水を打ったような静寂が、その森を支配していた。
風に擦れる葉の音や、モンスターの唸り声すら静けさを助長する。
声の主は、アオアシラだ。両目を赤く血走らせ、自分からお気に入りのおやつを奪った不届き者たちを見つけ出そうと執念深く不届き者の匂いがする林をうろついている。
「………」
ハチの巣を傍に置いた黒ぶちのアイルーは、必死に泣き声を我慢していた。
上ずる声が飲み込むそばからせり上がってきて、アオアシラに見つかりたくないから我慢したいのに却って恐怖心が増幅され、パニックを起こす寸前だ。
「………」
戦鬼のような鎧に身を包んだ男──褪せ人は、黙って人差し指を自分の口に当てた。そのアイルーは人里にあまり関わったことは無かったが、それが「静かにしていて」というジェスチャーであることを察して涙と鼻水でぐしょぐしょの口を覆った。
褪せ人は、ハチミツをひとかけらポーチに入れて身を隠していた岩陰からそっと抜け出し、足音を殺しながらアオアシラの背後に回り込むと、アイルーとモンスターと自分とがちょうど対角線になる場所で「おい」と声をあげた。
そして、モンスターが振り向いた瞬間ポーチからハチミツを取り上げ見せつけるように巣ごと頬張った。
「うんま」
アオアシラはカッと目を見開いた。
自分はハチミツを食いっぱぐれたのに、こんな小さくてか弱そうなやつに横取りされるなんて許せない。もっと強い匂いがこの先で香っていたが、大好物を目の前で食いやがったこの卑しい生き物を先に叩き潰してしまわないと気が済まない!
「ブオオッ」
モンスターが突進してくるのに合わせて、男はポーチから抜き出した小さな壺を投げつけた。
放たれた壺は回転しながらアオアシラの鼻にぶつかり、猛烈な火を放ちながら炸裂した。
アオアシラは濁った悲鳴を上げてつんのめり、鼻を抑えて悶絶する。
男は武器を構えながら駆け出し、モンスターが我に返るより早く盾でその鼻面を打った。
「ギャオウ!」
火に炙られた鼻をさらに痛めつけられて、アオアシラは転び、草むらに崩れ落ちた。
褪せ人はモンスターの周りを動きながら、次々に火炎壺を投げて命中させる。
毛の焦げるいやな臭いが空気に混じっていく。
痛い。熱い、痛い!
アオアシラは火が大嫌いだ。火が好きなモンスターなんて知らない。火傷はいつまで経っても痛みが消えないし、治るのも遅い。温かいのは大好きだが、熱いのは嫌だ。
彼は一度も人間と戦ったことのない個体だった。それが彼の勇敢さの理由だったし、ひ弱そうな二本足の生き物が投げつけてくる一番嫌いなもので焼かれる痛みで、今まであった戦意が全て恐怖に変わってしまった。
火炎壺を見せつける褪せ人を怯えた目で見ていたアオアシラは後ずさりし、よろよろとその場からいなくなった。
モンスターの姿が完全に見えなくなった後、褪せ人はゆっくりと壺をポーチに仕舞って岩陰に向かった。
「もう大丈夫だぞ」
黒ぶちのアイルーはびくりと竦んだが、恐ろしい熊の気配がもう無いことに気づいて何度もお辞儀をしながら立ち上がろうとした。
岩壁で背をこすりながら体を持ち上げ、中途半端なところでへなへなとくずおれる。どうも腰が抜けたらしい。
「ああ、そうか。普通怖がるんだったな」
思いだしたように言って、褪せ人はハチミツを預かって、ピューイ!と指笛を吹いた。
有角の馬トレントが霧をまといながら現れる。
アイルーが目を丸くするのもよそに、褪せ人は彼を抱き上げて前に座らせると声をかけた。
「おいおい、ぼーっとしてるなよ。お前の集落がどこなのか教えてもらわなきゃ」
黒ぶちのアイルーはハッとした。
▼
「ムャオ!」
心配そうに行ったり来たりしていたアイルーたちが、ぱっと表情を明るくして黒ぶちのアイルーを取り囲んだ。
黒ぶちが彼らにニャオウマァオと身振り手振りを交えて説明をすると、彼らは一様に褪せ人に感謝していそいそとハチミツを持っていく。
何やら薬らしきものを調合していたアイルーが、大喜びでハチミツを鉢に混ぜ込み、とろりとしたそれを器に注いで集落のさらに奥へと急ぐ。
集落の奥にあった素朴な
さっきのアイルーが垂れ目のアイルーを助け起こし、器の中身をゆっくりと飲ませる姿に、褪せ人は黒ぶちを見下ろして感心した声を出した。
「薬の素材を探していたのか?」
そう言うと、黒ぶちのアイルーは彼を見上げて「ミャオウ!」と一声鳴いた。
キノコと薬草とハチミツを混ぜると回復薬ができるという奇妙さにはまだ面食らうが、
そしてふと思いつき、「…ちょっと待ってて」と懐を探る。
ポーチから出てきた明らかに食べてはいけない斑模様の干し肉を見てアイルーたちは流石に嫌そうな顔をしたが、これを食べると病気に強くなるという褪せ人の身振り混じりの説明を聞いて、そして褪せ人が実際に食べて見せたことで少なくとも毒はないことはわかったので、彼をとりあえず信じることにした。
褪せ人は、金の杖のようなもので地面にサインを書くと、再びトレントを呼び出してまたがった。
「機会があれば、また会おう」
アイルーたちは、ミャーオマーオと口々に鳴きながら恩人を見送った。
▼
竹林のそばを差し掛かった時、トレントがブルッと鼻を鳴らした。
褪せ人が声を掛けようとしたとき、彼は西の方角から肌がひりつくような気配が迫ってくるのを感じた。
「なんだ、おい」
さっきの鼻を焼かれたアオアシラだ。
面倒臭そうに馬から降りた褪せ人を見据え、少しずつ距離を詰めてくる。
「さっき相手してやっただろ、勘弁してくれよ。俺は熊が苦手なんだ」
困り果てて頭を掻く褪せ人の振る舞いが、かえってアオアシラの憎しみに油を注いだ。
住処に戻って大人しくしていたらふつふつと怒りが再燃してきた。自分はハチミツを盗られるわ体を焼かれるわと散々な目に遭ったというのに、あの態度は何なのだ。
このままでは引き下がれない。怪我は放っておけば治るが、そのためにはあの生き物を食らって、その血肉を我が物として初めて自分は恐怖を克服できるというもの!
駆け出してくるモンスターへ、褪せ人は黙って
アオアシラが迫る。
褪せ人は剣を担ぎながら地を蹴り、五歩をひと踏みで越えた。
「オ"ッ──?!」
立ち尽くしていたかと思っていた男の急迫に、アオアシラが目を剥く。
狼狽したことで筋肉に緊張が走り、危機感で体が強張る。
褪せ人はアオアシラの側面にすれちがい、握った大剣を両手で振り抜いた。
突進した勢いのまま地面に倒れ込み、切断面からドクドクと血が噴き出る。
頭部は後ろに転がって止まり、目から光が消えた。
そして、褪せ人の体に何かが流れ込んでくる。
温かな生命力、とでも言うべきものだ。
彼にしか感じられないものだから、説明のしようがないのだが。
「ふー」
以前と比べると衝撃をうまく逃がせず、びりびり痺れる腕を振るって剣から血を払い、鞘に納めた褪せ人は、新しく剥ぎ取りナイフを取り出した。
殺したモノを無駄にしないためにも獲物は持ち運べるだけの分解体し、残りは自然の糧とする。
共感できる考えだ。倒したモノから受け継いでいくというのは、あちらでも親しんだ考えだから。
そんなことを思いながら、褪せ人はアオアシラの死骸に刃物を突き込んでいった。
▼
「やあ、褪せ人殿。交易品を買いに来たのかな?」
「ッスッス」
アオアシラの毛皮で得たカムラポイントを握りしめて、褪せ人は商人のロンディーネを訪ねていた。
彼女がいつも詰めているオトモダチ広場はアイルーが訓練をしたり、その逆にくつろいだりしていた。
鮮やかな毛並みの
その片隅を借りるロンディーネの交易船は、場違いともとれるほど異国情緒あふれる作りだった。
まず船の作りが違う。カムラの船は平底だが、この船だけV字型なのだ。まるで長い海路を乗り越えるために設えたような、頑丈な構造だ。
次に女主人、ロンディーネの服装。ふわりと広がる襟に、マントを片側に流した鮮やかな緑の装束。服装の品性も佇まいからも、貴族のような優雅さが漂っている。
凛々しい言動は明らかに商人の振る舞いではないし、実際ロンディーネは商人などとんでもない高貴な身分なのだが、里のひとりひとりが「まぁ事情があるんだろう」と黙認した結果、彼女は商人と自分を偽れていると本気で信じていた。
「さあ商品を見て行ってくれ。今日もいいものがとりそろえられているぞ。腕利の商人として、品質は保証するよ」
「ほんとだ、でっかいニトロタケ。これにするよ」
真っ赤なキノコに視線を向ける褪せ人にぱっとロンディーネは屈み込み、小さな声で耳打ちした。
「どうだね、カムラの生活には慣れたかい?」
「ウッス。ロンディーネはどうだ?」
「実りある日々だよ。身分を偽っている自分が恥ずかしくなるくらいにね」
「だったら隠し事なんかやめればいいのに」
「はは…」
ロンディーネは低く笑い、一瞬表情を暗くした。
褪せ人は、それ以上追求せずポイントとキノコを交換した。
▼
片手を上げると、鬱陶しそうな視線をよこすだけして足早に去られてしまった。
苦笑しながら褪せ人は家路につく。
「ただいま~」
火の気のない囲炉裏のそば、
「…またエビにするの?」
「このエビは飛び切り美味しいエビだぜ。ゆでても焼いても美味いんだって」
「いつもそう言ってるじゃない。違いが判らないわ」
「そもそもメリナに任せたら米と汁しか出てこないじゃないか」
「お米のご飯とお汁があれば充分でしょ」
それじゃ満足できないメリよぉ、とブリっ子しながら、褪せ人は鎧を脱いで着物に着替えた。
まるで絵を切り替えるような早着替えだが、どちらもそれを指摘しない。
筋肉質で優しそうな顔の男は、火薬草を乾かした焚き付けに火打石を打つと、水を張った鍋をかけた。
大柄な体に見合わない小さなまな板でエビを捌いている褪せ人へ、メリナはまた声をかけた。
「貴方って、本当にエビが好きね」
「そりゃ、エビはどこに行っても美味いから」
「あれはどちらかと言ったらザリガニだけど」
「美味ければそれでいいんだよ」
褪せ人はカラカラ笑った。
メリナはこの男と真面目に付き合うのは時間の無駄だというのを思い出して、摺り潰した薬草を水で溶いて、効能を強めるためにハチミツを混ぜる。
「そーだ。さっきも薬作りの現場を見たんだよ。アイルーだったけどね」
「そうなんだ。わざわざ話す意味ある?」
「いやぁ、物づくりの才能ってすごいなって。壊すよりずっと難しいのにさ」
「お褒めにあずかり光栄ね。火元を見てないと火事が起きるわよ」
あぁごめんと褪せ人は火に向き直った。
おおかた、私たちのぶんも作ってるんでしょうねとメリナは考えた。
あの男はよく食べるくせに、他人のぶんも料理を作るのは当たり前だとごく自然に思っている。
手間が省けるのはうれしいが、
だとしたら… と、自分の中で揺らめいている奇妙な苛立ちを不思議に思いながらメリナは薬を瓶に流し込む。
しばらく後、褪せ人とメリナは膳を囲んで野菜たっぷりの汁物とおにぎり、焼き魚、漬け物という豪勢な夕食を堪能していた。
「うま」
「……」
実際おいしい。エビのおいしさはここに来るまでと変わらないが、この土地では色々な食べ物を食べられる。どれもこれも、薬に浸けた干し肉だの腐った食べ物だの最低限以下の食事を摂っていた褪せ人達が面食らうほどの美味だ。
「ケネスやトープスさんにも食べさせてやりたいな」
だから、叶いもしない願いをついつい口にしてしまう。
メリナも同じことを考えていた。母ならきっと、大いなる意志の及ばないこの土地の実りを喜んでくれただろう。
『大変だ姉上。この人たちには行く宛が無いのだと』
『なんと! それならこの街にいつまでもいるといい。なぁに、君たちほどの腕前があれば私たちも大歓迎だよ』
『「返す物がない」? 自分にできることで返せばいい。何しろこちらは、メラルーの手も借りたいほど困窮しているのでな』
自分たちを拾ってくれた提督たちの言葉を思い出す。
彼らを見ていると、世話になった
あの街もこの里も、いい人しかいない。きっと故郷──狭間の地では食い物にされてしまうだろうというくらい。
なぜ自分たちはこんな場違いなほど穏やかな場所に来れたのだろう?
故郷に置き去りにする形になってしまった人たちは元気にしているのだろうか?
疑問は尽きないが、
大いなる意志でなく、自然の掟が支配するここでなら、守りたいと願う人たちを過酷な運命から守ることができるかもしれない。いや、きっとできる。
災いに見舞われても逞しく生きる里の住人達と一緒なら、そんな根拠のない考えも信じられた。
褪せ人もメリナも、そう思っていた。
「………」
「ラニ様おいしいですか? 『とてもおいしい』? ならよかった」
「…………」メリィィィイイイイ
「はっ何?! 家鳴り!? 怪異?!」
「別に…… 食事中に人形遊びをしてていい気分なんかしないわよ目の前に私がいながら余所の女に目移りなんかして何考えてるのよろくでもない男ね巫女を差し置いて女遊びだなんてほんとふざけた人言っておくけどマナーを指摘しているだけよ人形なんかにうつつを抜かしていることに興味なんかないから」
「待って待って早口<ラニィイイイイ>あいたぁッ!? 髪引っ張られ、いや冷たっ!? えっ待ってラニ様?!」