『殿堂入りウマ娘』   作:灯火011

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第1話:泥だらけの初陣と、天への一礼

 ターフの匂いがした。

 

 青々と茂る芝の香り、湿った土の匂い、そして、これから己のすべてを懸けて走り出す少女たちの、熱を帯びた呼吸の匂い。

 

 トレセン学園に入学したすべてのウマ娘が、最初にくぐらなければならない登竜門。

 

 『メイクデビュー』。

 

 それは、彼女たちがアスリートとしての産声を上げる、神聖なる初陣の儀式である。

 

 

 ゲート裏の待機所には、ひりつくような緊張感が張り詰めていた。

 

 美しくブラッシングされた艶やかな毛並み。一切のシワもない、仕立て下ろされたばかりの体操服。この日のために洗練されたトレーニングを積み、一流の血統(因子)を受け継いできたエリートのウマ娘たちは、皆一様に闘志に満ちた鋭い眼差しをターフに向けている。

 

 そんな絢爛たる才能の集みの中で、彼女は一人、酷く浮いていた。

 

「……ふぅー、ふぅーっ」

 

 ゼッケン番号は、大外の18番。

 

 名もなき家柄。特別な才能の欠片もない、小柄で不器用な少女。それが彼女だった。

 

 彼女は、他の誰よりも地味で、どこか野暮ったかった。手足は小刻みに震え、心臓は早鐘のように鳴り響いている。周囲のエリートたちが放つ圧倒的な「強者のオーラ」に当てられ、今にも泣き出してしまいそうなほど顔を強張らせていた。

 

『――各ウマ娘、ゲートイン完了。態勢完了です』

 

 実況の声が、無機質にスタジアムへ響き渡る。金属の扉が彼女の前に立ちはだかった。

 

 彼女は前だけを見据える。その視線の先には、どこまでも続く真っ直ぐな緑の道。

 

(走る。……私が、走るんだ。この、夢にまで見た場所を)

 

 極度の緊張の中で、彼女の脳裏に浮かんだのは、勝利への執着でも、闘争心でもなかった。ただただ純粋に、この場所に立てたことへの震えるような『歓喜』だった。

 

 直後。

 

 ガコンッ!! という破裂音と共に、世界が弾けた。

 

「あっ……!」

 

 ゲートが開いた瞬間、残酷なまでの『才能の差』が浮き彫りになった。

 

 エリートたちは、まるで弾丸のように滑らかで完璧なスタートを切り、一瞬にしてトップスピードに乗る。力強い踏み込み、無駄のない前傾姿勢。それは計算し尽くされた、血統が証明する『速さ』そのものだった。

 

 対する彼女は、ゲートの開く音に肩をビクンと跳ねさせ、最初の一歩を完全に踏み遅れていた。焦って前へ出ようとするが、足元がもつれ、不格好に上体が浮き上がってしまう。

 

 スタートからわずか数秒。

 

 彼女は、先頭集団から完全に置いていかれ、ポツンと一人、最後方を走らされていた。

 

『さあ、先頭は早くもレースを作っていく! 大外18番は大きく出遅れた! これは厳しい展開か!』

 

 スタンドから、落胆のようなどよめきが微かに聞こえた気がした。……だが、彼女の耳には、そんなものは届いていない。

 

「はぁっ! はぁっ! はぁっ!」

 

(苦しい。肺が燃えるように熱い)

 

 前を走る17人のウマ娘たちが一斉にターフを蹴り上げることで、前日の雨を含んだ重い芝と泥が、容赦なく後方の彼女へと降り注ぐ。

 

 バチバチと、顔に、腕に、おろしたての勝負服に、冷たい泥が叩きつけられる。

 

 視界が塞がれる。口の中に、じゃりっとした土の味が広がった。

 

 それは、弱者に与えられる屈辱の味。才能なき者が浴びる、敗北の泥。普通のウマ娘ならば、この圧倒的な絶望感と泥の冷たさに心が折れ、走ることをやめてしまうだろう。自分には才能がない」と、限界の前に膝を屈するだろう。

 

 だが。

 

(……土の、味だ)

 

 泥まみれになりながら、彼女の瞳は決して死んでいなかった。むしろ、その不器用な脚をさらに力強く、地面へと叩きつけた。

 

(冷たい。痛い。苦しい。……でも、私は今、走ってる! この脚で、レース場のターフを走ってるんだ!)

 

 彼女にとって、顔に叩きつけられる泥すらも、自分がターフに存在しているという『確かな証明』だった。

 

 他者との比較などどうでもいい。ただ、この芝生の上を全力で駆け抜けることが、たまらなく嬉しかった。その無私の喜びが、限界を迎えていたはずの筋肉に、規格外の熱を帯びさせていく。

 

「あ、あああああっ!!」

 

 第三コーナーから、第四コーナー。最終直線へと差し掛かる。先頭集団では、血統に恵まれたエリートたちが互いを牽制し合い、少しでも走りやすい『荒れていない外側の芝』へと進路を取り始めていた。

 

 泥を嫌い、効率よく加速するための、理にかなった強者の選択のはずだった。

 

 結果として、内ラチ沿い――最も泥深く、脚を取られやすい最悪のコースが、ぽっかりと空いた。荒れている内ラチ沿い、誰もそこを通ろうとはしない。

 

 だが、彼女は躊躇しなかった。

 

「い、く……っ!!」

 

 泥だらけの小柄な身体が、弾かれたように内側の悪路へと突っ込む。

 

 ズブッ、ズブッ、と泥が脚に絡みつく。恐ろしいほどの体力が削られていく。しかし彼女は、その泥の重さすらも『ターフとの対話』であるかのように、全身全霊で抱きとめた。

 

 泥まみれになりながら、顔を歪め、よだれを垂らし、腕を振り乱す。――決して美しいフォームではない。エリートたちがせせら笑うような、泥臭くて不格好な、惨めな走りだ。

 

 だが、その一歩一歩には、ただ純粋な『前へ進みたい』という祈りだけが込められていた。

 

『残り200! 先頭は依然として激しい競り合い! ……いや、内から何か来る! 内から、泥だらけの18番だァァァッ!!』

 

 実況の叫び声が裏返る。

 

 誰もが目を疑った。最後方に沈んでいたはずの小柄なウマ娘が、最も過酷な泥の道を突き進み、先行していたエリートたちの背中へ、一歩、また一歩と喰らいついているのだ。

 

「はぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 彼女の視界は、汗と泥でもう真っ白だった。誰が隣にいるのかもわからない。自分が何着なのかもわからない。ただ、目の前に白いゴール板が見えた。

 

「あ。と。一歩! あと一歩だけぇええええええ!」

 

 彼女は祈るように首を前に突き出し、渾身の力で最後のターフを蹴り飛ばした。

 

 ――ズバァァァンッ!!

 

 複数のウマ娘が、ほぼ同時にゴール板を駆け抜けた。

 

 

 スタンドが水を打ったように静まり返る。長すぎる写真判定の時間が過ぎていく。

 

 ターフの上では、レースを終えたエリートたちが息を整えながら、

 

「なんて走りづらいバ場だ」

「あの内側から来た泥だらけの子、邪魔だったわね」

 

 と、美しさを損ねた不満を口々に漏らしていた。やがて、電光掲示板の一番上に、赤いランプと共に数字が灯る。

 

 『1着 18』

 

 ハナ差。わずか数センチの差で、泥だらけの最下層が、エリートたちを差し切ったのだ。

 

「え……?」

「嘘でしょ、あんな不格好な走りで……」

 

 どよめきが広がる。それは称賛というよりも、番狂わせに対する困惑に近かった。

 

 スマートな勝利を尊ぶウマ娘たちにとって、這いつくばるようにして泥水を啜りながら掴み取った彼女の勝利は、ウマ娘としての誇りや美しさを欠いた、みすぼらしいものに映ったからだ。エリートのウマ娘たちは、不快げに鼻を鳴らし、勝者である彼女に冷たい視線を浴びせた。

 

 だが。当の彼女は、周囲の冷笑など一切気にも留めていなかった。勝負服は泥で真っ黒に染まり、膝はガクガクと震え、荒い呼吸を繰り返している。

 

 彼女は、自分が駆け抜けてきた真っ直ぐなターフを振り返った。そして、

 

「……っ」

 

 スッ、と姿勢を正した。泥まみれの身体で。誰に強要されたわけでもなく。ただ、今日自分が走らせてもらった芝生と、自分を見守ってくれた大いなる空に向かって。

 

 深く、深く、九十度の角度で、一礼をしたのだ。

 

「走らせてくれて……ありがとうございました」

 

 震える声で紡がれた、誰に聞かせるわけでもない、純粋な感謝の祈り。

 

 勝利を誇るガッツポーズでも、才能のなさを呪う涙でもない。それはただ、無事に走り終えられたことに対する、三女神と世界への、混じり気のない畏敬の念だった。

 

 その一礼の異様なまでの静けさと美しさに、先程まで彼女を嘲笑していたウマ娘たちは言葉を失い、呆然とその背中を見つめることしかできなかった。

 

 これが一人の泥まみれの少女の、最初の一歩であった。!

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