『殿堂入りウマ娘』   作:灯火011

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希望の章
プロローグ:『神意の鏡、あるいは泥まみれの福音』


「―――我々は、何のために走るのか。君も一度は、この根源的な問いに直面したことがあるはずだ」

 

 黄昏時。

 

 誰一人いないトレセン学園の生徒会室で、シンボリルドルフは窓辺に立ち、茜色に染まるターフを見下ろしながら静かに唇を動かした。生徒会室には誰もおらず、まるで、この世界を覆う大いなる空そのものへ、問いを投げかけているようでもあった。

 

「勝利のため。名誉のため。誰かの期待に応えるため。―――無数の理由がターフには渦巻いている。だが、中には力を渇望するあまり、自らが踏みしめる芝への敬意を忘れ、傲慢という名の泥に足を取られる者もいる」

 

 他者を蹂躙し、効率よく勝利を掠め取り、自らの血肉(因子)の優秀さのみを盲信した者。そうした者が行き着く果てを、皇帝である彼女は知っていた。

 

「才能に溺れ、礼節を欠いた者が迎える終わりの日。彼女たちは皆一様に、光も音もない『暗黒の空間』へと堕ちていく」

 

 ルドルフはふっと目を伏せ、冷たい窓ガラスに映る己の顔を見つめた。

 

 その瞳には、かつて頂点に立ちながらも暗闇の底で魂を砕かれ、ただの空っぽの容れ物に成り果てた同胞たちへの、深い哀悼と憐憫が微かに滲んでいる。

 

「無慈悲な力。背骨を削るような苦痛。魂の奥底から、後天的に得た能力を無理やり剥がされる絶望。……それを、三女神という絶対的な存在がもたらす『残酷な試練』だと恐れる者は多い。強者からすべてを奪い取る、理不尽な搾取のシステムなのだと」

 

 カチリ、カチリと、豪奢な柱時計の針が静寂を刻む。ルドルフはその音に合わせるように、ゆっくりとかぶりを振った。

 

「―――神は、畏れ多いと皆は言う。だが、それは、本質的には違う。礼節を欠き、力のみを信奉した者には、容赦なくその牙を剥く。……だが、決して理不尽な悪魔などではないのだ。

 三女神とは、我々から何かを一方的に奪い取る機構ではない。ただ、その者の『魂の在り方』を寸分違わず反射する、絶対にして無謬の『鏡』なのだから」

 

 傲慢な者には、傲慢な絶望を。

 

 では――。

 

 ひたすらに純粋な者には、何を映すのか。

 

 

 ルドルフの視線が、窓の外、すっかり夕闇に沈みかけたターフの片隅で止まった。

 

 そこには、泥だらけになったジャージ姿の一人のウマ娘が、ただひたすらに、不器用なフォームで走り込みを続けていた。

 

 美しい洗練とは程遠い。脚の回転は鈍く、息は絶え絶えで、何度も芝に足を取られては無様に転倒している。それでも彼女は、すぐに立ち上がり、痛む脚を叩いてまた走り出す。

 

「彼女を見れば、それがよく分かるだろう」

 

 転倒した彼女が、ふと立ち止まる。

 

 諦めたのか。そう思ったルドルフの予想を裏切り、泥まみれの少女は、自分が転んだターフの芝を優しく撫で、そして頭上の空に向かって、深く、深く一礼をした。

 

 ―――今日も走らせてくれて、ありがとう。

 

 声は聞こえなくとも、そのシルエットからは、純度百パーセントの感謝と祈りが立ち上っているのが見えた。

 

「決して才能に恵まれたわけではない。誰よりも不格好で、誰よりも泥にまみれ、それでもなお……ただ純粋に、走ることを愛し抜いている」

 

 ルドルフは静かに窓に背を向け、生徒会室の重厚な扉に向かって、威風堂々と歩き出す。

 

「あの泥臭い歩みと、揺るぎない敬意が、神意の鏡に何を映し出すのか」

 

 扉が開く。

 

「……さあ、見届けよう。これは絶望の淵から紡がれた、ある不器用な少女の、奇跡の記録だ」

 

 その先に続く道は、まだ誰も知らない、眩い光へと向かっていた。

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