『殿堂入りウマ娘』   作:灯火011

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第3話:継承される熱

 うだるような夏の陽射しが、熱気と共にターフを焦がしていた。

 

 夏合宿の最中に組み込まれた、重要な重賞指定の夏レース。

 

 秋の大舞台へ向けた試金石ともなるこの一戦において、パドックからすでに、異様で、ひりつくような緊張感が漂っていた。

 

 

 原因は、あの一人の不格好な少女だった。

 

 彼女は相変わらず、朝から晩まで泥まみれになりながら限界を超えた走り込みを続け、休養を挟むべきこの夏レースにも平然と姿を現していた。

 

 その背中を絶えず押し続けている『見えざる熱と重圧』に、彼女は一切の疑いを持たず、ただひたすらに感謝の祈りで応え続けている。

 

 その狂気的なまでの純粋さと、理屈を無視した無尽蔵の闘志は、いつしか周囲のエリートウマ娘たちの心に、得体の知れない「焦り」を植え付けていた。

 

「……くっ!」

 

 レース中盤。先頭をひた走るのは、あの銀髪のエリートウマ娘だった。

 

 彼女の走りは今日も美しく、一切の無駄がなかった。名門の血統が誇る完璧なフォーム。風の抵抗を最小限に抑え、芝の反発力を正確に推進力へと変える、まさに強者の芸術。だが、彼女の心臓は、かつてないほどの恐怖とプレッシャーで早鐘を打っていた。

 

(後ろから、来る……! あの足音が……!)

 

 振り返らなくてもわかる。背後から、荒々しい呼吸と、ターフを無理やり抉るような不格好で重い足音が、確実に迫ってきているのだ。

 

 才能の差は歴然としているはずだった。

 

 ペース配分、速度、レース展開。計算上、絶対にここで追いつかれるはずがない。

 

 それなのに、あの少女は『肉体の限界』という絶対の理を無視して、ただ「走らせてもらえることへの感謝」だけで、地鳴りのように追いすがってくる。

 

 強者としての誇りが、未知の恐怖によって歪められていく。

 

(負けられない――!!)

 

 あんな、美しさの欠片もない這いつくばるような走りに、私の完璧な血統が、積み上げてきた洗練された理論が屈するなど、あってはならない。

 

「私が、一番速いのよ……っ!」

 

 最終コーナー。

 

 銀髪のエリートは、背後の足音から逃れたいという焦りのあまり、ほんのわずかに己の限界を超えたスピードでコーナーへと突っ込んでしまった。

 

 それは、研ぎ澄まされた彼女だからこそ命取りになる、致命的なミスだった。

 

 前日に降った通り雨で、局地的に緩んでいた内側の芝。そこに、彼女の強く踏み込んだ右脚が深く取られる。

 

「――あっ」

 

 完璧だったフォームが、無様に崩れた。

 

 身体が宙に浮き、遠心力によって外側へと大きく投げ出されそうになる。視界がぐらりと傾く。この圧倒的なトップスピードの中で転倒すれば、ただでは済まない。骨は砕け、靭帯は引きちぎられ、二度とターフを走れなくなるかもしれない。

 

 銀髪のエリートの瞳に、絶望の色が浮かんだ。終わる。私の、輝かしい未来が、ここで――。

 

 ――その瞬間だった。

 

 すぐ背後に迫っていた不格好な少女の身体に、理屈を超えた猛烈な『前へ出ろ』という推進力が働いた。

 

 ライバルが自滅した。ぽっかりと空いた内側の最短距離。そこを突き抜ければ、間違いなく勝利を掴める。闘争本能が、そして常に彼女の背中を押し続けてきた見えざる熱が、一気に加速することを求めていた。

 

 だが。不格好な少女は、その己の勝利へと向かう本能を、強靭な意志でねじ伏せた。

 

「だめっ……!!」

 

 勝利に向かって踏み出しかけた右脚を、彼女は力任せに外側へと捻り込んだ。膝の靭帯が悲鳴を上げ、ブチブチと筋繊維の千切れる嫌な音が脳裏に響く。自らの肉体を破壊しかねない急激な軌道変更。それでも彼女は一切の躊躇を見せなかった。

 

 勝利へと続く最短距離を捨て、体勢を崩して頭から落下していく銀髪のエリートの真横へと、自らの泥だらけの身体を弾丸のように滑り込ませたのだ。

 

 ――ドンッ!!

 

 重く、鈍い衝突音が夏のスタジアムに響き渡った。主人公は、自身の肩と胴体を分厚いクッションにするようにして、転倒しかけた銀髪のエリートの身体を下から物理的に支え、強引にその姿勢をターフの上へと押し戻した。

 

「な、に……っ!?」

 

 銀髪のエリートは、衝突の反動で奇跡的に体勢を立て直し、大きく減速しながらも転倒だけは免れた。だが、その強引な救出の代償はすべて、不器用な少女の華奢な身体が背負うことになった。

 

「あ、がぁっ……!!」

 

 他者を支えるために無理な体勢で激突し、自らのバランスを完全に失った主人公は、そのままターフの上へと激しく叩きつけられた。

 

 土煙が舞い上がり、彼女は夏の乾いた泥の中を何度か無様に転がって、防護柵の近くでようやくその動きを止めた。

 

 息を呑む観客たちの前で、他のウマ娘たちが、倒れた彼女の横を次々と通り過ぎていく。銀髪のエリートもまた、呆然としたまま、よろけるような足取りでゴール板を通過した。

 

 

 レースは終わった。不格好な少女のレース結果は、言うまでもなく途中棄権に等しい大敗だった。

 

「あなた、どうして……!」

 

 レース終了の合図もそこそこに、銀髪のエリートは呼吸を整えるのも忘れ、倒れ伏した主人公の元へと駆け寄った。泥まみれになり、肩や膝をひどく擦りむいて倒れている少女を見下ろす。

 

「どうして、私を庇ったのよ!?」

 

 その声は、恐怖と、怒りと、どうしようもない混乱で激しく震えていた。

 

「あのまま内側を突けば、あなたは勝てたはずじゃない! いつもボロボロになるまで練習して! いつもボロボロになるまでレースに出続けて! 貴女はすべてを犠牲にしてでも勝ちたいんじゃなかったの!? なのにどうして、あんな無駄な真似を……!」

 

 エリートの強者の論理では、到底理解できない行動だった。

 

 勝つために、極限まで己を酷使してきたのではないのか。

 

 それなのに、どうして最大の好機を、打ち負かすべき敵である自分を助けるためにドブに捨てたのか。

 

「……あ、はは……」

 

 泥だらけの少女は、痛む肩を押さえながらゆっくりと身体を起こし、ふらつきながらもターフの上に座り込んだ。そして、顔をくしゃくしゃにして、心の底から申し訳なさそうに笑ったのだ。

 

「ごめんなさい……。せっかくの勝負だったのに、邪魔しちゃって。でも……」

 

 彼女は、血の滲む手で、銀髪のエリートの、泥一つついていない美しい脚をそっと指差した。

 

「あなたの走る姿、すっごく……綺麗だったから。風みたいで、無駄がなくて、本当に美しくて」

 

「え……」

 

「私には、あなたみたいに、風に乗っていくような……綺麗に走る才能はないんです。私なんかよりずっと、あなたは、ターフに愛されている走りだった」

 

 それは、ただただ純粋な、「走る存在そのもの」と「ターフの美しさ」への、無私の愛と敬意だった。

 

「だから……その美しい脚が、折れてしまうのが、二度と走れなくなってしまうのが、どうしても嫌だったんです。……大きな怪我、なくてよかった」

 

 自分の勝利という、アスリートにとっての最大の価値すらもかなぐり捨てて、他者の美しい走りを、この世界の宝物を守りたかったという、途方もなく愚かで、底知れず純粋な祈りだった。

 

「なんなの、よ……っ」

 

 銀髪のエリートの目から、せき止めていたものが決壊したように、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。

 

 才能の差。

 

 血統の誇り。

 

 効率と勝利。

 

 自分がこれまで絶対的に信じ、すがりついてきた強者の鎧が、目の前の泥まみれの少女の純粋な「想い」の前に、音を立てて崩れ去っていくのが分かった。

 

 勝てなかった。

 

 順位こそ自分が上だったが、魂の在り方として、自分は最初から、この少女の足元にも及んでいなかったのだ。

 

「……ずるい。そんなの、ずるいわよ……」

 

 銀髪のエリートは、泣き崩れるようにその場に膝をついた。

 

 そして。

 

 彼女は、汚れることも一切厭わず、自分の両手をターフの泥の上につき――。

 

 目の前の不器用な少女と同じように、この自分を走らせてくれた芝生と、奇跡を見せてくれた大いなる空に向かって、深く、深く頭を下げた。

 

 

 それは、己の血統と才能だけを信じていた誇り高きエリートが、初めて『ターフへの畏敬』と『他者への真の敬意』を知った瞬間だった。

 

 その光景を、スタジアムにいたすべてのウマ娘が、そして固唾を飲んで見守っていた観客たちが、言葉を失って見つめていた。

 

 誰も、彼女たちを笑わなかった。敗者を愚かだと罵る声もなかった。

 

 才能の有無も、血統の違いも、勝敗の残酷さすらも超えた場所。ただ、走る喜びと、互いの健闘を称え合う至上の敬意だけがそこにある。

 

 一人の泥まみれの少女が命懸けで灯した、狂気的なまでの純粋な熱。

 

 世界に新たな理が『継承』された、奇跡の夏だった。

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