アンドラス宅、寝室。
オルガとクロトが帰った後、シャワーを済ませたシャニはすぐにダブルベッドの布団にもぐりこんだ。
ベランダ側に背を向けて、横に丸くなる。
疲れた……。
時間は二十二時を回っている。疲労が激しい。色々ありすぎて、もはや朝に起きたことなど忘れてしまいそうだ。
あぁそうだ。
今日の“日記”をしなきゃ。
眠気を我慢して目を開けた時、ちょうど嫁が手にノートとペンを持って寝室に入ってきた。
もう寝る?
彼女が言った。
「寝る……だから、早くして」
彼女は今にも寝そうなシャニの隣に座った。
今日はどんな一日だったの?
彼女が促す。
「今日は、確か……」
朝の記憶を呼び起こすが、早速言うことに詰まった。
薬も飲まずに一人で外に出た。検査もすっぽかした。部屋に帰って力尽きて、オルガに助けられた。そんなこと、正直に言うわけにはいかない。
「朝検査行って、帰ってきたらオルガが来てた……お前に、本返しに来たって」
さっき返してもらった。
思いっきり嘘をついたのに、彼女は何も気にしていない様子でそう言った。
ペンを走らせる音が聞こえる。
「で、クロトも来てあいつが買ってきたピザ食った……」
お金、あったのかな?
心配そうに彼女が言う。「無いから、ツケだって」と教えてやった。
「あと、フレイが来て、ビンタされた……香水のこと、トイレの芳香剤の匂いがするって言ったら、バチンって」
それは怒るかも。
彼女が失笑する。
「その後は……」
今日の一番の騒動を思い出す。アズラエルが捕まえに来たことだ。
「ものすごい……大乱闘」
くすっと笑いながらシャニは誤魔化す。
乱、闘……?
彼女が不思議そうに言う。
「ゲームの話。あと、ステラたちとも“遊んだ”……」
珍しいね。何をしたの?
彼女が訊ねる。
「投げ飛ばされて、のしかかられて、気絶させられた」
それは……えっと……。
彼女が反応に困り出す。
「ふっ……ゲームの話」
ゲームばっかりだね。
彼女が笑う。
「艦長のカウンセリングもした」
シャニの、じゃなくて?
彼女が確認するように言う。
「たまに、オレがしてやることもある……その後の話はいいよね」
うん。あと、掃除もしてくれた?
今度は彼女の方から聞いてきた。
「掃除……」
してない。何でそんなことをと思ったが、続く彼女の次の言葉でピンと来た。
この部屋、今朝よりも綺麗になってる。布団も、まるで新品みたい。
「……ちょっとだけ」
大ウソ。
アズラエルが全部片付けてくれただけ。
でも、彼女は気付かないし、シャニもこのことを彼女に言わない。
彼女だけが、何も知らずに“普通の結婚生活”を送っていると思っている。
いいんだ。
こいつは、何も知らなくていい。
余計なことは、何も。
どうせ
『お前が倒れたこと、あいつが知るとマズイことでもあんのか』
今朝オルガにそう突っ込まれたことが、もう随分昔のような気がする。
『めんどい……だから言わない』
『理由になってねぇ。心配かけたくねぇとか、もっとまともなこと言えねぇのか』
心配かけたくない。
それは、ある意味正解。
でも、たぶんオルガが思っているのとは違う。
心配なんてものは、結局は監視と同じだ。
問題を起こさないように目を光らせる。
心配と監視。
その二つの間に大きな違いがあるとは思えない。
ただでさえ監視されている生活を強いられているのに、そこに更に、自分を心配をする人の目が増えるなんてごめんだ。
それがたとえ、俗に言う
二人の周りにあるのは嘘ばかり。
嘘の自由。
嘘みたいな時間。
シャニもまた、共に暮らす彼女に嘘をつき続ける。
結婚してるなら隠し事をしちゃいけないなんて、そんなのは幻想だ。
そういえば、キッチンにあった油、知らない?
彼女に妙なことを聞かれた。
「油……」
何の話?
彼女曰く、キッチンに徳用の油があったはずだが、それが空になってたという。結構残ってたはずなのに、と。
油、油……。
眠くて回らない頭で、シャニは一生懸命記憶を辿り。やがて、一つの心当たりに気付いて「うっ……」と小さく呻いた。
『オルガは玄関に油撒いといて』
『何ですかあの古典的な油のトラップ。ボクのブランド物の靴が汚れちゃったんですケド』
思い出した。
アズラエルが来るときに、自分でオルガに指示したのだった。
くそっ。マジでやったのかよあいつ。こんなのどう言い訳すんだよ。最後の最後で変な置き土産しやがって。
「知らない……オルガが全部飲んだんじゃない? バカだから」
流石に冗談と分かる嘘だが、嫁はまた笑うだけだった。
ホントに疑わないな、こいつ。
「もう、終わりでいい?」
これ以上変なことを突っ込まれたら困る。
うん。と彼女が言う。
パタン、とノートを閉じる音が聞こえた。
「今日の“日記”、終わり」
お疲れ様。
彼女の声でシャニは目を閉じた。
日記。
それはシャニと嫁の間で交わされた二つ目の約束だった。
自分が離れている間、シャニに何があったかを一日の最後に話して欲しい。
内容は本当でもいいし、嘘でもいい。だから今みたいに、自分にとって都合が悪いと思ったことをシャニは話さない。遊び心が昂ると、脚色を加えて面白おかしく話をでっちあげたりもする。
シャニが話した内容は、嫁がノートに代筆する。
そんな信憑性に欠ける日記に何の意味があるのかは分からないが、特に自分にデメリットになることも無いからと、シャニはその約束を守るようにした。
緩やかな眠気に誘われながら、シャニは言わなかった日記の内容を思い出す。
リハビリセンターからの帰り道。
目の前に停まる黒い車。点滅するハザードランプ。
乗り込んだ車内で交わした、アズラエルとの会話。
『もしも君たちのMSがまだ残っていて、乗ってもいいという状況になった時、君はどうします?』
そんなの、乗るに決まってる。
あの時、シャニは心の中で即答した。
まだ乗れる状態にない。
アズラエルはそう言っていたが、少しでも可能性があるなら期待せずにはいられない。
またMSに乗れるなら、何だってする。
検査もサボらずに行く。
夢に見るほど欲していたものが手に入るなら、今持っているものを全部捨てたっていい。
隣にいる、こいつのことだって──
オルガとクロトは、どうすんのかな。
シャニの知る限り、あの二人はそこまでMSに執着があるようには見えない。
でも、あいつらも結局は自分と同じ“生体CPU”。
どれだけ平和な日常に染まろうとも、MSを鼻の先に持ってこられたら、人参を与えられた馬のように食いつくはずだ。
人参に食いつく二人の間抜け面を想像してしまう。
何がおかしいの?
彼女が聞いてくる。
笑い声が漏れてしまったらしい。
「ちょっとね……そういえばオルガ、何か言ってた?」
何かって?
「また来るとか……言ってた?」
気が向いたら、だって。
「そう……」
彼女の手が、シャニの髪に触れる。ゆっくり、まるで幼い子どもを寝かしつけるように彼女は頭を撫でる。寝る時はいつもそうしてくれる。
とても心地よい。これがあるから、夜だけはぐっすり眠れる。
良かったね。
不意に彼女が言った。
「?」
三人で集まったの、久しぶりだったんでしょう? 楽しかった?
「……さぁね」
「でも……」とシャニは続ける。
「久々に、長い一日だった……」
シャニが静かにそう言った時、窓の外で星が一つ瞬いて零れた。その星は流線を描きながら、平和な世界に住む人々の営みを繋ぐように流れていく。
☆
ブーッブーッ
「あ? 何だ、編集長かよ。俺は今日休みだぞ。連絡してくんな。流れ星を見たかって? 知るか。見てねぇよ、んなもん。そんなんでかけてくんじゃねぇ。は? 新しい仕事? 締切は……来週末!? ふざけてんのか? ちなみに、テーマは……“子供”って馬鹿か! 出来るわけねぇだろ! 仕事振る奴を選べよ! ……何? ダメ元で言ってみただけだって? てめぇ、人を舐めてんのか。ああいいよ、分かったよ。やってやるよその仕事。書きゃいいんだろ書きゃ。売られた喧嘩は買ってやる。その代わり、次の給料二倍に上げ──切りやがった、クソが」
☆
「楽勝だったな、今日の仕事」
「ステラたちのこと、シャニにバレちゃったかな……」
「知んねぇ。つか、別にバレたってよくねぇ?」
「いや。ネオは、出来るだけ俺達の存在は秘密にした方がいいと言っていた。その方が動きやすいってな」
「あぁ、そう」
「ま、シャニは一番何考えてるか分かんねぇけど、口は硬い方だろ」
「これでバレたのがクロトだったら、ボクたちお仕舞いだった」
「そう、なの?」
「あいつはいつ何を口走るか分かんねぇって有名だからな。気をつけろよ、ステラ」
「うん、わかった」
「なぁ、それよりドーナツ食おうぜ! ネオが買ってくれるって言ってたやつ! ボク結構楽しみにしてたんだ」
「ネオはステラに預けたって言ってたな。どうした、ステラ」
「……ドーナツ」
「まさか、センターに置いて来たんじゃないだろうなぁ?」
「ううん……あげちゃった、シャニに」
「「はぁ!?」」
☆
ピンポーン
「アルスターさーん、レイダー便でお届け物ですよォ」
〈身に覚えがありません〉
「ふうん。いいのかなァ~。毎日予約が殺到してすぐ売り切れるっていう超人気店のドーナツなのに」
〈え!? 〉
ガチャッ
「ありがとう、ドーナツ“だけ”受け取るわ」
「そうはさせねぇよ、っと!」
「あ! ちょっと! 勝手に入らないでよ!」
「何か飲み物ない? チャリ激漕ぎさせられて喉カラカラなんだよねェ~」
「適当にその辺にあるグラス使って水でも飲めば?」
「あーグラスはダメ。今日の僕のブロックワード。見たら笑い死ぬ」
「って言いながら楽しそうね。その笑い死ぬって、さっきから何なの?」
「いやぁ、実はさ──」
☆
楽しいと思える時間はあまりにも短く、それなのに人生という時間はあまりにも長い。
シャニは目を閉じながら、明日のことを考える。今日昼寝出来なかった分、明日はずっと寝ていようかな。
寝ればMSの夢を見るかもしれない。そして目が覚めて、現実を思い出して傷付くのかもしれない。
それでもいつか手に入る望みがあるのなら、今はまだ、バカ共に付き合いながら、いつ失われるか分からないこの“生”を堪能するのも悪くない。
おやすみ、シャニ。
今日という日を締めくくるように、嫁がそう言った。彼女の声と、頭に残る優しい手の温もりが、シャニを深い眠りの淵へと沈める。
その日、シャニは一つも夢を見ることもなく、朝日が昇るまでぐっすり眠った。