パンッ!
リビングでばたばたしていたオルガの耳に、突然小気味のいい音が届いた。続けて聞こえてくるのはフレイの怒声。
「最っ低!誰がトイレの臭い消しよ!あんたちょっと声がいいから不覚にもドキっとしちゃったけど、他の女にそういうこと言っちゃだめよ」
トイレの臭い消し?何の話だ?
恐らくシャニなりに時間を稼ごうとしてくれたのだろうが、一体どんな手を使ったんだろう。
しかし、それももう限界のようで、どすどすと足音が近づいてくる。
オルガは咄嗟に、読みかけていた本を引っ掴むと、壁際のクローゼットの前に陣取るようにドカッと座り込んだ。
タッチの差で入口のドアが開き、
「デリカシーゼロ男の看病お疲れ様」
家主への皮肉たっぷりに姿を現したフレイに、オルガは「おう」とだけ返事をして本を読む(フリをする)。
何をやってるんだ俺は……。
オルガは自分自身に問いかける。
クロトがフレイと遭遇して、その結果あいつがどうなろうがどうでもいいことだろう?
助ける義理など一ミリもない。
そもそも、何故クロトがフレイから逃げ回っているのかすら知らないのだ。「何であの女はお前にあんなに、突っ掛かるんだ?」そうクロトに聞いたこともあるが、当の本人ですら「そんなの、僕が知りたいよ!」なんて言うものだから未だに迷宮入りになっている。
オルガの推測としてはこうだ。
どうせ、いつもの軽いノリで何か口約束でもしたのだろう。だが、クロト自身はそのことを一切覚えていない。七割方合っているという自負があるが、答え合わせはいつになるやら。
こんな馬鹿げたことに協力するのも、オルガにとっては何のメリットもない。とにかくその場の勢いに流されて身体が動いてしまっていた。
賽は投げられてしまったのだから仕方ないと、クロトの居場所をフレイに悟られないようにする為、オルガは本の方に集中することにした。が、やたらこちらを見てくるフレイの視線に気付いてしまった。
「なにジロジロ見てんだよ」
「何であんたそんな隅にいるの?」
「別に、どこで本を読もうが俺の勝手だろ」
「それはそうだけど、表紙、上下逆さまよ」
「な゛っ!!」
慌てて確認するオルガ。確かにフレイの言う通りだった。
我ながら間抜けにも程がある。
ややあってシャニもリビングに戻ってくる。右の頬が少し赤くなっていた。なんだ?あの痕は。ビンタでも食らったか?。
「買ってきた物、とりあえず冷蔵庫に入れておくけど、この分のお金は誰が払ってくれるのかしら」
「こいつだろ」
「こいつでしょ」
フレイの問いに、オルガとシャニはお互いに指をさし、同時に「ぁあ?」と声を上げた。
「てめぇんちの物になるのに、何で俺が払うんだよ。おかしいだろ」
「頼んでない……そもそも、クロト以外に間違って送ったのはお前じゃん」
うぐっ……。その通りだ。
シャニの言葉を間違いとも言えないが、それをにやけ面で言われることがただただ気に食わない。
「はぁ……いいわ」
オルガが奥歯を噛みながらシャニと対峙していると、フレイが呆れたような声を上げる。
「今回は私の差し入れってことにしてあげる。なんか、あんたらに払わせる自分が情けなくなってくるわ」
冷蔵庫に差し入れを手際よく収納していくフレイ。まるで、どこに何を仕舞えばいいか分かっているような風だ。
クロトといい、フレイといい、まるで我が家にいるかのように振る舞うのは何なんだろうか。
「なぁお前、やたらこの家に馴れてるみてぇだが、いつもこんなボランティアみたいなことしてるわけじゃねぇだろうな?」
「まぁ私、シャニの奥さんとは友人だし。田舎の近所付き合いみたいなものよ」
フレイはそう言うが、近所という程このマンションと彼女の住まいは近くはないことをオルガは知っていた。
言葉の綾として受け取るにしても、俺以外の連中、この家の奴らに甘すぎないだろうか。
この家の住人と、周りの関係性に何故か納得がいかないのかオルガだったが、これ以上問い詰める気はなく、クローゼットに背中を預けて読書を再開しようと本を手に取った。
中断していたページに指をかけた時、さっきから部屋をあちこち見渡していたシャニと目が合った。
(クロトは?)
小声で問いかけられ、オルガは無言で今まさに自分が背にしている後ろのクローゼットを指さす。
(はんっ。ウケる……)
シャニが鼻で笑いながら噴き出した。
その様子はフレイには見られていない。彼女は今、閉店間際でガラガラになったスーパーの棚に品を補充するかのように冷蔵庫に差し入れを仕舞っている。
クロトがいることにも気付いていないみてぇだし、あいつの痕跡も出来るだけ消したから大丈夫だろう。
そう思った矢先。オルガは見つけてしまった。
さっきまでピザの空き箱が乗っていたテーブルの下。
そこに落ちていたのは、クロトの携帯端末。
あの馬鹿……。