恐怖は、ゆっくりと、しかし確実に私の輪郭を侵食し始めた。
メイクデビュー戦での圧倒的な勝利から数ヶ月。私は連戦連勝を重ねていた。出走するレースのすべてで、一番人気、一番時計、そして大差での圧勝。ファンは熱狂し、学園の誰もが私のことを「トレセン学園の新たな至宝」と持て囃した。
だが、レースに出走し、勝利のゲートを駆け抜けるたびに、私の内側に巣食う『違和感』は、どす黒い実体を伴った恐怖へと変貌していった。
それは、端的に言ってしまえば「自分の肉体が、自分のものではなくなっていく」という、名状しがたい喪失感だった。
レース中、私の意識はまるで分厚いガラスの向こう側に押し込められたかのように遠のき、肉体が『私という不完全な運転手』をコックピットから引きずり下ろし、自ら『最適解の自動操縦』を行っている。心肺機能は私の意志とは無関係に鼓動を調整し、筋肉は最も効率的な収縮を自動で行う。私はただ、自分の身体が勝手に勝利をもぎ取ってくるのを、特等席で見せられているだけの「観客」に成り下がっていたのだが。
この時点では、まだ喜びが優っていた。だって、レースには勝てるし、そしてウイニングライブも完璧に踊れていたからだ。すごい、すごいと。レースが終わり、ライブが終わり、トレーナーと共に喜んでいた。
そして、その決定的な『肉体主導権の剥奪』の瞬間は、ある夕暮れのグラウンドで訪れた。
(……よし、今日はこのくらいにしておこう)
合同練習の終盤。トラックを数周流した私は、軽く汗ばんだ身体を休めようと、脳から脚へブレーキの信号を送った。
――しかし。
(……あれ?)
私の脚は、止まらなかった。それどころか、コーナーを曲がると同時にさらにギアが上がり、肉体はより一層の加速を始めたのだ。
(えっ、ちょ、ちょっと待って。ストップ、ストップ!)
焦って脚の筋肉を弛緩させようとするが、全く反応しない。コンマ1秒の狂いもなく、最も効率的に地面を捉え、最も推進力を生み出す角度で関節が駆動し続けている。私の意志とは完全に切り離されたところで、筋肉が勝手に「最適解の運動」を弾き出し、猛烈なスピードでトラックを走り続けている。
呼吸が、おかしい。
走るのをやめようと息を止めようとしても、私の肺は、意志を完全に無視して「完璧なリズム」で強制的に収縮と膨張を繰り返していた。苦しくない。息一つ乱れない。まるで、私の身体の形をした精巧な機械の中に、無理やり押し込められてしまったかのような、ヌルリとした不気味な感覚。
(止まって。お願い、私の脚、止まって……!)
見えない巨大な力が、私という器を使って、ただひたすらに「理想のストライド」を出力し続けている。私の自我は、暗闇の中で恐怖に目を見開いた。
「おい、ペース速すぎるぞ! 今日は軽めの調整って言っただろ!」
フェンス越しに、担当トレーナーが声を張り上げるのが見えた。
(そうだ、トレーナーさん! 私を止めて!)
私は藁にもすがる思いで彼に顔を向け、助けを求めるために大きく口を開いた。喉の奥から、悲痛な叫びを絞り出そうとした。
(助けて!身体が勝手に――)
『――
唇から飛び出したのは、私の悲鳴ではなかった。鈴を転がすような、元気いっぱいで明るい、絵に描いたような優等生のセリフだった。
(え……?)
『私、自分の限界の向こう側まで行けそうな気がするんです!トレーナーさん、見ててくださいね!』
私の口が、勝手に動く。顔面の筋肉が、見えない極細の糸で無数に引っ張られるようにして、太陽のように眩しい『満面の笑顔』を形作る。助けを求めているのに。内なる私は、暗闇の中で恐怖に震え、泣き叫んでいるというのに。
私の肉体は、一滴の美しい汗を夕陽に輝かせながら、完璧なアイドルの笑顔でグラウンドを駆け抜けていく。私の気迫に満ちた(ように見える)熱血台詞を聞いて、トレーナーは目を丸くし、やがてその顔に指導者としての熱い感動の色を浮かべた。
「そうか。お前、ついに『本格化』が来たんだな。……お前の中に眠っていた才能が、今まさに目を覚ましたんだな」
(違う! トレーナー! 気づいて。お願い、私の顔をよく見て。笑ってない。私は笑ってなんかない!)
「わかった! お前のその本気、確かに受け取ったぞ。今のお前は完全に『ゾーン』に入ってる。下手に俺が止めて、その感覚を鈍らせるわけにはいかないな」
『ありがとうございます!この感覚、しっかりと沁み込ませます!』
「ああ! じゃあ、俺は先に事務仕事に戻る。今日は気が済むまで、お前の走りを突き詰めてみろ!」
(やめて! 見捨てないで!)
『はいっ!ありがとうございます、トレーナーさん!』
(喋るな! 私の口、勝手に喋るなァァァッ!!)
私の絶叫は、ひどく爽やかな返事に完全に上書きされ、虚空に溶けた。トレーナーは満足げに笑うと、持っていたスポーツドリンクのボトルをフェンス脇のベンチにコトンと置き、背を向けて去ってしまった。
視界の端で、ベンチに置かれた真新しいボトルが、西陽を反射してキラリと光る。
見守る者すら不在になったグラウンドで。私はたった一人、永遠に止まらない肉体の檻に閉じ込められ、狂ったように笑顔で走り続けることになった。
■
どれだけの時間が過ぎただろうか。日が完全に落ち、グラウンドが赤黒い闇に包まれても、現実世界の『私』は止まらない。
足の裏の皮はとうに破れ、スパイクの中でじわじわと血が滲んでいる。乳酸が溜まりきった太ももの筋繊維は、一歩踏み出すごとにブチブチと裂けるような激痛を発していた。だが、見えない巨大な意志は、痛覚という生体アラームを完全にミュートし、私という器をひたすらに酷使し続けていた。
キーン、コーン、カーン、コーン……。
やがて、学園に門限を知らせるチャイムが鳴り響いた。その瞬間だった。
フッ、と。
私を雁字搦めにしていた見えない拘束具が、唐突に消え去った。
『お疲れ様でした、トレーナーさ――あ、がっ、あぁぁぁぁッ!?』
笑顔のまま硬直していた私の顔面がドロリと崩れ、自分自身の泥臭い声で醜い悲鳴が上がった。堰を切ったように、保留されていた激痛と疲労感が全身の神経を一気に蹂躙する。私はそのままターフに前のめりに倒れ込み、痙攣する脚を抱えて泥と血の混じった唾液を吐き出した。
「はぁっ……痛っ、ひぐっ……」
どれほどの間、冷たい土の上でうずくまっていただろうか。私は千切れそうな両脚を引きずり、這うようにして学園の校舎へと向かった。
だが、なにか――おかしい。
道中、私はただの一度も、他の誰ともすれ違わなかった。普段なら、夜間練習を終えて談笑しながら寮へ戻るウマ娘たちや、見回りの警備員と必ず出くわすはずの時間帯だ。しかし、グラウンドから校舎へ続く道にも、煌々と明かりが点くエントランスにも、人っ子一人いない。物音一つしない。
まるで、血塗れで這いつくばる私を世界から隔離するために、得体の知れない何者かが『他の生徒たち』を空間ごと一時的に消去してしまったかのような、ひどく薄気味の悪い静寂だった。
誰もいない夜の廊下を私は、壁にすがりつくようにして、リノリウムの床にべちゃり、べちゃりと赤黒い足跡を残しながら、保健室へと向かっていた。痛い。脚がもげそうだ。早く誰かに助けを求めなければ、脚が完全に壊れてしまう。脂汗を流しながら、這うようにして保健室のドアノブに手をかけた。
―――ガチッ。
「……え?」
開かない。鍵がかかっている。
(そんなはずない。保健室は24時間、当直の先生がいるって……!)
―――ガチッ、ガチガチガチッ!
ノブを何度回しても、微動だにしない。まるで分厚いコンクリートの壁と一体化しているかのように、ドアは完全に沈黙していた。鍵穴すら塞がれているかのように、ピクリとも動かない。パニックになりかけた私は、血まみれの足を引きずり、今度は担当トレーナーの執務室へと向かった。まだ残業しているはずだ。
しかし、そこも同じだった。仲の良かった別のウマ娘の部屋も、談話室も、すべてが「見えない力」によって固く閉ざされ、私を強固に拒絶していた。
まるで、今の私に許された行動が『自室へ戻る』ことしかないと、世界そのものに強制されているかのように。
「誰か……っ、助けて、誰か……!」
絶望で涙を零しながら廊下の角を曲がった、その時だった。
「あら、こんな時間まで自主トレですか? 感心ですね」
「……ああ。だが、門限は守るように。身体のケアもウマ娘の重要な義務だからな」
前方から、緑色の帽子を被った理事長秘書のたづなさんと、生徒会長のシンボリルドルフが歩いてくるのが見えた。助かった! 学園のトップの二人なら、この異常事態を分かってくれる!
(助けて! 脚が……っ、誰かに操られて……!)
私は泣き叫び、血塗れの脚を引きずって二人にすがりつこうとした。
―――しかし。激痛で曲がっていた私の背筋が、見えない力で強引に、しかし滑らかにピンと引き伸ばされた。
『はいっ!お疲れ様です、たづなさん、会長!今日もいい汗を流せました!』
口から飛び出してきたのは、悲鳴ではなく、完璧な発声による明るい挨拶だった。私の顔面筋肉は、涙と鼻水を強引に奥へと引っ込め、爽やかで礼儀正しい「優等生の笑顔」を形作っていた。
(ちがう、ちがう! 私の脚を見て! こんなに血が……!)
心の中で絶叫する私をよそに、二人は私の前に立ち止まり、微笑ましく頷いた。
「ええ、その意気です。次回のレースも期待していますよ」
「うむ。君の熱意は素晴らしい。だが、無理は禁物だぞ。温かい風呂に入って、ゆっくり休むことだ。しかし、
……嘘、でしょ?私は絶望のあまり、意識が遠のきそうになった。
私の両脚は、ズタズタに引き裂かれて青黒く腫れ上がり、床には血だまりができているのだ。それなのに、たづなさんも、ルドルフも。私の『怪我』が、最初から存在しないかのように振る舞っている。
彼女たちの目には、私が「爽やかな汗を流した、健康的なウマ娘」にしかまるで見えていないようだった。血塗れの脚も、歪んだ骨も、彼女たちの認識する『世界』には存在していない。
「では、おやすみなさい」
二人は完璧な微笑みを残し、血だまりを踏み越えて、そのまま廊下の奥へと消えていった。私はといえば、自分の意思とは関係なく、張り付いた笑顔のまま声にならない悲鳴を上げ、再び血塗れの脚を引きずって、美しい姿勢で自室へと歩き出した。
■
這々の体で自室のドアを開け――ここだけは、呆気ないほど簡単に開いた――、私はベッドの隅でボロ雑巾のように丸まり、声殺して泣き咽んでいた。
おかしい、この学園は、狂っている。
「お、我がチームのエース!凄い気迫でグラウンド走ってたって噂になってたよー!……って、ちょっと待って!?……脚、ボロボロじゃない!まって、なんで!?ちょっと、病院、病院!すぐに保健室!?」
部屋に戻ってきた同室のウマ娘・ツバキが、私の脚を見て悲鳴を上げた。その悲鳴を聞いた瞬間、私の心に、すがるような安堵の光が差し込んだ。
(見えてる……! ツバキちゃんには、私のこの怪我が見えてるんだ……!)
あの狂った人たちとは違う。ツバキは、ちゃんと私の痛みを見て、人間として心配してくれている。
「違う、の……私じゃない……っ」
私は震える手で、ツバキのジャージの裾を力強く掴んだ。言わなきゃ。早く伝えないと、私は私じゃなくなってしまう。
「え……!? ど、どうしたの!?」
「身体が、勝手に動くの……! 止まりたいのに、笑顔で……っ! 助けて、ツバキちゃん、私、あんな風に走りたく――」
だが次の瞬間。痛みに歪んでいた私の顔面筋肉が、ひどく自然な動きで引き上げられた。痛むはずの脚でスッと立ち上がり、私はツバキに向かって、まるで一枚の美しい絵画のような『涙交じりの、決意に満ちた笑顔』を向けたのだ。
『
(ちがう! 勝手に、勝手に喋らないで! 私はただ、痛くて怖くて泣いてるだけなの!)
私の口から滑り出たのは、劇の台本に初めから書かれていたかのような、完璧で美しい青春ドラマのセリフだった。内なる私が暗闇の中で叫ぶのをよそに、私の肉体は一歩前へ出て、ツバキの両手を力強く握りしめた。
『才能がないなら、命を削ってでも追いつきたい。……私、絶対にみんなの期待に応える、最強のウマ娘になってみせるから!』
私の瞳からは、タイミングを計ったように美しい涙が、一筋だけこぼれ落ちた。それを見たツバキは、ハッと息を呑み……やがて、その目にボロボロと大粒の涙を浮かべた。
「あなた……まさか、本格化が来たのね……!」
『……!』
「そうか、急に身体が成長して、信じられないような力が溢れ出して……だからあんな無茶な走りを……っ!バカ、もっと自分を大事にしなさいよ!」
ツバキは感動に打ち震えながら、痛む私の身体を力強く抱きしめた。美しい友情。切磋琢磨する少女たちの、尊い青春のワンシーン。だが、私はその温かい腕の中で、究極の絶望に突き落とされていた。
……恐ろしいのは、身体を操られることではない。
私の脳が、私の意志とは無関係に『最も美しく正しい台詞』を勝手に選択し、出力していることだ。一番の理解者になるはずだった親友の認識すらも、あっさりと「感動的な観客」へと捻じ曲げられてしまった。このままでは、私自身の心すらも、この『熱血で完璧なウマ娘』という配役に書き換えられ、完全に溶かされてしまう。
どうして、こんなことになったのか。私を侵食しているこのバケモノは、一体何なのか。
『――授ケマショウ。異次元ノ絶対女王、「アーモンドアイ」ノ因子ヲ』
あの日、三女神様が告げた不可解な名前。気になって学園の図書室で古い文献を片っ端から調べたこともあったが、そんなウマ娘の記録はどこにもなかった。
正体なんて、何もわからない。ただ、私の中に、得体の知れない「何か」が確実に巣食っていることだけは理解できた。
そいつが私の脚で走るたびに。私の口を使って、見事な優等生を演じるたびに。私という存在の輪郭が、少しずつ、確実に削り取られていくのがわかる。
(嫌だ……。怖いよ、助けて……っ)
ツバキの温かい体温を感じながら、私の内なる自我は、暗闇の中でただ恐怖に歯の根を鳴らしていた。どうすれば止められるのか。どうすれば私を取り戻せるのか。そんなこと、ただの不器用な私にわかるはずもない。
窓の外では、三女神の像が冷たい月明かりに照らされ、ただ無表情にこちらを見下ろしている。
私はただ、自分を内側からゆっくりと喰い殺そうとする『名前も知らないバケモノ』の気配に怯え、いつか自分が完全に消えてしまう恐怖に、声もなく震え続けることしかできなかった。