オルガとクロトの二人は一先ずリビングに戻ってきた。
オルガは一通りリビングを見渡す。
ここは、何も手つけられてねぇな。
寝室から離れていたおかげか、騒動の被害はこちらには何も及んでいないようだった。
好き勝手に書き込むだけ書き込んで、結局何の役にも立たなかった間取り図はくしゃくしゃのままテーブルの上に放置されているし、キャップが外れたマジックペンもその辺に転がっている。ジュースを飲んだコップは出しっぱなし。
クロトと、今ここにいないシャニの三人で行われた、名ばかりの作戦会議の跡だけが残されている。
最後に、今日シャニが一日中座っていた白いソファに目を止める。
あいつ、どれだけ荒らしても部屋が元通りになるって分かってやがったな。
そう考えると、玄関に油をまくとか、本棚丸ごとバリケードに使うとか、家具でぶん殴るとか、どう落し前をつけるんだと言いたくなるような行動にも説明がつく。
最初はただバカなだけだと思っていたが、アズラエルが最後に片付けるって分かっていたんだろう。それこそ、さっきクロトも言っていたが──“魔法”でも使うみたいに。
そういえば、シャニは今朝も妙なことを言っていた。俺達には『“魔法”がかけられてる』とかって──
「あぁ、くそっ……」
ごちゃごちゃしてきた。
あの言い方からして、きっとシャニは今までにも何回かアズラエルの世話になったことがあるに違いない。何が“魔法”だ。意味分かんねぇ言い方しやがって、ハッキリ言えってんだ。というか、あいつはどこまで知ってる? 日常を監視されてることも知ってんのか? 知ってたとしたら、何故それを俺達に言わねぇで一人で黙ってる? あいつの嫁は? 旦那が監視されてること知ってんのか?
様々な疑問が無限に沸いてくる。それをシャニに問い質したくて仕方がないが、聞くだけ無駄かもしれないという予感もしている。
きっと奴は何一つ答えない。本心を隠し、誤魔化し、煙に巻く。
本当に何であんな奴が結婚出来のか、理解に苦しむ。
「で? これからどうする?」
オルガがシャニへの猜疑心を募らせていた横で、クロトはジュースを置きっぱなしにしていたテーブルの傍らに腰を下ろしていた。
「どうもこうも、俺は帰るぜ」
「そ」
クロトがオルガに返したのは適当な相槌。彼は右手で炭酸の抜けた炭酸飲料をコップに注ぎ、利き手の左手で忙しそうに端末をいじっている。
「僕はもうちょっとゲームして行くから」
「馬鹿、お前も帰るんだよ。ゲームなら帰ってやれ。どうせ同じやつなんだから」
「やだネ。今こっちのデータいいとこなんだ」
「この部屋の住人抜きで、俺達だけいたってしょうがねぇだろ」
「いいんだよ。我が家のようにくつろいでもらっていいって、シャニのカミさんからも許可もらってるし? それに、誰が最後この部屋の鍵閉めんの?」
「お前は持ってねぇのか」
「流石に無い無い」
その時、クロトが端末の画面から顔を上げて「住人がいない……」とポツリと漏らし、
「オルガ、チャンスじゃん!」
「何が」
「寝室にさ、ダブルベッドあっただろ? あれ、アンドラス夫婦が寝てるベッドだぜ?」
「……それが、どうした」
別に普通だろ。
オルガとしては、あのベッドでシャニとその嫁が並んで寝ているところなど想像したくもないが、結婚しているなら何も不思議なことではない。
「嗅いでこいよ—奥さんの匂い」
間髪入れず、オルガはクロトの頭を全力でひっぱたいた。
「馬鹿か! そのベッドはさっき新しいやつに取り替えられただろうが!」
「あ、そうだった、忘れてた」とクロトは頭を抑えながら舌を出して笑う。
「じゃあ、取り替えられてなかったら嗅いでたってこと?」
「揚げ足取りやめろ。あのなぁ、この際だから言わせて貰うが、人を失恋ネタで弄るのも大概にしろ! アパート追い出すぞ」
「いいのォ? そんなこと言って。そしたら僕この家に定住するけど」
「てめ……言うことがだんだんおっさんに似てきてないか」
「それはただの悪口。そもそも、何でお前はここに来たのさ。あんなに来るの嫌がってたのに」
「何でって……」
唐突に痛い質問を投げつけられ、オルガは思わず言葉を詰まらせる。
言いたくはねぇが、こいつには俺が彼女のことが好きだったこと言っちまってるしな……今更隠しても仕方ねぇか。
「本を、借りてた」
「本? シャニから?」
「んなわけあるか。嫁の方だ。それを返しに来たんだよ」
「え!?」
突然クロトがすっとんきょうな声を上げる。
そんなに驚くことか?
「結婚してから会ってないって言ったじゃん。いつ借りたのさ」
「……結婚する前しかねぇだろ」
「うーわ、半年以上前? そういうの、借りパクっていうんだぜ?」
「だから、返しに来たって言ってるだろ。『パク』まではいってねぇ」
あー言えばこう言う。めんどくせぇ……。
こうなるのがダルいから誰にもバレないタイミングで会いに来たかったんだよ。
色々あったせいでオルガですら本来の目的を忘れかけていたが、元々は本を返却しに来ただけ。こんな時間まで居座るつもりも無かった。
「じゃあ、尚更帰るわけにいかないね」
「いいや、帰る。また出直す。お前は残るなら残れ。もしあいつが帰ってきたら、シャニがいねぇ理由は適当に誤魔化しとけよ。あと、俺が来たことも言うな」
「えー。僕、そういうの苦手なんだよな~」
クロトはニヤニヤしながら端末をいじっている。ゲームをしているわけでは無さそうだが、さっきから何をしているんだ?
そんな疑問を抱きながら、オルガは今日自分がいた痕跡を抹消すべく動き出す。
作戦を書きなぐった部屋の間取り図はビリビリに破いてゴミ箱へ。どこにしまえばいいか分からないマジックペンは適当な引き出しに突っ込み、自身が使ったコップは洗った上でしっかり水気を拭いて食器棚へ戻す。シャニとクロトが使えるかもと思って出してきた意味の分からない雑用品はとりあえずクローゼットに押し込んだ。
おっさんも、どうせならこっちの部屋の片付けもしてくれれば良かったのに。そんな風に思うのは身勝手だろうか。
ちなみに、クロトはその間一切動かなかった。何か一つでも手伝ってくれればもう少し早く終わったのに。
約十数分後程で作業は完了した。
「じゃあな」とクロトに一声掛け、借りていた本を入れた紙袋を手にして玄関へ向かおうとすると、
ただいま。
玄関から声が聞こえた。女性の声。オルガもクロトも知っている声だ。
オルガの心臓がどくんと跳ねる。シャニの嫁が、仕事を終えて帰ってきたのだ。
待ってくれ。
そんな急に。
心の準備が出来ていない。
固まるオルガの目の前に、クロトの端末の画面を見せつけてくる。
それは、クロトとシャニの嫁の個人メッセージのやり取りだった。
〈どうも~。まだ仕事? 〉
〈ううん。もう着くとこ〉
〈お、いいじゃん。今オルガと遊びに来てるんだ〉
〈そうなの? じゃあ、是非夕御飯も食べて行って〉
〈了解。オルガにも言っとく〉
時間を見ると、そのやり取りは十分程前から始まっているようだった。
こいつ、さっきからずっと端末を弄っていたと思ったら、彼女にメッセージを送っていたのか。
「お前って奴は……一体、俺をどうしたいんだよ」
表情をひきつらせるオルガの顔を見ながら、クロトはひひっと笑うだけだった。