もう今日は足を踏み入れたくないと思っていたアンドラス宅の寝室に、オルガは再び来ていた。オルガの他にいるのはシャニの嫁。クロトはリビングに残してきた。今頃、飽きもせずに一人でゲームをしているに違いない。
「悪かったな、返すの遅くなっちまって」
ようやくだ。ようやく、オルガは今日の目的を達成することができた。
シャニの嫁に、借りていた本を返すという目的を。
オルガが安堵の息を吐くと、何を勘違いされたのか、全部読んだら長いから気にしてないよ、とシャニの嫁に気を遣われた。むしろそのまま貰っても良かったのに、と彼女は返して貰った本を懐かしむようにパラパラと捲りながら言う。
「借りは返さねぇと気が済まねぇんだよ」
頭をかきながらオルガは断りを入れた。
本を返すという第一任務は完了した。次はいよいよ本の感想を伝えるフェーズだ。
本を何度も読み返して準備してきた感想を言おうと口を切る。が、
「その、なんだ……いいマンションだな。ここ……」
実際に口から出たのは何故かそんなことだった。
何でだ!
思わず自分にツッコミを入れた。違うだろ、俺。考えてきた感想はどうした。
しかも“いいマンション”だなんて、実態を知ってしまった今となっては少しもそんなこと思っていないのに。
ここからどう会話を続けるかオルガが頭を悩ませていた時、シャニの嫁が驚くべきことを言った。
アズラエルさんには、感謝してる。
嘘だろ。
オルガは自分の耳を疑った。
あんな奴に感謝なんてするな。などと、今までの私怨を吐きたくなる気持ちをぐっと堪え、続く彼女の言葉に耳を傾けた。
郊外にあるから、静かで、過ごしやすい。シャニが通うリハビリセンターからも近い。
防音性にも優れ、どれだけ音を立てても外に漏れることはない。
周辺は常に警備員によって監視されており、セキュリティも万全。
窓ガラスは、要人のセーフハウスにも使われているような頑丈な耐久ガラス。
どの住宅よりも、静かで、安全に暮らせる場所。
彼女はまるで、不動産の広告を読み上げるようにこのマンションの利便性を話してくれた。
その様子からオルガは察した。
やはり彼女は、自分の生活の裏で起こっていることは何も知らない。
この部屋に漂う新品の家具独特の匂いも、何も疑わない。アズラエルは良物件を紹介してくれた、ただのいい人だ。
自分の夫が、外で監視されていることも知らないかもしれない。
……やりづれぇ。
なまじ裏側を知ってしまった後だけに、余計会話に詰まってしまう。
どうする?
いっそ俺の口から言っちまうか?
俯きながらオルガが黙り込んでいると、
本、どうだった?
彼女の方から本の感想を聞かれ、オルガははっと顔を上げる。
自分の顔が夜をバックにした窓ガラスに映っていた。眉間に皺を寄せた、酷い面をした男の顔が。
この部屋にも置いてある、シャニの結婚式の写真に映る自分の顔よりも更に酷い。
本。
そうだよな。
本来の目的はそれなんだよ。
監視とか何だとか、そんな聞いてて胸糞悪くなるような話をしに来たんじゃねぇんだ。
「すげぇ、良かった」
ようやく顔の筋肉を弛めて、絞り出すように言った。
彼女から借りた小説は、三人の少年たちが、それぞれの夢を叶える為に世界を旅する全四部作の冒険小説だった。
時代背景は今の時代よりも古く、科学技術も発達していない。旅をしながら、彼らは協力し、時にすれ違いながら、色んな国の人々と出会い、学び、成長していく。いわゆる、王道のファンタジー小説というやつだ。
一番好きな場面はどこ?
彼女が訊ねる。
「その国の一番強ぇ奴を決める拳闘士の国の話もいいが、やっぱ一番は最北の国の話……だな」
その後は、喉につっかえていたものが取れたようにすらすらと感想が出てきた。
「途中でよぉ、ギスギスしてガキみてぇな喧嘩したり、何でこいつらなんかと一緒に旅してんだ? って主人公の一人が不思議に思う場面があるだろ。クソ寒ぃ所で。んで、一人でふと空を見た時に、オーロラが出るんだよな。その時に、今まで読んできた“景色”が浮かんできてさ。何でかわかんねぇけど、俺もそこで、今までの話を思い出して、妙に感情移入しちまった。まるで、本当にこいつらと旅してきたみたいな感じになってさ」
わかる。と彼女が頷く。
「色んな色に変わるオーロラと、今まで見てきた色んな旅の景色をかけて書いてんだろ。書き方がうめぇよな。『生きてて良かったって思えるくらい綺麗だった』なんて。一度でいいから見てみてぇって思っちまう。そんな風に思える景色をよ」
今までに、そういうのは無かった?
彼女の問いに、「さぁな」と短く返す。
生きてて良かった……か。
爆散する敵のMS。
轟沈していく戦艦。
全てを無に返す核の光。
あの景色は、やはり爽快だった。
もう一度同じ快感を味わえるなら、また、痛みと快感が交互に訪れる出口のない牢獄に身を投げてもいいかもしれないとまで思う。
『でもさ、無い物ねだりなんてマジでしない方がいいよ。足掻いても、ダセェだけだから』
今日、すぐそこのベッドに腰を据えながら、クロトがそんなことを言っていた姿が亡霊のように浮かんで消えた。
無い物ねだり。
その通りだ。
与えられたMSは破棄され、軍も辞めさせられた。人生は有限で、時間も限られている。恐らく、二度とあの景色の中に戻ることは叶わない。
その辺の気持ちの切り替えは、我ながら早かったと思う。
しかし、その先がどうしても見えない。
自由だと言われたのに、実際は常に監視の目がある状態。
結局、別の牢獄に移されただけだ。
そんな中で、何を生き甲斐に生きろというんだか。
魔が差して、結婚なんてものに焦がれたこともあったが、よりによって一番そんなものとは無縁だと思ってた奴に先を越されるという体たらく。
ねぇな……見たい景色なんて。
借りた本の中で旅をしていた少年たちのように、自分は物語の主人公にはなれない。仮に主人公なら、もう少し何かが報われているはずだ。
何故か頭の中に無気力なシャニの顔が浮かんで、こちらを嘲笑ってくる。人の脳内でも嫌みな奴だな。ったく。
「あいつは、どうだ?」
あいつ──シャニのことだ。
いつも通りだよ。なんて、曖昧なことを言われるが、今日一日見てれば本当にその通りだと思った。
ぼーっとしてて、滅多に自分からは動かねぇし、自分勝手だし、てめぇが面白いと思ったことにしか興味がない。
それでも、
オルガはシャニの嫁を盗み見た。見たところ、暴行されたとか、無理して一緒にいるとか、そんな風には見えない。
それでも忠告しておくべきだと思った。
「気を付けろよ」
彼女が、不思議がって視線を送ってくるのが気配で分かった。
「あいつは……なんつーか、何考えてるか分からねぇし、ガキみたいにキレやすいし、暴れたら手が付けられねぇ。だから、困ったことがあったら言え。クロトでもいい。あのバカはゲームしかすることがねぇから、呼べばすぐ駆けつけるだろ」
「ゲームに夢中になってなきゃな」と、付け足すと彼女が笑った。
いや、笑うところじゃねぇんだが。
ありがとう──
彼女は感謝の言葉をオルガに投げた。それはてっきり、「私のことを心配してくれてありがとう」という意味の感謝だとオルガは受け取っていた。しかし、
ありがとう──シャニのこと心配してくれて。
オルガの予想に反して、彼女はそう言った。
「いや……」
あいつじゃなくて、お前の心配をしてるんだが……。