機動戦士ガンダムSEED / Re.00 -西暦の蒼き翼-   作:コエンマ

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お待たせいたしました。

第14話の後編です~。


第14話  二人の夜 (後編)

 

 

 

「キラ……起きてる? 」

 

 静寂に沈む部屋へ、突如として投げかけられたその声に、キラの身体がかすかに跳ねた。

 カーテンの向こうから響いたのは、間違いなくフィオのものだ。しかし、いつもの凛としたリーダーとしてのものではなく、その声はどこか自信なさげで、震えているように感じる。

 

「フィオさん……?」

 

 キラは横たえていた身体をゆっくりとベッドから起こしながら、声の主がいる真横の入り口へと視線を向けた。日付が変わろうかというほどの夜更けだ。明日には大移動を控えているというこの状況で、まさか自分の部屋を訪ねてくる人がいるとは思っていなかった。

 

 キラの胸に小さな困惑が広がる。壁の方へ視線を流し少しだけ考えに耽ったキラに対して、カーテンの向こう側にいる彼女の、少しだけ上擦った声が響いた。

 

「入っても、いいかしら……?」

「あ、はい。どうぞ」

 

 承諾の言葉を返してから、わずかな間が空く。

 やがて、カサリと厚手の布が擦れる微かな音を立てて、カーテンが静かに押し開けられた。薄暗い部屋の境界線を越え、ゆっくりと足を踏み入れてくるフィオ。

 キラは自らの精神を、先ほどまで沈溺していた重苦しい思考の海から強引に浮上させながら、オイルランプの淡いオレンジ色の光に照らされつつある彼女の姿へと自然に視線を巡らせた。

 

「どうしたんですか、こんな夜更け……に……」

 

 ベッドの端に腰掛け、迎え入れるように言葉を紡いでいたキラの唇が、突如として凍りついたように止まった。紡ぎかけの言葉が空気の中に霧散していく。

 視線を逸らそうにも、心ごと絡めとられてしまったかのように、意識が完全にフィオへ奪われてしまっているのを自覚せざるを得なかった。

 

 ランプの灯火に縁取られた彼女のシルエット。それはキラの予想し、何度も目にした彼女の装いではなかった。

 

 現地の織物で作られた、簡素な、だがどこか扇情的な寝間着。

 

 日中に見せる無骨な作業着姿やアーマーからはおよそ想像もつかないほどに、彼女のスタイルはしなやかで、驚くほどに均整が取れたものだった。大きく開いた肩口から来るデザインと露わになった白い肩、細く優美な曲線を描く首筋、左右に大胆に走るスリット、そして柔らかな布地越しにもはっきりと主張してくる、豊かで女性的な肉体のライン。

 

 その視覚的な衝撃と同時に、キラの脳裏へ、昨晩の突入前、エミリアがからかうように茶化してきた言葉が鮮烈にフラッシュバックした。

 

『あの子、ああ見えて結構いい体をしてるんだから』

 

(……っ!)

 

 瞬時に、顔面へ猛烈な血液が駆け上がるのが分かった。耳の裏までがカッと熱を帯びていく。

 これまで意識したことのなかった「異性」としての生々しい魅力が目の前に突きつけられ、強烈な気恥ずかしさと動揺が去来し、キラの精神を一気に窮地に立たせていた。

 

「あ、あの……えっと……」

 

 完全に言葉を失い、視線で彼女の身体を追ってしまったという自覚が、次の瞬間には強烈な罪悪感と羞恥心となって彼を襲う。いくら夜更けの訪問とはいえ、こんな不躾な目で彼女を見るのは失礼だ──僅かに残った理性で自分にそう言い聞かせたキラはフィオの身体から慌てて視線を外すと、部屋の何もない横の空間へ打ち付けるように視線を向ける。

 

 そんなキラのあからさまな狼狽ぶりを見て、フィオもまた、心の中でエミリアの悪戯っぽい軽口を思い出していた。彼女自身、この服を選んだ羞恥心に内心では激しく震えていたのだ。だが、集落のリーダーとして、何よりキラより年上の女性であることを自覚している彼女の意地が、それを表に出すことを拒ませる。

 

 フィオは内心の動揺を悟られないよう努めて落ち着いた風を装いながら、静かにキラの方へと近づいた。

 

「驚かせてごめんなさい……少しだけ、話がしたくて」

 

 揺れるランプの炎が石壁に二人の歪な影を長く落とす。

 昼間とは違う砂漠の風。だが、体を震わせるようなその冷たさとは裏腹に、それは二人の間に漂う、言葉にできない緊張と親密さを少しずつ熱を帯びさせて静かに描き始めていた。

 

「……座っても、いいかしら」

 

 フィオは、未だに赤みが引かない自らの頬を隠すように、わずかに俯き加減で告げた。向けられたキラの意識から逃れるように、部屋の片隅に置かれている唯一の木製の丸椅子を細い指先で指し示す。

 

 ランプの淡い光が、彼女の華奢ながらも健康的な肉体を柔らかく縁取り、横目で見たキラの瞳に強く焼き付く。キラは落ち着かない心中を誤魔化そうと、慌てて身を退かせながら、今度は視線をベッドの端の毛布の破れ目の方へと必死に逃がした。

 

「あ、は、はい! こちらに、っつ……!」

 

 焦って身体を動かした瞬間、右腕の関節に走った鋭い痛みに、キラは思わず短い悲鳴を漏らして言葉を詰まらせた。

 

「ど、どうしたの? もしかして怪我をして……」

 

「ち、違います!」

 

 急に右手を押さえてベッドの上で蹲ったキラを見て、フィオがそれまでの緊張を吹き飛ばすような勢いで駆け寄ってくる。至近距離まで迫る彼女の体温と気配に、キラはパニックになりかけながらも、左手を激しく振ってそれを制した。

 

 本当に怪我ではないと安心させたい気持ちもあったが、それ以上に、至近距離でこれ以上真っ赤になった自分の顔を見られるのが耐え難いほど恥ずかしかったからでもあった。

 

「み、右手の関節が、ちょっと……銃なんか今までまともに使ったこともなかったものですから……昨日撃ちすぎた反動が今日になってきたみたいで……」

 

 コーディネイターとしての卓越した身体能力があるとはいえ、自分自身初めてとなる生身での銃撃戦。それも、訓練どころか試し撃ちすら無しのぶっつけ本番での一発勝負だったのだ。筋肉や関節に異常な負荷がかかり、遅れて激しい痺れと痛みがやってくるのは、ある意味で仕方のないことだった。

 

 それで実戦経験のある兵士を相手に、あの絶望的な状況を無傷で切り抜けることができたのだから、本来であれば奇跡的な大戦果と言うほかない。しかし、冷静になった今、もしあの瞬間に一か所でもミスをし、失敗していたらどうなっていたかを想像すると、今更ながらに背筋が寒くなるのを覚える。

 

 これが自分でなく頼りになる親友だったなら。

 きっとこんな不恰好な結果にはならず、救出作戦だってずっとスマートに完璧に行い、彼女たちを不安がらせたり、自分の腕を痺れさせたりもしなかったろう。

 

 やはり、自分も戦うことに慣れなければならないのだろうか。世界を跨いでなお、人を傷つけ、暴力を振るう因果から逃れられずにいる自分という存在が、キラは少しだけ嫌になり、心の中で小さく自嘲した。

 

 そんなキラの深い内面の葛藤を知る由もないフィオは、その理由を聞いて張り詰めていた肩の力を抜き、ホッとしたように息をついて相貌を和らげた。

 

「え……あ、そ、そうなの……びっくりさせないで……でも、あれだけの立ち回りをして私たちを助けてくれたのに、対人戦どころか銃を扱うのもほとんど素人だったなんて今でも信じられないわ。貴方って、本当になんでもできるのね」

 

「い、いえ、そんなことは……あの時は本当に、ただ必死でしたから……」

 

 謙遜するキラをフィオは小さく、慈しむように見つめる。彼女は当初座ろうとしていた離れた椅子へと向かうのをやめ、キラから少しだけ距離を置いたベッドの端へと、直接その腰を下ろした。

 

 ギシ、と古い木とバネが軋む音が室内に響く。二人分の命の重みが、使い古された寝所を静かに沈み込ませ、物理的な距離の接近が空気を親密なものへと変えていった。

 

「……明日、いよいよ出発なんですね」

 

 沈黙に耐えかねて、キラは自ら話題を切り出した。フィオもキラの視線を追って窓の外の砂漠を見やる。

 

「ええ。国境を越えて、ここよりもっと南へ向かうわ……海の見える、小さな砂漠の村を目指してね」

 

 そこにある今は誰もいない古い孤児院。彼女たちの新しい家となる場所だ。

 

「みんな不安もあるけれど、それ以上に新しい場所へ行けることに希望を感じているみたい。あそこはここにも匹敵するほどに忘れられた土地よ。露見しないように長い時間をかけて工作もしてある。心配はないわ」

 

 そこまで言って、フィオはふと懐かしむように目を細めた。

 脳裏に去来するのは、この奇妙な少年と出会ってからの日々だ。明日を生き延びるために身を削り、ただその日を乗り越えるためだけに張り詰めた日常を送ってきた彼女たちにとって、キラと出会ってからの日々は、苦難の連続の中に差し込んだ、信じられないほどの輝きに満ち溢れた時間そのものだった。

 

「たった二ヶ月だったけれど、本当にいろんなことがあったわね。あの日……砂の中にあったボロボロのフリーダムと一緒に、貴方を見つけた時から」

 

「……そうですね。僕も、あんな風に助けてもらえるなんて思っていませんでした。身元の分からない僕を、最終的に受け入れてくれた時だって、本当に驚きました」

 

 すぐ隣に腰掛けているフィオへと視線を移しながら、キラは過去を振り返って穏やかに笑った。

 思えば、最初に出会った頃の彼女は、今のような柔らかさは一切なく、キラという存在が敵か味方か、あるいは危険な存在ではないかを冷徹に見極めるために、刃のように鋭い視線で観察していたことを思い出す。あの時の自分にも、見知らぬ世界に一人放り出された不安しかなかった。

 

 だが、自らのコミュニティにキラを受け入れると決めたフィオも、同じように恐怖と不安に抗っていたことを今ならはっきりと理解できる。彼女がずっと、懸命に体を張ってこの小さな集落の命脈を支えていたことを知っているからだ。誰の前でも決して弱い部分を見せようとしなかったのも、すべては守るべき皆の盾となるためだったのだと。

 

 キラの視線に込められた温かい心情を察したのか、オイルランプの厳かな光に照らされたフィオが、その気恥ずかしさを誤魔化すように悪戯っぽさを交え優し気に笑った。

 

「何を言ってるの。驚かされた度合いで言えば、私たちの方が何倍も上よ。工廠班のみんなが『絶対直せない』って匙を投げた、あの複雑怪奇なレーダーの制御プログラム……貴方はその仕様を軽く見ただけだったのに、ものの数十秒で書き換えて直してしまったでしょう? エミリアなんて、本当に開いた口が塞がらないって顔をして固まってたんだから」

 

 フィオが出会ってすぐの頃を思い出しながら楽しげに声を零すと、キラもつられるようにして、ようやく少しだけ肩の力を抜いて微笑むことができた。

 

 少し視線を落として、二人の間に流れる思い出の残り香に耽る。たった二ヶ月、しかし、自分の運命を決めるためには、これ以上ないほどに濃密で、大切な時間だったように思えてならない。

 

 あの時、自分の心には何の余裕も残されていなかった。これからどう生きていくかという冷酷な現実だけでなく、大切な人たちと引き裂かれたあまりにも激しい孤独感に、自らの足で立つことにすら必死で心が擦り切れそうだった。

 

 だが、そんな自分を必要とし、受け入れてもらえたことが、彼女たちとの時間が大変さ以上に嬉しくて。厳しい中でも互いを支え合って笑うフィオ達が本当に眩しくて。キラにとっても、ここで過ごしたことは何にも代えがたく、そして飛ぶように感じるほど濃密な日々であった。

 

「僕にできることなんて、それくらいしかありませんでしたから……でも、皆が僕に居場所をくれた。それが何よりも嬉しかったんです。だから、僕も皆さんの力になりたかった」

 

 会話が途切れると、夜の静寂がしんしんと部屋に満ちていく。

 

 ランプのオイルが爆ぜる小さな音さえ、今の二人には大きく響いた。

 キラは膝の上でそっと拳を握りしめる。そして、ずっと胸の奥底に沈殿していた、自分を苛み続けていた最大の「迷い」を、ついに言葉にして紡ぎ出した。

 

「フィオさん……やっぱり僕は、皆さんと一緒に行くべきなんじゃないでしょうか。今回のバシムのようなことは、この先でまた起こるかもしれない。その時に僕が……フリーダムがいれば、みんなを……」

 

「ダメよ、キラ」

 

 その言葉を最後まで言い終わらないうちに、フィオは遮るようにして告げた。だが、その声色に拒絶や冷たさは一切ない。そこにあったのは、どこまでも強い決意と、すべてを包み込むような深い優しさに満ちた眼差しだった。

 

「貴方の言いたいことはわかるわ。貴方は本当に優しいから、私たちのこれからのことを心配してくれているのよね。でも……駄目。そんなのは貴方のすべきことじゃないし、それ以上に、私たちが貴方の『足手まとい』になりたくないの」

 

「足手まといだなんて、そんな……!」

 

 思わず立ち上がりかけたキラの手の上に、優しく手が重ねられる。柔らかな手のひらの感触から体を辿り視線を上げると、どこまでも澄んだフィオの瞳がキラを見つめていた。

 

 風に揺れるランプの灯火。淡い揺らめきが室内に幻想的な陰影を醸し出す中、彼女は静かに首を振った。

 

「いいえ、そうなってしまうわ。貴方はこんな砂漠の片隅に留まるべき人じゃない。私たちが危機陥ったあの日、フリーダムに乗って空に舞い上がった貴方を見上げて……そのとき私は……私たちは確信したの。貴方は貴方の行きたい場所へ……キラにしかできないことをするべきだって。この先も身を削りながら砂漠で私たちを守り続けるなんて、そんなのはきっと、貴方の運命じゃないはずよ」

 

 フィオは腰掛けていたベッドの上を滑らせるようにして、さらにキラの方へとその身体を寄せた。

 至近距離まで近づいた彼女の美しい横顔が、サイドテーブルのランプの明かりに照らされ、淡い熱を帯びて朱に染まっていく。触れ合えるほどの距離でキラを見つめる、その強い瞳。優しさと、隠しきれない別れの寂しさが複雑に入り混じった表情をしながらも気丈に、キラと自分自身に刻み込むように告げた。

 

「私たちは大丈夫。貴方がその手で繋ぎ止めてくれた命だもの。自分達の未来は自分達の手で……エミリア、メイやリア……残ったみんなで、泥を啜ってでも絶対に守り抜いてみせる。貴方と『自由(フリーダム)』を、私たちのせいで鎖に変えてほしくないの。キラ、貴方は貴方の行くべき場所へ行きなさい。その心の思うままに……それが、私たち全員の願いよ」

 

 真っ直ぐに自分を見つめるフィオの瞳には一抹の迷いも、キラに甘えようとする揺らぎも存在しなかった。

 

 過酷極まりない砂漠の現実を生き抜いてきた人間としての、集落の明日を担うリーダーとしての、そして……少年を送り出す一人の女性としての、気高く、揺るぎない覚悟。

 

 キラはその言葉の圧倒的な重みに、ただ小さく息を呑むことしかできなかった。

 

 自分は彼女たちを誤解していた。力を持つ者として、いつの間にか彼女たちを『守らなければならない弱者』として見ていたのかもしれない。

 

 だが、それは違った。

 これより先に待ち受ける、決して平坦ではない茨の道を前にしても、彼女たちの魂はあまりにも気高かった。力がなくとも、自分がいなくとも、それでも前を向き、己の足で未来を切り拓こうとする強い意志を彼女たちは最初から持っていたのだ。

 

 ふと見ると、気丈に語るフィオの瞳の端がかすかに潤んでいるのが見えた。別れが寂しくないわけがないのだ。本当は不安で引き止めたい気持ちだってあるはずなのに、それがこの少年の進むべき道ではないと、彼女の信念と優しさがキラを導いているようだった。

 

 押し寄せる感情を堪えるように、奥歯で唇を強く噛み締める。

 一つ、深く冷たい呼吸を置いて胸の動揺を鎮めた後、キラは自らの内にあった子供じみた未練と寂しさを心の奥底へと押し殺し、今度は一人の男として、彼女の覚悟に応えるようにしっかりと頷いた。

 

「……わかりました」

 

 フィオの澄んだ瞳を真っ直ぐに見つめ返し、キラは自らの内に定まった明確な決意をその視線で示した。先ほどまで彼を苛んでいた葛藤も溶けるように消えている。

 

 その心にもう迷いはなかった。

 

「僕も、探してみようと思います。僕に何ができるのか……この世界で何をすべきなのかを」

 

「……ありがとう。最後に、貴方の決意が聞けてよかった」

 

 その言葉を皮切りに、フィオの張り詰めていた表情が限界を迎えたようにふわりと柔らかく和らいだ。同時に、二人の間を満たしていた穏やかな空気が、密やかな、そして抗えないほどの熱を帯びていく。

 

 ランプの心細い灯火に浮かび上がる、魅力的に彩られた彼女の微笑。過酷な現実を戦い抜いてきた気高さの中に、一瞬だけ零れ落ちた無防備な乙女の素顔。互いの時間を重ねようとするかのように、穏やかな、けれど抗えない熱を帯びた彼女の相貌が、す……っと緩やかな軌道を描いて、キラの方へと近づいていった。

 

 壁面で揺らぐ二つの影。数秒という時間が、まるで無限にも引き延ばされたかのように感じられた。だが両者を隔てる距離はゆっくりと、しかし確実に縮まっていく。

 

(え……ええ……っ!? フ、フィオ、さん……!?)

 

 眼前に迫る彼女の端整な顔立ちに、キラは大きく目を見開いた。あまりにも突然の、そして予想だにしなかった事態の展開に、彼の思考は完全に白濁し、ただ狼狽するしかなかった。その一方で心臓は鼓動を速め、かつてないほどの早鐘を打ち始める。

 

 反射的に下がろうとするキラだったが、目の前に座るフィオの瞳の奥に宿る揺るぎない意志が、キラの身体を優しく、しかし逃がさないとばかりに押しとどめていた。身体を焦がす熱さは彼女とて同じ、いやそれ以上であろうに、そんな激しい熱情のなかでも、彼女の眼差しには一片の迷いも見えない。年上の女性とは思えないほどの、その純粋なまでの直向きさがキラの心を激しく打っていた。

 

 動けない。吸い寄せられているかのように、彼女から視線を外すことができない。

 あるいは自身もまた、この寂涼とした砂漠の夜風に当てられてどこかおかしくなってしまっていたのだろうか。隙間風に晒された身体の表面が凍えるように冷える傍らで、その奥にある芯には明確な、狂おしいほどの熱さが宿るのがわかった。

 

(う……あ……)

 

 金縛りに遭ったかのように硬直するキラの視界に、ゆっくりと覆いかぶさってくるフィオの影。遮られたランプの光が彼女の髪を透き通らせ、それはいつしか、互いの熱い吐息が肌に直接触れて交じり合うほどの距離にまで達していた。

 

 ふわりとした長い睫毛が光に反射して妖しく艶めく。静かに閉じられていく瞼は緊張で張りつめ、彼女の身体を小刻みに震わせていた。近づくごと、フィオの表情に切なさが帯びる。その内面に呼応するように、ランプの光に照らされた瞳の端から、一筋の光る雫が頬を伝って音もなく流れ落ちた。

 

 それはフィオの裡で育まれ、これまで無自覚を装いながらも胸に秘めてきた想いの欠片だった。そして同時に未来を生き抜くと決めた覚悟を纏い、彼女の行動を力強く後押ししてゆく。

 

 一時的な感情の昂ぶりや、寂しさに流された気の迷いなどではない、自分自身の全力でぶつかった、フィオの精一杯の想いの丈であった。

 

 自分の未練が彼を躊躇わせてはならない。それは彼女の中での絶対ではある。

 しかし、フィオには今まで彼と過ごしたその証が……キラとの繋がりが今欲しかったのだ。別れると決めた少年の存在を、それでも忘れ得ぬ想いと共に刻みつけたいと願う心。それは優れたリーダーとしての理性と自制心を以てすら止められないほどに高ぶった、強さと一途さの裏に隠れた彼女の、初めての我儘だった。

 

 だが、燃え上がるような羞恥と戸惑いの渦中に叩き落とされている今のキラに、繊細な女性の内面を正確に読み解くことのできる精神的な余裕など、どこを探しても残されてはいなかった。

 

 年相応に瑞々しく、それゆえにコントロールの利かない感情が、自らの内で嵐の如く荒れ狂う。頭が熱に浮かされたようにぼうっと霞み、思考が形をなさなくなっていく。理性の箍が強制的に外されているかのようだ。

 

 このままではいけない。彼女を止めなければ。この身を引かなければ。

 

 キラの冷静な部分はずっと叫び続けていというのに、身体は冷えて固まった鉛のように重く、その場から動いてくれない。その間にも時計の針は進み、互いを隔てる間はほとんど存在しなくなっていた。

 

 時間が止まる。砂漠を揺蕩う冷風すらも、二人を見守るかのように静かに凪ぎ潜む。

 

 そのまま、石壁に投影された二人の影が静かに重なり合い、互いの唇が触れ合おうとする──まさにその刹那だった。

 

 陽炎か幻影か。

 

 混濁するキラの意識の片隅。暗闇に沈んだその奥底から、一人の少女の姿が鮮烈に浮かび上がったのは。

 

 

 

 

『────キラ……』

 

 

 

 

 どこか寂しげでありながら、海よりも深い愛に満ちる声が響いた。

 戻るべき世界で、必ず帰るという約束を果たせないまま置き去りにしてしまった、守ると決めた優しい笑顔。自分の半身、あるいは魂そのものとも呼べるほどの、世界で誰よりも強い絆を感じていた、かけがえのない存在。

 

 それら記憶の断片が、懐かしさと共に砂漠の蜃気楼のように脳裏に現れては、切なく明滅して消えていく。それは全身に冷水を浴びせられたかのような衝撃となり、身体を駆け抜けた。

 

 ハッと我に返る。

 

 フィオを拒絶したいわけではない。彼女の優しさもその温もりも、今の自分にとっては痛いほどの救いだった。けれど、自分の心の一番深い場所、何よりも強く宿った「彼女」の存在が、キラの精神と感情に働きかけ、その体に強烈な抑止を齎したのだ。

 

(……っ……)

 

 激しい戸惑いと自己嫌悪に苛まれながらも、キラはこれ以上先に進むことを押しとどめるため、意を決してフィオの両肩へと手を伸ばす。傷つけないように、壊れ物を扱うようにして触れた指先を通じて、その身体がぴくんと小さく揺れるのが伝わってきた。

 

 ここで拒むことが、フィオの矜持を傷つけ、返せないほどの恩がある彼女を深く悲しませてしまうかもしれない──そんな恐れが頭をよぎり、胸が引き裂かれそうになる。それでも、キラは歯を食いしばって自らの中の葛藤に耐え、意を決して彼女を押し返すために両手に力を込めようとする。

 

 だが、キラがその決定的な行動をするよりも早く、幼さの残る眠たげな声が、熱と静寂に満ちていた二人の耳朶に突如として響き渡った。

 

「……ふあぁ……フィオ姉さまぁ……? ここにいるのぉ……?」

 

 不意に、部屋の入り口を仕切っていたカーテンが、風を受けて小さく揺れる。

 その細い隙間からひょっこりと顔を出したのは、身体より幾分大きめな寝巻をずるずると引きずっているリアだった。

 

 半覚醒のまま無理矢理に体を起こしてきたのだろう、その在り方は不安定の一言であり、装いもひどく着崩れた状態だった。今にも閉じてしまいそうな瞼を必死に瞬かせながら、寝ぼけ眼でフラフラと足元を覚束なく揺らしている。

 

 そのあどけない声はキラだけでなく、フィオの意識も一瞬にして現実の世界へと引き戻した。脳内を支配していた熱さと言い表せない困惑、室内に漂う甘やかな雰囲気に、キラ達を包んでいた狂おしいほどの気配まで、何もかもが瞬時に吹き飛ぶ。二人はまるで色彩を失った石像のように、互いに言葉を失って硬直するばかりだった。

 

 だが、それもほんの一瞬のこと。

 

 次の瞬間には、年長者としての倫理性と、何より純粋な子供にこんな生々しい場面を見せてはならないという強烈な責任感が羞恥と共に猛烈に働いた。示し合わせたわけでもないのに、二人はほぼ同時に、弾かれたように大きく距離を取る。

 

「リ、リアちゃん……フィオさんを追ってきちゃったのかな……」

 

 渇いた笑い声のような声が喉から響く。声は若干引きつり気味であったが、彼としては、今のを見られていなかっただろうかという不安と羞恥心が抑えきれず、表情まで引っ張られないよう装うだけで精一杯だった。

 

 しかし、誰がどう見ても思い切り挙動不審な辺り、なんともわかりやすい性分であった。この辺りは、本当に彼の親友共々似た者同士である。

 

「……そう、みたいね……」

 

 フィオもまた、乱れた呼吸を整えるように胸元を押さえ、消え入りそうな声で応じる。

 リアの突然の登場によって、文字通り一瞬で霧散してしまった甘い雰囲気。二人は赤くなった顔を隠しながら、なんとかそれだけの言葉を絞り出して会話を繋ぐ。

 

 幸い、リアの方も今すぐその場で寝こけてしまいそうなほどぼんやりしていたようで、キラたちがつい数秒前まで醸し出していたただならぬ雰囲気や、その行動の先にあったであろう男女の機微には、全く気付いていない様子だった。

 

 距離を置いたフィオの横顔には、ほんの少しだけ、隠しきれない不完全燃焼感が滲んでいる。最愛の妹分であることに違いは無いが、フィオにしてみれば、一世一代の覚悟を決めた最後のチャンスを信じられないタイミングで不意にされたのだ。一人の女性として、やり場のない溜息が零れるのも無理からぬことであった。

 

 だが、その僅かな不満も、彼女が小さく漏らした一息の嘆息とともに、窓から吹き込む夜の風へと溶けて消えた。

 

 あんまりと言えばあんまりな、神様の悪戯のようなタイミングではある。

 

 けれども、寸でのところで一線を越えずに済み、決定的な場面を見られることもなかったのも事実。仮にもう少しだけリアが来るのが遅れていたら、どうやっても言い訳の立たない場面を晒していた可能性も否定できなかった。そうならなかったことに対しては、フィオも胸を撫でおろす。

 

 純真なリアにそのような光景を見せてしまうのは流石に道義が咎めることもあり、最悪の事態を避けることができたのは不幸中の幸いだった。だがそれゆえに、一度その先の展開を強烈に脳内で想像してしまった彼女の内面には、今や制御不能なほどの強い羞恥心が入り乱れていた。真っ赤になった顔を誤魔化すように、なんとも言えない複雑な表情を浮かべながら、あちこちへと視線を激しく彷徨わせている。

 

 一方のキラはというと、年齢の若さもありフィオよりも冷静ではいられなかった。跳ね上がるようにして距離を離した直後から、すでに限界突破していた真っ赤な顔を背けて固まっている。胸の内で狂ったように暴れる心臓の鼓動をどうにか宥めようと、何度も何度も深呼吸を繰り返すばかりで落ち着くには遠い。

 

 実のところ、リアが現れた際にフィオに言った言葉すら既に頭にない有様だ。それぐらい、今の彼は余裕のない状態であった。

 

 男女のそういった情動の交わりそのものは、キラも全くの無知というわけではない。体に刻まれた感覚そのものは忘れ得ぬのものとして確かに残っている。

 

 だが、かつて自分が元の世界で経験したそれは、純粋な好意や愛おしさといった感情から生じたものでは決してなかった。

 

 戦火が生み出す狂気と恐怖の中で精神が壊れてしまわないようにするための、ただ必死に互いに縋り付くためだけの『手段』。あの時の自分とフ■■にとって必要不可欠なものではあったが、そこに互いを想い合うなどという尊さはなく、行き場を失った孤独と負の感情の発露に近いものだった。

 

 ゆえに、純粋な好意と覚悟を持って向けられたフィオの想いに対して、キラは答えを返すすべを持っていなかった。彼の中に満ちるのは、理由のわからない高揚感と戸惑いだ。

 

 元々元来の性分に加え、その生まれの特殊さから自己肯定感が非常に低い上に、純粋な男女の交際といったような『そのテ』の経験も乏しい純朴な少年である。フィオには気の毒であるが、彼女が取った行動の理由すら、ハッキリとは理解していないのだから当然であった。

 

 とはいえ、キラも何ひとつわからなかったわけではない。確かだったのは、激しい動揺ののちに自身を包み込んだ感情が『安堵』だったこと。改めて、フィオを大切な人だと考える気持ちを認識できたことだった。

 

 自らの心の中に今なお輝き続ける『彼女』への想いと誓い。

 

 それらを裏切ることなく、自分を救ってくれたフィオのことも、拒絶という最悪の形で傷つけずに済んだ。キラとて、フィオのことを大切に思っていることに違いはないのだ。この奇妙なタイミングはある意味で救いだったのかもしれないと無意識下で認識したのか、キラは冷めやらぬ胸を静かに押さえた。

 

 もっとも、フィオとてそれは似たようなもの。エミリアから発破をかけられたうえ、キラとの別れという劇薬がなければ覚悟も中々決められなかったほど奥手な彼女が、ここまで大胆な行動をすることに躊躇いがなかったわけではないからだ。

 

 いくらなんでも性急すぎるのではと考えていた彼女にとって、この結果は少しの寂寥感を残しながらも納得できるものとして収まっていた。

 

 とはいえ、いつまでも呆けているわけにはいかない。フィオはすぐさま、はだけそうになっていた寝間着の胸元や、乱れた髪に素早い手をやって体裁を整える。その後、大きく一呼吸を置いて心の動揺を無理やり押さえ込むと、上擦りそうになる声を必死の思いで低く制御しながら、入り口の少女へ向けて応えた。

 

「リア……ごめんなさいね、勝手にいなくなったりして……」

 

「……んぅ……? それは、いいけど……フィオ姉さま、お兄さんの部屋にお話しに行ってるのかなって思ってたから……でも早く寝ようよぉ……明日、早いよぅ……?」

 

 リアは今にも床に倒れ込みそうな足取りで歩いてくると、フィオの寝間着の裾を小さな手でギュッと掴んだ。

 

 室内に満ちる、耐え難いほどの気まずさと気恥ずかしさ。

 それらを共有した二人が顔を見合わせると、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、小さく笑い声を漏らした。それは、どこかお互いの不器用さを笑い合うような、温かい響き。キラとフィオが互いの関係性を確かめた証だった。

 

「そうね……キラ、本当にもう寝ないと。寝坊なんかしたら置いていっちゃうんだからね?」

 

「あはは、気をつけます……おやすみなさい、フィオさん。リアちゃんも、ちゃんと足元に注意して帰るんだよ?」

 

「ふわぁい……おやすみなぁさい、お兄さぁん……」

 

 小さな手を引かれ、リアの歩調に合わせるようにして部屋を去っていくフィオ。

 カーテンを潜り抜ける間際、最後に一度だけ振り返った彼女の表情は、先ほどまでの湿った寂しさは微塵もなく、どこか完全に吹っ切れたような、清々しい朝日を予感させるような晴れやかなものだった。

 

 一人残された静かな部屋で、キラは胸の熱い塊を外へ出すように、短く息を吐き出す。机の上のオイルランプの芯を吹き消すと、室内は一瞬で深い暗闇に包まれた。

 

 窓の隙間から、吹き込む冷風。それと同じくして、砂漠の夜空に輝く月光が青く、静かに差し込んできていた。

 

 再び擦り切れたベッドに横たわり、キラは窓の外の遠い空、さらにその先にある星々の彼方へと静かに思いを馳せる。

 

 明日、自分はこの場所を去り、彼女たちとは違う道を歩む。

 

 けれど、それは決して寂しい終わりなどではない。

 自分という一人の人間が、この見知らぬ西暦の世界で歩むべき本当の「始まり」なのだと、キラは青い月光を浴びながら静かに、しかし確固たる意志と共に確信していた。

 




 あとがき


第十四話の後編をお送りしました

いやー、今回は自筆で修正した箇所が多かったですが、書いていて本当に楽しかった! バランスには難儀しましたし、何度も頭を抱えましたけどね!

何せ、キラのキャラって普段は書きやすいですし、茶化した感じなら読者受けがいい展開にもしやすいんですが、ストレートな恋愛シーンを描く際には、結構難易度が高いキャラであることに気づかされたところです。彼の反応などがキャラ的に崩壊しないよう、SEEDの中盤~終盤辺りを結構見直したりもしました。

心理描写関係は細かく詰めてから取り掛からないと後々困りますし、中途半端な状態でAIに頼んだりした日にはすぐ頓珍漢な方向へ行って修復不能になりかねないので、矛盾がないようにするにも中々気を遣いました。設定厨の気持ちがとてもよくわかるようになりましたね。

男女の恋愛模様を描くには、自分のレベルではまだまだ足りないことを嫌でも自覚させられます。皆すごいなと思うばかりです。もっともっと練習と勉強をしていかなければ。

さて、それでは次回予告です!



  [ =次回予告= ]


 続いた今日、求める明日。生きる場所は違えども、願う未来はみな同じ

 連なる苦悩を乗り越え、少女から託された証が一筋の希望を描き出す


  次回  『 砂漠の薔薇 』


 別離の先に、少年は光を見る

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