準決勝を数日後に控えた、昼下がりのアビドス高等学校グラウンド
じりじりと照りつける太陽がピッチに陽炎を立ちのぼらせる中、ゴール前には一際鋭い気迫を放つ黒見セリカの姿があった
「いくよ、セリカ」
対峙する砂狼シロコが、静かに、だが重い一言を告げる
「いつでも来なさい! 全部止めてやるんだから!」
セリカが低く構え、受けて立つ意思を叫ぶ
「ん……『エターナルブリザード V2』!」
シロコの鋭い蹴りから放たれたボールは、昼間の熱気を強引に塗り替えるような、凍てつく冷気を纏って一直線にゴールへと肉薄した
「……ふぅ……っ! 『魔神グレイト』!!」
セリカは深く一呼吸置くと、全身の力を爆発させるように気を解放した。その背後から、空間を震わせる咆哮と共に、燃え盛るような紅髪を逆立たせた巨像がその威容を現す
「――『グレイト・ザ・ハンド』!!」
セリカが体を捻り、渾身の力で片手を正面へと突き出す。連動した魔神の巨大な掌が、迫りくる氷結の弾丸を正面から迎え撃った。スタジアムの空気がみしりと軋むような衝撃の後、あれほど荒れ狂っていた『エターナルブリザード』が、魔神の掌中に吸い込まれるようにして完全に沈黙した
「ん、完全に物にしてるね」
「すごいですよ! セリカちゃん! あの威力、真正面から受け止めるなんて!」
化身が光の粒子となって消えていくのを確認し、シロコとアヤネが感嘆の声を漏らしながら駆け寄ってくる
「えへへ……当然よ! 今のアビドスのゴールを守っているのは、この私なんだから!」
誇らしげに胸を張るセリカ
「いや〜、セリカちゃんはまだ1年生なのに、もうこんなに立派な化身が使えるなんて。おじさん、びっくりして目が覚めちゃったよ」
「ちょっ……な、撫でないでよ! 恥ずかしいじゃない……っ!」
ホシノが、いつもの眠たげな、それでいて全てを見通しているような優しい眼差しでセリカの頭を撫でる
セリカは顔を林檎のように真っ赤にして抗議するが、満更でもないのか、その温かな掌を払い除けることはしなかった
「……でも、やっぱりまだ体に相当な負荷がかかるみたい。多分、本番でこれを出せるのは二回が限界だと思うわ」
ホシノの手からようやく解放されたセリカは、先ほどシュートを受け止めた自身の右手を、確かめるように何度も開いては閉じた。指先にはまだ微かな痺れが残り、一見平然を装ってはいるものの、体内からは気力と体力を根こそぎ奪われたような奇妙な喪失感が漂っている
「そうですね……。無理もありませんよ、初めて化身を発動したあの日なんて、指一本動かせないほどに消耗していましたから」
ノノミが、慈愛に満ちた、しかしどこか心配そうな眼差しでセリカの様子を窺う。その言葉に、セリカは遠い目をして力なく笑った
「あはは……。あの時は本当に困ったわ。特に、シロコ先輩とホシノ先輩の『介護』という名の悪質なイタズラにはね……」
セリカの脳裏に、数日前の情景が鮮明に、かつ屈辱的に蘇る。二回戦の劇的な勝利を祝して訪れた柴関ラーメン。祝杯の筈が、当の主役であるセリカは腕が鉄のように重く、割り箸を割ることすら叶わなかった。そこに付け込んだ二人の先輩――ニヤニヤと口角を吊り上げ、逃げられない後輩に「あーん」を強要する、あの悪魔のような慈悲なき笑み
「心外だなぁ。おじさんたちは純粋な優しさで動いてたんだよ〜? せっかくのお祝いなのに、大盛りラーメンを前にして指をくわえて見てるなんて、可哀想すぎて見てられなかったし」
「ん。私も同感。後輩なら、もう少し素直に先輩の施しに甘えるべきだと思う」
「絶対に、一ミリもそんなこと思ってなかったわよね!? 面白がってただけでしょ!!」
恥ずかしさのあまり顔を茹で上がった林檎のように真っ赤にし、セリカはピッチの土を激しく踏み鳴らす。そんな賑やかな光景を、アヤネはタブレットを片手に、保護者のような微笑みで見守っていたが、やがてパンパンと乾いた音で両手を叩く
「はいはい! 雑談はそこまでにして、チーム連携の練習を再開しますよ!」
「はーい」
アヤネの号令に、全員の空気が一瞬で引き締まる。二回戦での苦戦を通じ、個人のスペックを上げるだけでは「チーム」として機能不全に陥ることを痛感した彼女たちは、上がった個の力を繋ぎ合わせるための、泥臭い反復練習に没頭し始めた
そして――
「それじゃあ、今日もお疲れ様〜。また明日ね」
「くぅぅ……全身がミシミシ鳴ってるわ。でも、急いでバイトに行かないと……!」
時は夕刻。地平線の彼方から忍び寄る夜の帳が、アビドスの校舎を深い群青色に染め始めていた。心地よい疲労感と、明日への確かな手応え。それぞれがバラバラの帰路に着く中、ピッチに残された熱気だけが、静かに夜風にさらわれて消えていった
シロコもまた、仲間たちに短く別れを告げると、使い込まれた愛用のロードバイクに跨った。放課後の静寂が支配し始めたアスファルトの上を、タイヤが細く、鋭い音を立てて滑り出す
(……アヤネも、ノノミも、セリカも。みんな、本当に強くなってる。このまま行けば、優勝も……決して夢じゃない)
一定のリズムでペダルを漕ぎながら、シロコの思考は自然とチームの軌跡へと向かっていった。シャーレの先生がアビドスに赴任してきた頃に比べれば、今の彼女たちは見違えるほどの変貌を遂げている
ホシノが絶対的な実力者であることは、今更言うまでもない。だが、変化は他の面々にも著しかった。ノノミは当初、その性格を反映したような慈愛に満ちた守備を見せていたが、今や敵を震え上がらせるほどの圧倒的な気迫を纏うDFへと成長した。アヤネは派手な必殺技こそ持たないが、持ち前の冷静な観察眼を武器に、ピッチ全体を俯瞰して味方を完璧にアシストする、チームの頭脳として不可欠な存在だ
そしてセリカ。最近キーパーに転向したばかりだというのに、今日のように「化身」をも発動させてみせた。その飛躍的な成長速度は、間違いなくチームで一番だろう
(みんな、前を向いて進んでる。一歩ずつ、確実に。……なら)
――『じゃあ……あなたはどうなの?』
「っ!?」
不意に、自分の思考の隙間に滑り込んできた「問い」に、シロコは反射的にブレーキを握りしめた。後輪が激しくアスファルトを擦り、不快なスキール音が静かな街に響く
慌てて辺りを見渡すが、夕闇に沈みかけた住宅街には人影ひとつない
(気のせい……? 練習で疲れているのかも)
再びペダルに足をかけ、走り出そうとした瞬間。
――『仲間は成長している。……じゃあ、あなた自身はどうなの? 砂狼シロコ』
「…………」
今度ははっきりと聞こえた。男とも女とも判別のつかない、透明で、それでいてひどく重厚な声。すぐ耳元で囁かれたようでもあり、地平線の彼方から響いてきたようでもある。その不思議な感覚に、シロコの背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた
「……私も、強くなっている。みんなと一緒に」
絞り出すような声に、謎の声は嘲笑うような響きを帯びて応える。
――『本当に? 前の試合、あなたはユウカの気迫に負けていた。……自分の技では届かないと、撃つ前から心に影が差していたはずだ』
「っ!」
図星を突かれ、シロコの肩が大きく跳ねた。ミレニアム戦の最終局面、アヤネが完璧なタイミングでオーバーラップしてくれたからこそ、あの鉄壁の「ギガントウォール」を打ち破ることができたのだ。しかし、あの一瞬、ユウカと1対1で対峙した際、シロコの心には確かに「恐怖」がよぎっていた
――『もしあの子が来なければ、あなたのシュートは確実に止められていた。そして、疲弊しきった守護神がいるゴールへと、無慈悲にボールは吸い込まれていたでしょう。あなたが負けていたなら、あなたの愛する先輩や後輩は、一体どんな顔をしたかな?』
シロコは唇を噛み締め、反論の言葉を探した。だが、何も出てこない。謎の声が指摘した「もしも」の恐怖が、じわじわと心臓を締め付ける
「……私に、どうしろっていうの」
――『簡単なこと。私の力に触れなさい。そうすれば、あなたは一人でも全ての敵を蹂源し、確実にゴールを奪える最強の個となれる』
「……そんな出所も分からない怪しい力なんて、私が頼るわけない」
――『ふふ……。なら、言葉よりも真実を見せましょうか』
パチン、と指を鳴らすような乾いた音が響いた
刹那、視界が激しく歪み、砂に埋もれた見慣れた市街地の景色が、どこまでも続く真っ暗なサッカーグラウンドへと変貌した
「……っ、ここは……!?」
シロコが息を呑んで辺りを見渡すと、ゴールマウスの前に、ゆらゆらと揺らめく黒い陽炎のような人影が立っていた。それは自分と全く同じ体格、同じ出で立ちをしていながら、全身から立ち上る「死」を予感させるオーラが決定的に異なっていた
「……シュートを打て、ということ?」
影は答えない。ただ、無言でシロコを挑発するように構えている
シロコはペナルティマークの上に現れたボールを凝視した。これが挑戦だというのなら、受けて立つ。自分の力を疑わせるその傲慢な声を、力でねじ伏せてやる
「凍りつけ……『エターナルブリザード V3』!!」
シロコは自身の限界を超える冷気をボールに凝縮させた。大気が凍りつき、ピッチが白く染まる。これまでの自分を遥かに凌駕する、絶対的な自信を込めた一撃
しかし――。
(パキンッ!)
「……え?」
凍てつく弾丸と化したボールは、黒い影が突き出した片手によって、あまりにも呆気なく、無造作に掴み取られていた。必殺の威力が、まるで雪玉を受け止めるかのように無効化されたのだ
――『これで理解できた? あなたは……私に触れない限り、これ以上の高みへは行けない』
影の輪郭にノイズが走り、声が途切れ途切れになる
――『……ちっ……時間切れか……。だが、いつでも歓迎するよ……アヌビス』
強烈な耳鳴りと共に、風景は元の夕闇の住宅街へと引き戻された。
「……私の……エターナルブリザードが……」
シロコはその場から動けず、愕然として自分の足元に転がってきたボールを見つめていた。全身の力が抜け、ただ現実を受け入れられずに立ち尽くす。
渾身の技が、片手で止められた。その圧倒的な実力差
(……もっと。もっと力が……あいつを、そしてこれから来る敵を圧倒できるだけの力が……)
心の奥底に、ポツリと黒い渇望が浮かび上がった。それが、かつてホシノが恐れた「力への執着」であることに、シロコ自身もまだ気づいていなかった
翌日。FF予選・準決勝の会場となる巨大なスタジアムは、決勝進出をかけた運命の一戦を前に、これまでにない熱気に包まれていた。控室前の静まり返った廊下。そこでアビドス対策委員会のメンバーは、今日の対戦相手である「便利屋68」の面々と鉢合わせる
「くふふ〜、ハロー子猫ちゃん! まさかこんな大舞台でまた戦えるなんてねー?」
目が合った瞬間に、ムツキがいつものいたずらっぽい笑みを浮かべてセリカに急接近する。至近距離で覗き込まれ、セリカは反射的に身を引いた
「だから、私はセリカだってば! 何度言わせるのよ!」
「あはは! やっぱりセリカをいじるのは最高に楽しいねー。……でもさ」
ケラケラと笑っていたムツキが、突然ピタリと動きを止める。その瞳から遊びのいろが消え、射抜くような鋭い光が宿った。
「この試合は、本気で行かせてもらうよ? 前みたいにふざけて点が取れるほどあなた達が生ぬるい相手じゃないのは分かってるから」
一瞬で空気を切り替えるムツキの変貌ぶりに、セリカは気圧されそうになる。だが、即座に「ふん」と鼻を鳴らして不敵に笑い返した。
「当たり前よ! 前の私たちだと思ってたら、大間違いなんだから!」
「うへぇ〜、おじさんも油断はしないよ〜。便利屋のみんなも、随分と気合が入ってるみたいだしね」
「ふふん♪ これこそ正真正銘、ハードボイルドな決闘だわ! 最高の舞台に、最高の悪(ライバル)……シチュエーションは完璧ね!」
「みんな、怪我なく楽しんできてね。終わった後は、また一緒にご飯でも食べましょう?」
ホシノののんびりした声、アルの芝居がかった高笑い、そして先生の優しい声
廊下には賑やかな会話が交わされていた。しかし、そんな温かな空気の中で、砂狼シロコだけは違っていた。彼女は一言も発さず、焦点の定まらない瞳で虚空を見つめ続けている
「あら? シロコも緊張しているの? ……でも、そんなあなたでも試合では容赦しないわよ」
その異様な様子に気づいたアルが、ライバルへの敬意を込めて、握手をするために右手を差し出した
しかし
「…………」
差し出された手を、シロコはまるで見えていないかのように無表情で通り過ぎる。アルのすぐ横をすり抜け、感情の抜け落ちた足取りでグラウンドへと向かってしまった
「……えっ? シロコ……?」
アルの小さく、困惑に満ちた呼び声だけが廊下に悲しく響く
シロコの明らかな異変にその場の全員が凍りついた。賑やかだった空気は一変し、廊下には刺すような冷たい静寂だけが残される
「……何かあったの? シロコ、あんなに怖いくらい無口じゃなかったわよね」
不安げなアルの問いに、対策委員会のメンバーも顔を見合わせる。首を横に振るしかなく、彼女たちの胸中にも、昨日の練習後からの不穏な予感が広がっていく
「シロコのことも気になるけれど、そろそろ試合開始の時間だ……。私たちもグラウンドへ行こう」
先生が沈痛な面持ちで促すと、一同は重い足取りで歩き出す。だが、その背中を呼び止める声があった
「あー! 待って先生!」
「どうしたの? ホシノ」
「そ、その……お花摘みに行ってくるね! すぐに戻るから、先に行ってて!」
そう言うなり、ホシノは脱兎のごとく逆方向へ走り去ってしまう。「もー! ホシノ先輩ったら、こんな時にまで緊張感がないんだからー!」というセリカの呆れた声が響く。だが、そのおかげで先程までのシロコが生んだ凍てつく空気は、わずかに和らいだ。
「ふぅ……早く戻らないと」
用を済ませ、一人暗い通路を走るホシノ。静かな廊下には、自分の足音だけが反響している。だが、突き当たりの角を曲がろうとしたその瞬間だった
『――ホシノ先輩。もし……私……ううん。シロコに、異変を感じたら』
「!?」
ホシノの足が止まる。どこからともなく響いてきたその声は、あまりにも切実で、震えていた
『――殺す気で、全力のシュートをぶつけて。お願い……止めて』
「………今の声……。気のせい……? でも、今の声は間違いなく……シロコちゃん……?」
混乱するホシノの耳に、グラウンドの方からセリカの叫び声が届く
「ホシノ先輩ー! 急いでー! 始まっちゃうよ!」
「あ、うん! 今行くよ、待ってて!」
ホシノは背後の闇をもう一度だけ振り返り、急いでスタジアムの眩い光の下へと駆け出した
彼女がピッチに入ったのを確認して、暗がりの陰から一人の人物が音もなく姿を現す。黒いフードを深く被り、その輪郭は闇に溶けていた
「………まずは、私。……ホシノ先輩も、無理はしないで」
その掠れた声は誰に届くわけでもなく、スタジアムを包む大歓声にかき消されて消えていった
ピッチに選手たちが散り、整列する
主審がホイッスルを口に咥え、高く手を上げた
運命のホイッスルが鳴り響く。それは、アビドス対策委員会の絆を根底から試す、最も過酷で残酷な試練の始まりだった