機動戦士ガンダムSEED / Re.00 -西暦の蒼き翼-   作:コエンマ

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大変お待たせいたしました。

それではどうぞー。


第15話  砂漠の薔薇

 

 

 

 砂漠の夜が、黎明の光にその領域を譲り渡そうとする頃。

 地平線の果てからうっすらと差し込み始めた薄桃色の光は一晩中大気を満たしていた冷気を少しずつ溶かし、凍てついた砂の世界に微かな体温を与え始めていた。まだ星々の残滓が残る空の下、風に乗った乾いた空気が覚醒へと向かいはじめた世界の、その束の間のひと時を刻む。

 

 この二ヶ月間を過ごし、すっかり身体に馴染んでしまった無骨な石造りの部屋にキラは一人佇んでいた。その手には、自らの思いを綴った一通の手紙が握られている。繊維が毛羽立つほどの紙質の悪さに苦笑いをこぼしながら、それを表面の磨り減った古い木製机の真ん中へとそっと置いた。

 

 昨夜、フィオと交わした言葉の数々が耳の奥で鮮明に蘇る。

 彼女の真っ直ぐな瞳の奥に宿っていた、過酷な現実をも見据える強い決意。

 激しい戦いの果てにこの世界へと迷い込み、進むべき道を見失いかけていたキラにとって、自分の迷いを晴らしてくれた彼女の言葉は暗闇を照らす灯火そのものだった。

 

 覚悟と共に差し出されたその想いを受け取ったからこそ、キラ自身の心もまた決まった。立ち止まるのではなく、向かうべき場所への新たな一歩を踏み出すべきだと確信することができたのだ。

 

 しかし、いざ出発の時を迎えると胸の奥が締め付けられるように痛む。お世話になった人々の顔を思い浮かべるたび、面と向かって「さよなら」を告げることの重さに足がすくみそうになった。彼女たちを悲しませたくないと言う想いは本物だ。

 

 だが半分は、別れというものに慣れていない自分の未熟さが故だった。期間は短くとも、彼女達がくれた優しさは何にも代えがたいものだったから。恥ずかしながら、孤独に傷ついた自分の心を救ってくれた彼女たちに対して、面と向かって別れられる自信がキラにはなかったのだ。

 

(……ごめん。皆の顔を見たら、決心が鈍ってしまいそうだから……)

 

 だから誰にも告げずに去る。自らの不義理を心の中で詫びながら、キラは細く息を吐き出し、小さく口を開いた。未だ夜の静寂を残す部屋の中で、肩をすくめて友へ呼びかける。

 

「トリィ」

 

「トリィ?」

 

 キラの静かな呼びかけに応えるように、夜明け前の薄闇を裂いて特有の金属質な羽音が響く。集落の暗がりから飛んできた鮮やかな緑色の小鳥は、迷うことなくキラの肩へと舞い降りた。長年連れ添った友人を慣れた動作で左肩に止まらせると、キラはこれから先も供に行く相方に優しく微笑んだ。

 

 一抹の寂しさを内包させたキラの表情に小首を傾げるトリィ。頬に嘴を寄せる愛らしい仕草は、主人が纏っている強張った雰囲気を敏感に感じ取り、健気に気遣っているかのようだった。自分の足元ではピンク色の球体が、砂埃を立てながらせわしなく跳ね回っている。

 

「キラ、ハヤイ! ヌケガケ! ヌケガケ!」

 

 小さな手足をパタパタと動かして抗議の声を上げるピンクハロ。お別れを察して駄々をこねているのだろうか、その声色もどこか物悲しい。カシャカシャと耳を羽ばたかせながら電子声を上げるハロに対し、キラは慌てて腰を落とし、その丸い頭を両手で優しく押さえた。

 

「ハロ、静かに……みんな起きちゃうから」

 

 口元に人差し指を載せてハロを宥める。

 

 もう一体の相棒が静かになったのを見届けたのち、キラは必要最低限の荷物だけを詰めたザックを背負い直し部屋を後にする。まだ深い眠りに包まれているはずの静かな集落。夜明けが始まったばかりの通りも今日ばかりは静まり返っている。

 

 その中心へ向けて、キラは深く深く頭を下げた。溢れんばかりの感謝の気持ちを込め、噛み締めるように。

 

(……本当にありがとうございました)

 

 感謝というには足りない思いを人知れず吐き出し切ったキラは、ゆっくりと顔を上げたのち、沈黙する街並みに黙って背を向けた。後はあの手紙が皆にすべてを伝えてくれるだろう。

 

「──行こう」

 

 自分に言い聞かせるように掠れた声で呟き、歩き出す。

 

 足音を極力忍ばせ、夜露を吸って湿った冷たい砂をブーツの底で踏みしめながら、集落の入口へと進んでいく。このまま誰の目にも留まることなく、キラは空へと消え去るつもりだった。それが、これ以上の波風を立てない、異邦人たる自分の去り際なのだと信じていたから。

 

 だが。

 

「……え?」

 

 集落の外縁。かつて自分が初めてここへ足を踏み入れ、そして様々な思いを抱えて飛び出した時に思わず振り返った、あの境界。その入口となる場所に差し掛かった時だった。キラの足が、まるで地面に縫い付けられたかのようにピタリと止まる。

 

 そこにいたのは、砂漠の夜明け前特有の静寂を塗り潰すようにして立つ、無数の人影だった。

 静謐のヴェールに包まれた砂の大地に競い合うようにして咲く、温かい眼差し。予想すらしていなかった光景に呆然と立ち尽くすキラの耳に、聞き慣れた調子の、少しハスキーな響きがはっきりと響き渡った。

 

 

 

「まったく……そんなことだろうと思ったわよ、キラ」

 

 

 

 列の先頭から聞こえる女性の声。しっかりと腕を組み、口元に呆れたような、けれどその奥に確かな親愛を滲ませた溜息を漏らしていたのはエミリアだった。トレードマークである古びた作業服を朝の冷風に翻しながら少しだけ誇らしげに顎を引くも、ジトっとした視線でキラを睨んでいる。

 

「気遣うのはいいけれど、最後の最後までそんな風にカッコつけるんじゃないわよ。水臭いじゃない……あんた、私たちのこと、そんなに薄情な連中だと思ってたわけ?」

 

「え、エミリアさん、どうして……? みんなも、寝ていたはずじゃ……」

 

「お兄さん! お別れしないで黙ってなんて……悲しいよ、もう!」

 

 目を真っ赤に腫らし、涙で顔をくしゃくしゃにしたリアが、キラの腰のあたりに思い切り抱きついてきた。小さな体から伝わる全力の抱擁が別れを惜しむ彼女の内面を如実に表していた。突然広がった予想外の事態にキラはただ立ち尽くすしかない。

 

「アンタの考えなんてお見通しよ。波風立てずに去るのが優しさ、お互い傷つかないように……ってとこでしょ。それとも、別れを躊躇うぐらい後ろ髪を引かれてたりするのかしら? なら私だけでも連れてっちゃう?」

 

 ふふふ、とエミリアは蠱惑的に笑った。男性なら誰しもがクラリときそうなほどの色気で流し目を寄越す彼女に、キラは困惑半分照れ半分と言った様子で視線を彷徨わせる。

 

「え、ええ……!? え、エミリアさん……それは……えっと……」

 

「もう、エミリア! こんな時までキラ君からかっちゃダメでしょ! というか、抜け駆けしない!」

 

 茶目っ気を含んだ笑みを見せるエミリアを窘める声。彼女の後ろには頭に包帯を巻いたメイをはじめとし、工廠で共に汗を流した少女たちがずらりと並んでいた。誰もが夜通し起きてキラの旅立ちを待っていたのだろう、その顔には隠しきれない疲労の色が浮かんでいたが、それでも彼に向ける表情は温かい。

 

「キラ君、頑張ってね! 君が直してくれた機械、大切にするから! 教わった色々なことや助けてくれたこと、絶対に忘れない!」

 

「今度またどこかで会えた時や戻ってきた時は、貴方のいた元の世界の話もっとたくさん聞かせてよね。約束よ!」

 

「お元気で、キラさん……フリーダムの修復に携われたことは、私の誇りです。それと……助けてくれてありがとうございました。言葉にできないぐらい感謝しています……」

 

 少女たちは、それぞれが胸に抱く精一杯の感謝やエールを、次々とキラに投げかけてゆく。

 中には寂しさが堪えきれなくなってしまったのか、隣に立つ仲間の肩に顔を埋め、声を押し殺して泣き出してしまう少女の姿もあった。キラ自身にその自覚はなかったが、相手を大切に思っていたのは自分だけではなかったのだ。

 

「お兄ちゃん……どこかへ行っちゃうの? 今度はいつくるの?」

 

「バイバイ、兄ちゃん! 次に来た時は、絶対にあの白いモビルスーツに乗せてよね!」

 

 さらに、キラの足元には孤児院の小さな子供たちがワラワラと集まり、彼のズボンの裾を引っ張った。まだ事態をよく理解できずに不思議そうに首を傾げる幼い少女や、元気いっぱいに声を張り上げ、再会の約束を胸に小さな指を突き出して指切りをせがむ少年の姿もある。

 

 押し寄せる温かい感情の波に、キラは胸の奥が熱くなるのを必死に堪えていた。視界が滲みそうになるのを、何度も瞬きをして押し留める。

 

 自分はこの世界において、全くの異邦人であり、ただの流れ者に過ぎなかった。ただの居候として、一時的に身を寄せていただけの存在。けれど今ここには確かに、自分を心から受け入れてくれた大切な「仲間」がいる。

 

 優しく騒がしい喧騒の中を、ゆっくりとエミリアが歩み寄ってくる足音が砂に響いた。

 

 工廠員の少女たちが微笑みながら左右に分かれ、彼女のために道を譲る。目の前までやってきた彼女は真っ直ぐにキラを見つめ、女性らしさの中にも過酷な時代を生き抜く厳しさと力強さを内包させた掌を、そっと肩へと置いた。

 

「いい? 基地に残っていたZGMF-Xの予備パーツや、特別な整備用工具……あのティエレンとアンフはこっちで使わせてもらうけど、それ以外は全て私たちが責任を持って次の拠点へ運んで厳重に保管しておくわ。新しい拠点の座標も渡した情報端末に入れてあるから、もし壊したりして困ったらいつでも来なさい……ま、あのフリーダムが、そんなヤワな設計だとは思えないけどね」

 

 エミリアはふっと鼻を鳴らして不敵に笑う。次いで目を閉じて何かを噛み締めるように俯いた後、それまでの快活な態度から一転させる。少しだけ神妙な顔つきの彼女は、慈愛を称えた眼差しで言葉を付け加えた。

 

「……私たちの腕を、忘れないでよ? 技術者として、あんたの翼を支えた誇りがあるんだから」

 

「はい……忘れるわけありません。本当に……本当にありがとうございました」

 

 胸がいっぱいになりながら深く頷く。キラの真っ直ぐな返答を聞くと、エミリアは満足そうな笑みを口元に浮かべ、そのまま静かに一歩後ろへと下がった。

 

 そして、その開かれた空間へ。

 夜明けの涼やかな風をその身に纏い、キラの無事と未来のためにその背中を押してくれた少女──フィオが、静かに歩み寄ってきた。

 

 エミリアが温かな労いの言葉を残して一歩下がると、入れ替わるようにフィオがキラの正面へと歩み寄ってきた。

 

 背後から差し込むうっすらとした朝日が、彼女の輪郭を黄金色の光で縁取る。そこに昨夜見せた脆さや儚げな気配はない。厳しい現実を直視し、多くの仲間や子供たちを率いていく覚悟を決めた、『リーダー』としての凛々しさと気高さに満ちあふれていた。

 

「……無理しないでね。もしも何か困ったことや辛いことがあったら、いつでも連絡して。私たちにできることなら、それがどんなに小さなことでも、どんなに困難なことでも、なんだって力になるから」

 

 静かに、けれど一言一言に確かな重みを乗せてそう告げると、フィオは衣服のポケットから小さな何かを取り出した。布を幾重にも折りたたんだ、丁寧に扱われていることが窺える包み。

 それを厳かに開いた彼女の指先が示したのは、朝の光を受けて神秘的な輝きを放つ首飾りだった。淡いレモンイエローの光を宿した透明な結晶体が光に反射して揺れている。

 

「お守りよ。どうか持って行って」

 

「フィオさん、これは……?」

 

 その美しい色彩の石に目を奪われながら、キラは驚きを隠せずに問いかけた。自分の手の平に乗った宝石に視線を落とす彼の様子に、フィオは慈愛に満ちた微笑を浮かべて優しくその表面を撫でる。

 

「リビアングラスって言ってね。この広大で不毛な砂漠が、数千万年という果てしない時間をかけて奇跡的に作り出した、天然のガラス……いわば、砂漠の宝石よ。どんなに過酷で不毛に見える場所であっても、いつか必ず美しい光は生まれる。貴方の行きつく先が、この石のように光に満ちたものでありますように」

 

 顔を上げたフィオからそっと差し出される、不思議な煌めきを宿した石。その言葉に込められた重みと祈りを理解したキラは、差し出された首飾りを両手で丁寧に受け取った。

 

 朝の光が複雑に透過し、キラキラと眩しく輝くその様は砂漠の冷気を含んでひんやりとしていたが、同時に、今まで大切にしてきたであろう彼女の温かさがじんわりと伝わってくる気がした。

 

「ありがとうございます、フィオさん……大切にします」

 

 首飾りを手のひらの中でそっと握りしめ、それから衣服の内側、胸元へと確実に収めると、キラは改めて周囲のすべてを見渡した。腕を組んで見守るエミリア、その隣で目を赤く腫らしたリア、頭の包帯を押さえながら微笑むメイ、工廠員の頼もしい少女たち、そして屈託のない純粋な笑顔を向けてくる小さな子供たち。

 

 本当なら、この居心地の良い温かな場所に、ずっと居たかった。このまま何も考えず、彼女達を守りながら、静かに暮らしていけたらどれほど幸せだろうか。けれど、自分にはこの世界に来た意味を見つけねばならない。為すべきことがあるのなら、それを決めねばならない。

 

 自分一人がここで止まってはいけないのだということも、もう十分にわかっていた。

 

「……それじゃ、行きます。皆さん、本当にありがとう……さよなら」

 

 胸を締め付ける強い名残惜しさを無理やり断ち切るように、キラは踵を返し、集落の出口に向かって背を向けた。

 

 一歩、また一歩と遠ざかっていく、少し細い、けれど大きな決意を背負った彼の後ろ姿。フィオはその背中を、一瞬たりとも見逃さないように、自らの瞳の奥深くに焼き付けようと凝視していた。しかし、次第に距離が開いていくにつれ、胸の奥から急速に込み上げてくる圧倒的な寂しさと喪失感に耐えかね、無意識のうちに足がキラの方へと一歩、踏み出しそうになってしまう。

 

 けれど、彼女の強固な理性が、必死にその衝動を押しとどめるようにして動いた。

 

(ダメよ……追いかけちゃダメ……キラはあの大空へ……もっと広い世界へ行くべき人なの……私が留めていい人じゃないの……納得しなさい、フィオ……彼とは生きる世界が違うの……!)

 

 隠せない寂しさをその表情に浮かべ、ただ立ち尽くすことしかできないフィオ。その両手は胸を押さえつけるようにすぼめられ、きゅっと切なげに握られている。

 

 行ってほしくはない。だがどうすることもできないことなのだ。これが正しいと今もちゃんと言えるのだから。そう、彼女は自分に何度も言い聞かせるように、鉄の意志で自らの寂しさと言葉を呑みこみ続ける。

 

 最後まで不器用で健気なままのフィオをすぐ横で眺めていたエミリアは、頭に手を当てながらため息をついた。

 

(ハァ……見てるこっちが歯痒くなっちゃうわよ、まったく……)

 

 こんな時ですら自分の想いを二の次にする彼女に、さしもの仲間思いのエミリアも少しばかりイラっとくる。しかし、ふと何かを思いついたのか、その瞳に悪戯っぽい光が灯った。

 

 そして思いついたら即行動が信条の彼女は、迷いなくそれを実行に移す。

 

 

 

 

「────キラ!」

 

 

 

 

 エミリアの鋭く、張りのある声が、静まり返った砂漠の空気に響き渡った。全員が何事かというような表情で彼女を見やる。

 

「えっ?」

 

 不意に自分の名を呼ばれたキラも反射的にその歩みをピタリと止め、驚いたように振り返る。

 

 その瞬間、彼女が動いた。キラの身体が反転するのと完全に重なるような恐るべきタイミングで、隣に突っ立っていたフィオの足首をすかさず、自らの作業靴の先で器用に引っ掛けたのだ。

 

「え……あっ!?」

 

 突然、歩き出そうとしていた軸足を払われる形となり、フィオの華奢な身体が大きく前方へとたたらを踏んだ。重力に抗えず、完全にバランスと支えを失った彼女の身体は、まるでそこへと吸い込まれるかのように、ちょうど振り返ったばかりのキラの無防備な胸の中へと、凄まじい勢いで飛び込んでいく。

 

「わわっ!? 大丈夫ですか、フィオさ──」

 

 突飛な事態に驚きながらも、キラは無我夢中で彼女の身体をその両腕でしっかりと抱きとめる。しかし、あまりにも突然に過ぎた。おまけに予想以上だった彼女の勢いを殺しきれなかったためか、二人の身体はもつれ合うようにして砂の上に倒れ込んでしまった。

 

 どさりとした鈍い音。共に走った衝撃に体を強張らせつつも目を強く瞑って耐える。

 

(ぐっ……フ、フィオさんは……って、えっ……!?)

 

(い、痛たた……あれ、なんか息が苦し……んっ……!?)

 

 息遣いが直接肌に触れる感触が、互いの意識を現実に戻しはじめる。痛みに顔を顰めることすら置き去りにして、ゆっくりと開かれていく二人の瞳。その瞳の中に、自分のものとは違う色と光が宿っていることにやっと気づく。キラは自分を押しつぶすような感触から確かな命の重みを、フィオは地面にぶつからないように受け止めてくれた彼の、華奢な中にある男性としての力強さを明確に認識していた。

 

 強く差し始めた太陽光の中で完全に一つになった影。二人が気づいたその時、両者の顔は驚くほどの至近距離で正面から重なり合っていた。

 

 

 

『──……っ!?』

 

 

 

 一瞬ののち、お互いの脳裏を真っ白にするような感覚が突き抜けた。

 

 唇に触れる、ひどく柔らかく、そして瑞々しい感触。

 

 それをやっとこのとで認識した二人は大きく目を見開いたまま動きを止める。体だけでなく心までが、まるで精巧な石像へ変わったかのように完全に硬直してしまっていた。

 

 しかも事態はそれだけに留まらない。

 突然の事態にパニックを起こしつつも、キラは持ち前の反射神経で強引に対処しようとしていた。だが、どんな偶然かは将又(はたまた)彼の奇特な運の為せる業か。その手は倒れる衝撃から彼女を守ろうとするあまり、ちょっとのっぴきならない場所に触れてしまっていた。

 

 キラの手はフィオの細い腰のラインを大きく通り越し、その驚くほど豊かな曲線を描く女性的な部位を、その……彼女のお尻を両手で思い切り掴んでしまっていたのである。

 

 無意識であることが恐ろしく思えるような正確さで……こう、むんずとかいった感じの効果音や、むにゅんっと感触が感じられそうなほどにしっかりと。フィオの背後で未曽有の体験をしている両手や胸元に押し付けられた確かな胸部を通して、暴力的かつ肉感的な彼女の女としての熱が、その魅惑に満ちた感触と共にキラの脳裏へダイレクトに伝わってくるようだった。

 

 一秒、二秒。

 

 砂漠を吹き抜けていたはずの風さえもが、その瞬間にピタリと止まったかのような、恐ろしいほどの静寂。完全に思考がフリーズした二人は互いの唇を重ね合わせたまま、時が止まったように静止していた。

 

 だが、止まった時というものはいつかは動き出すものである。

 

 

 

「あらま……思ってたよりだいぶ情熱的になったわねぇ」

 

 

 

 誰もが言葉を失うのような沈黙を破ったのは、全ての元凶であるエミリアの、心の底から楽しげで、二人を茶化すような響きを含んだ声だった。

 

 その言葉を合図に、周囲の静寂が爆発へと変わる。

 同時に、桃色の光を纏った優しげな思い出が一瞬、ピキリと恐ろしい光を宿した幻影に変わったのを、キラは脳裏の片隅で確かに見た。

 

「きゃあっ! フィオさん、すご、大胆……っ!」

「お、お兄さん……フィオ姉さまと、そんな……あぅぅ……見ちゃいけないのにぃ……」

 

 工廠員の少女たちが一斉に頬を林檎のように真っ赤に染め上げ、黄色い歓声を上げて騒ぎ出す。リアは両手で大慌てで顔を覆いながらも、指の隙間を器用に開けてその光景を興味津々で覗き見ていた。

 

「ええっ! フィオさんだけ特別なんてずるーい! 私だってキラ君とお別れのハグしたいー!」

 

「おおーっ! お兄ちゃんとお姉ちゃん、すっごく仲良しだ!」

 

 メイに至っては、冗談なのか純粋なだけなのかわからないような不満の声を上げていた。状況がよく分かっていない孤児院の子供たちはのんきに手拍子を叩きながら囃し立てている。

 

 周囲から迸る凄まじい歓声と歓喜の嵐。その声に我に返った二人の中に、一気に熱が吹きあがった。

 

「……っ! ご、ごめんなさいっ!」

「す、すす、すみませんっ! 今のはわざとじゃなくて、その……!」

 

 頭から火を吹いたのではないかと思えるほど、顔面を極限まで真っ赤に染め上げたキラとフィオは、まるで強力な磁石の同極同士が反発し合うかのように、猛烈な勢いで距離を取る。

 

 フィオはあまりの恥ずかしさに口元を両手で必死に押さえながら、その瞳の端に涙さえ浮かべている。それでいて怒髪天を突くような表情という何とも形容し難い表情だった。

 

 二呼吸ほど間をおいた後、髪を炎のごとく戦慄かせたフィオが鋭い視線をエミリアへと向けて爆発した。

 

「エ、エミリアッ! い、一体何してくれてんのよっ! こんな時までっ!」

 

「なはは、怒らない怒らない。これからお互いに大変なんだから、門出の挨拶ぐらい盛大にしたってバチは当たらないわよ。いい景気づけになったんじゃないの?」

 

 激怒する親友を前にしても、エミリアは全く悪びれる様子もなくケラケラと笑い飛ばした。そして、完全にパニックに陥って頭を抱えているキラに向かって、悪戯に成功したことを喜ぶ小悪魔のように、魅力的で艶っぽい微笑を投げかけた。

 

「ね? 『いいお尻してる』って、言った通りだったでしょ、キラ。実際のところ感触はどうだったのかしら? 私の目に狂いはなかった?」

 

「エ、エミリアさんっ! 何を……! そ、そんなつもりじゃ、本当にないですから……! い、今のは手が滑っただけというか……バランスを崩して、そのっ……!」

 

 キラは顔から湯気を立ちそうなほど真っ赤にしたまま、千切れるほど激しく手を振って必死に弁明と抗議の声を上げる。しかし、周囲の少女たちや子供たちからの容赦ない冷やかしと、にやにやとした視線の嵐の前に、もはやまともな論理的反論すらままならず、ただただ狼狽するしかなかった。

 

「もう……本当にあんたは、いつも最後の最後まで……」

 

 フィオは何度も大きく深呼吸を繰り返し、バクバクと壊れたように打つ心臓の鼓動を落ち着かせようと努めた。砂で汚れた服を手で払い、乱れた髪を整えながら、ようやく本来の冷静さを取り戻していく。

 

 そして、彼女はもう一度、まだ顔が赤いままのキラと真っ直ぐに向き合った。

 

 フィオの頬にはまだ隠しきれない朱がほんのりと残っていたが、その瞳からは、先ほどまで彼女を支配していた湿っぽい寂しさや未練は完全に消え去っていた。どこか誇らしげで、彼の未来を信じる強い光。

 

 吹っ切れたような透明さに満ちた彼女は、いつか見た優しく慈愛に満ちた眼差しで目の前の少年に微笑む。

 

「……頑張ってね。この先に、貴方の求める答えがあることを祈ってるわ──行ってらっしゃい、キラ」

 

 その凛とした迷いのない声の響きに、キラもまた深く心を揺さぶられた。彼は胸元に収めたばかりのリビアングラスを衣服の上からそっと握りしめ、力強く、前を見据えて頷いた。

 

「はい……ありがとうございます。行ってきます!」

 

 足元で跳ねるハロを抱き上げ、金属音を立てて羽ばたくトリィを肩に乗せて、キラは今度こそ振り返らずに力強く駆け出した。

 

 幾重にも重なる砂丘の向こう、誰の目にも触れないよう厳重に隠されていた自由の翼──フリーダム。そのOSを起動し、核エンジン生み出す強大なエネルギーが地響きのような哮りを上げて砂漠の大気を震わせる。眩い蒼の光を放つ背部の双翼が力強く展開され、暁の空へと向かって力強く羽ばたいた。

 

 その背中から放たれる圧倒的な熱量と、空へと吸い込まれていく一筋の美しい光の軌跡を見上げながら、フィオやエミリア、リア達は、その姿が見えなくなるまでいつまでも、いつまでも手を振り続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空を切り裂くような凄まじい轟音が、うねりを伴って荒野一帯へと響き渡った。それは大地を震わせ、大気を爆動させる圧倒的な熱量の塊。やがて、砂の波の向こう側から、陽光よりも目映い一筋の蒼白い光跡が噴き上がり、莫大な推進力をもって天頂へとまっすぐに吸い込まれていった。

 

 自分たちを救ってくれた蒼き双翼が、刻一刻と色を変えていく美しい朝焼けのグラデーションに溶け込み、旅立ってゆく。その姿が見えなくなるまで、少女たちは誰一人としてその場から動こうとはしなかった。

 ただ、去りゆく機体が残した凄絶な熱の残滓を微かに孕んだ風を頬に受けながら、どこまでも高く、どこまでも深い青へと移り変わっていく空の果てを、言葉もなくじっと見つめ続けていた。

 

「……行っちゃったわね」

 

 すっかり静寂を取り戻した荒野で、最初に沈黙の幕を引いたのはエミリアだった。いつものように少し意地悪で皮肉めいたその声色。しかしそれに加え、心の奥底に生じた寂しげな響きだけは隠そうとしない。今日ばかりは強がったりしないという想いを多分に帯びた声で呟くと、隣に直立したままの親友の横顔をそっと覗き込んだ。

 

「ええ……そうね」

 

 エミリアに声だけで応え、フィオはまだ自分の唇に微かに残っている感覚をなぞった。あの予期せぬ事故による熱烈で柔らかな感触と、未だに肋骨の奥を激しく突き抜けるような心臓の高鳴りを無理やり鎮めるように、深く、長く、胸に溜まった息を吐き出す。その双眸は、彼という一筋の光が消えていった大空の一点に、吸い付けられたように固定されたままだ。

 

 様々な想いが胸中に渦巻く。すべてが良きものとはいかないが、彼と過ごした時間は自分の中で何よりも輝きに満ちていた。

 

「それにしても、あんたさ」

 

 穏やかな表情で佇むなか、エミリアが少しだけ呆れたように水を向ける。頑固で生真面目なリーダーの性格をよく知る彼女は少しだけ残念そうに、だがその一方でどこか納得しているかのような理解の色を瞳に宿して続けた。

 

「あの宝石の『本当の意味』……結局、最後まで言わなくてよかったの?」

 

 問いかけられたフィオの指先が、無意識のうちに、自分の薄い作業服の上から胸元へと触れた。そこにはもう、先ほどまで確かに存在していた輝きはない。手のひらに残る重みも、すでに彼へと受け継がれた。けれど、あの石を手渡した瞬間にキラが見せた驚き、そして溢れ出た喜びと優しさに満ちた眼差しは、彼女の記憶の最深部に鮮烈に焼き付いていた。

 

「いいのよ、あれで……私がその意味をちゃんとわかっていれば、それで十分だから」

 

 少しだけはにかむように、けれど確かな芯の強さを感じさせる声で答えた。こう言ったことに関しては本当に要領が悪く、自分の想いを伝えるのも下手くそだ。

 

 それでも、後悔はないという気持ちが伝わったのだろう。

 吹っ切れたような表情のフィオにエミリアは言葉を止め、「はぁーあ」と大きなため息をついて見せた。そのさまは周囲の空気をすべて吸い込むのではないかと思えるほど誇張した、彼女の不完全燃焼感を表している。そのまま両肩をすくめ、エミリアは大げさに首を振った。

 

「アンタねぇ……あの極めつけに鈍くて、自分のことにはとことん無頓着なキラが、言葉にもされていないお守りの『意味』に自力で気づくと思うわけ? ただでさえ、あの子は別の世界から迷い込んできた異邦人なんだから。あれじゃ、あの子にとってただの『綺麗なお守り』止まりよ。アンタ、本当に良い男を自分で逃すタイプよね」

 

「……そうかもね」

 

「……ま、そんな風にどこまでも不器用で頑固なところも、アンタらしいと言えばらしいけど」

 

 エミリアの痛烈な、けれど親愛の詰まった指摘に、フィオは微かに口元を緩めて苦笑した。確かに彼女の言う通りかもしれない。伝えるチャンスは十分にあり、もうあそこしかないというタイミングでもあったというのに、それを自分から手放したのだから。

 

 彼に手渡したお守り──あのリビアングラスの淡く透き通ったレモンイエローの輝きの中には、よく見なければ気づかないほど小さな、まるで雪の結晶のように白い不思議な欠片が混じり合っていた。

 

 それは、過酷な乾燥地帯において、結晶化した砂が果てしない年月を経て、まるで本物の花の形を成すようにして固まったもう一つの大自然の奇跡──砂漠の薔薇(デザートローズ)の欠片だった。

 

 この荒涼とした地でジャンク屋を営むうち、人々を率いるフィオ自身が周囲から呼ばれるようになった二つ名と全く同じ名を持つ、美しくも儚い宝石。

 

(砂漠の薔薇の石言葉は……「愛と知性」。そして、「願いを叶える」)

 

 自らの名前の一部であり、自らの象徴でもあるその石の欠片を相手に託すこと。それはフィオにとって、自分自身の想いの分身を、過酷な運命に立ち向かう彼の傍らに永遠に寄り添わせるという誓いに他ならなかった。

 

 彼がこれからどこの世界の、どんなに遠い空を飛んでいようと。どれほど孤独で、理不尽な戦いにその身を投じようと。この砂漠の片隅には、彼の無事を心から信じ、その帰りを待ち続ける人間が確かに存在するのだということを忘れないでほしかった。

 

 この石が、彼の行く手を阻むあらゆる災厄からその身を守ってくれますように。

 彼がその心の奥底で、血を吐くような想いで密かに願い続けている「平和」や、大切な人々との「再会」という切実な祈りを、いつの日か形にしてくれますように。

 

 それはフィオという一人の誇り高き女性が、果てしない時空を超えてやってきた異世界の少年に捧げた、最も静かで深く、そして変わることのない愛の形だった。

 

「さあ……!」

 

 フィオは両手を開くと、パン、と自分の両頬を少し強めに叩いて気合を入れた。心地よい痛みが、彼女の意識を現実へと引き戻す。いつまでも遠い空を見上げ、切ない感傷に浸っている暇など、今の自分たちにはないのだ。キラに進むべき道と果たすべき使命があるように、私にだってこの手で守り抜くべき大切な家族があり、切り開くべき未来があるのだから。

 

「忙しくなるわよ、私たちも。いつまでも突っ立ってないで、移動の準備を再開しましょう! メイ、リア! 泣いてる暇なんてないわ、ほら、荷物の積み込みを手伝って!」

 

「うぅううう……はーい!」

 

「ぐすっ……うんっ、わかったよ、フィオ姉さま!」

 

 フィオの凛とした、よく通る声が荒野に響き渡ると、先ほどまで涙ぐんでいた少女たちが次々と活気を取り戻し、一斉に慌ただしく動き始めた。

 

 彼女たちの目指す先は、アザディスタンの国境を遥かに越えた先にある、名もなき国。その海の傍にあるという、小さな孤児院。新しい拠点で、新しい仲間たちと共に、彼女たちの新しい生活が今まさに始まろうとしている。

 

 フィオは動き出す人々の喧騒の中、もう一度だけ、彼が消えた遥かなる天空を仰ぎ、胸の奥で静かに呟いた。

 

 

 

(行ってらっしゃい、キラ……貴方の歩む先に、どうか光がありますように)

 

 

 

 砂漠を吹き抜ける朝の力強い風が、彼女のその揺るぎない決意と祈りを乗せて、世界の果てへと運んでいく。

 

 キラ・ヤマトというあまりにも眩い光が去っていった砂の大地。しかしそこには、彼がその優しさで残していった「希望」という名の種が未来に向かって静かに、そして確かな力強さを秘めて芽吹き始めていた。

 

 




 あとがき


前回投稿から間が空いてしまいましたが、ようやく投稿することができました。

この第15話にて、砂漠編は終了になります。

前回から時間がかかってしまったのは、リアルでの都合と今後の展開の推敲、また本来予定になかったちょっと変わった試みをしていたので少々時間をいただいた形です。試みといいながらいつの間にやら楽しくなってしまったのもありますが(笑)。

その試みに関しては、本日20時の予約投稿の登場人物紹介にて、おまけとしてお披露目予定になります。

私自身、存外に楽しい作業にはなったのですが、とはいえ、本当に! 本当に大したものではありません。おまけの中のおまけ程度の要素なので、過度な期待はされませんようお願いします(えー)。


それと今後の展開ですが、幕間のお話を少し挟む予定です。単話扱いで、1つになるか2つになるか、それはまだ決まってません。まだ作業工程は3割といったところですが、上がり次第投稿させていただきますのでよろしくです。


恒例の次回予告は次話が幕間の物語である関係で致しません。たまにはどんなお話なのかなと想像していただきながらお待ちいただくのもいいかと思いますので

それではこの後投稿予定の『登場人物紹介』にてまたどうぞ!
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