機動戦士ガンダムSEED / Re.00 -西暦の蒼き翼- 作:コエンマ
それでは第13話をどうぞ
砂漠の夜の帳は、どこまでも深く、そして冷酷なほどに重い。
日中の猛烈な熱気が嘘のように引き、乾燥した大地を凍てつかせるような夜風が集落の石壁を鳴らしていく。
フィオたちが数年来より拠点としていた集落の放棄が決まり、夜中近くまで慌ただしく立ち働いていた人々も明日という転機を前に静かな眠りについている。静寂で満たされた集落には、冷たい夜風が建物の隙間を吹き抜ける音だけが静かに響いていた。
生きるために張り詰めていた糸が、束の間だけ緩む時間。だが、そんな静まり返った世界の中でキラに訪れたのは、安らぎとは程遠い、底のない葛藤の闇だった。眠りにつくことなど到底できず、精神は暗い思考の海へと深く沈み込んでいる。
使い古された質素な石造りの部屋。壁面の歪な石組みは長年の風雪を物語るが如く、隙間風が容赦なく室内の温度を下げていく。小さな木製のサイドテーブルに置かれたオイルランプだけが唯一の光源であり、冷たくなった風を不規則に受けては、その小さな炎を心細げに揺らしていた。煤けたガラスに反射する橙色の光は壁に伸びたキラの影を不気味に歪ませ、部屋の隅々にも濃い陰影を生み出している。
キラは中綿の擦り切れた硬いベッドに身を横たえ、ランプの光が頼りなく這う古ぼけた天井を、焦点の定まらない瞳でぼんやりと見つめていた。だが視線をどれだけ動かしても、身の内に宿る苦悩は網膜の裏側で幾度も明滅を繰り返し、自らを掴んで放すことはない。
(……僕は、どうしたら…………)
声にならない自問が、自身の内側で虚しく木霊する。
かつての世界で多くの命を奪うために生み出され、しかし自分の存在により数奇な運命を辿ることになった翼、フリーダム。この世界に流れ着いた末に甦った
この地が世界の中心から遠く離れた辺境であること。また戦闘の痕跡を徹底的に抹消し、エミリアたちの機転でもって偽装工作を施したこと。念には念を入れた対策により、すぐにこの事態が公に露呈して追手が差し向けられるようなことはないと思う。
当事者である彼女たちからも、ひとまずの安全を保証するような「お墨付き」を貰っている。自分や
だが、キラの心に宿る不安は彼女たちのその優しさを以てさえ、簡単に払拭されるほど生易しいものではなかった。
自分はこの世界の住人ではない。突如として次元の壁を越えてしまったただの異邦人であり、異物に過ぎない。自らが駆る機体もまた同じだ。この世界の技術体系や戦術バランスを根底から揺るがす、あまりにも異質で強大すぎる力なのだから。
ソレスタルビーイングのガンダムがそうであるように、モビルスーツという概念そのものが軍事力の象徴であるこの世界において、あの機体が放つ存在感は劇薬以外の何物でもない。もし、その存在がユニオン、人類革新連盟、AEUの三大国や、世界中で武力介入を開始したという謎の私設武装組織「ソレスタルビーイング」の目に留まれば、事態は一気に切迫する。
そうなれば次にやってくるのは、バシムのような私利私欲で動く三流の小悪党ではない。世界を代表する正規の軍隊の群れであり、起きるのは国家の威信をかけた本物の「戦争」だ。それらはすべからく、この地を跡形もなく押しつぶしにやってくるだろう。
自分が彼女たちの傍に居続ければ、いつか取り返しのつかない災厄を招き寄せる。
理屈では、痛いほどによくわかっている。ここを出るべきだと、冷徹な理性を司る心の一部は激しく叫んでいた。自分が去ることこそが、彼女たちを最大の危機から遠ざける唯一の手段なのだと。
けれど、踏み出すための足がどうしても動かない。
血みどろの戦火の中で故郷も、大切な仲間も、そして自分が帰るべき場所さえもすべて失い、抜け殻のようになっていた自分。紆余曲折はあったが、そんな存在を、何者とも知れぬ異分子のまま受け入れてくれたのは他ならぬフィオ達だ。
キラ自身が、ここで得られたささやかな平穏に対して未練を感じているのは勿論ある。過酷な環境の中でも、泥に塗れながら懸命に生きる彼女たちの笑顔に、どれほど救われたか分からない。
しかし、何よりも彼の足を鈍らせていたのは、かつての自分自身の姿だった。
理不尽な現実によって傷つき、大切なものを奪われ、拠り所を失ってただ立ち尽くすしかなかったあの頃の自分。そんな過去の写し身と、今のフィオ達がどうしても重なってしまう。
自分を救ってくれた優しい彼女達が、新天地への旅立ちという不安定な状況を前に、これほどの苦境に立たされている。そんな中、自分の都合だけで彼女たちを放り出してしまっていいのだろうか。そこから来る強い懸念と、これ以上傷つけたくないという歪な責任感がキラの心を縛り付け、動けなくさせていたのだ。
「……っ」
胸を締め付けるような苦い思考を強引に振り払うように、キラは勢いよく寝返りを打った。ベッドの古びたスプリングが、ギシリと重い音を立てて静寂を破る。
その時になって、キラは部屋の外にかすかな気配を感じ取った。ドア代わりとして入り口に吊るされた、厚い布のカーテンで作られたドアの向こう側から、微かな、砂が擦れるような足音が聞こえてくる。
足音は極めて静かで、どこか躊躇いがちに、進むべきか退くべきかを迷うようにその場で立ち止まっていた。だが、こちらへ向けられた確固たる意志を持った視線のようなものがキラの肌を撫ででいく。
(? 誰だろう……?)
冷え切った空気の中に走る沈黙。
キラが疑問に思い、ベッドの上で身体を起こそうと身構える。だが彼が動くより早く、夜の静寂をそっと押し広げるようにして、布一枚を隔てた向こう側から聞き慣れた、だがどこか緊張で張り詰め響きが静かに耳を突いた。
「キラ……起きてる?」
少し時間を遡り、キラが葛藤の最中にあった頃。その部屋へと向かう通路の影では、二人の女性が密やかな、それでいて騒がしい押し問答を繰り広げていた。
「ほら、行った行った! 何を往生際悪くぼーっとしてるのよ、フィオ」
細い通路の闇に紛れながら、背後からグイグイと容赦なく背中を押してくるのは、気心の知れた幼馴染であり、集落のメカニックを支えるエミリアだ。彼女の身を包んでいるのは、日中にオイルと煤に塗れていたいつもの無骨な作業着姿ではない。一日の終わりに寝支度をすべて終え、幾分か緊張から解放されたリラックスした格好だ。
しかし、その切れ気味の瞳には、この期に及んでもまだ一歩を踏み出す踏ん切りがつかないでいる親友に対する呆れと応援、そして僅かながら他の感情も垣間見える複雑な色が宿っていた。
「ちょっ……エミリア、やめてってばっ。私だって、その……心の準備が……」
フィオは小さな声で抗議しながら、必死に踏ん張ってエミリアの力を押し返そうとした。しかし、狭い通路でのやり取りは物理的な距離をさらに縮めるだけで、焦りと気恥ずかしさが彼女の思考を激しくかき乱していく。そんな親友の様子を見て、エミリアは押し出す手をぴたりと止めると、形の良い眉を少しだけ下げた。
「準備も何もないでしょ? 明日の朝には、みんな移動を始める。キラを私たちの都合でこれ以上振り回すわけにはいかない。お別れしなきゃダメなのはわかってるはずよ……こうして会えるのが、今夜が最後になるってことも」
エミリアの声から、いつものからかうような悪戯っぽさがふっと抜け落ち、どこか冷徹なほどの真剣な響きが混じった。親友の口から告げられた残酷な現実の重みに、フィオは喉まで出かかった反論の言葉をそっと飲み込む。
わかっていた。言葉にされずとも、痛いほどに理解している。
キラ・ヤマトという少年は、こんな世界の片隅にある、吹き溜まりのような砂漠に留まるべき存在ではない。彼はもっと広い「外」の世界へ行きくべき人間なのだ。自分たちの安全を担保するためだけの守り神として、いつまでも飼い殺しにしていい少年ではない。
「……わかってるわよ。ちゃんと、話してくるわ」
ようやく観念したようにフィオが小さなため息をつくと、エミリアは満足そうに表情を和らげた。決意を口にしたフィオに、エミリアも調子を取り戻したようだ。
「よし……あ、そうそう」
しかし、そこで綺麗に引き下がるエミリアではない。彼女はニヤリと不敵に口角を上げると、すれ違いざまにフィオの耳元へと顔を寄せ、悪だくみをするような熱っぽさを含んだ声で囁いた。
「もし万が一……いえ、あのキラ相手だから、億が一かもしれないけど……何かこう……よかれな感じの雰囲気に発展しちゃったりなんかしたら、明日の朝にこっそり私にだけ報告お願いね? アンタも経験ないかもだけど仮にも年上のお姉さんなんだから、イイ夢見させてあげなさい。それじゃ、戦果報告を期待してるわよ、リーダー♪」
「な……っ!? な、何を言ってるのよ、このバカエミリア!!」
エミリアのあまりに直接的で不謹慎な言葉の爆弾に、フィオの顔面は一気に沸騰したかのように鮮やかな朱色へと染まった。あまりの衝撃に心臓が跳ね上がり、激昂した勢いのままエミリアの胸ぐらを掴まんと詰め寄ろうとする。だが、エミリアの方が一枚
「シーッ! 声が大きいわよ! キラに聞こえちゃうでしょ!」
動揺して戦慄くフィオに対し、エミリアは指を唇に当てながら身を翻し、その追撃を軽やかに躱す。照れ隠しであることはもはや完全にバレているようで、親友の楽しげな表情から逃れるように、フィオは視線を明後日の方へと背け、熱を持った自分の顔に両手を当てて冷まそうとした。
(わ、私がキ、キラとなんて……! そ、そんなこと、あるわけ……っ!)
否定しようとすればするほど、エミリアの言葉が具体的な情景を伴って脳内に再現され、フィオの頭はぐわんと大きな音を立てて揺れた。
思い返せば、最初に出会った頃の彼は、能力こそあれどどこか優しすぎて、戦うことに対しても怯えがあるような頼りなさの目立つ少年だった。自分より3歳も年下で、まだ子供の域を出ない、守ってあげなければならない対象だとすら思っていた。
だがその実、本当の危機に直面した時、彼は誰よりも勇敢で……そして強かった。
絶体絶命の最中にあった自分を助けてくれた、年齢よりもずっと大きく見えた背中。兵士がなだれ込み、肩を抱かれた際に感じた、幼い中にある、男性としての確かな体温と力強さ。
だが、それら劇的な出来事も、彼女の心に灯った火を確かなものにした単なる理由付けに過ぎなかったのかもしれない。
日々の生活を共に過ごし、その優しげな眼差しや直向きな姿に触れるうち、いつの間にかキラを目で追うようになっていた。彼をただの年下の少年としては見られなくなってしまっていた自分がいた。自分の中に在る誤魔化せない事実に、フィオは今更ながらに気づかされ、胸が切なく締め付けられる。
だが、それも今夜で終わりなのだ。もし、この煮え切らない気持ちに何か一つの決着をつけるのであれば、もう残された時間は少ない。
暗闇の中で、親友の心中に渦巻く激しい葛藤を正確に察したのだろう。少し離れた場所で立ち止まったエミリアの瞳から揶揄う色は消え、優しく、そして少しだけ寂し気な光が宿った。
「……伝えたからね。後悔しないようにするのよ?」
「……わかってるわよ」
ツンと鼻を鳴らしてそっぽを向いたフィオに、エミリアは慈しみを帯びた苦笑を一度だけ零すと、今度こそ通路の闇の向こうへと消えていった。
静寂が戻った通路に一人残されたフィオは、しばらくの間、親友が去っていった暗がりを見つめながら、赤らんだ顔を落ち着けるように深呼吸を繰り返し、呼吸を整えることに努める。そうして高鳴る鼓動が幾分穏やかになったころ、今度は自分が身にまとっている服に視線を落とした。
今夜、彼女が選んだのは、いつもの油汚れにまみれた分厚いツナギ服でも、過酷な荒事用のタクティカルアーマーでもない。荷物整理の最中に偶然見つけた、一度も袖を通していなかったこの地の伝統織物による寝間着だった。
柔らかな、滑らかな布地が身体のラインにぴったりと沿って走る大胆なデザイン。大きく開いた襟元からは華奢な肩口や綺麗な鎖骨が露わになり、さらにスリットからは健康的な肢体の肌が覗く。それは、彼女の年相応の、普段は見せることのない女性としての艶やかさを嫌応なしに強調するような代物だった。
(……や、やっぱり、いつもの服にするべきだったかしら。でも、もう着替える時間もないし、後には引けない……っ)
露出こそそこまで多くないが、その『いかにも』というような装いに思わず竦みそうになる足を、女としての、そして一人の人間としての覚悟で強引に押さえつける。
エミリアも言っていたではないか。
ここで怖気づいて何も伝えず、行動を起こさぬまま別れることになったなら、きっと自分は一生後悔する。厳しい砂漠の現実を生き抜いてきたからこそ、機会を逃すことの恐ろしさは一番よくわかっていた。
フィオは自分の両頬を両手で包むと、パチンと静かな音を立てて気合を入れる。
そして、その瞳に一抹の寂しさと、胸の奥底に眠る熱い情動を宿すと、意を決してキラの部屋を仕切るカーテンにその手を伸ばした──。
あとがき
第13話、「二人の夜」の前編をお送りしました。お待たせしましてすみません。
例によって書いておりましたら推敲を重ねるたびに長くなり、気づけば1万5千字をゆうに超えてしまったため、前後半の二つに分けることにしました。
前半というには少し短めですが、区切りがいいところがここしかなかった関係です。後半は文字数的には前半の二倍弱くらいはありますが(汗)。
後半部となる第14話もほぼ完成しておりますので、数日中には投稿できるかと思います。