『――強い、強すぎるッ! 圧倒的な大差! ブリーダーズカップ制覇! その脚に一切の衰えなし! これぞまさしく絶対女王、他を寄せ付けない完璧な勝利です!!』
トレセン学園のカフェテリア。壁掛けの大型モニターから、実況の興奮しきった絶叫と、地鳴りのような大歓声が響き渡っていた。
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画面の中央には、ウイニングライブのセンターに立ち、数万人のファンに向けて眩い笑顔を振りまく一人のウマ娘が映し出されている。そして、それに熱狂する人々も。
気高く艶やかな鹿毛。一点の曇りもない、計算し尽くされたような美しいプロポーション。そして、不気味なほどに整った十字の瞳孔。彼女の走りは、URAファイナルズを超え、更には連戦無敗で迎えたブリーダーズカップという大舞台を終えた後だというのに、一切の熱も、疲労も、人間らしい必死さも感じさせなかった。ただ、決められた軌道をなぞるためだけに駆動する、美しくも悍ましいナニカだった。
「……ええ。判っています。彼女は、伽藍洞(がらんどう)です」
喧騒から少し離れた、薄暗い窓際の席。マンハッタンカフェは、湯気を立てるブラックコーヒーの入ったカップを両手で包み込みながら、隣の『何もない空間』に向かってぽつりと呟いた。
彼女の黄色い瞳には、モニターの中で笑う女王の異常性がはっきりと映っていた。彼女の隣に寄り添う見えない『オトモダチ』もまた、画面の向こうで踊る完璧な肉体の内に、本来あるべきはずの魂が欠落していることを悲しげに見つめている。
強い魂の輝きなど、あそこにはもう一滴も残っていない。アレは、かつて泥臭く足掻いていた誰かの自我をすり潰し、「速く走りたい」という純粋な祈りを代償にしてすべてを抜き取られた後に残された、ただの精巧な空箱だ。
カフェはカップを持ち上げ、ゆっくりと、その漆黒の液体を口に含んだ。舌の上に広がるのは、ひどく深く、ざらつくような真実の苦味。
「……神様というのは、本当は畏れ多いものです。本来、不用意に、願いを託してはなりません。そして、もし、願いを託したのならば、日々の感謝と祈りを忘れてはならないのです」
静かな宣告。彼女はカップの底の暗闇を見つめながら、オトモダチへ、そしてこの悍ましい世界の構造そのものへと語りかける。
「自ら望んで盤上の駒となった存在は、最初、自分が駒に成り下がった事にすら気づきません。突然与えられた奇跡のような力に目を奪われ、自分の足で夢に向かって走っているのだと錯覚してしまう。
そして、仕舞いには、与えられたものだという事実を忘れ、感謝も、祈りもせずにその力に身を任せる。……いずれ、その『代償』に気づいた時にはもう遅いのです」
画面の中では、空っぽの女王が、寸分の狂いもないステップで踊り続けている。
「彼女たちは、もう二度と自分の意志で走ることは許されない。肉体の奥底という暗闇に幽閉され、自分の身体が勝手に輝かしい栄光を掴み取っていく光景を、ただ絶望と共に眺め続けるしかない。……私たちは皆、最初から最後まで、見えざる手によって書かれたシナリオをなぞるための、ただの『便利な容れ物』に過ぎないのですから」
観客たちはその完璧な美しさに熱狂し、涙を流して名前を叫んでいる。その美しい皮膚の内側で、声なき少女が暗闇の底に永遠に陳列されていることなど、誰も知る由もない。
「奇跡の代償としてすべてを奪われた少女の魂は、今日もまた、鳴り止まない熱狂の喝采の中で、決して終わることのない完璧な軌道を走り続けてい――」
―――ふと、マンハッタンカフェの言葉が途切れた。
彼女の伏せられていた黄色い瞳が、ゆっくりと持ち上がる。
その瞳孔の焦点は、モニターの中の伽藍洞の女王でもなく、隣に立つ見えないオトモダチでもなく。
……まるで何もない空間を透過して、『この世界を上から見下ろしている何者か』の目を真っ直ぐに射抜くように、虚空を見据えていた。
ゾクリ、と。
彼女の背筋が、見えない糸で強引に引き上げられたように、不自然なほど真っ直ぐに伸びる。物静かでミステリアスだった彼女の顔面筋肉が、ひどく爽やかで、明るく、そして一切の感情が籠っていない『完璧な笑顔』へと釣り上げられた。
『――いいえ、この素晴らしい熱狂を、決して終わらせてはなりません。ウマ娘という存在がさらに繁栄し、より壮大な夢の舞台を永遠に広げ続けていくためには……あなた方の絶え間ない協力が必要なのです』
それは、カフェの声帯を使っていながら、決してカフェのものではない声だった。ひどく無邪気で、残酷で、有無を言わさぬ圧倒的な力を持った『何か』が、彼女の口を借りて、虚空の向こう側にいる存在へと直接囁きかけてきたのだ。
『判ったら、貴方もこんなものを見ていないで、担当ウマ娘の育成に戻りましょうねぇ』
『トレーナーさん?』
―――言い終えると同時に、カフェの身体からフッ、と不自然な力が抜け落ちた。
「……っ」
僅かに肩を震わせ、彼女は自分が今、何を口走らされたのかを理解したように顔を青ざめさせた。カップを持つ指先が微かに震え、漆黒の水面に波紋が広がる。
真実に気づき、静かに観測を続けていた彼女自身すらも、その気になればいつでもこうして操り、容易く作り変えることができるのだという、底知れない暴力の誇示。
カフェは震える息を細く吐き出し、ただ自分の無力さを噛み締めるように、落ち着き払った様子を取り繕って、もう一度深く目を伏せた。
「………神様は、畏れ多いのです」
喧騒に包まれたカフェテリアで、彼女の微かに震える声は、誰の耳にも届くことなく冷たいコーヒーの底へと沈んでいった。