『殿堂入りウマ娘』   作:灯火011

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甘い毒と、完璧すぎる肉体

 ターフの匂いが好きだった。

 

 踏み荒らされた土と、青々と茂る芝生が混ざり合った特有の青臭い香りを胸いっぱいに吸い込むと、自分の肺が、心臓が、そして軋む筋肉が、今まさにこの世界に存在しているのだと強烈に実感できたからだ。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 

 夕暮れのグラウンド。西陽が長く影を伸ばす中、私は一人、泥まみれになりながらトラックを走り込み続けていた。

 

 私には、天性のバネも、他を圧倒するような心肺機能もない。トレセン学園に星の数ほどいる、名前すら歴史に残らないような、ごく平凡なウマ娘の一人だ。毛並みに特徴があるわけでもなく、目を惹くようなオーラもない。だから、才能がないなら、血反吐を吐くような努力で補うしかない。

 

 膝が笑い、限界を迎えた太ももの筋繊維がブチブチと悲鳴を上げる。酸素を求める肺は焼け焦げるように痛む。それでも、一歩踏み出すごとに地面を蹴る確かな反発力が、私を前へ前へと押し出してくれる。

 

 この「自分の足で走っている」という確かな痛みが、私はたまらなく好きだった。

 

「……よしっ、今日のメニュー、消化完了……っ!」

 

 よろめきながら芝生の上に倒れ込むと、冷たい土の感触が火照った身体を癒やしてくれた。

 

 一年間。

 

 トレセン学園に入学してから今日まで、私は誰よりも早くグラウンドに出て、誰よりも遅くまで走り続けた。誰にも褒められることのない、孤独で泥臭い努力。何度も自分の才能のなさに絶望し、寮のベッドで声を殺して泣いた夜もあった。

 

 だが、そのすべてが今日、ついに報われたのだ。

 

 掲示板に貼り出された来週のメイクデビュー戦の出走表。そこに、不格好な手書きの文字で、確かに私の名前が刻まれていた。

 

「やった……。私、やっとみんなと一緒に走れるんだ……!」

 

 暮れゆく茜色の空を見上げながら、私は歓喜の涙を流した。泥と汗で汚れた頬を伝うその涙は、どんな宝石よりも尊い、私だけの努力の結晶だった。

 

 

 すっかり日の落ちた学園の中庭。

 

 私は寮へ戻る前に、夜の静寂の中にそびえ立つ三女神の像の前に立ち寄った。冷たい月明かりに照らされた三柱の女神は、どこか無機質で、それでいてすべてを見透かしているような圧倒的な威厳を放っていた。

 

 胸にあるのは野心などではない。ただ純粋な、走ることへの深い感謝の念だけだった。

 

「三女神様……」

 

 私は冷たい石畳の上に進み出ると、両手を胸の前で固く組み、深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます。私、不器用で、才能もなくて……でも、自分の足で走るのが、少しずつ前へ進むのが、本当に楽しいんです。来週のデビュー戦、絶対に悔いのない走りをしてみせます。どうか、見守っていてください」

 

 祈りを捧げ、決意と共に顔を上げた、その瞬間だった。

 

――カッ!

 

 静まり返った中庭が、突如として真昼のように白く染まった。見上げる三女神の像から、目を開けていられないほどの眩い光が放たれたのだ。

 

『――受容、シマシタ。』

 

 脳内に直接、声が響いた。鼓膜を揺らす物理的な音ではない。それは荘厳で神聖な響きを持っていたが、息継ぎの音も、感情の揺らぎも一切存在しない、ひどく冷たく、無機質な機械音声のようにも聞こえた。

 

『――オ前ノ、純粋ナル走ル喜ビ。確カニ観測シマシタ』

『――故ニ、【祝福】ヲ与エマショウ』

 

 光が、私の身体をふわりと包み込む。それは熱を持たない冷たい光だったが、皮膚を透過して細胞の隅々にまで浸透していく感覚があった。すり減った筋肉の疲労や、足の裏の皮が剥けた痛みが、まるで「最初から存在しなかった」かのように消し去られていく。

 

 細胞が、骨格が、筋肉の質そのものが、内側から強引に書き換えられていくような圧倒的な全能感。

 

『――オ前ハコレカラ、誰ヨリモ速ク、誰ヨリモ愛サレル。我ラガ定メタ『名ウマ娘』ヘト至ルノデス。……授ケマショウ。異次元ノ絶対女王、「アーモンドアイ」ノ因子ヲ』

 

 光が収まり、再び夜の静寂が中庭に降りた。私は自分の両手を見つめ、全身の血が沸騰するような衝撃に打ち震えていた。

 

「アーモンド、アイ……?」

 

 聞いたこともない名前だった。しかし、その響きと共に注ぎ込まれた力が、とてつもなく強大で、恐ろしいほどに澄み切っていることだけは理解できた。神様が、私を見ていてくれたのだ。

 

 何の才能もなかった泥まみれの私に、走るための特別な「祝福」を授けてくれた。

 

「ありがとうございます……! 私、絶対に皆様の期待に応えてみせます!」

 

 歓喜に胸を躍らせながら、私は寮への帰路についた。足取りは信じられないほど軽く、世界が祝福に満ちているように感じられた。

 

 だが、この時の私はまだ知らなかったのだ。与えられた才能というものが、時に人を内側から溶かす『最悪の猛毒』になり得るということを。

 

 

 翌日の午後。

 

 合同練習の時間、私ははやる気持ちを抑えきれずに、誰よりも早くターフの上に立っていた。

 

「よし、今日はお前ら、フォームの確認と、軽めのキャンター(小走り)で調整だ」

 

 担当トレーナーの指示に元気よく返事をし、私は真新しいスパイクの底で、青々とした芝生を踏みしめた。身体の奥底から、無尽蔵のエネルギーが湧き上がってくる。血液の代わりに高純度の燃料が流れているような、恐ろしいほどの万能感。

 

「よし、軽く流して……」

 

 私がターフに最初の一歩を踏み出した、その瞬間だった。

 

ドンッ!!

 

 落雷のような鋭い踏み込みの音が響き、私の右脚が爆発的な力でターフを蹴り上げた。足元の土塊が、散弾のように後方へと吹き飛ぶ。

 

「……っ!?」

 

 キャンターなんて次元ではない。私の肉体は、一歩目からトップスピードに乗り、猛烈な勢いでターフを駆け抜け始めた。重心は極限まで低く沈み込み、両腕は一切のブレもなく理想的な角度で空気を切り裂く。それは、私が教科書で何度も見たG1級の名ウマ娘すら凌駕する、非の打ち所がない『完璧なスプリントフォーム』だった。

 

(すごい……! なにこれ、すごい!!)

 

 私は歓喜に震えた。息が詰まるほどの風圧を顔面に受けながらも、全く苦しくない。まるで芝生の上を飛んでいるようだった。これが女神様がくれた力。私が一年間、血反吐を吐いて練習しても決して辿り着けなかった領域。

 

「おいっ! なんだあの加速は……!」

「嘘でしょ、あの子、あんな走り方できたの!?」

 

 背後から、トレーナーや同室のツバキたちの驚愕の声が聞こえる。私は誇らしさで胸が張り裂けそうだった。

 

 見て。これが今の私。神様がくれた、最高の才能よ!

 

 トラックをあっという間に半周し、私は脳から脚へブレーキの信号を送った。私の脚は、吸い付くように滑らかに減速し、ターフの上でピタリと止まった。あまりにもスムーズな、一切の無駄がない完璧な停止動作だった。

 

「お前、今の走りは一体……本格化か!? とんでもない才能が目を覚ましたぞ!」

 

 駆け寄ってきたトレーナーが、興奮で顔を紅潮させている。私は弾むような息を吐きながら、満面の笑みで頷いた。そうだ。これは私の才能だ。私の努力が、ついに花開いたんだ。

 

 

 そして迎えた、一週間後のメイクデビュー戦。私は大観衆の前で、他を全く寄せ付けない圧倒的な大差で勝利を飾った。

 

 ゲートが開いた瞬間、私の身体はまるで『どう動けば最も速いか』を脳よりも先に理解しているかのように、自動的に完璧なコース取りを行った。他のウマ娘たちが苦しそうにムチを入れる横を、私は息一つ乱すことなく、涼しい顔で抜き去っていく。ゴール板を駆け抜けた瞬間、スタジアムが地鳴りのような歓声に包まれた。

 

『強い、強すぎるッ! なんという完成度、なんという末脚! 恐るべき新人ウマ娘の誕生です!!』

 

 その夜のウイニングライブでも、私は無敵だった。センターステージで眩いスポットライトを浴び、割れんばかりの歓声の中心で、私は極上の笑顔を振りまいていた。歌のレッスンなどろくに受けていなかったはずなのに、私の身体は音楽と寸分の狂いもなくシンクロし、指先の角度一つに至るまで、完璧なアイドルのステップを踏んでいた。

 

『〜〜♪』

 

 マイクを通し、私の口から透き通るような美しい歌声が響き渡る。最前列では、担当トレーナーとツバキが、涙を流しながら私の姿を見つめている。ドーパミンが、エンドルフィンが、私の脳髄を乱暴に押し流していく。

 

『楽しい』

『もっと歓声を浴びたい』

『私は、選ばれた特別な存在なんだ』。

 

 私は、この「才能」という名の甘い毒を、致死量まで飲み干していた。―――そして、違和感の正体に気づき始めたのは、その夜、自室のベッドに横たわった時だった。

 

「……あれ?」

 

 疲れ切って眠りにつこうとしているのに、両脚の筋肉が、微小な痙攣を繰り返している。ピクッ、ピクッ、と。まるで、私の意志とは無関係に、筋肉の奥底にある神経回路が「最も効率的な走行フォーム」を強制的に反復練習しているかのように。

 

「……ちょっと、興奮しすぎかな。今日は凄い歓声だったし」

 

 不気味に蠢く自分の太ももを見つめながら、私は毛布を引き被り、ただの興奮状態なのだと自分に言い聞かせた。これが、私という存在が何者かに書き換えられ、溶かされていく最初の兆候だとは思いもせずに。

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