「あはは、あははははっ! ざまあみろ……! 私は、私だ! お前の思い通りになんて、させない……ッ!」
私は泥だらけの顔を覆い、子供のように声を上げて泣き笑った。折れた右足首から絶え間なく発信される、脳髄を焼き切るような激痛。それが私にとって、自分が自分の意志で世界に干渉できたという、何より尊い証明だった。
息を切らして駆け寄ってくるトレーナーに向かって、私は歓喜の涙と共に、三年ぶりに、自分の声で「トレーナー! 大丈夫だよ!」と言おうと口を開いた。
――その瞬間だった。
『ジリリリリリリリリリリリッ!!!!』
泥まみれのターフ。青ざめたトレーナーの顔。静まり返ったスタンド。私の視界に映るそのすべての景色が、唐突に「静止」した。
「え……?」
ざわめきも、風の音も、自分の荒い息遣いすらもが、空間から完全に消え失せた。代わりに脳髄を直接揺らしたのは、ひどく安っぽく、無機質で、耳障りな『目覚まし時計』の音だった。
ジリリリリリリリッ
音が鳴り響く中、世界がぐにゃりと、不気味なゼリーのように歪んだ。
何が起きているのか理解するより早く、私の目の前で、信じがたい光景が展開され始めた。
血相を変えて駆け寄ってきていたトレーナーが、凄まじい速度で後ろ歩きを始める。ターフに散らばった泥の飛沫が、重力を無視して宙を舞い、元の地面へと吸い込まれていく。空の雲が不自然な速度で逆行し、沈みかけていた太陽が東の空へと引き戻されていく。
「なに、これ、やめ……っ!」
私の肉体もまた、見えない巨大な力に引っ張られ、猛烈な勢いで逆再生され始めた。
折れる覚悟で捻り曲げた右足首。その千切れた靭帯と砕けた骨が、フィルムを逆回しにするように強制的に接合されていく。激痛が、ひどく嘘くさい治癒の感覚と共に消え去る。泥だらけだった勝負服が瞬く間に新品の輝きを取り戻し、流したはずの歓喜の涙が、無理やり瞳孔の奥へと吸い戻されていく。
―――やめて。やめて! それは私の痛みだ。私が三年かけて、やっとの思いで勝ち取った「私」なんだ! 返して、奪わないで!
声にならない悲鳴を上げる私の視界が、強烈な目眩と共に真っ白に染まった。直後、大きく息を吸い込んだ私の鼻腔を突いたのは、薄暗い鉄の匂いだった。
■
「はっ……!!」
極限まで研ぎ澄まされた、自分の肉体の完璧なコンディション。私は、信じられない思いで周囲を見回した。狭い箱の中。隣には、出走を待つ他のウマ娘たちが、緊張した面持ちで前を見据えている。
(嘘でしょ……? え、まさか、スターティング、ゲートの、中……?)
理解させられる。時間が、巻き戻ったのだ。あの死物狂いの抵抗も、歓喜の涙も、泥まみれの敗北も、右足首を砕いた激痛も。気が付けば、すべてが「最初からなかったこと」にされていた。
『各ウマ娘、ゲートイン完了。……スタートしました!』
実況の声が響く。先ほどと一言一句違わぬ、全く同じトーンで。
―――ゲートが開く。
今度こそ、一歩たりとも走るものか。私は絶望と恐怖で狂いそうになりながら、全身の神経を硬直させ、その場にうずくまろうとした。しかし、無駄だった。
――カチリ。
脳の奥底で、ひどく冷たく、絶対的な音が鳴った。次の瞬間、私の身体は、先ほどのレース以上の猛烈な爆発力で、ターフへと射出されたのだ。
「あ、がっ……!」
声にならない悲鳴。肉体の制御権は、今度こそ1ミリの隙間もなく、
呼吸すらも完璧に統制され、私はただ、自分の肉体という名の牢獄の中から、外の景色が猛スピードで流れていくのを見つめることしかできなかった。
そして最終コーナー。先ほど私が抵抗した、因縁の直線。
――カチリ。カチリ。
私の肉体は、限界をさらに超えた異次元の末脚を繰り出し、他のウマ娘をまるで止まっているかのように抜き去っていく。誰の邪魔も入らない、完全無欠のビクトリーロードを進み、そして、栄光を掴んだ。
■
(違う。違う、違う……!)
私は、絶望の深い深い底で、自分が戦っていたモノの『途方もない巨大さ』に、ただ震えることしかできなかった。
怒られもしなかった。罰すら与えられなかった。
私の三年の苦しみも、決死の反逆も、骨を砕いた痛みすらも。
ただあの不快な音ひとつで、まるで転がったおもちゃを元の場所に戻すように、いともたやすく「なかったこと」にされてしまったのだ。
私を縛り付けているこの得体の知れない『何か』にとって、私の命や決意なんて、道端の石ころ以下の……踏み潰したことにすら気づかないような、ただのチリに過ぎないのだ。
『――強い、強すぎるッ!! これぞ絶対女王! ジャパンカップ、前人未到のレコードタイムで圧勝です!!』
割れんばかりの大歓声の中、私の肉体は悠々とゴール板を駆け抜けた。私の流した血も涙も。夢見て入学したトレセン学園も。友達やトレーナーと一緒に努力して掴んだ、あの泥臭いメイクデビューの記憶すらも。最初からこの世界には、一滴も存在しなかったかのように。
(ああ……そうか。私は……)
観客席に向かって、満面の笑みで手を振る私。その張り付いた完璧な笑顔の奥で、私の心は、パリン、と音を立てて完全に崩壊した。
(……とんでもないものに、願ってしまったんだ)
『――オ前ノ、純粋ナル走ル喜ビ。確カニ観測シマシタ』
『――故ニ、【祝福】ヲ与エマショウ』
頭の奥底で、あの日、静まり返った夜の中庭で聞いた三女神の無機質な声が、ひどく冷たくリフレインした。そうだ。あの時、私は願ってしまったのだ。
「誰よりも速く走りたい」と。
神様は、その純粋な願いを、文字通り『完璧な形』で叶えてくれただけなのだ。私という不完全な運転手からハンドルを奪い、永遠に狂うことのない勝利と言う呪いを与えることによって。
……私の意志なんて、最初から一ミリも必要なかった。私がどれだけ泣き叫ぼうが、骨を砕こうが。この圧倒的で無慈悲な力の前では、ただ同じ、勝利と言うレールの上を永遠に走らされるだけなのだから。
ジャパンカップの後。私の心は完全に死に絶え、感情を一切持たない空虚な抜け殻となった。
その後のレースも、そしてURAファイナルズまでの道のりも、私はただの一度の抵抗も試みることなく、ただただ自動操縦のままに。肉体はただひたすらレコードタイムを叩き出し、無慈悲に他者を蹂躙し続けた。