「うっひょーーーー!」
晴れ空の住宅街にクロトの上機嫌な叫びが響き渡り、道行く人は急に何事かと驚き目を向ける。
長い下り坂を一台の自転車が猛スピードで駆け下りていた。
黒のフレームに稲妻のように赤い模様が走るシティバイクにまたがるその操縦者は、ハンドルを握る腕に更にピザ屋の箱の入った袋を下げていた。前方に備え付けられたカゴの中では冷えた炭酸飲料のボトルが跳ねている。
「ふんふーん♪」
鼻歌を歌いながら、ブレーキを一切使わずに坂を降りていく。
シャニの家に行く道中にあるこの坂はクロトのお気に入りだった。車輪の回転に身を任せるだけで、周りの景色が一瞬で過ぎ去っていく。この疾走感がたまらない。
それでも、MSに乗っていた頃の速度と比べたら大した速さではないが、彼にとってそれは問題ではない。今の自分が満足出来ればそれでいい。今降りている下り坂が、帰りには地獄の上り坂になることも今は考えない。
あっという間にシャニの家の前に辿り着き、急ブレーキをかけて停める。タイヤが悲鳴を上げるが、クロトの耳には入らない。
もはや目をつむってでも歩ける程に通い詰めたマンションの裏手にある駐輪場に自転車を置き、四階までの階段を一段飛ばしで駆け上がる。
ピンポーン。
目的の部屋の前で一応インターホンを鳴らすが反応はない。どうせ鍵は開いているだろう、と決めつけて返事を待たずに玄関のドアを開けて中にはいった。
「あちゃ~……今回も派手にやってんねぇ」
足の踏み場もない玄関の惨状を目の当たりにしても別段驚きはしない。
シャニが薬を飲み忘れて家の中で暴れるなんて、今までも何回かあった。
転がっている物を踏まないように爪先で歩きながらクロトは玄関を通過する。
「ちわー!シャニくん生きてるぅ?可哀そうな君に、クロトくんがピザを買って来てあげたよーう」
出迎えはなかったが、リビングから声が聞こえた。
スキップするように跳ねながらそちらへ向かい、ドアを開けると、
ビッ!!
「いっっっっった!!!」
クロトを迎えたのはオルガのデコピンだった。
「何すんだ!コノヤロー!!」
「こっちの台詞だ!何でピザなんだよ大馬鹿が!」
「ぁあ?『シャニがぶっ倒れて動けないから何か食うもん買ってこい』って、そっちが送ってきたんじゃんか!」
「だからってピザ買って来る奴があるか!もっと何かあるだろう?」
「大丈夫だって。ピザは万病に効く最強の食いもんだから」
まだ何か言いたそうなオルガを無視しつつ、クロトはずかずかとリビングに足を踏み入れる。
いつものソファに、いつものようにシャニが怠そうに座っていた。
「なんだ、元気そうじゃん」
「そう見える?」
「見えるよ。いつも通りって感じ」
「こう見えて、まだしんどい。でもピザは食いたい」
「ジンジャーエール、ある?」とシャニに聞かれたクロトとは「勿論♪」とペットボトルのジュースを掲げて見せる。「やった」とシャニがにわかに顔を緩ませる。
そこへ不服そうな表情のオルガがやって来る。
「オルガ……コップと皿」
すかさず、シャニがオルガを顎で遣う。もちろん、オルガは「あぁ?」と更に不機嫌に顔を歪ませる。
「何で俺がそんなことしなきゃなんねぇんだ。てめぇで取りに行けよ」
「罰ゲーム、これで消化でいいからさ~」
「んのやろ……」
舌打ちしながらも、オルガはキッチンへ取りに行く。
二人のやり取りを見ながら、クロトは疑問を口にする。
「罰ゲームって、何?」
「あれ」
クロトの問いにシャニがテレビを指さす。
対戦ゲームのリザルト画面が映っている。
検査を終えてここに来る前に、クロトも数回程ゲーセンで遊んで来たゲームだ。
「へーお前ら二人でやるとか珍しい」
「クロトが来るまで暇だったから」
「てか、オルガの奴ぼろ負けじゃん?なるほど、さっきのデコピン、さては僕への八つ当たりだな?ちっせぇ男~」
「うっせーな。殺すぞ」
手を上げるオルガに、「暴力反対~」とクロトもふざけながら両手を上げる。「アホくさ……」とシャニがぼそっと呟く。
何の生産性もない、くだらないやり取り。しかし、そんな一連のやり取りをクロトはどこか懐かしく感じた。懐かしい、けれど、新鮮でもあるような不思議な感覚。
違和感の正体を探るべく、クロトは他二人の様子をしばらく眺めていた。
あぁ、そうか。
クロトの視線に気づいたオルガが「なにジロジロ見てんだよ」と不機嫌を顕に言う。
「いやぁ、なんか……こうやって三人揃うの、久々だなぁって。オルガがここにいんのも何か見慣れなくて変な感じ」
クロトの言葉に、オルガがぴくっと眉を動かす。
シャニはそれがどうしたと言わんばかりのぽかんとした表情。
「見慣れなくて当たり前だろ。初めて来たんだから」
「オルガは何でいんの?シャニに呼ばれでもした?」
「呼んでない……こいつが勝手に来た」
「へぇ!よく来れたね?」
「そ、そんな大袈裟に驚くことでもないだろ」
「驚くって。だってお前ー」
人数分の皿とコップを持って戻ってきたオルガに言いかけて、クロトは口を開けたまま固まる。
ちょうどシャニの後ろに立ったまま、物凄い形相でこちらを睨み付けてくるオルガに気付いたからだ。
その目が必死に何かを訴えている。わずかに口が動く。
い、う、な、ば、か。
何を言うなと言われているのか。
クロトはすぐにピンと来た?
そうだった、“あのこと”シャニは知らないんだった。
「―だってお前……えーと、そもそも用が無いから行かねぇ、とか言ってたじゃん」
適当に誤魔化した。
オルガもそれに対する返答を適当に取り繕って「今回はたまたま近くを通りかかったから寄ってみただけだ」なんて言うけど、言い訳としてはかなり苦しい。
シャニはどんな反応を示すだろう。
チラッと盗み見ると、彼は無言で意味不明な笑みを浮かべていた。
何も気にしてないならそれでいいけど―
あ~くそ~言いてぇ~!
ストレス溜まる~!
オルガにはシャニに言えないことがある。
彼もまた、シャニの奥さんのことが好きだったという事実だ。
クロトがそれを知ったのは、シャニから直に結婚の報を聞いた日の翌日。
突然オルガに「付き合え」と言われ、何だ何だ?と思いながら連れていかれたのは一軒のバー。
発散したいことがある時は酒を飲むべし。そう、職場の人に勧められたらしい。
リハビリセンターの研究員から飲酒を禁じられていた身ではあったが、オルガはその禁を侵し、初めての飲酒という形でアルコールを摂取しながら、クロトに全てをぶちまけた。
気になり出したきっかけ。
プロポーズの台詞パターン。
指輪の購入も検討してたこと。
それなのに先を越されたこと。
泣き言と暴言を撒き散らす酔っ払いの相手をしながら、オルガって酒入るとこうなるんだ、なんて新発見を記憶に刻んだことを今でも覚えている。
それからオルガは、結婚式当日だけは出たものの、日常生活に戻った後はシャニのことなど一切話題にもしない程避けていた。
そんなオルガが、一体何の用でここに来たのだろう。「シャニとその嫁が一緒に暮らしている空間に足を踏み入れるくらいなら、一週間薬抜きの部屋にぶちこまれた方がマシだ」とか言っていたのに。
今ここにシャニのカミさんもいたら、オルガはどうなっちゃうのかな。
不謹慎だ、などという考えはクロトの頭にはなかった。
面白そう。そう考えたらじっとしていられない。
携帯端末を素早く取り出し、大急ぎで画面を叩く。
〈今日いつ帰ってくる?〉
そんなメッセージをシャニの嫁に送った。既読はすぐにはつかないが、彼女は真面目だから、暇があれば絶対に返してくれるはずだ。
後は、オルガが帰らないように見張るだけ。
ふふふ、逃がさないよ。
今日は、絶対に。
この時、興奮していたクロトは気づかなかった。
自身の携帯端末に、“ある人物”から着信とメッセージの通知が大量に来ていたことに。