機動戦士ガンダムSEED / Re.00 -西暦の蒼き翼- 作:コエンマ
改めまして、第二章の本編です
それでは、はじまりはじまり~
南アメリカ、ユニオンの勢力圏に聳え立つ人類の至宝、軌道エレベーター「タワー」。その直下都市を包み込む陽光は、まもなく十五時半ばを指そうとする針に応ずるがごとく熱を失いはじめ、透き通った琥珀色の光となって摩天楼の合間に差し込んでいた。
その中心、硬質なタイルで覆われた広場の一角でキラは一人、天を突く巨大な支柱を見上げていた。視界の端から端までを埋め尽くすほどの質量。地表から成層圏を突き抜け、
「これが……軌道エレベーター……」
誰に聞かせるでもない独白が、乾いた風に溶けていく。
かつて自分がいたコズミック・イラの世界にも、宇宙へと繋がる道を造ろうとする試みはあった。中立国オーブが建造を推進していた軌道エレベーター『アメノミハシラ』。幼き頃、未来への希望の象徴としてその礎の話を聞かされた記憶が思い起こされる。
だが、コーディネイターとナチュラルの間に生じた決定的な断絶と、それによって引き起こされた血みどろの戦争は、その夢を無慈悲に凍結させた。いくら産業や経済に多大なる恩恵を齎すものであれど、軍事的には脆く致命的な的でしかなかったからだ。今やそれは、ただの宇宙ステーションとして軍事的な影を落とすばかりだと聞いている。
(もし……僕たちの世界にも、これと同じものが完成していたら……)
キラは眩しそうに目を細めた。地上と宇宙が一本の細い、けれど確かな繋がりを保てていたなら、人々の心も少しは寄り添うことができたのだろうか。それとも、この世界のように、その莫大な恩恵を独占しようとする「持つ者」と、その影で凍える「持たざる者」の間に、より凄惨で形の違う絶望が生まれていたのだろうか。
「…………」
フィオたちの元を離れてからまもなく二か月が経とうとしている。
この未知なる世界の情勢を、自らの目で確かめるための放浪。軍事関係者に察知されないよう、神経をとがらせながら活動していた。その中に自分がここに来た意味を探すと共に、あわよくば『
どこから情報が洩れるかわからないと警戒していたこともあり、フリーダムの存在を前提とした行動はしていない。機体のオンライン通信は完全に封印して戦闘行動の一切を避け、現地での人対人での世情調査や使い捨て端末での情報収集をメインに据えて動いている。ミラージュジャマーは非常に強力な装備だが、それを過信することはしない。移動の際も極力姿を見られないよう、夜間や悪天候に紛れて行うという徹底ぶりだった。
それと併せ、いずれ戦闘に発展した時の為に、各勢力の軍事力やMSの性能などの情報収集も併せて行っていた。あらゆる状況下で取りえる手段を適切に選択するためである。今は凪が続いていても、いざそれが嵐に変わった時、この世界が自分に向けるであろう牙の苛烈さをキラは甘く見るつもりはなかった。
フィオ達の所である程度の情報は手に入れているが、ガンダムの登場によって加速した急激な軍事バランスの変化に対応するためには、情報をアップデートし続ける必要がある。大国やソレスタルビーイングと鉢合わせするような事態になっては非常にまずい為、彼らの動向には常に細心の注意を払い、戦闘行動にだけは発展しないよう静かに立ち回っている。
そうやってこの二か月間、自分達の存在を世界に隠し続けてきたのだ。
自らを隠すように生きる傍ら、生活の糧を得るため、持ち前の技術を活かしたフリープログラマーもしている。偽名を使い、顔出しもせず、オンラインでのみ仕事を受ける形だ。内容が丁寧で正確だと仕事を受けた相手からは好印象が多く、その界隈では一定の信頼をおかれている。
仕事をしなくても現状では不便は特にない。フィオ達から半ば強引に相当な路銀は持たされており、贅沢をしなければ向こう数年は何をしなくとも生きていける程の資金はある。だがそれも無限ではないし、先立つものは少しでも多い方がいいと、数は少ないながらも彼は細々と社会活動をしていた。
仕事を受けた相手が軍事技術やインフラに関係する相手、またメディアなどの情報を扱う末端機関などならキラにとっても都合がよかった。プログラミング作業の傍らで相手のホストに秘密裏に侵入し、本来は手にできない軍の動向やMSの情報、また突飛に介入してくるソレスタルビーイングの動向やその先の動きを推測するための情報源として非常に有用だったからだ。
罪悪感が無いわけではない。だが、何の後ろ盾もない状況下で、正当性のある手段だけに限定できるような余裕は今の自分にはない。手に入れた情報は決して他に売ったりはせず、あくまでも自らが状況に対応するための判断材料としてだけに利用すると決め、キラは情報収集を重ねながら活動を続けていた。
そしてそれらの作業を行う中、彼は現在南アメリカの一都市部を訪れている。ここを選んだ理由は、仕事先であるという以外にも少なからずあった。
ユニオンは三大国の中でも情勢が比較的安定している。AEUのように傭兵らと繋がりを持つ事もないし、人革連のような半強制的な情報統制もない。そんな彼らの誇る「タワー」を間近で見たいと願ったのは、成り行きではあれど技術者のような立場になった自分の好奇心以上に、この世界の一つの「平和」の形を確かめたいという目的が大きかった。
広場の傍らにある移動式店舗でホットコーヒーを買い求め、近くのベンチに腰を下ろす。時期的にはアイスの方が合っているだろうが、かつての戦時下においてお節介な指揮官の一人が熱心に勧めてきていた影響か、コーヒーを飲むときはいつもホットになってしまっている。そんな些細な思い出すら今の自分には得難く、そして懐かしい。
周囲には、穏やかな日常が流れている。笑い声を上げて広場を走り回る子供、噴水の脇を仲睦まじく歩く恋人たち、ベンチに座り静かな微笑を称えながら時を過ごす老夫婦。ここに集う人々にとって、タワーは約束されたエネルギーと繁栄の象徴──すなわち「希望」そのものだ。
キラはその幸福な光景を一頻り眺めたのち、ゆっくりと立ち上がって背を向けるようにして歩き出した。
繁栄の光が強ければ強いほど、その背後に落ちる影は深く、暗い。特に現世界を覆い始めた混乱という名の厚い雲は、否応なしに彼らにその事実を突きつける。
ソレスタルビーイングが宣言した「武力による紛争根絶」。まるで聖者のような厳かな理念から齎される苛烈なまでの介入が世界を揺るがし、三大国の均衡が崩れ始めている。事実、エネルギーが不安定になった準都市部や辺境では既に情勢が悪化し始めていた。自分がしばらく暮らしていた砂漠も、当初からその煽りを受けていたからよくわかる。
そして世界を巡っている最中で起こったモラリアの紛争鎮圧。そこから発展し、さらなる事態の悪化を見せた国際テロ組織『ラ・イデンラ』による無差別的な報復。そして、彼らに対するソレスタルビーイングのさらなる武力介入と、主権を脅かされつつある危機感が各国の軍事拡張をより推し進めていく──。
モラリアに関しては他国への干渉や関与を避けるため見送ったものの、無差別テロに関しては見過ごすことができず、ネットワークへのハッキングで得ていたテロ組織のデータを収集しやすい形で流出させていた。この時ばかりはソレスタルビーイングと利害が一致した他の組織もそれに倣ったようだ。
足取りを掴まれるようなヘマをしないよう気を付けての行動だったが、どちらにしろ自分が手を貸さなくても各勢力の思惑通り目的は達され、事態は収拾していただろう。
今回の件、ソレスタルビーイング自身に大きな非があるわけではない。だが、彼らの為したことがテロ組織の暴走を誘発してしまったという事実はそこにある。実際に被害に遭い、大切な人を失った人々にとっては、彼らに対する憎しみが増すのも無理からぬことだった。
平和を願う心は自分も同じだと信じたい。だがそのやり方……圧倒的な武力を用いて対象の悉くを一方的に排除し、ある種の恐怖に近い感情によって争いを抑え込むという彼らのスタンスに、キラはどうしても拭いきれない危うさを感じていた。
それはかつて、大切な人たちを守るためという大義名分を盲目的に信じ、望まぬままに背負わされた「力」を深く考えることなく行使していたこと……戦争というものを理解しないまま戦い続けていた自分や親友の姿と、どこか残酷なまでに似通っているように思えたからだ。
もっとも、それはソレスタルビーイングに限った話ではない。これから先で自分の存在が露見した時、一つ間違えば似たようなものになりかねないことも、キラの心情をさらに重く沈ませていた。
「ん…………ふぅ……」
飲み物を口に含み、喉を鳴らす。心地よい香りが胸に染み渡るが、心に渦巻く曇りは晴れない。
なぜ自分はここにいるのか。ここで一体、どうしろというのか。自分は一体何をするべきなのか。
そして、いつか皆のいるあの世界に──彼女の元へ帰ることはできるのだろうか。
本当に何度目になるかわからない疑問。答えを見つける手段も、そのアテもない。
「はぁ……」
今日何度目かも分からない溜息が、ふと足を止めた際に漏れた。
その時だった。
雑踏の喧騒とは異質な尖った声が、路地裏へと続く脇道の奥からキラの耳を突いたのは。
「いいじゃ―……か。ちょ……茶を……って言っ……だぜ?」
「……やめ…………い」
品のなさが目立つ、男性特有の低い笑いが複数響いてきた。それに続くように、少しだけ高く、震えるような声がコンクリートの壁に反響して漏れ聞こえてくる。常人ならば気づくことすら叶わないはずのやり取り。だが、コーディネイターである彼の耳はそれらの動向をハッキリと捉えていた。
キラの足は無意識にそちらへと向いていた。路地裏へと入り込むと街から響いていた音が急激に小さくなる。澱んだ雰囲気が増すにつれ、聞こえる声は湿った空気と共に鮮明さを帯びていった。
「な……だよ、そんな……怯え……って。あんた……て困って……一人で……こっち……親切で言っ……だぜ?」
「……ひとり、じゃ……ない。……待ってる。……だから……」
雑多に置かれた資材と空き缶の転がる中を進む。音を立てないように注意しながら少し光が差す方向へ歩みを進めると、狭く汚れた暗がりから比較的開けた所に出た。入り組んだ建物の隙間、真上から僅かに差し込む光と、建物が齎す影が濃く溜まった場所。
(……何だろう?)
通路の角に身を隠しそっと奥を覗き込む。迷路の行き止まりのような一角で、その光景は展開されていた。
人影は三人ほどだった。二人は男性で一人は女性……いや背格好からすると少女というのが妥当だろうか。セミロングぐらいの豊かな髪を二つに纏めた、自分と同じか年下ぐらいの少女が男性達を前にして強張ったように立ち尽くしている。
キャップ帽で顔は見えない。だが、その雰囲気はどこか幼子のように危うく、それでいて頑なな静謐さを纏った彼女を、二人の男が取り囲んでいた。男たちの瞳には、獲物を追い詰めた者特有の下卑た光が宿っている。
どう見ても健全なやり取りには見えなかった。明らかに少女は逃げ腰で、男たちは彼女を逃がさないように位置取っている。
ナンパ、だろうか?
だが当初はその目的だったにしろ、構図的にはあまり褒められたものではなかった。誰が見ても眉を顰めるだろうし、見た目にはほとんど誘拐に近いようにすら感じる。
どうしたものかと様子を見ていた時、状況が動いた。男たちを無視して逃げようとした少女の腕を男の一人が掴み上げたのだ。キラの深紫色の瞳が、その光景を静かに捉える。
その時には、自分のすることは既に決まっていた。
ユニオンの誇る巨大建造物、軌道エレベーターの直下都市。その繁栄を象徴するタワーの影が長く伸び、街路が夕闇に浸食され始める頃。ホテルの冷房の効いた静寂とは対照的な、むせ返るような外気の熱と、いま自らを包んでいる薄暗く濁った空気に、桃色の髪の少女──フェルト・グレイスは眉をひそめていた。
(……外出なんて、するんじゃなかった)
茶色のキャップを深くかぶり直し、心の中でついた何度目か分からないため息が澱のように沈殿していく。その視線は、目の前でニヤ付くガタイのいい二人の男に向けられていた。
フェルトは先だって行われた、ソレスタルビーイングによるモラリア共和国への武力介入を支援するため、戦術予報士スメラギ・李・ノリエガ、そして同僚のクリスティナ・シエラと共に地上に降りていた。そこでガンダム四機による作戦の進行補助を行い、武力介入に次いで起こったテロ組織との衝突もなんとか処理できた。
任務自体もすべて数日前に終了している。しかし、本来ならとっくに
その理由、自分達の帰還を阻んだのは、世界情勢という名の安全保障の壁だ。
目下最大の要因は、テロ鎮圧の余波を受けた軌道エレベーターの秩序が、彼女たちが想定していた以上に混乱してしまったためである。テロ自体が終息しても、安全が確約できなければ民間人に対して重要施設は解放できるはずもない。ユニオン自体もテロの被害を受けていたため、自らの命ともいうべき軌道エレベーターの安全ともなれば慎重になるのも当然の配慮だった。
そういった事情のために中々タワーの使用申請許可が下りず、今の今まで待たされることとなってしまったのだ。
とはいえ、帰還の目途は昨日ついた。予定より少し伸びはしたものの、幾日か滞在したこの街とは今日で別れを告げ、明日は宇宙に戻る算段となっている。
彼女が元々組んでいた予定では、今頃はホテルの清潔な私室で、モラリア公国への介入ミッションの際にとられたタクティクス・シミュレーションの最後のまとめを行っているはずだった。ガンダム4機による最大規模のミッション、その戦果が多大なものになったとはいえ、終了した後の戦術分析を怠れば足元を掬われる。
既に報告自体は済んでいるので、これはフェルトが独自に自分に課しているものだ。どんな小さな任務でも、誰にいわれなくとも彼女が日常的にこなしてきた習慣であった。またどんな小さな役目であっても、手を抜かないことが仲間の安全に繋がると信じているがゆえである。
しかし、その計画は自分と戦況オペレーターの任を同じくするクリスティナ・シエラの一言によって、音を立てて崩れ去った。
『明日は宇宙に戻るんだから、最後の買いだめも兼ねてショッピングしなきゃ! 女の子の時間は有限よ! ただ無為に過ごすのは人生における損失なんだからね!』
強引な誘いに抗いきれず、彼女は戦場よりも予測不能な「銀河一のショッピング・ツアー」に連れ出されたのだ。
さらに不運は重なる。忘れ物を取りに部屋へ戻ったクリスティナに「先にバスに乗ってて」と言われ、生真面目に従ったのが運の尽きだった。待てど暮らせど彼女は現れず、非情にも扉は閉まりバスは発進してしまったのだ。
さらに悪いことに、財布も通信デバイスも、すべてクリスティナが預かっていた共有のバッグの中だ。見知らぬ街、手元には一セントの硬貨すらない。市内を走るバスの中で自分の状態を一頻り確認した彼女は、目立たぬようにバスが止まるのを待って行動を起こした。
「あの……一緒に来た人とはぐれてしまって。連絡をしたいんです」
停留所で運転手に縋るように告げ、案内所があるというこの場所で降りた。運転手は優しく、少し離れたその場所までの道筋を丁寧に教えてくれた。
フェルトは心の中でホッとしていた。そこで自らが泊っているホテルへと連絡すればすぐに解決する。この時点での彼女はそのように考えていた。
だが、その油断が仇となった。冷静を装いつつも内心は心細く、周囲に対する注意が散漫になっていた。そんな彼女の様子やバス内でのやり取りを濁った瞳で見つめていた者たちがいたことに、箱庭のような「ソレスタルビーイング」で育った彼女は気づけなかったのだ。
フェルトを見つめていたのは二人の男だった。彼らが背後からついてきたことで彼女も気づいたが、その時にはもう逃げられない位置にまで近寄られていた。
「……っ」
小さく息を吐き、足早に角を曲がる。自らの動揺を悟られないようにするため、帽子で視線を隠した。だが、視界を大きく制限したこと、そして思った以上に焦っていたのだろう、彼女はいつの間にか陽光の届かない薄暗い路地裏に迷い込んでしまっていた。
それもこれも、ナンパというには少々強引すぎるやり方を重ねてきた男性らが、相手を追い込む術と知り尽くした地元の地理をうまく用いて誘導した結果なのだが、それすら認識できないほど彼女の視野は動揺で狭まっていたのだ。
「なあ、お嬢ちゃん。そんなに困ってるなら、俺たちが力になってやるよ」
「案内所なんてあてにするなよ。もっといい場所、知ってるぜ?」
行く手を塞ぐ二人の影。男たちの濁った瞳が、獲物を目の前に愉悦に歪む。昼間から飲んでいたのだろうか、二人から漏れる濃密な酒の匂いにフェルトは眉を寄せる。
「……必要、ありません……どいてください」
後ずさった拍子に背中に硬質な感触が走る。慌てて視線を左右に走らせると、そこは完全なる袋小路となっていた。壁際に追い詰められていたことすら気づいていないほど、彼女は冷静さを欠いていたのだ。
「そんなに邪見にしなくてもいいじゃねえかよ。こっちは親切で言ってるんだぜ?」
そう言いながら下卑た視線を隠そうともしない男の言葉に、フェルトは奥歯を噛み締めた。
ソレスタルビーイングの一員として、基礎的な護身訓練は受けている。だが、ここはシミュレーターの中ではない。肌を刺すような男たちの不躾な視線、コンクリートに反響する荒い鼻息。それら教科書には載っていない生々しい「悪意」の質感が、彼女の細い肩を無意識に震わせる。
逃げなければ。そう思うほどに、足が鉛のように重くなっていく。
「っ……失礼、します……っ……!」
このままでは埒が明かない。最悪の状況に陥る前にその場を立ち去るため、半ば強引に男たちの脇をすり抜けようと足早に動く。
「おっと待ちな。そんなに急ぐなって」
だが、男にとってそれは予想済みの動きだったのだろう。その細い手首を、節くれ立った男の手が万力のような力で掴み取った。力任せに腕を取られ、体が上に引かれる。
その拍子に何かに引っかかったのか、自分の髪を結わえていた髪留めが二つ、パチンと言う音を立てて弾けた。美しい桃色の髪が彼女の背を中心として広がる。
「痛っ……!」
腕に鋭い感覚が走り、フェルトは顔をしかめた。掴まれた箇所から突き刺すような刺激が痛覚に訴えかけてくるのと同時、ぬるりとした不快感が広がる。同じくして、彼女のか細い背筋に氷のような戦慄が駆け抜けた。
圧倒的な体格差に数的不利、そして逃げ場のない空間。鉄面皮のような表情の下に抑え込んでいた恐怖が、熱を持った「痛み」という物理的な形となって彼女を支配していく。
逃げられない。護身用の銃も防犯グッズも自分の手元にはない。格闘術を仕掛けようにも、これほどの体格差と不利な体勢下では中途半端な反撃しかできず、それでは相手をただ激昂させるなど逆効果にすらなりかねない。
「へへ……コイツ、ガキの癖に体は結構いい感じじゃんか」
片方の男性が舌なめずりするような視線を向けてくる。足元から這い上がってくるような気持ち悪さに、身体が総毛立つような感覚を覚える。
脇を固められ逃げられないなかに恐怖が明確に覆いかぶさってくる。その中で、不器用な自分に対して気遣ってくれる仲間の姿、フェルトの脳裏を様々な人影がよぎった。
いつも自分を引っ張り出しお節介を焼く戦況オペレーターの先輩。
兄のようにあるいは父のように自分を気遣ってくれる、デュナメスのマイスター。
頼りになる戦術予報士に、自分より少し年上のガンダムマイスターの少年。
優しさと厳格さを持つ二人のマイスターに、頼りになるプトレマイオスのクルーたち──。
彼が、彼女らの中の一人でもこの場にいてくれれば──。
だが、そんな淡い願いなど薄暗いこの路地には届かない。
(っ……誰か……!)
目を瞑り、体を強張らせるフェルト。ニヤ付く男たちの手が迫るも体は動かない。
そのまま彼らの不躾な手が今にも身体に触れようかという、その時だった。
「あの……」
路地の入り口から、場違いなほど穏やかで、けれど不思議とよく通る声が響いた。
フェルトが、そして二人の男が、弾かれたように声の方向へ視線を向ける。
助けが来たのかと一瞬喜色ばむが、そこに立っていたのはフェルトが待ち望んだ仲間でも、自分を知る者の気配でもなかった。フェルトは被った帽子の縁からその姿を垣間見る。
傾き始めた陽を背負い、逆光の中に佇む人影。それは栗色の髪を風に遊ばせた、線の細い、どこか儚げな印象を与える一人の少年だった。
歳は自分より少し上、10代後半にようやく差し掛かったぐらいだろうか。男子から男性へと変わり始めたぐらいの、どこか不安定な存在であるのが見て取れる。
オレンジの光に縁取られたその姿はあまりにも無防備で、そして不自然なほどに澄んでいた。だが、その瞳だけは深紫の輝きを湛え、年齢に似つかわしくない光が静かに男たちを射抜いている。
「……離してあげたらどうですか? 彼女、怯えてるじゃないですか」
穏やかな、だが有無を言わせぬその声色。
初めて見る顔、初めて聞く声だ。
だが自分たちの目の前に突如として現れたその姿に、フェルトは経験したことのない不思議な安らぎを感じていた。
キラは、路地の角から静かにその光景を観察していた。
最初は単なる言い争いかと思ったが、少女の強張った表情と、男たちの下卑た笑みを見れば、事態は明白だった。
(……見過ごせないよね、やっぱり)
最初はただのナンパに過ぎなかったのかもしれないが、目の前のそれは社会通念上の許容範囲を超え始める。そして少女の腕を掴む男の指が白くなるほど力を込めているのを見た瞬間、彼の体は思考よりも先に動いていた。
声をかけたことで三人の視線が一斉に自分に集まるのを感じる。針の筵のようなその中で、キラは静かな足取りで距離を詰めていく。
男たちの視線は「邪魔が入った」という露骨な苛立ちに満ち、捕らえられた少女の瞳には、困惑と……ほんの僅かな、縋るような光が帽子のつばごしに宿っていた。
「……離してあげたらどうですか? 彼女、怯えてるじゃないですか」
歩みを止めず、穏やかに、けれど確固たる意志を込めて告げる。その声には、自分より体格の勝る大人を前にしても微塵も揺らがない年齢不相応な威厳があった。
「ああ? なんだてめェは。関係ないガキは引っ込んでろ。この子は俺たちが先約だ、無粋な真似はしないでもらおうか」
腕を掴んでいた男が、少女をこちらの視線から遮るように引き寄せながら怒鳴る。だが、件の少女はどう見ても好意的ではない。そんな状況の中で、はいそうですかと引き下がる選択肢はキラには最初からなかった。
「ええと、先約とかそういう問題では……関係ない僕から見ても、女の子にそんな強引なことするのは、ちょっとどうかと思います」
できるだけ相手を刺激しないように言葉を選ぶ。だが、優しさから零れたその物言いはどこか自信なさげで、争いを避けたがっているようにも聞こえたのだろう。それを「弱者の虚勢」と判断したのか、もう一人の男が鼻で笑い、少女から離れてキラへと歩み寄る。
「ハ、坊ちゃんは大人しくママの所に帰ってな。世間を知らない優男くん? あんまり出しゃばると、こういう目に遭うんだ……ぜッ!」
酒の匂いを漂わせた男が大きく拳を振りかぶる。殴打の風がキラの髪を揺らし、少女から小さく悲鳴のような息が漏れる。
しかし、その瞬間、どこか儚げだった彼の眼差しが少年らしからぬ鋭さを帯びた。最小限の動きで男の懐に潜り込むと、繰り出された拳の軌道を片手でなぞるように受け流す。そしてテコの原理で男の重心を強引に奪い、勢いのまま手を離した。
体術こそ習得してはいないものの、相手は兵士でもないただの一般人だ。こちらがそれにどう対応するかなど考えてもいないような、大振りかつ予想通りの行動でもある。そんな体格差に依存した力任せの暴力程度、対応することは造作もなかった。
「は?……がっ!?」
支えを失った男の体が無様につんのめる。そのまま地面に叩きつけられた男は、思いがけず自身の身体を襲った衝撃に苦悶の声を上げた。
自分たちよりも明らかに小柄、しかもガタイの良い大の男が少年に片手で投げ飛ばされたという事実に、少女を掴んでいた男が目を剥く。帽子で表情はわからないが、拘束されていた彼女も驚いているのか、体が強張っているように見えた。
だが、男の方は多少驚きは見せたものの怯む様子はなかった。回っていた酒精が状況を分析するという手段を放棄させたのか、次の瞬間には逆上し、先に投げ飛ばされた一人と同じように挑みかかる。
「なッ……てめェ……よくも!」
少女を掴んでいた方の男が相棒の失態に舌打ちしながら彼女を突き放し、勢いのままキラへと飛びかかろうとする。
その手が少女から離れた瞬間をキラは見逃さない。それを待っていたとでも言うかのように、もう一方の手に持っていた『持ち物』を男に向けて迷いなく振り抜いた。
「ぐぁっ!? 」
突然のことに目を覆う男。
キラが投げつけたのは、まだ熱気を帯びたままのテイクアウト用コーヒーだった。持っていた左手から正確無比に投げ放たれたそれは、男の鼻っ面に勢いよく命中する。衝撃で外蓋が外れ、中身が勢いよくこぼれ出た。
多少冷めているとはいえ、まだ十分ホットと言えるレベルの熱量である。そんなものを直に浴びせられた方はたまったものではなかった。
「なんっ……あぢっ!? 熱いぃぃっ!!?」
視界を奪われ、皮膚を焼く熱さに悶絶する男。その間にキラは鋭く踏み込み、男の腹部へと正確な蹴りを見舞った。壁際へ蹴り飛ばされた男が鈍い音を立てて激突し、もんどりうって地面に転がる。
「……ッ!」
体勢を崩して倒れ込んだ男たちを横目で確認し、すぐさま少女へ視線を向ける。彼女は石畳の上でうめき声を零す二人とそれを為した少年に対し、戸惑うように代わる代わる視線を流していた。
キラは瞬時に背後の退路を再び見やる。目の前の二人以外彼らに仲間がいないことを確認すると、突然始まった乱闘にどうしていいのかわらかず立ち尽くしていた少女の、冷たくなりかけていた小さな手を迷わず取った。
「逃げるよ! 走って!」
「えっ……あっ!?」
少女のか細いの身体は、自分の思考が追いつく前に導かれるように走り出していた。手のひらから伝わってきた「熱」に引かれ、彼女は無意識に近い形で脚を動かす。
背後から「待ちやがれ!」というような恨み節と怒号が響くが、キラの足取りに躊躇はない。少女の歩幅を意識しながら、けれど確実に追っ手を振り切る速度で路地裏を駆け抜ける。
少女は自分の手を引く少年の背中を、目を白黒させて見つめながらも、ついていこうと必死で足を動かす。驚きと走ってブレる視線のなか、自分の手を引くの先にあるキラの背中を必死に見ていた。
一見すると華奢に見えた少年の体はしかし、男性的な頼もしさに満ちている。走るたびにしなやかな強靭さを露わにし、その手は驚くほど力強く、そして温かい。
そのまま迷路のような裏道を抜け、大通りの喧騒へと飛び出す。人混みをかき分け、さらに数ブロックほど二人で走り抜けていく。何事かと振り返る人々を置き去りに、とにかく走り続ける。
そうして、流れる車と行き交う群衆のなか、追手がないことを認めたキラがようやく足を止めた。
ここまで来れば、もう追いついては来られない。数秒で息を整えると、キラは自分の握った手の感触の先、そこにいる少女へ視線を向けた。
振り返れば、そこには肩を激しく上下させ、顔を俯けて息を切らしている少女の姿があった。
既に完全に息を整えた自分とは異なり、鮮やかな桃色の髪からのぞいた彼女の項は真っ赤に上気していた。それは限界に近い速さで体を動かしていたことの証。少女に対して明らかに無理をさせてしまったことを裏付けていた。
(しまった……)
キラは失態を認めるように顔を歪めた。
彼女を置いてきぼりにしないよう、かなり速度を抑えて調整していたつもりだった。だが、コーディネイターとしての身体能力は、無意識のうちに一般人の限界を超えてしまっていたらしい。既に1分以上の時間が経っているが、依然として顔を上げない姿に心配になったキラは、恐る恐る声をかけた。
「だ、大丈夫……?」
キラは掴んでいた少女の手を離すと申し訳なさそうに眉を下げる。それに合わせて、自らの呼吸を整えている彼女の顔を覗き込んだ。
「はぁ、はぁ……へ、平気……です……」
細い喉を鳴らし、ようやくそれだけを絞り出す少女。ここまで走ってきた間に帽子を取り落としてしまったのか、鮮やかな桃色の髪を揺らしながら膝に手をつき、乱れた髪をそのままに必死で酸素を求めているように揺れている。
「ごめんね、急に走らせちゃって……怖かったよね」
「……はぁ……はぁ……い、いえ……はぁ…………ふぅ……」
熱をそれなりに吐き出した彼女がようやく顔を上げる。髪留めを失った彼女の髪がふわりとした挙動で広がり、互いの瞳が両者を捉え、深紫と蒼穹の色が至近距離で交錯する。
その刹那、キラの心が激しく波打った。
「…………え……?」
彼女の顔を初めて間近で見た彼の表情が驚きに染まり、固まる。
口は呆然と開かれ、瞳孔が小さく細められるさまは、その動揺が尋常でないことを示していた。
視線は今だ肩を大きく上下させる彼女の相貌に向けられ、目をそらすことができずにいる。心臓を素手でつかまれたかのような衝撃が、精神を一瞬で埋め尽くしていった。
「ラク……ス……?」
街の喧騒に溶けてしまいそうな小さな声が零れ落ちた。遠い世界に置いてきた最愛の人の面影が、目の前の少女に不思議なほど強く重なる。
少女の方はまだ息を整えるのに意識の大部分を割いているようで、キラの困惑には気づいていないように見えた。
キラは数秒目を見開いて硬直していたが、その間に彼の冷静な部分は、自分に浮かんだ考えが有り得ない可能性であると既に冷酷な判断を下していた。時を経るごとに増えていく視覚的、状況的、客観的情報。
それらは、彼の胸に湧き上がった僅かな懐古の念すらも容赦なく打ち砕いた。
(……いや……違う……少し、似ているだけだ……雰囲気も、年齢も……別人、だ……)
よく見れば目の色も違うし、容姿も少し幼い。そもそもこんな場所に……この世界に『彼女』がいるわけがない。初めからわかっていたことだろう。
振り払ったはずの自分の弱さを今一度突きつけられたようで、キラは静かに唇を噛んでいた。
そんなキラの葛藤に明確には気づいていない様子で少女は視線を上げて来る。
そこにはまだ事態が飲み込めていない驚愕と、不意に訪れた安全への安堵、そして自分を救い出した目の前の少年に対する、言葉にならない戸惑いが渦巻いていた。
街頭のライトが灯り始め、夕闇と光が混じり合う時間。自分の戸惑いを隠すかのように、キラは今だ息粗く蹲る少女へと近寄った。
「あ、えっと……はい」
前屈みになったままの彼女に向け、自らの手を差し出す。突然目の前に差し伸べられた事に少女は少し躊躇うも、その手を払いのけることはせず、恐る恐る握り返して体を起こした。
行き交う人々が帰路につくために足早に通り過ぎていく。その中でまだ息の整わない少女を気遣い、キラは通りの脇を指し示し、落ち着いた雰囲気の屋外カフェへと柔らかに彼女を促した。
「まだ、息が苦しいよね……とりあえず、あそこに座ったらどうかな……?」
キラの言葉に、少女は少し驚いたようにその顔へと目を向けた。
吸い込まれるような深紫の瞳に映った自分の姿。
あまり歓迎すべき展開ではないが、まずは身を落ち着けるのが先決であるとしたようだ。両者とも一旦落ち着く時間が欲しかった事もあるが、何よりそれが必要な措置だと彼女自身判断したのだろう、少女は重めの雰囲気を醸し出しながらも静かに頷いた。
夕刻の風が、火照った二人の肌を優しく撫でていく。少女はただ身の内に篭った熱を吐き出すため、少年は心に走った寂寥感を押しとどめるため。
琥珀色の空の下で、二つの異なる運命が初めて静かに向き合おうとしていた。
【後書き】
第十六話をお送りしました。今回は本編に大きく食い込むオリジナル展開なので、驚かれた読者様方も多いかと存じます。
本編の重要人物も関わってくる関係上、賛否両論は当然あるとは思いますが、いろいろと考えた結果、導入話はこのような展開となりました。これからどうなっていくのか、それはこの先皆様の目で確かめていただければと思います
また例によってちょっと長いです(1万3,000字ぐらい)(汗)。ゆっくりじっくりと楽しんでいただければ
それでは次回予告です
[ =次回予告= ]
血の滲む
運命的な交わりを遂げた二つの道。それらが示す先にあるものは――――
次回 刻まれた
宿りしは未知なる祝福か、それとも破滅への道標か