ピアノで自分を表現する主人公と、偶然出会った「彼」。
どんな人なのか。
主人公に関しては音と心情について着目して書きました。
初めて書く小説で、至らない点もございますが、ぜひ読んでいただけたら嬉しいです。
感想やメッセージ、ご指摘などいただけると非常に嬉しく思います。
放課後の校舎は、いつもより静かだった。
薄暗い廊下に、ひとつだけ灯りの漏れる練習室。
私はその中で鍵盤に触れ、深く息を吸った。
〈強く、まっすぐで、でもどこか不安げな音。
いつからかこの音が染み込んでいた。
強くあろうとするほど、心の揺らぎが音に滲んでしまう。
裏切りというのは、人を変える。
以前の私はコンクールに出て、結果を残してきた。実力はある。
でも今の私はどこか物足りない。
自覚しているが変えられないまま過ぎてゆく日々に嫌気が指していた。〉
曲に集中していた私は、扉の向こうに誰かの気配があることに
気づかなかった。
最後の音が消えた瞬間、静寂が落ちる。
ふと気配を感じて扉を開けると、そこにひとりの男の子が立っていた。
驚いたように目をそらし、ぎこちなく頭を下げる。
「ご、ごめん…勝手に聴いてて」
その不器用な謝り方が、なぜか嫌じゃなかった。
むしろ胸の奥が少しだけ温かくなる。
私の音を、こんなふうに真剣に聴いてくれた人がいるなんて。(あの人もそうだったな。)こう思ってしまった自分が嫌だった。
それから、彼――律とは、放課後に少しずつ話すようになった。
練習室の前で会えば、短い会話が生まれる。
「今日の曲、なんか好きだった」
「昨日より優しい音だったね」
そんな何気ない言葉が、私には不思議と心地よかった。
律は不器用で、言葉を選ぶのが苦手そうなのに、
私の音だけは丁寧に聴いてくれる。
帰り道が少しだけ一緒になる日もあった。
沈黙が続いても気まずくならない。
むしろ、その静けさが安心だった。
ある日、私はいつもより揺らいだ音を出してしまった。
自分でもわかるほど、心が落ち着かない日だった。
演奏を終えると、律が扉の前に立っていた。
いつもより少し真剣な顔で。
「今日…なんか、いつもと違ったね」
その一言に、胸がぎゅっとなった。
気づいてくれたことが、嬉しくて、少し怖かった。
律は視線を落とし、小さく息を吐いた。
「……俺さ、昔からしっかりしてるよねって言われてきたけど、
本当は全然そんなことなくて。
気は弱いし、周りの空気を読んで何を言えばいいか分からなくなるし…
でも、君の前だと、自然と言いたいことが浮かんでくるんだ」
その声は震えていた。
隠そうとしても隠しきれない弱さが滲んでいた。
私はそっと言った。
「……大丈夫だよ」
律は俯いたまま、ゆっくり頷いた。
その仕草だけで十分だった。
私の言葉が、確かに彼に届いたのだと分かったから。
その瞬間、私の中で何かがほどけた。
弱さを共有できる関係が、初めて生まれた。
静かな練習室の前で、私と律の距離が、ほんの少しだけ近づいた。
律が俯いたまま頷いたあと、しばらく静けさが満ちていた。
そして私は部屋へ戻り、そっと鍵盤に触れた。
まだ温もりの残る白鍵が、
さっきまでの揺らぎを優しく包み込んでくれるようだった。
律が小さく息を吸う音がした。
「……また、聴いてもいい?」
その声はかすかに震えていたけれど、
どこか前より柔らかかった。
私は振り返り、静かに頷いた。
「うん。いつでも」
律は顔を上げ、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、不器用で、でも確かに前へ進もうとしていた。
廊下に出ると、夕方の光が二人の影を並べて伸ばしていた。
その影が重なった瞬間、
胸の奥で小さな音が鳴った気がした。
まだ何も始まっていない。
でも、何かが始まる予感だけは、確かにそこにあった。