつける。黒い魔力がじわじわと石畳に広がり、ひび割れた隙間から不気味な光が滲み出した。

 

「出ろ……ベヒモス!」

 

 歪んだ詠唱が夜気を震わせる。

 次の瞬間、地面が内側から押し上げられるように膨れ上がり、轟音とともに爆ぜた。石畳が粉々に砕け、土と瓦礫を撒き散らしながら、巨大な影がゆっくりと姿を現す。

 

 それは明らかに、生物の範疇を逸脱していた。

 

 肥大化した四肢は地面にめり込み、黒く濁った外皮は脈打つように蠢いている。裂けた口からは粘ついた液体が滴り、無数の牙が不規則に並んでいた。赤黒く濁った眼は焦点を結ばず、ただ破壊衝動だけを宿している。

 

「は……はは……!」

 

 男は後ずさりながら、引きつった笑みを浮かべた。

 

「その女を潰せ!!」

 

 その名に応えるかのように、巨獣が低く唸る。空気そのものが重く沈み込んだような圧が、周囲を支配した。

 

「さあ……喰い殺せ……!」

 

 命令が下された瞬間、ベヒモスは咆哮を上げる。耳を打ち破るような轟音とともに、その巨体が地面を踏み砕きながら一気に加速した。進路上の瓦礫をすべて弾き飛ばし、一直線にミネルヴァへと迫る。

 

 巨大な顎がゆっくりと開かれ、喰らうための準備が整う。

 しかし――

 

「……ふふ」

 

 ミネルヴァは動かなかった。

 ただ、口元に微かな笑みを浮かべるだけだ。

 

「くふふふ……」

 

 その笑いは、状況に対する恐怖でも緊張でもなく、純粋な愉悦から生まれていた。

 そして次の瞬間、彼女の手の中に巨大な武器が現れる。まるで最初からそこにあったかのように自然に握られていたそれは、常識的な剣とはかけ離れた形状をしていた。

 

 長い柄の両端に取り付けられた刃には、鋭い歯が連なっている。ギチギチと不快な音を立てながら回転するそれは、まさしくチェーンソーのよう。

 

「まあ……なんて素敵な贄でしょう」

 

 恍惚とした声とともに、ミネルヴァは一歩踏み出す。

 その動きは、あまりにも速かった。

 巨体を誇るベヒモスの懐へ、一瞬で潜り込む。振るわれた双刃が唸りを上げ、回転する刃が肉へと食い込んだ。

 

 ギィィィィィィィィッ――という耳障りな音が、夜を裂く。

 

「あははははっ!」

 

 ミネルヴァの笑い声が響く中、刃はただ斬るのではなく、削り、抉り、引き裂いていく。強靭な外皮は抵抗する間もなく裂け、黒い体液が勢いよく噴き出した。

 ベヒモスが咆哮するがそれは怒りではなく、苦痛の叫びだった。

 

「遅いですわ……!」

 

 ミネルヴァは軽やかに身体を回転させ、反対側の刃を叩き込む。胴体を薙ぐ一撃により、肉と骨が同時に削られ、不快な音が響いた。巨体がぐらりと揺れる。

 

「ほら……もっと……!」

 

 その瞳は完全に愉悦に染まっていた。

 ベヒモスが腕を振り上げ、叩き潰そうとする。しかしミネルヴァはそれを紙一重で躱し、そのまま再び懐へと潜り込む。

 

「無駄ですわ」

 

 静かな声とともに、両刃を全力で振り抜く。

 回転する刃が腹部に食い込み、縦に深く裂いていく。内部から溢れ出したものが地面に撒き散らされ、ベヒモスの動きが鈍った。

 

「――ああ……」

 

 ミネルヴァは、うっとりと目を細める。

 

「なんて……尊い」

 

 最後に、首元へと刃を走らせる。回転する歯が肉と骨を噛み砕き、そのまま断ち切った。

 

 巨体が崩れ落ち、地面が揺れて戦場に静寂が戻った。

 血と肉片の中で、ミネルヴァはゆっくりと武器を下ろす。やがて刃の回転が止まり、再び静かな空気が広がった。

 

「……主よ」

 

 彼女はそっと目を伏せる。

 

「この者にも……どうか、安らぎを」

 

 その祈りは、どこまでも穏やかで――そして、あまりにも狂っていた。

 

「ぁあ……!? なんなんだよ……! お前らは!」

「我々はただの信徒、剣聖の信徒です」

 

 ミネルヴァは武器を振り回しながら近寄る。

 

「この世界に蔓延る、剣聖様の憎む悪を駆逐し、素晴らしき世界を築くために……我々は存在しています」

 

 かつて何もなかった少女は新たに信仰を得た。

 それは剣聖という新しい神。

 

「故に貴方は……我々の世界には必要ない」

 

 ミネルヴァは薄ら笑いを浮かべ――回転する刃で傭兵を切り裂いた。

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