『殿堂入りウマ娘』   作:灯火011

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三度の脳髄と、見知らぬ勝負服

 無敗の三冠ウマ娘。ジャパンカップ、天皇賞、春秋グランプリ。そして、すべてのウマ娘が夢見る究極の大舞台、『URAファイナルズ』の完全制覇。

 

 私の肉体は、あの日以来ただの一度の反逆も試みることなく、出走したすべてのレースを前人未到のレコードタイムで無慈悲に蹂躙し続けた。心はとうの昔に死に絶えていた。喜びも、悲しみも、怒りすらも、分厚い氷の下に沈んだように何も感じない。

 

 ただ、見えない強大な力によって完璧に統制された筋肉が、機械のように正確にターフを蹴り、他者を絶望の底に突き落としていくのを、一番特等席でぼんやりと眺めているだけだった。

 

 URAファイナルズ決勝戦後の『グランドライブ』。

 

 数万人の観客が狂ったように熱狂し、色とりどりのサイリウムが光の海となって、夜のスタジアムを激しく揺らしている。センターステージの中央。最も眩いスポットライトを全身に浴びる私の顔面には、この世の誰よりも輝かしい、極上のアイドルスマイルが張り付いていた。

 

 指先の角度、ステップの正確さ、マイクを通る透き通った歌声。そのすべてが、寸分の狂いもない完璧な『神のプログラム』によって出力されている。

 

『ありがとう! みんな、大好きだよーっ!!』

 

 私の口から、最高に愛らしいファンサービスの台詞が弾ける。割れんばかりの大歓声。頭上から降り注ぐ無数の紙吹雪。客席の最前列では、三年連れ添ったトレーナーとツバキが、顔をくしゃくしゃにして泣きながら私の名前を叫んでいる。

 

(ああ……)

 

 その光景を見つめる私の心の奥底には、もはや一滴の感情も湧かなかった。ただ、摩耗しきった虚無だけが、私の輪郭の内で薄暗くうずくまっている。

 

 肉体は、栄光を手に入れた。あの日の願いそのままに。

 

 そして、歓声が最高潮に達し、ライブのフィナーレを飾る眩いレーザー光線がスタジアムを貫いた。

 

――その瞬間だった。

 

 

 

 ブツンッ。

 

 

 まるで、巨大なテレビの電源コードを乱暴に引き抜いたように。鼓膜を破るような大歓声も、肌を焦がすような眩い光も、夜の匂いも、すべてが唐突に消滅した。

 

「……え?」

 

 気がつくと、私は一切の音と光が存在しない、無機質で真っ暗な『空間』に一人、ポツンと立っていた。上下左右の感覚すらない。足元は黒い水面のように自分の姿を反射しているが、波紋ひとつ立たない。

 

(え……? 何、これ……?)

 

 さっきまであれほど響いていた歓声も、光も、熱気も。嘘のように跡形もなく消え去っている。

 

 停電? ライブの演出? それとも、ついに、私がおかしくなってしまったの? 何も見えない。何の音も聞こえない。ただ、底知れない不気味な暗闇だけが、私を取り囲んでいた。

 

 わけがわからず、震える足を一歩踏み出そうとした。

 

 ――その直後だった。

 

「――っ!?」

 

 見えない巨大な万力が、私の頭蓋骨を両側からメシリ、と挟み込んだ。悲鳴を上げる間もなかった。

 

「グギギッ、アガッ、ア、ガァァァァァァッ!!?」

 

 脳髄の奥底に、太く冷たい鉄のフックのようなものが直接食い込み、背骨ごと一気に『上』へと引きずり出されるような、言語を絶する激痛が走った。この三年間、あのバケモノが私の肉体を勝手に酷使し、極限まで作り変えてしまった筋肉と骨の記憶。それが、私の体内から強引に引きずり出されるような感覚。私の身体から、力が抜けていく。

 

「ヒグッ、や、やめ、てぇっ……!!」

 

 息つく暇もなく、二度目の激痛が襲いかかる。今度は胸を直接切り裂かれ、心臓をわし掴みにされるような感覚。バケモノが私の身体に強制的に叩き込んだ『完璧に走るための本能』が、内側からべちゃりと抉り取られていく。

 

「アアアアアアッ、アアアァァァァァァッ!!」

 

 そして三度目。

 

 それは最も残酷で、最も深く私の存在を抉り取るような苦痛だった。光の当たらない肉体の奥底で、私がこの三年間、毎日声を殺して流し続けた血の涙。発狂寸前で耐え続けた、暗闇の中での絶望。そして……あの日、才能がなくても純粋に走ることを愛していた、私自身の『魂』そのものが。

 

 まるで、血を伴った臓物のように脳髄から引き剥がされた。

 

「あ、あああ……嫌だ、返して、私の……私の……っ」

 

 私は暗闇の底で痙攣し、よだれと涙を垂れ流しながら、ただ終わりのない蹂躙に耐え続けていた。―――やがて、私の体内から搾り出された三つの光が、頭上のずっと高い場所で一つにまとまり、神々しい輝きを放った時。

 

『ふぁ〜あ……』

 

 ―――天上のずっと向こう側から。ひどく間の抜けた、欠伸まじりの巨大な声が降ってきた。

 

『やっぱり強いなアーモンドアイ。無敗育成、クソ余裕だったわ』

 

(……え?)

 

 私は、脂汗にまみれた顔をゆっくりと上げた。それは、悪霊でも、神聖な存在でもない。どこか退屈そうで、無邪気で、残酷なほど日常的な声だった。

 

『おっ! スピード青因子3に、芝の赤因子3! シナリオの白因子3もついた! 完璧じゃん。良い感じでほかの因子もついてるし、厳選成功だな!』

 

 その『声』は、私が三年間味わい続けた絶望も、今まさに魂を引き裂かれた激痛も、まったく意に介していなかった。道端の石ころを蹴り飛ばすように。あるいは、ただの粘土細工をこね回すように。私という存在のすべてを、ただの『良い感じの素材』として喜んでいるのだ。

 

 激痛の波が引き、私はゆっくりと、暗闇の中で自分の両手を見下ろした。

 

「……え?」

 

 そこにあったのは、私の見慣れた勝負服ではなかった。豪奢で、洗練された、全く見たこともないデザインの『勝負服』。白地に薄いブルー、そこに、黄色でリボンがあしらわれている。震える足で立ち上がり、私は鏡のように黒く反射する足元の水底を見下ろした。

 

 ――息が止まった。

 

 そこに映っていたのは、平凡な栗毛の私ではない。鹿毛とグラデーションがかった空色のインナーカラーのロングヘアー。計算し尽くされたような美しいプロポーション。そして、瞳孔が不気味なほど美しく、『()()』に割れた、吸い込まれるほどに美しい瞳を持った、本当のアイドルのようなウマ娘。

 

 『私ではない私』が、鏡の奥から、一切の感情を持たない虚ろな瞳でこちらを見つめ返していたのだ。

 

 アーモンドアイ。図書室でどれだけ調べても分からなかったその正体は、私自身を苗床にして造形された、この『新しい器』の名前だった。

 

 私は、悪霊に乗っ取られていたわけではない。

 

 あの日。三女神の像の前で願った、「誰よりも速く走りたい」という私の純粋な祈り。女神様は、ただその願いを『最も確実な方法』で叶えてくれただけなのだ。

 

 私という不器用な少女を、絶対に負けない『アーモンドアイ』という美しい器へと作り変え……それを一切のミスなく完璧に操縦してくれる、あの『天上の声の主』へと繋ぎ合わせるという方法で。

 

 私が努力した日々も。流した血も。トレーナーやツバキとの絆も。すべては「誰よりも速く走る」という私自身の願いを実現するために、この新しい器を捏ね上げるための無慈悲な代償でしかなかったのだ。

 

 私は、蚊帳の外にいたわけではない。私自身が、あの日、この永遠の地獄を望んでしまったのだ。

 

 その残酷すぎる真実を理解した瞬間、私は鏡のような水底に崩れ落ちた。

 

「ああ……あぁぁっ……!」

 

 大粒の涙が、十字に割れた不気味な瞳からボロボロとこぼれ落ちる。私は両手で見知らぬ美しい顔を覆い、暗闇の中で、獣のように声の限り泣き叫んだ。違う、こんな形じゃない。私が望んだのはこんなことじゃない。私は、自分の脚で速く走りたかっただけなんだ。私は、努力して、友達と切磋琢磨して、泣いて、笑って……。

 

 三女神様、助けて。嫌だ。私を返して。私を、元の私に――。

 

『よし。じゃあ、殿堂入りさせて、次はこの子を継承元にしてもう一回育成回すか。今度は温泉郷シナリオ……いや、Dreamsにしよう。目指せ、最高スコア!ってな。あ、出来がいいからフレンドにも設定しとくか。』

 

 ――カチリ。

 

 天上の向こうから、無機質で、絶対的な入力音が響く。

 

 次の瞬間、絶望で泣き叫んでいた私の顔面筋肉が、ギチリ、と強引に釣り上げられた。

 

 流れる涙をそのままに、私の顔には極上のアイドルスマイルが張り付く。

 

 感情など一切関係ない。私の肉体は勝手にすっと立ち上がり、暗がりの中を、機械的な足取りで歩き始めた。

 

 ―――向かった先は、暗い暗い深淵の片隅。

 

 そこには、私と同じように勝負服を着せられ、虚ろな瞳で完璧な笑顔を浮かべた数多の「名ウマ娘」たちが、等間隔で綺麗に整列させられていた。

 

 私の肉体は、その列の最後尾にピタリと止まり、前を向いた。

 

 

 『殿堂入り』……それは、ファンが熱狂し、全てのウマ娘が憧れる言葉だ。URAファイナルズで勝利したウマ娘たちは、その名を永遠に記録される。だが、その「本当の意味」を私は理解せざるをえなかった。……誰よりも速く走りたい。その奇跡を叶えてもらうための、『願い』の代償。

 

 

 神が再び私を引きずり出し、次の泥人形の『親』として使い潰すまでの間。私はこの一切の光がない暗闇の列の中で、極上の笑顔を浮かべたまま、永遠に待機し続けるのだ。

 

 

――カチリ。

――カチリ。

――カチリ。

 

 

 天上の向こう側から聞こえる無機質な作業音だけが、私の新しい鼓動だった。

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