季節は巡り、少女がトレセン学園で過ごす三年目の冬――シニア級の終盤が訪れていた。
吐く息は白く、凍てつくような寒風がターフを吹き抜ける。しかし、スタジアムを包み込む熱気は、過去のどんな大レースをも凌駕するほどに沸騰していた。
すべてのウマ娘が目指す究極の夢の舞台、『URAファイナルズ』。
その出場権を懸けた、最後の予選レースが始まろうとしていた。
■
控室の片隅で、少女は静かに自らの脚にテーピングを巻いていた。
その足には、これまでの三年間に刻まれた無数の傷跡が痛々しく残っている。
……本来であれば、ウマ娘の強靭な肉体であってもとうの昔に限界を迎え、引退を余儀なくされていてもおかしくない状態だった。
才能のなさを補うための、常軌を逸した無謀な走り込み。休養を削り、ただ「走らせてもらえること」への感謝だけで出走を続けた過酷な日々。その代償は、確実に彼女の肉体を内側から蝕んでいた。
膝は常に鈍い痛みを放ち、足首は少しの衝撃で砕けそうにきしむ。
「……貴女の脚は、もう悲鳴を上げているわ」
静かな声が降ってきた。顔を上げると、そこには純白の勝負服に身を包んだ、あの銀髪のエリートが立っていた。
あの夏の合宿で、少女が自らの勝利を捨ててまでその脚を守り抜いたライバル。彼女の眼差しには、少女と出会った頃のような、見下すような冷たさは微塵もない。
瞳に灯るのは、一人の偉大なアスリートに対する、深い畏敬と哀惜の念だけだった。
「ドクターストップがかかってもおかしくない。……今日、もし私のスピードに無理に喰らいつけば、あなたのその脚は、本当に壊れてしまうかもしれない」
「……ええ。わかっています」
少女は、テーピングを巻き終え、ゆっくりと立ち上がった。痛みを隠すこともせず、ただ、ふわりと温かく微笑む。
「でも、走ります。この脚がどうなってもいいから……なんて、そんな悲しいことは言いません。私はただ、このターフの上が大好きだから。皆と一緒に、最後まで、一歩でも遠くへ走りたいんです」
「……底知れないわね、あなたは本当に」
銀髪のエリートは、ふっと自嘲するように笑い、そして、凛とした表情で正面から少女を見据えた。
「私は手加減しない。強者としての誇りに懸けて、そして……私にターフへの敬意を教えてくれたあなたへの、最大の礼儀として。今日、私は私のすべてを懸けて、あなたを打ち倒すわ」
「はい。……よろしくお願いします!」
才能と血統の頂点と、泥まみれの不器用な底辺。かつて決して交わることのなかった二つの魂が、今、完全に等しい「走る者」として、深い敬意と共に火花を散らした。
■
大歓声の中、各ウマ娘がゲートへと向かう。
そして、件の少女が姿を現した瞬間、スタジアムの空気が大きく揺れた。
一年目のメイクデビューの時、彼女の不格好な走りを冷笑していた者は、三年たった今、もうこの場所には一人もいない。
観客も、他のウマ娘たちも、皆知っているのだ。
彼女が、どれほどの絶望的な才能の差を、どれほどの泥を啜りながら、純粋な練習と『祈り』だけで覆してきたかを。スタジアムを包むのは、応援や熱狂というよりも、もはやある種の信仰に近い、『少女に勝ってほしい』という切実な願いだった。
『――各ウマ娘、一斉にスタート!』
ゲートが開き、冬の乾いた芝の上を、ウマ娘たちが一陣の風となって駆け抜ける。
レースの主導権を握ったのは、やはり銀髪のエリートだった。彼女の走りはあの夏よりもさらに洗練され、神々しいまでのオーラを放っていた。コース取りにも、ターフを抉る蹴り足にも一切の迷いがない。まさしく、ターフに愛された者の完璧な軌道だった。
一方、不格好な少女は、中団のやや後方で、いつものようにもがいていた。
やはりというか、肉体が限界を超えている。一歩踏み出すごとに、両膝から電流のような激痛が脳髄を突き抜ける。肺は酸素を求め、心臓は破裂しそうに脈打っている。
(痛い……っ、脚が、あがらない……っ!)
景色が滲む。銀髪のエリートの背中が、絶望的なほど遠ざかっていく。理が、彼女に告げていた。これが生物としての限界だ。祈りや精神論だけで、これ以上の物理的な崩壊を止めることはできない、と。
第三コーナーに差し掛かった時、ついにスパートに入った先頭集団がさらに加速し、少女は完全に置いていかれそうになった。
万事休す。誰もがそう思った、その時。
「――負けるなァァァッ!! 走れぇえええええ!」
スタンドから、張り裂けるような絶叫が響いた。それを皮切りに、スタジアム全体から地鳴りのような声援が巻き起こる。
「いけえええっ!」
「脚を動かせ! まだ走れる!!」
「諦めるなァッ!!」
それは、彼女の今までの狂気にも似た日々を知る人たちの想い。限界に立ち向かう、いや、限界すらも超えてレースに挑み続けた、一人のちっぽけで純粋な魂への、数万人の観客からの『祈り』の合唱だった。
(……ああ)
激痛で霞む意識の中で。少女は、その声を聞いた。
空気を震わせる巨大な熱。自分のような才能のない者に、これほど多くの人が、走ってほしいと願ってくれている。
そして彼女は気づく。前を走る銀髪のエリートが、一切後方を振り返らず、ただひたすらに前だけを見て、全力で逃げ続けていることに。
それはつまり「あなたが必ずここまで来ることを信じている」という、最大の信頼の証だった。
(走らなきゃ……っ。この脚が、どうなっても……っ!!)
少女は、泥だらけの顔を上げ、天を仰いだ。
(神様。……三女神様。私に、あと少しだけ。皆の待つ、あの背中へ追いつくための、力を……!!)
――その瞬間だった。
限界をとうに超え、冷え切っていたはずの彼女の肉体の奥底で、何かが『爆ぜた』。
それは彼女が三年間、ターフに捧げ続けた純粋な愛と、彼女に魅せられたすべての者たちの祈りが、限界の先にある『未知の扉』をこじ開けた瞬間だった。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
少女の足元から、文字通り、目に見えない強烈な熱波が吹き荒れた。悲鳴を上げていた筋肉が、砕けかけていた骨が、狂気的なまでの意志の力によって強引に束ね上げられる。
最終直線を迎える。信じられない光景が、スタジアムに展開された。
最後方に沈みかけていた不格好な少女が、突如として、先頭を走る銀髪のエリートすらも凌駕する、暴力的なまでの末脚で追い込んできたのだ。
『きた! きたきたきたァッ! 大外から! 限界を超えた、執念の鬼脚だァァァッ!!』
実況が狂乱する。理屈など何もない。才能も、血統も、肉体の限界すらも、今の彼女の前ではただの紙屑だった。一歩ターフを蹴るごとに、彼女の身体から凄まじい熱が立ち上り、冬の冷気を白く焦がしていく。
「あぁぁぁぁっ!!」
「こさせない……っ! 私が、一番速いのよ!!」
銀髪のエリートもまた、極限の闘争心でそれに応え、己の限界を超えた速度へとギアを上げた。二つの影が、完全に並ぶ。
火花が散るような、純粋な命の削り合い。強者の誇りと、無私の祈りが、ターフの上で激しく交錯する。
スタジアムの歓声は、もはや悲鳴のような絶叫に変わっていた。
並んだまま、二人はゴール板へと突っ込む。最後の一瞬。少女は、己のすべての感謝と愛を、その最後の一歩へと叩きつけた。
■
写真判定の末、掲示板の一番上に灯ったのは、泥だらけの少女の番号だった。
「…………っ」
ゴールを駆け抜けた直後。すべての力を使い果たした少女は、ついにその脚から力が抜け、ターフへと前のめりに崩れ落ちそうになった。
だが、その身体が冷たい泥に触れることはなかった。
「……よく、やったわ」
横から滑り込んできた銀髪のエリートが、自分の肩で、倒れそうになった少女の身体をしっかりと受け止めていた。
美しい勝負服が泥で汚れることなど、彼女はもう微塵も気にしていなかった。ただ、全力を出し尽くして自分を破った、この世界で最も純粋で尊いライバルを、慈しむように強く抱きしめていた。
「すごいわ、あなた。本当に……限界の先まで、走り抜いたのね」
「あ、はは……。皆の、おかげ、です……」
意識が遠のく中、少女は満足げに微笑んだ。
スタンドからは、敗者への労いと、勝者への惜しみないスタンディングオベーションが降り注いでいる。
彼女はついに、究極の夢の舞台『URAファイナルズ』への切符を、己の脚と祈りだけで掴み取ったのだ。
だが。この純粋なる熱狂と光の頂点の直後に、あの『無慈悲な暗黒の儀式』が待ち受けていることを、この時の彼女はまだ、知る由もなかった――。