奇跡は、ついに現実のものとなった。
ウマ娘たちの頂点を決める至高の舞台、URAファイナルズ決勝。
数万の観客が固唾を飲んで見守る中、真っ白なゴール板をトップで駆け抜けたのは、かつて誰からも期待されず、泥水を啜りながら這いつくばっていた、あの不器用な少女だった。
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才能の壁を、血統の差を、そして肉体の限界すらも。彼女はただ純粋な「想い」と「ターフへの愛」だけで、すべてを凌駕してしまったのだ。
そして今、スタジアムは眩いばかりのカクテルライトに照らされ、祝祭の時を迎えていた。ウイニングライブ。勝者だけに許された、栄光のセンターポジションだ。
真新しい、彼女のためだけに用意された特別な衣装に身を包み、少女はステージの中央に立っていた。
傷だらけだった脚の痛みは、歓喜の熱狂とアドレナリンによってすっかり消え去っている。周囲には、かつて死闘を繰り広げた銀髪のエリートをはじめ、彼女の走りに心を打たれ、心からの敬意を捧げるライバルたちが、笑顔でバックダンサーを務めていた。
「皆……ありがとうっ、本当に、ありがとう……!」
割れんばかりの大歓声。色とりどりのサイリウムの光の海。少女の目から、初めて大粒の涙が溢れ出した。ただひたすらに幸福だったからだ。
走らせてくれてありがとう。
この素晴らしい景色を見せてくれて、本当にありがとう。
曲が、最高潮のサビへと差し掛かる。少女は天に向かって、ありったけの愛を込めて、右手を高く突き上げた。
――その、絶頂の瞬間だった。
ブツンッ。
世界から、一切の光と音が、消滅した。
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「……え?」
突き上げた右手の先にあるはずの、眩い照明がない。
鼓膜を震わせていた数万人の熱狂が、バックに流れていたはずの音楽が、ライバルたちの温かい笑顔が。
まるで、巨大な刃物で空間ごと切り取られたかのように、唐突に、完全に「無」になったのだ。
少女は、目を見開く。眼前に広がっていたのが、果てしなく続く暗闇だったからだ。
上も下もない。空気の匂いすら存在しない、絶対的な静寂の世界。足元だけが、黒い水面のように微かな波紋を広げ、立ち尽くす彼女の姿だけを不気味に反射している。
(ここは……どこ? 皆は……?)
声を出そうとしたが、喉から音が出ない。いや、そもそも自分の肉体がそこに「在る」という感覚すら曖昧になり始めていた。
ここは、現世ではない。
ウマ娘が、その魂を極限まで燃やし尽くし、頂点に辿り着いた時のみ招かれる、世界の裏側の次元。大いなる三女神の、神域の最深部であった。
そして、かつて、傲慢な強者たちがここに招き入れられ、為す術もなく魂を抉り取られた『処刑場』でもあった。
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唐突に、虚空から「それ」はやってきた。見えざる、巨大で圧倒的な『圧力』。世界そのものが収縮し、彼女の存在を上下左右から押し潰そうとする、絶対的な「理(ことわり)」の重圧だった。
「ぁ……っ、……っ!?」
少女はたまらず、黒い水面の上に両膝をついた。痛い。苦しい。現実のレースで感じたどんな肉体的な疲労よりも、恐ろしい感覚だった。
その見えない重圧は、彼女の魂の奥底、三年間の泥臭い努力で培ってきた『記憶』と『力』の結晶を、根こそぎ搾り取ろうとしていたのだ。
(あ、ああ……っ、奪われ、る……!)
それは、本能が警鐘を鳴らす根源的な恐怖。
頂点に立った者から、その輝きを供物として徴収し、次の世代へと強制的に循環させる。それこそが、三女神が定めたウマ娘の世界の非情なるルール。
かつてこの空間に堕ちた傲慢なエリートたちは、ここで絶望し、
「嫌だ、これは私が手に入れた力だ! 奪うな!」
と泣き叫びながら、その魂を無慈悲に引き剥がされていった。
彼女たちと同じように、見えない圧力が、少女の背骨を軋ませ、心の最も柔らかな部分へと冷たい指先を突き立てようとした。あと数秒もすれば、彼女の三年間の記憶も、あの素晴らしいウイニングライブの熱狂も、ただの「空っぽの残滓」として処理されてしまう。
彼女は、圧倒的な神の暴力の前で、ただ震えることしかできなかった。
――しかし。
(……奪われる、んじゃない)
魂が砕け散る寸前。
暗闇の中で、彼女は静かに目を閉じた。
(この力は……最初から、私のものではないんだから)
圧倒的な才能の差に絶望した日々。
泥まみれになりながら、それでも背中を押し続けてくれた『見えざる大いなる導き』。
自分の不格好な走りに、声を枯らして声援を送ってくれた観客たち。
そして、最後まで死闘を演じてくれた、気高きライバルたちの姿。
――そうだ。自分は、才能など何一つ持っていなかった。
今、この胸にある熱い結晶は、皆が自分に預けてくれた、借り物の「光」に過ぎないのだ。
ギリリリリリッ……!
圧力が、いよいよ彼女の魂を摘み取ろうと限界まで高まる。その暗闇の底で。
少女は、逃げなかった。泣き叫びもしなかった。
彼女は、押し潰されそうな重圧の中で、静かに姿勢を正した。そして、泥だらけだったメイクデビューの日から、何一つ変わらない動作で。胸の前で固く両手を組み、見えない天上の存在――三女神へ向かって、深く、深く頭を垂れたのだ。
「――ありがとうございました」
音のない世界に、少女の祈りが、確かな意志となって響いた。
「私みたいな不出来なウマ娘を、ここまで走らせてくれて。こんなにも素晴らしい景色を見せてくれて、本当に……ありがとうございました」
それは、運命に対する、完全なる受容。そして、己のすべてを捧げ尽くしても構わないという、無私の愛の証明だった。
「この熱が、私から消えてしまうのは、少しだけ寂しいけれど。……でも、私の走った軌跡が、また次の誰かの足元を照らす力になれるのなら。どうか、喜んで……お受け取りください」
少女は、自ら胸を開くように、その無防備な魂を、暗黒の虚空へと差し出した。
奪われるのではなく、捧げる。
すべてを与えてくれたこの世界に、心からの恩返しを。
そのあまりにも美しく、愚かな祈りが、絶対の『理』が支配する空間に響き渡った、その時だった。
――ピキッ。
暗黒の空間に、小さな、だが確かに、亀裂の音が響いた。