無敗。
その二文字が、私というちっぽけな存在を、息が詰まるほどの重圧と狂気で縛り付けていた。
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あの日、ツバキの腕の中で震えていた夜から、丸三年。季節が巡り、シニア級の秋を迎えた今日に至るまで。私の肉体は、桜花賞、オークス、秋華賞といったティアラ三冠をはじめとする数々の重賞レースを、ことごとく、そして無慈悲に蹂躙し続けてきた。
どんなに強力なライバルが立ちはだかろうと関係なかった。
ゲートが開いた瞬間、あの日のターフを走り続けた時のように、私の意識は分厚い氷の下のような暗闇へと押し込められ、肉体は勝手に「完璧な勝利」をもぎ取ってくる。ファンは私を「絶対女王の再来」と熱狂し、ツバキやトレーナーは「お前と同じ時代にいられて幸せだ」と涙を流して喜んだ。学園を歩けば誰もが道を譲り、憧望の眼差しを向けてくる。
だが、彼らは誰も知らない。その「完璧な女王」の美しい皮膚の内側で、私がこの三年間、毎日声も出せずに発狂寸前の絶望を味わい続けていることを。
私の中に巣食う『名前も知らないバケモノ』は、月日を重ねるごとに私の肉体と深く結びつき、今や私の自我は、脳の片隅のほんの小さな暗がりに追いやられていた。自分が何を考えていたのか、どんな声で笑っていたのか、本来の自分の走り方がどんなものだったのかすら、もう思い出せない。
毎日のように勝手に紡がれる「優等生で完璧なウマ娘の言葉」が、私の本当の心を上書きし、溶かしていく。
(……このままじゃ、私は完全に消える)
恐怖すらも摩耗し、冷たい虚無に変わりかけていた私の心に、一つのどす黒い感情が芽生えたのは、シニア級の秋の冷たい風を感じた頃だった。
私を支配するあのバケモノは、異常なまでに「完璧な連勝」と「他を寄せ付けない圧倒的な走り」に執着している。レース中、私がほんの少しでも筋肉を緩めようと抵抗すれば、見えない力で強引に関節を駆動させ、絶対に先頭を譲ろうとしなかった。
プライドが高いのだ。あいつは、ただの一度の敗北すら許せないほどに、傲慢で完璧主義な悪霊に違いない。
ならば。
あいつが最も勝利を渇望するであろう、最高の舞台。大観衆が見守る大一番で、意図的に『無様な大敗』を喫してやればどうなる?完璧な連勝記録に泥を塗り、その異常なプライドを力尽くでへし折れば。あいつは私という器を見限り、どこかへ消え去ってくれるのではないか。
どうせこのまま喰われて消滅するくらいなら。
相打ちになってでも、あいつの最も大事にしているものを破壊してやる。
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そして、運命の日がやってきた。
秋の空気が肌を刺す、東京レース場。国内最高峰の舞台、『ジャパンカップ』。
地下道に立つ私の心臓は、これまでにないほど激しく鼓動していた。出走を待つライバルたちが、張り詰めた空気の中で闘志を燃やしている。だが、私の内側で荒れ狂っているのは、そんな純粋な競技者の熱ではない。三年分の怨嗟と、今日この場所で自分の脚を壊すという、狂気にも似た悲壮な決意だった。
(……やる。絶対に、ここで終わらせる)
『各ウマ娘、ゲートイン完了。……スタートしました!』
大歓声と共に、ゲートが開く。
刹那、私の意識はいつものように暗闇へと突き落とされ、肉体の制御権が完全に剥奪された。飛び出した私の身体は、吐き気がするほど完璧なスタートダッシュを決め、無駄のないポジション取りでバ群の好位につけた。風を切り裂き、他のウマ娘の息遣いを置き去りにしながら、私の肉体はひたすらに最適解のコースをなぞっていく。
(まだだ。まだ動くな。力を溜めろ……!)
私は、暗闇の底でじっと息を潜めた。道中で下手に抵抗すれば、すぐにバケモノに軌道修正されてしまう。狙うのはただ一点。レースの最終盤、あいつが勝利を確信し、最も爆発的な加速を繰り出そうとするその瞬間だ。
やがて、運命の最終コーナーを回り、長く苦しい東京の直線へと差し掛かった。大観衆の地鳴りのような歓声が、スタジアムを揺らす。私を支配するバケモノが、勝利を決定づけるための『異次元の末脚』を繰り出そうと、全身の筋肉を極限まで収縮させた。
(――今だッ!!)
私は、暗闇の底で眠らせていた三年分のすべての自我を、たった一つの殺意に変えて、右脚の神経へと叩き込んだ。
これまで何度も跳ね返されてきた。圧倒的な力の前に、私の意志など塵芥のように扱われてきた。だが、今日は違う。三年間、声を殺して泣き続けた夜。ツバキの優しい言葉すら呪いに聞こえた日々。私として生きたいという執念。そのすべてを、たった一歩の『破壊』に注ぎ込んだ。
(動け、私の脚! 走るな! 砕け散れェェェッ!!)
―――ギチ、ギチギチギチッ!!
私の肉体の中で、完璧な走りを強制しようとする見えない力と、それをぶち壊そうとする私の自我が真っ向から激突し、骨が軋むような不気味な音が鳴った。凄まじい推進力を生み出そうとしていた右脚。私はその足首の関節を、強引に、あさっての方向へと捻り曲げたのだ。
「――っ、が、あぁッ!?」
パキリ、と。
乾いた破裂音と共に、私自身の口から、この三年間で初めての『本物の苦痛の悲鳴』が漏れた。
完璧だった走行バランスが、一瞬にして崩壊する。右足首を駆け上がる、脳髄が焼き切れるような激痛。もつれる両脚。前のめりに倒れそうになる身体を、バケモノが必死に立て直そうと筋肉を硬直させるが、一度狂った歯車はもう元には戻らない。
『おおっと!? 先頭に抜け出そうとしていた一番人気! 突如としてバランスを崩した! 故障か!? どうしたことか、急激に失速していく!!』
実況の悲鳴にも似た声が響く。背後から迫っていた他のウマ娘たちが、驚愕の表情を浮かべながら、もがく私を次々と抜き去っていった。一陣の風と共に、ライバルたちの背中が遠ざかる。
痛い。息ができないほど痛い。右足首はおそらく折れているか、靭帯が千切れている。だが、私はその激痛の中で、狂ったように笑いそうになっていた。
(やった。やった……! 私が、あいつの邪魔をしてやったんだ!)
やがて、先頭集団がはるか前方でゴール板を駆け抜ける。大歓声が勝者を称える中、私は最後尾に近い順位で、泥まみれになりながらフラフラとゴールラインを越え……そのまま、芝生の上へと無様に転がり落ちた。
「はぁっ、はぁっ、あ、あっ……!」
全身が泥に塗れ、右足首が火を吹いたように熱く脈打っている。スタンドは、絶対女王の信じられない大敗とアクシデントに、水を打ったように静まり返っていた。視界の端で、トレーナーやツバキが、血の気を失った顔でこちらへ駆け寄ってくるのが見える。
だが、ターフに仰向けに倒れ込んだ私の顔は、歓喜でぐしゃぐしゃに歪んでいた。
「勝った……。私、負けた……負けることが、できたんだ……っ!」
作られたアイドルの声でも、熱血ドラマのセリフでもない。三年ぶりにようやく表に出てきた、掠れて、泥臭い、私自身の本物の声だった。右足首の激痛すらも愛おしい。これは私が、私の意志で肉体を動かしたという何よりの証明なのだから。
完璧な連勝は途切れた。バケモノの誇りは、今ここで完全に粉砕されたのだ。
「あはは、あははははっ! ざまあみろ……! 私は、私だ! お前の思い通りになんて、させない……ッ!」
私は泥だらけの顔を覆い、子供のように声を上げて泣き笑った。呪縛は解けた。私はバケモノに打ち勝ち、私という存在を取り戻したのだ。
息を切らして駆け寄ってくるトレーナーに向かって、私は本当の笑顔で「トレーナー! 大丈夫だよ!」と言おうと口を開いた。
――その、瞬間だった。