黒き滴りと、盤外の神
―――ポツリ、ポツリ。
深く焙煎されたコーヒーの雫が、ガラスのサーバーへと落ちる微かな音だけが、薄暗い部屋に響いている。
トレセン学園の片隅にあるこの部屋は、まるで分厚い水底に沈められたかのように、外の世界の喧騒から完全に切り離されていた。カップに注がれた漆黒の液体は、部屋の僅かな光すらも吸い込むように暗く、ただ静かに、名状しがたい形の湯気を揺らしている。
「……皆さんは、『運命』や『奇跡』といったものを信じますか?」
マンハッタンカフェは、カップの底の暗闇を見つめたまま、静かに語り始めた。
その黄色い瞳は、目の前の誰かに向けられているようでもあり、もっとずっと遠く――この世界の外側にいる『観測者』へ向けられているようでもあった。窓の外からは、遠くグラウンドを駆けるウマ娘たちの足音と、熱気に満ちた歓声が微かに聞こえてくる。
「私たちの世界は、熱狂に満ちています。誰もが自らの足で運命を切り開き、夢へと向かってターフを駆ける。限界を超えて汗を流し、時には挫折の涙を飲み込みながら、それでも前を向く。……皆、自分の意志で走っていると疑わない。自分の流した血と涙こそが、輝かしい勝利を掴み取ったのだと信じて疑いません」
彼女はゆっくりとカップを持ち上げ、一口、その深い苦味を飲み込んだ。舌の上に広がるのは、ひどく深く、ざらつくような真実の味だ。
「……ですが。もしもその『情熱』や『努力』のすべてが。果ては『限界を超えて流す涙のタイミング』すらも。最初から何者かによって書き上げられた、ただの台本(シナリオ)に過ぎなかったとしたら?」
カフェの瞳が、すっと細められる。彼女だけが、その残酷な真実の輪郭を撫でていた。
「盤上の駒は、自分を動かす指先の存在に気づきません。自分がどこへ向かわされているのかも、なぜそこに配置されたのかも知らず、ただ与えられた役割を全うすることに喜びを見出すように『作られて』いる。……神様というのは、私たちが想像するような慈悲深い存在ではないのです。ただ遥か高みから盤上を見下ろし、無慈悲に『最高の結果』だけを求める、ひどく強欲で、畏れ多いもの」
カフェはカップをソーサーに戻し、カチリ、と硬質な音を立てた。そして、まるでガラス越しの『あなた』を見透かすように、ゆっくりと顔を上げる。
「今宵お話しするのは、純粋に走ることを愛した、ある平凡なウマ娘の物語。……神の祝福という名の『最悪の毒』に魅入られ、己の形すらも書き換えられてしまった、哀れな少女の記録です」
どこからか、微かにターフの地鳴りのような歓声が聞こえた気がした。
「どうか、最後まで見届けてあげてください。華やかな喝采の裏側に閉じ込められた……彼女の、誰にも届かなかった本当の悲鳴を」