自転車を発進させようとしたクロトが突然呻いて動きを止めた。
「いっ……!」
散々煽られたお返しに一発制裁を与えてやろうと飛びかかろうとしたオルガは勢い余ってつんのめり、自転車のタイヤに足をぶつけた。
「急に止まんじゃねぇ、馬鹿!」
クロトはしばらく前方を睨み付けたまま動かない。かと思えばやがて、はぁ~とため息をつきながら自転車を降り、
「オルガ・サブナック君」
変に改まった、唐突なフルネーム呼び。
オルガは身構えた。
これは前触れだ。これからきっと、くだらないことを言われる。
「僕の“レイダー”に乗ることを許可しよう」
くだらない以前に、訳が分からなかった。
“レイダー”というのはクロトが自転車につけている名前だということは知っている。安物の自転車に、かつての自機の名前をつけるのもどうかしていると思うが、今重要なのはそこではない。
「何でまた急に—」
「ほら、たまには乗りたいだろォ? どうどうどう」
クロトはオルガに自転車を押し付け、意地でも自転車に乗るよう勧めてくる。何だこいつ、気持ち悪いな。
無理矢理ハンドルを握らされた時、オルガの視界に、クロトを自転車から下ろした元凶が映った。
はぁん……そういうことかよ。
「お前、上り坂を漕ぎたくないだけだろう?」
シャニのマンションの前に伸びている道はやや勾配のキツイ長い坂だ。今朝オルガも歩いてきたからよく覚えている。行きは下りだった。つまり、帰りは上りだ。
歩きならまだしも、自転車に乗って上るのも、押して上るのも一苦労だろう。
これは、今日一日の恨みを晴らす時だな。
オルガはクロトに悟られないよう、歯を見せて笑う。
「こういうのはどうだ? お前が勝ったらお前を後ろに乗せて俺が漕いでやる。俺が勝ったらお前が俺を乗せて漕ぐ」
「ふうん。面白いじゃん。で? 何の勝負で決めんの?」
「これに決まってんだろ」
オルガは拳を上げてニヤリとする。「なるほど」と、クロトもその意思を受け取り、拳を出す。
「「最初はグー! じゃんけん—」」
「あーもう! ちっきしょぉぉぉ!」
「どうしたどうしたブエル少尉? ちょっとスピードが足りねぇんじゃねぇの?」
「うっせぇな! お前が重いんだよこのデブ! つか、わざと後ろに体重かけてるだろ!」
「はははは! ゲームばっかりで怠けた身体を締め上げるにはちょうどいい負荷だろうが」
今日一日、散々俺のことをコケにした罰だ、とオルガはせせら笑う。
勝負は簡単。何の捻りもないジャンケン勝負。結果はオルガがチョキ、クロトがパーでオルガの勝ち。
普通に考えたら勝つ確率は三分の一。クロトも公平な勝負ならばとオルガの誘いに乗ったことだろう。
しかし、それは罠だった。オルガにはこの勝負に勝つ自信があった。
クロトには癖がある。
じゃんけんの際、互いの手を出し合う瞬間、彼は相手よりもワンテンポ早く手を変えてしまうのだ。つい熱くなって前のめりになってしまうのか、普段からゲームで鍛えられている反射神経がそうさせるのかは分からないが、オルガはその手の動きを見てからクロトが出す手をある予想し、勝てる手に変えることが出来た。
普通の動体視力で出来るものではない。これまでいくつもの肉体強化を受けてきた身体がこの必勝法を可能にしていた。薬漬けのこの身体も、たまにはいいこともあるもんだ。
最大のコツは時々わざと負けること。ずっと勝ち続けると流石に相手が馬鹿でも怪しまれる。だから、絶対に押し付けたいことがある時にだけ使うようにしている。
「ぜぇ、ぜぇ……到、着!!!」
ようやく坂道のゴールにたどり着いた。そこからは自転車の利点を遺憾なく発揮して平坦な道を楽々進む。
「ご苦労さん」
「お前、マジで覚えてろよ。次は絶対お前に漕がせるから」
次……か。
郊外から繁華街へと風景が移り変わる。飲み屋の雑な客寄せの声が耳に飛び込んできた。帰る客に、「また来てくださいね」なんて声をかけている人もいる。
『また、遊びに来てね』
唐突にシャニの嫁の声が頭に響く。
さっきマンションを出る時、リビングに忘れた携帯端末を届けてもらった後にそう言われた。
何となく返事をしたはいいものの、あのマンションに、“次”はいつ行くだろうと考える。
今回は行く目的があった。借りていた本を返すという目的が。しかし、今はもうない。用もないのに行くなんてこと──
「うおっ!!」
ある三叉路を通過しようとした時、突然自転車が急停止してバランスを崩したオルガは座っていた荷台から振り落とされた。
「いってぇな! 停めるなら言え!」
「言ったってば。送迎はここまでって。でもお前、全然返事がねぇんだもん。またしょうもない考え事でもしてたんだろ?」
「うっせぇよ。つかここまでって、俺ん家に帰んねぇのか」
「今日はね。んじゃ!」
「バイバーイ」と再び自転車を発進させるクロト。三叉路となっている道を、オルガが借りているアパートがある直進方向へは進まず、ハンドルを切って直角に分岐した道を行く。
その背中に向かってオルガは叫ぶ。
「俺ん家じゃなきゃ、どこ行くんだ!?」
「フレイんとこぉ!! 相当ヘソ曲げてるみてぇだから、機嫌取りだけして来るよぉ!」
……あいつら、本当に付き合ってねぇんだよな?
「あーそうだ! 言い忘れるところだった! ミスターアンドラスから伝言!!」
最後にクロトはオルガを振り返り、
「また遊びに来いってさあ!」
は? シャニが?
「そりゃどういう意味だよ! おい!!」
「さあね! 自分で聞けばァ?」
納得がいかないオルガを残してクロトは風のように去り、その姿はあっという間に人々が行きかう雑踏の中へ消えていく。かつて乗っていた自機のMSと一緒で、仕掛けるだけ仕掛けて逃げ足の早い奴だ。
あいつらしいけどな。
それより、問題はシャニからの伝言だ。
また遊びに来いだと?
「あの野郎、調子こいてんな」
ゆっくりして行けとか、また遊びに来いとか、一丁前なこと言ってんじゃねぇよ。
俺達がいなかったらそのままMSのパーツで終ってた奴が。
そう、俺達がいなかったら──
『逆に、オルガは絶対あいつを見捨てようとしなかったよね。あれ、何で?』
さっき言われた、クロトの言葉が不意に引っ掛かった。
何でシャニを見捨てなかったか……。
最初は、自分達だって人間として生きれるってことを証明したかったからだ。
だが、シャニがどうにもならなくて、諦めようとしたことがあった。
見切り発車で三人で暮らし始めたはいいものの、あいつは生きようとする気がこれっぽっちもなかった。支離滅裂な言動が日に日に増えて、流石に自分たちの手に負えなくなった。アズラエルに頼るのは癪だが、“回収”してもらうしかないと思った。
こいつは──“人”にはなれない。
そんな考えを改めたのは、ある日の夜だ。
クロトのいびきが煩くて、夜中に目が覚めた。顔面に向かって枕を投げつけてやると、いびきは多少マシになった。クロトは起きなかった。
その時、シャニがいないことに気付いた。部屋の外にあるキッチンでごそごそと動く影が見える。
あいつだと、すぐに分かった。
また何かろくでもないことをしようとしているんじゃないか。そう思って捕まえようとしに行った時、オルガは見た。
案の定、キッチンを漁っていたのはシャニだった。背中を丸めてしゃがみこみながら、何か食べていた。
食べていたのは食パン。焼いてもいなければ、何の味付けもしていない。そのままだとパサパサでクソ不味いだけのパンだが、シャニはそれを無我夢中で食べていた。「ちきしょう……ちきしょう……」と泣きじゃくりながら。
他人がどんなに手を尽くしても一口も食べようとしなかった奴が、自分で物を食べた。口では拒否しつつも、やはり腹が減って我慢が出来なくなったのだろう。それは、紛れもなく“人”の本能なんじゃないか。
シャニのその姿を見た時、オルガは思った。
殺せだの何だの言っておきながら何だよ……お前だって、まだ生きたいんじゃねぇか。
それ以来、アズラエルに引き渡すという考えはしなくなった。
しばらくして、シャニとクロトは一緒にゲームをするようになった。
いつからか忘れたが、シャニも自分でリハビリセンターに通うようになった。
そして、三人で暮らしてから一年半後──シャニは結婚した。
その間にオルガは辛くも職を得たわけだが、まさかシャニに結婚で先を越されるとは夢にも思わなかった。
あんな面倒くさい男と一緒になるなど、迷惑以外の何でもないだろうに。それでも、シャニ・アンドラスという男と結婚することを選んだ女がいた。
苦労して職を手に入れた自分がバカみたいにも思えて悲しくなることもあるが、今日のシャニの一言で一つだけ敗因が分かった。
『オレたちのこと、結婚する前からあいつには全部言ってあるし』
シャニはそう言った。
自分たちが強化人間として作られたこと。MSに乗って大勢の敵を葬ったこと。今でも薬を飲まなければ生きられない身体であること。その全てを話していたのだ。
俺は、言えなかった。
明かせば彼女がどう思うか、それを考えたら踏み出すことが出来ず、ずるずると足踏みしていたらこの様だ。
だから、シャニがぶっ倒れたことを嫁に言うか言わないかを聞かれた時も、“言わない”という選択をした。自分のことも言えない奴が、他人のことを言えるわけねぇだろ。
その反省を生かし、気になる女がいたら先に全部言うようにしてみたりもしたが、頭がおかしい奴だと思われるばかりで、まともに話を聞こうとする奴なんてほとんどいなかった。
というか、普通の人間は、そうだ。
軍に兵器として利用され、戦争が終わったら捨てられ、強化を施した後遺症を抱えているおかげで、薬がなければ生きられない存在。
可哀相。
普通の人はオルガ達をそう思うだろう。実際、就活や婚活の場で何回か言われた。
しかし、オルガに言わせればそんな風に思われる筋合いはない。
身体をいいように弄られ、MSに乗って戦場を駆けたことは今でも後悔していない。楽しかったとすら思う。生まれながらにして、ナチュラルよりも自分達の方が上だとのさばっているコーディネーターを蹂躙する優越感。
全部、自分で望んだことだ。憐れまれる筋合いなんてこれっぽっちも──
そこまで考えたとき、オルガは気づいた。
また遊びに来いってそういうことか?
自分の身に何があっても、少しも憐れまない奴がいるじゃないか。
しかも、多少は対処法に心得がある。薬だって共有出来る。
まさかあいつ、同じ強化人間である俺とクロトを近くに置いて上手いこと使おうとしてるんじゃないか?
なんて憶測が浮かんだが、
「いや、無いな」
眠そうなシャニの顔が浮かんで考えを改める。そこまで頭が回る奴じゃない。馬鹿だから。どうせ、俺をからかいたいだけだ。
続いて、クロトの生意気な顔が浮かんでくる。考えすぎなんだよ、ぶわーか。脳内クロト・ブエルがそう言ってくる。
「あーあ」
オルガは大きく溜息をついた。
俺もあいつらみたいに、馬鹿になりてぇな。
「また遊びに来い……か」
ったく、夫婦そろって同じこと言いやがって。
オルガは空を仰いだ。
既に繁華街は通りすぎ、アパートまでの街灯の少ない小道に差し掛かっていた。
雑居ビルの隙間から見える夜空に、取り分け明るい星が三つ、己の存在を競うように瞬いている。
シャニの戯れ言なんて無視すればいい。
そう思いたいところだが、このまま言われっぱなしも性に合わない。
「はっ!」
いいだろう。
てめぇの嫁に隠し事ばっかりしてこそこそしてるお前を、俺自身が“監視”しに行ってやろうじゃねぇか。おっさんの監視なんて可愛いもんだって思う程じっくりな。覚悟しとけシャニ・アンドラス。
借りは返す。売られた喧嘩は買う。それがオルガ・サブナックという男だった。
が、
『どうだった? KSK(間接キス)の味』
急に、古傷が疼く。
やっぱ、しばらくは、やめとくか……。
まぁ……その内、
「気が向いたら、な」