『殿堂入りウマ娘』   作:灯火011

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第2話:見えざる導きと、折れない膝

 メイクデビューでの泥だらけの勝利から、数週間が過ぎた。

 

 華々しいデビューを飾ったエリートのウマ娘たちが、綿密に計算されたスケジュールに従い、優雅に休養と調整を繰り返している中。

 

 彼女の日常は、誰の目から見ても『異常』の二文字に尽きた。

 

 

 早朝。まだ薄暗いトレセン学園のダートコースに、荒々しい足音と、悲鳴のような呼吸が響き渡っている。

 

「はぁっ……! あ、ぐっ……!」

 

 泥まみれになりながら重いタイヤを引き、限界まで自分を追い込んでいるのは、あの不格好な少女だった。

 

 彼女の脚は、連日の過酷な練習による疲労で、鉛のように重くなっているはずだった。筋肉は悲鳴を上げ、休養を渇望している。

 

 ウマ娘の強靭な肉体であっても、これ以上の負荷は故障に直結する危険水域。それでも、彼女の足は止まらない。

 

 いや、止まることが『できない』のだ。

 

(ああ……今日も、来てくれたんですね)

 

 彼女はそんな、他者から見れば絶望的な痛みで顔を歪めながらも。彼女の瞳からは熱は消えず、ただひたすらに、虚空に向けて恍惚とした色を浮かべていた。

 

 

 彼女の背中には、時折、抗いようのない『強烈な意志』がのしかかることがあった。

 

 それは、例えるならば目には見えない巨大な『手』。

 

 休みたいと願う身体を強制的に叩き起こし、コースへと引きずり出す、絶対的な重圧。

 

 他のウマ娘であれば、その理不尽な強制力に恐怖し、『どうしてこんなに走らされるの』と天の采配を呪い、心が折れてしまうような過酷な負荷。

 

 だが、才能のない彼女は、その『見えざる重圧』の正体を、まったく別のものとして捉えていた。

 

(才能なんて欠片もない私に。エリートの子たちみたいに、綺麗に走れない私に。……あなたはまだ、『走れ』って言ってくれるんですね。私のことを、見捨てないでいてくれるんですね……!)

 

 彼女は、自分を酷使するその重圧を、自分を導いてくれる『見えざる大いなる期待』として、疑いもせず、善意として受け止めていたのだ。

 

 血を吐くような特訓の強要も。

 

 体力が削られた状態での、情け容赦ない連続出走も。

 

 すべては、自分のような不出来な娘をなんとか勝たせようと、つきっきりで指導してくれている大いなる意志からの『愛情』なのだと。

 

「あっ、あぁぁぁぁぁっ!!」

 

 見えない手に背中を押されるようにして、彼女はさらに加速する。

 

 擦り切れた膝から血が滲んでも、彼女は決して「痛い」とは言わなかった。代わりに漏れるのは、

 

「――ありがとうございます」

 

 という祈りのような言葉だけだった。

 

 

 その週の週末。スタジアムのパドックは、異様な空気に包まれていた。

 

「……嘘でしょ。あの子、また出走する気?」

「先週も、その前の週も走っていたわよ。どう考えても常軌を逸しているわ。彼女のトレーナーは何をしているのかしら?」

 

 待機室の窓から、エリートのウマ娘たちが信じられないものを見るような目で、パドックでお披露目をする彼女を見下ろしていた。

 

 ――三週連続の出走。

 

 それは、洗練された現代のレース理論においては、自ら脚を壊しにいくような狂気の沙汰だった。彼女の歩様は明らかに重く、毛ヅヤも悪い。限界をとうに超えているのは明らかだった。

 

 ゲート裏。出走を待つ彼女の隣に、美しく磨き上げられた体を持つ、銀髪のウマ娘が並んだ。名門の血を引き、圧倒的なスピードと戦術を持つ、世代トップクラスのエリート。

 

 彼女は、今にも倒れそうに肩で息をしている不器用な少女を一瞥し、冷たく言い放った。

 

「見苦しいわね」

 

 氷のような声だった。

 

「才能がないなら、せめて身の程を弁えなさい。そんなボロボロの身体で出走して、レースの品格を下げるなんて。……無意味に自分を傷つけるだけの走りに、何の価値があるの?」

 

 それは、レースに参加する者としての矜持だった。このトゥインクルシリーズというのは、観客をも楽しませてこそ。演者がボロボロでは、観客は楽しめない。加えて、完璧な勝利の方程式において、無謀な真似を繰り返す彼女の存在は、ただの目障りな異物でしかない。

 

 だが、言われた少女は、汗にまみれた顔をゆっくりと上げ、銀髪のエリートに向けて、ふわりと笑ったのだ。

 

「……価値なら、あります」

 

 怒るでもなく、惨めさに俯くわけでもない。静かに、口を開く。

 

「何? ボロボロになってまで走る理由を言ってみなさいな」

 

「私が走ることで。……私を信じて、背中を押してくれている『誰か』が、少しでも喜んでくれるなら。この脚が折れたって、私には……走る価値があるんです」

 

 その瞳の奥にある、狂気的なまでの純粋な光。自らを酷使する見えざる重圧に対する、一切の疑いを持たない無私の愛。

 

 それを見た瞬間、冷徹だった銀髪のエリートの背筋に『悪寒』が走った。

 

(なんですの、この娘は。底知れない、何かを……)

 

 気味の悪い生き物を見るような目で、思わず一歩後ずさる。

 

『――各ウマ娘、ゲートイン完了です』

 

 ファンファーレと共に、レースが始まった。

 

 

 スタート直後から、彼女にとってのレースは地獄だった。

 

 疲労の蓄積した身体は、本能的にブレーキをかけようとする。前に進もうとする意志を、肉体が全力で拒絶する。視野が狭くなり、血の味が喉の奥に込み上げてくる。先頭を行く銀髪のエリートの背中が、絶望的なほど遠ざかっていく。

 

(苦しい……。脚が、ちぎれそう……)

 

 意識が飛びそうになった、その時だった。

 

 ――ドンッ!

 

 彼女の背中を、あの『見えざる手』が、力強く、そして優しく叩いた気がした。

 

『いけ。止まるな。お前はまだ走れる』

 

「っ……あ、あああ……っ!!」

 

 その瞬間、彼女の身体に、生物としての『限界』を無視した、異常な底力が沸き上がる。そしてまるで爆発したように、ターフを蹴って加速していく。

 

 だが、その瞳には一切の恐怖は無い。なぜならば、彼女にとって、その見えざる圧力は「信頼」のように感じられていたからだ。

 

 ――誰も期待していない自分に、唯一期待をかけてくれる存在。その祈りに応えたいという強烈な『恩返し』の想い。そんな想いが、悲鳴を上げる筋肉の繊維を無理やり繋ぎ止め、ターフを蹴り砕く力へと変換していく。

 

「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 最終直線。後方に沈んでいたはずの彼女が、獣のような咆哮と共に、凄まじい末脚で追い込んできた。

 

 美しさなど微塵もない。よだれを撒き散らし、全身の骨を軋ませながら、ただ真っ直ぐに、先頭の銀髪のエリートへと喰らいついていく。

 

『やってきたぞやってきたぞ! 外から! 外から、連闘の疲れなど全く感じさせない執念の追い込みだァァァッ!!』

 

 ――嘘でしょ。

 

 振り返った銀髪のエリートの顔が、驚愕に歪む。

 

 天性の才能を持ち、努力を繰り返し、そしてトレーナーと共に作り上げ、計算し尽くされたコース取りだったはずだ。それでいて、もう、絶対に届くはずのない距離だったはずだ。誰も、影すらも踏めないはずだった。

 

 だが、すべてのレースの常識を無視して、泥だらけのバケモノが、真横に並びかけてくる。

 

「こんな、デタラメ……!! 抜か、せるかあっ!!」

「はぁぁぁぁあうああぁぁぁぁあっ!!」

 

 二つの影が、もつれ合うようにゴール板へとなだれ込む。

 

 結果は――エリートウマ娘のハナ差での辛勝だった。主人公の泥臭い執念は、わずかに届かなかった。

 

「……っ、……っ」

 

 ゴール板を過ぎた瞬間、主人公は糸が切れたように膝から崩れ落ち、ターフの芝生の上へとうつ伏せに倒れ込んだ。

 

 誰がどう見ても、彼女は完全に体力を使い果たし、指一本動かせない状態だった。

 

 

 銀髪のエリートは、彼女を見下ろしながら、呆然と立ち尽くしていた。

 

 ……勝ったのは自分だ。だが、自分の心臓は恐怖と焦燥で早鐘のように鳴っている。だが、足元で倒れ伏している敗者の顔には、信じられないものが浮かんでいた。

 

 彼女は、苦しさなどまるで無いかのように口元を微かに歪め、空に向かって……笑っていたのだ。

 

「……すみ、ません。勝て、なかった……。でも、最後まで……走りきれました……」

 

 誰の目にも見えない虚空に向かって、彼女は倒れたまま、嬉しそうに囁いた。

 

「――今日も、私を見捨てずに、導いてくれてありがとう」

 

 その祈りのような声は、敗北の悔しさよりも、全力を出し切れたことへの感謝に満ちていた。

 

「なんなのよ、あなた……」

 

 銀髪のエリートは、震える声で呟いた。

 

 強者としての矜持が、血統という柱が、根本から揺らいでいく音を聞いた気がした。圧倒的な才能の差を見せつけたはずなのに、どうして自分は、この泥だらけの敗者に対して、こんなにも恐れに近い感情を抱いているのか。

 

 倒れ伏したまま、空に向かって「ありがとう」と繰り返す不器用な少女の姿を。スタジアムの観客も、他のウマ娘たちも、言葉を失って見下ろしていた。

 

 誰もが、理解し始めていた。

 

 このターフに、才能も理(ことわり)も超越した、とてつもなく純粋で、恐ろしいほどの『想い』を持つバケモノが誕生したのだということを。

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