機動戦士ガンダムSEED / Re.00 -西暦の蒼き翼- 作:コエンマ
それでは今小説初となる、キラと公式メインキャラクターとの邂逅編、後半部をどうぞー
南アメリカの照りつけるような陽光も、十六時を過ぎれば穏やかな琥珀色へと姿を変え、街路樹の葉の間から差し込む光がテラス席の白いテーブルクロスに不規則な水玉模様を描いていた。
逃げ込んだ先の大通りに面した屋外カフェ。フェルト・グレイスは、差し出された温かい紅茶のカップを両手で包み込み、ようやく人心地をついていた。
先ほどまでの路地裏での凍りつくような恐怖。それを打ち砕き、自分を救い出してくれた栗色の髪の少年は、今、彼女の正面で穏やかに微笑んでいる。
「……助けてくれたことには感謝します……でも、後は自分でなんとかしますから…………」
フェルトは伏せ目がちに、消え入りそうな声で告げた。
恩理は感じている。けれど、自分は世界の変革を担う「ソレスタルビーイング」の構成員なのだ。日常に生きる人間にとっては世界最悪のテロリスト集団の一員である。これ以上、一般人である彼を巻き込むわけにはいかない。
しかし、少年は彼女の強がりを見透かしたように、気遣うような表情で眉を寄せた。
「……でも、連絡用の端末は持ってるの? お財布とか、荷物は……」
「あ……」
フェルトの動きが止まった。
そうだった。通信機も財布も、すべてはクリスが持っていたショッピングバッグの中だ。自分は今、この広大な直下都市で一銭の持ち合わせもなく、誰にも連絡できない「迷子」なのだという事実を、今更ながらに突きつけられる。
情けなさと気恥ずかしさが一気に込み上げ、フェルトの頬が微かに赤く染まった。
「あはは……やっぱり、困ってたんだね」
少年は意地悪な響きを一切含ませず、ただ慈しむように苦笑した。彼は自分のポーチから一つの端末を取り出すと、慣れた手つきで操作を開始した。
「宿泊先のホテルの名前、覚えてる? ……うん、わかった。今からそこに連絡を入れてみるよ。僕のこの番号を折り返し用として伝えておくから、連れの人から連絡が来るまでここで一緒に待っていようか」
安心させるようにそう言うと、少年は聞いた問い合わせ先へすぐさま連絡を入れる。彼がホテルのフロントと手際よく会話し事情を説明する姿を、フェルトは盗み見るように眺めていた。
自分より少し年上ぐらいに見えるその横顔には、不思議な落ち着きが溢れている。
戦場の火の粉を一度も浴びたことがないような穏やかな雰囲気を持つ少年だ。しかし、どこか周りの人々とは違うような気もする。佇まいは静かで優しげな空気を纏っているのに、それでいて強固な「芯」が通っている……そんな相反する二つの要素がない交ぜとなった不思議な感覚をフェルトは彼から感じ取っていた。
やがて、少年の手元の端末が震える。表示された番号を確認して彼が通話ボタンを押すと、静かなカフェのテラス中に聞こえるかと思うほどの、切迫した女性の叫び声が響いた。
『フェ──……あなた、無事なの!? どこにいるのよ、もう心配して……!』
少年は耳元に響いた声の勢いに最初面食らったようになっていたが、そこに宿った少女を想う気持ちを察したのか、すぐに優し気な眼差しになって言葉を返した。
「あ、すみません。彼女の連れの方ですね? はい……はい……ええ、少々男性に絡まれていたところを偶然見つけたもので……え? ああ、大丈夫です。彼女は無事です、怪我もありません……落ち着いてください、いま代わりますね」
苦笑しながら対応していた少年から端末を手渡される。フェルトは恐る恐る耳に当てた。
スピーカー越しに聞こえてくるのは、案の定、半泣きでパニックに陥っているクリスティナの声だった。バスを間違えた自分を棚に上げ、フェルトが誘拐されたのではないかと本気で狼狽している彼女の様子が、受話器越しに目に浮かぶようだった。
「私です……はい……大丈夫です……この人が、親切にしてくれましたから……はぁ、心配のしすぎです。それともう少し声を抑えてください……ええ、はい……わかりました、待っています」
フェルトは最小限の言葉を返す。注意したのにもかかわらず、なお大きすぎるクリスの声。耳を塞ぎたくなるのを堪え、呆れたような溜息を零したが、その瞳の奥には確かな安堵の光が宿っていた。
もし誰かに囚われている等の緊急事態の場合、密かに伝える隠語もあるので、それを使わないだけでこちらの状況が嘘ではないという証拠にもなる。言葉を交わす度に端末の向こう側にいるクリスの声が穏やかに変化していくのがわかった。一方のフェルトも、独りではないという実感が凍えていた心をゆっくりと解かしていく。
伝えるべきことを伝え、少年に端末を返した。彼はさらに数回やり取りをした後、現在自分たちがいる場所を告げて静かに通話を切る。
「あと十五分くらいでこっちに来るって」
端末をテーブルに置いた少年が優しく告げる。フェルトは小さく、けれど深く頭を下げた。
「……何から何まですみません……ありがとうございます」
「気にしないで。でも、本当によかった。だいぶ落ち着けたみたいだね」
少年は穏やかな笑みを零す。彼に気取られないようにフェルトは息を吐いた。
自分が不安だったのも気づかれていたのかと思ったが、彼の様子を見るにただ自分を気遣っただけのようだ。
話題を探すように彼が先ほどの会話内容から水を向けてくる。
「……さっきの女性、君の保護者の方なのかな? 『ちょっと目を離しちゃったから見失っちゃって……迷惑かけてごめんなさい』って、凄く謝ってたよ。僕にも悪いことしたって……こっちが恐縮しちゃうぐらいだったから、気にしないでとは伝えたけど」
「すみません……あの人は少し過保護すぎますので……あと、彼女は保護者ではなく、同僚──いえ、同じグループのメンバーです……それと、目を離したのはちょっとじゃありません。稀に見る失態です」
申し訳なさそうな表情をしながらも、フェルトは淡々と訂正部分を述べ、先ほどまで話していた女性への容赦のない毒を吐く。少年は一瞬目を丸くした後、少し顔を引きつらせながら苦笑する。ようやく調子が戻って来たのかな、といった風に笑った。
「そ、そうなんだ……でも、それだけ心配してたってことだよ。君も、彼女を強く信頼をしているように見える」
「……どう、でしょうか……」
フェルトは少し恥ずかしげな表情でそっぽを向いて、温かい香りのする紅茶を一口啜った。
穏やかな沈黙が流れる。しかし、その静寂を破ったのは、カフェの店内に設置された大型モニターから流れる、扇情的なニュースキャスターの声だった。
『──続いては本日の特集です。依然として各地で武力介入を続ける謎の私設武装組織、ソレスタルビーイング。本日も有識者会議では、彼らの是非を問う議論が紛糾しています。彼らは正義の味方なのか、それともただのテロリストに過ぎないのか……』
画面の中では、ガンダムが紛争地を蹂躙する記録映像が流れ、スタジオではパネリストたちが激しい討論を繰り広げている。「紛争が減ったのは事実だ」「いや、これは主権侵害だ」「目的が見えないのが一番の恐怖だ」──。
画面の向こう側で飛び交う意見。その内容は様々ではある。しかしながら、そこには攻撃的な言葉や一定の理解を示しつつもその存在に対する不気味さと隠せない拒絶の色が滲み出ている。
「彼らの話を聞かない日はないね」
不意に、少年が画面を見上げたまま、独り言のように呟いた。その横顔は、夕日の影に隠れて、どこか憂いを帯びている。
「そう……ですね……」
フェルトは躊躇いがちに頷いた。カップを包む指先に僅かな力を込める。
(……正義、か)
自分がその組織の一員であり、あの映像の裏側でデータの海を泳いでいる当事者であることを、隣に座る少年は知る由もない。クリスなら、こんな時でも「物騒ねえ」などといけしゃあしゃあと受け流すのだろうが、生真面目なフェルトには街中に溢れる自分たちへの賛否の視線がチクチクとした針の痛みのように感じられた。
目の前の少年。自分を助けてくれた、この穏やかで優しい心を持つ「世界の人々」の一人。彼は、ソレスタルビーイングが掲げる理想を、どう捉えているのだろうか。
「……貴方は、どう思いますか?」
「え?」
フェルトは自分でも驚くほど、唐突にその問いを投げかけていた。
少年が不意を突かれたように、瞬きをして彼女を見つめる。
「どう、って?」
「彼ら……ソレスタルビーイングです。世界を変えようとしているあの組織の存在を、貴方は一体どのように考えているのですか?」
フェルトの瞳が、少年の深紫色の瞳を真っ直ぐに射抜いた。それは、迷子としての顔ではなく、一個の意志を持った「当事者」としての眼差し。歪なバランスに支えられたこの世界で生きる人間に対し、自分達の立ち位置をどう思うのかフェルトは尋ねてみたくなったのだ。
彼はすぐには答えなかった。視線を再びテーブルの上のカップへと戻し、琥珀色の水面に反射する光をじっと見つめる。
思案に耽る彼の横顔。カフェの喧騒が遠のき、世界から音が消えたかのような静寂が辺りに満ちる。目の前の少年はその中で、何か、自分の中の古い記憶や容易には口にできない重い感情を整理しているように見えた。
やがて、彼はゆっくりと顔を起こした。その瞳の奥には、フェルトがこれまで見てきた誰とも違う、憂いと物悲しさとが同居した、不思議な光が灯っている。
テラスを吹き抜ける風が、少しずつ温度を下げていく。ユニオンの富の象徴である「タワー」が落とす長く巨大な影が静かに二人を飲み込みはじめた頃、ぽつりとつぶやいた。
「……わからない、かな」
少年の口から漏れたのは肯定でも否定でもない、寄る辺のない奇妙な保留の言葉だった。
フェルトは僅かに目を見開く。自分の表情に隠せない戸惑いが浮かんでいるのがわかった。
ソレスタルビーイングという存在が世界にその姿を現して以来、彼女は多くの反応を見てきた。狂信的な支持、剥き出しの敵意、あるいは無関心。だが、目の前の少年が紡いだ「わからない」という響きには、そのどれとも異なる、重く湿った質感が伴っていた。
フェルトがその真意を問いかける前に、少しずつ言葉を紡ぎ始める。
「紛争の根絶を願い、平和を目指す。言葉の通りなら、とても気高い信念だと思う。その願いは人として正しいし、目指している未来は尊い。否定することなんて、誰にもできない」
彼は遠く、オレンジ色に染まりはじめた街並みを見つめるように言った。その声は穏やかで、まるで祈りのようでもあった。フェルトは自分たちの組織の根幹にある理想を肯定されたことに、一瞬だけ胸の奥が温かくなるのを感じる。
しかし、続く言葉は自分にとって穏やかとは言い難い内容だった。
「でもそれだけに……あまりに一方的で、危うく見える。力で抑えつけられた人たちは、それを『平和』だなんて思わないから。どんな真意があったとしても……きっと伝わらない」
少年の視線が、不意に手元の冷めかけたカップへと落ちた。
「例え得難い理想を目指した結果だとしても……人は死んでしまったから。どれだけ正しい理由を並べても、数字の上でしか示されないとしても、そこにはあるんだ。誰かが討たれ、失われたという痛みだけが」
まるで自嘲しているかのように、その表情には力がない。
フェルトの背中に嫌な汗がにじんだ。心臓の鼓動が不快なほどに速くなるが、彼はその焦燥に気づくことなく静かに言葉を紡ぎ続けてゆく。
「大切だと思う誰かが、殺された。自分たちを遥かに上回る理不尽な力で……その事実は、ただ争うよりもずっと強い影響を世界に齎すよ。好きとか嫌いとか、そういった理屈を超えた感覚を……勿論、最初は悪い印象を抱く人ばかりじゃないとは思う。でも『理解できない存在』に対する感情は、やがて負の方向に積み重なって……恐怖心と憎しみに変わる。いずれ、取り返しのつかないほど大きな歪みを生んでしまうほどに」
彼の言葉は、フェルト達がモニター越しに見てきた「戦果報告」の裏側に無理やり光を当てるような残酷な鋭さを持っていた。ソレスタルビーイングが武力介入を行うたび、ヴェーダの計算通りに紛争の火種は消えていく……そう信じ、やってきたことが齎す負の一面。
自分達の介入活動によって生じ、行き場を失った熱がどこへ行くのか。彼女が、仲間が、誰もが考えないようにしてきた問い。
戦略上は無いも同然と切り捨てられる些事。だが事実の裏側に確実に存在している人の
(────そんなことはない!)
フェルトはそう叫びたかった。カッと昂った感情のまま、目の前の少年に対する反感と苛立ちを、すぐさま否定の言葉にすることも十分可能だった。だというのに、何故か自分の口は言葉を紡ごうとしない。
彼の言い分は主観的なものに過ぎないはずだ。根拠すら提示されていない。それなのに、彼の放つ言葉に対する反論がすぐさま出てこないのだ。
その理由はフェルト自身にすらわからなかったが、自分をひどく困惑させていた原因は察することができた。
それは、彼が纏う空気そのもの。自分の知らない何かを映す深い紫色の瞳。
こちらの意志や想いに反する内容であるにもかかわらず、思わず頷きそうになってしまうほどの強い何かがそこにあったのだ。
まるで、「その結末を知っている」とでも言うかのような、ひどく重い実感を伴った気配が。
「──―でも、紛争は減りました」
絞り出すように放った声は自分でも驚くほど硬かった。もはや反論というよりも、組織や自分の立脚点を守るための拒絶に近いものであることを認識しながらも彼女は続ける。
「彼らの活動は確かに一概にいいとは言えないかもしれない。けれど、争う人々が減ったのは紛れもない事実です。救われた命だってたくさん……たくさんあるはず。貴方は、その結果さえ否定するのですか?」
少しだけ威圧的な響きを込めて言い放つ。
フェルトは、珍しく感情的になりつつある自分自身に驚いていた。いつもは機械のように正確に状況を分析し、クリスの冗談さえ淡々と受け流す自分が、なぜここまで余裕を失っているのか。なぜ見ず知らずの少年の言葉にこれほどまで苛立っているのか。
それは自分が信じ、身を捧げている組織の「正義」が、彼の眼差しによって奥底まで照らされ、その枢軸を揺さぶられているからに他ならなかった。
固く閉じた自分の信念の隙間に容易く入ってくる『思い』。それをなし得るだけの不思議な説得力が彼の雰囲気にはあった。
端的に言えば、フェルトは目の前の少年に『畏れ』を感じ始めていたのだ。言葉そのものでなく、何か別のもので人に訴えかけられるほどの意志を持った存在に。
「そうだね……そうかもしれない」
少年は鋭く細められた彼女の視線と、トゲのある言葉を柔らかく受け流す。
しかし、その後に続いた問いが、警戒し、これ以上ペースを崩されてなるものかと身構えていた彼女の、その心の中心部をまっすぐに射抜いた。
「でも、だとしたら……それはいつまで続ければいいんだろう?」
「……え?」
フェルトは予想だにしなかった問いに一瞬ぽかんとして思わず少年を見返す。穏やかに見えるその表情。しかし、その真意を探ろうと彼へと目を向けた瞬間、彼女の全身は総毛立った。
彼の瞳は何も映していない。不意にのぞき込んでしまったその瞳の奥にあったのは、単なる感情の色ではなかった。そこにあったのは底知れぬ虚無──見通せないほどの「深淵」にまるで自分が引きずり込まれているかのような、怖気にも似た感覚を覚えたからだ。
思わず身を引こうとしてしまうほどの『何か』の気配に、フェルトは心の内の動揺を必死に押さえつける。知らないうちに、口の中が乾き始めていた。
「……それは……紛争がなくなるまで──」
声が震えそうになるのをどうにか抑えて言葉を返す。それ以外の答えを、彼女は持っていなかった。ヴェーダの計画、イオリアの意志。紛争が消えた先にある争いのない優しい未来。それが彼女たちの「終わり」のはずだった。
しかし少年はその言葉を、冷徹さと憂いが複雑に絡み合った優しい響きで遮った。
「そうじゃない」
口調にもその声色にも変化はない。だが、会話の雰囲気が変わったことを、フェルトは明確に感じ取る。
「争いを生み出す『人の心』は何も変わってない。恐怖で縛って、力で屈服させて……そうやって『その戦い』を止めることができたとしても、またすぐ次が始まる。ソレスタルビーイングが力でそれを解決したように、争う側だって戦う事を手段としているんだから。力で明確に上回っているとしても、それは戦いそのものがなくなる理由にはならない。どうして相手だけが矛を収めると思うの? 何故『これ以上』がないと言えるの?」
その瞬間、彼を包んでいた穏やかな気配が一変する。どこか気弱で線の細い雰囲気は完全に消え去り、幾度となく死線を越えてきた『戦士』のような……そんな途方もない覇気が静かに彼から溢れ出す。
「戦っているのは命令通りに動く人形じゃない。一人一人違った心を……『想い』を持つ『人間』なんだ。理屈だけで感情にまで区切りはつけられない。戦って、傷つけて、殺して……それでどうやって人の心の中に芽生え続ける憎しみを止めるのか……僕にはわからない」
彼女の虚を、その理想の裏側にある現実という事象の核心を突いた言葉に、フェルトは弾かれたように顔を上げた。
自分をまっすぐに捉える澄んだ瞳。目の前の少年から溢れ出る気配。
それは単なる同情や憐憫とは違っていた。
そこにあったのは、悲しみや絶望すらも超えた喪失感。自らが血を流し、大切な存在を失い、それでも終わらない戦いの螺旋を見つめ続けてきた者だけが持つ、魂の摩耗の色だったのだ。
その圧倒的な眼差しに射すくめられ、フェルトの身体は石のように硬直する。
「戦争には明確な終わりのルールなんてない。力によって相手を排除するという手段を唯一の解として選んでいながら、どうやって戦いを終わらせるつもりなのかな。『どこ』まで行けば『終わり』だと言えるんだろう……君には、それが見える?」
「それ、は……」
言葉が出てこない。喉の奥が熱く、せり上がってくる感情が声にならない。争いが消えれば、世界は平和になると思っていた。だが、それはあまりにも表面的な認識だったことに気づかされる。
目の前の少年は、ソレスタルビーイングの行為そのものを否定しているのではない。
人と人とが争うこと。
武器を取る理由。
引き金を引くことの意味。
武力が消えた後に生まれる漆黒の怨嗟。それらを微かに残った想いごと踏みにじって進む正義が、一体何を生むのか。
戦いという行為によって傷ついた世界や、変質してしまった人々の安寧。
それら行いすべてに通ずる「人間」の心を……その不可逆的な変容を、この先でいかにして防ごういうのか……いかにして救おうというのか。
そんな答えのない、だが避けて通れない難題に対する答えは何なのかと問うていたのだ。
誰しもが目をそむけたくなる世界から逃げることなく、絶望に満ちた現実を真っ向から見据えて……。
「銃を下ろしても、憎しみは消えない。敵を倒しても、失われた命は戻ってこない……でも、人はそれでも前を向けるはずなんだ。もちろん、仕方のないことだってあるとは思う……けれど、敵であるなら倒すしかない、言っても聞かないなら討つしかない……そうやって、自分の目的のために相手を殺すことを肯定してしまうのは……きっと、違うと思う」
「そ、そんなの……そんなの、貴方の勝手な言い分です……! ただの偽善……ただの理想論に過ぎないではないですか……!」
フェルトは震える声で叫んでいた。椅子が倒れそうになるほど乱暴に蹴立て、机に強く手を突くようにして立ち上がる。心に満ちる戸惑いや目の前の少年への筋違いな怒りが先立ち、自らの行為にすら気づいていない。
周囲の客が何事かと目を向けてくる。だが、今のフェルトにそれを感じ取る余裕は残っていなかった。
「たとえ強引であっても、現実に目の前では殺し合いが起きているんです……! 犠牲が出るたびに、世界は壊れていく……それがなくなれば、いつかは分かり合える日が来るかもしれない。その『いつか』のために戦うことは決して……!」
必死に言いつのる。その先を言わせてはいけない。この少年の言葉を肯定してしまえば、自分たちの戦いのすべてが、ただの「空虚な暴力」に成り下がってしまう。そんな、得体の知れない焦燥が彼女を突き動かしていた。
だが、その焦りさえもすべて見抜いたかのように、少年ははっきりと、逃げ場のない言葉を突きつける。
「なら君は──」
少年の瞳に初めて明確な『意志』が宿る。それは戦場という現実を知るフェルトをして身震いするほど壮絶な光。少年から放たれる覇気と冷ややかなまでに澄んだ声が、彼女の言葉を断ち切った。
「──敵であるものをすべて滅ぼすまで……あるいは彼ら自身が世界に滅ぼされるまで戦い続けろと……そう言いたいの? 立ちはだかる人達や、認められない存在を否定して、障害となるものをすべて切り捨てて……そうやってどちらか一方が消えてなくなるまで戦い続けたその先に平和があるって、本当に思っている? ならその『平和』は、一体『誰』のためにあるものなんだろう?」
「…………っ!?」
かつてキラ自身が問いかけられ、そして今なお答えが出せていない命題。
少年の中に存在する葛藤と共に提示された言葉に、今後こそフェルトは声を失っていた。全身の血がその指先から凍っていくような感覚を覚える。
邪魔な敵を滅ぼし尽くす。紛争を起こす可能性をもつ存在ならその前に消す。今の自分たちがやっているのはまさしくそれだ。
それが唯一の正解だと思っていた。それは目指す未来のために必要な犠牲なのだと。
だがその先に待つ『終わり』が自分たちの理想だと言うのなら、そんなものは平和などと言えるのか。それは、『命』を担保にさせた沈黙と抑圧に過ぎないではないか。ソレスタルビーイングが目指す先がそこにあるのだとしたら、自分たちは一体何を救おうとしているのか。
少年の、すべてを吸い込むような深紫の瞳。そこに映る自分自身があまりにも幼く、場違いな存在に見えた。
その瞳の中に在る『虚無』。それは果てしなく深い悲しみの果てに、感情を無理矢理そぎ落としたかのような悲痛さが溢れていた。
上辺だけの知識や同情心から来る憐みなどとは違う。自ら地獄を歩き、その手で活路を切り拓き、数え切れぬほどの返り血を浴び続けてきた者だけが辿り着ける、血の通った『経験』と血塗られた『真理』の気配。
何も感じていないわけがない。誰よりも悲嘆にくれ、苦しみに苛まれ、人の痛みすらも鋭敏に感じ取ってしまう優しい心が陥ってしまった悲しき帰結。崩壊の一歩手前で精神がその均衡を繋ぎとめるためにとった、最後の防衛本能。
目の前の少年の姿は、そんな泰然さと必死さが入り混じった、人として極めて不自然で、どこまでも不安定な存在に見えた。
どうやってそれほどの葛藤に満ちた精神を宿しながら立っていられるのか、まったく理解できぬほどに。
(あ……ああ…………)
力が入らなくなった足が、自らの居場所を椅子の上に自然と戻す。
自分より少し年上ぐらいにしか見えず、平和を体現するように穏やかな微笑みを浮かべていただけの少年。だが、決して晴れぬ迷いを抱きながら、それでも目を背けず真っ直ぐに立つ彼に底知れない『強者』の気配を感じたフェルトは、そこでようやく自分が震えていることに気が付いた。
彼の瞳の奥、そして背後に垣間見えた深い深い闇。その中に浮かんだ、炎によって溶け落ちる世界や泣き叫び続ける数多の人々を幻視し、短く息を吞みこむ。
自分たちがガンダムという力で支配しようとしている戦場よりも遥かに巨大で、凄惨で、救いなど欠片もないような戦火の影。
この少年はかつてその中心に立ち、誰よりも争いを憎み、呪いながら、それでも人を信じることを諦めなかったのではないか。失われゆく『命』と『人の心』から逃げずに、今なお救おうとし続けているのではないか。
そんな荒唐無稽な考えすら浮かぶほどに、目の前にいる少年は自分達とは何もかもが違って見えたのだ。
大切な誰かを失うことによる悲しみ。信じる理想と受け入れなければならない現実の間に生まれる苦痛。自分とてそれは痛いほど知っているつもりだった。
だが、その痛みを誰よりも知っていながら、ソレスタルビーイングが必要悪だと切り捨てたものすらも、決して『やむを得ない犠牲』だと肯定しようとはしない。しかもそれをただの数字や見知らぬ人間ではなく、どこかにいる誰かが大切に思う『人』だと考えている。
こんな目をする人間に、フェルトは出会ったことがなかった。
頼りになるロックオンともスメラギとも違う。自らの信念に生きる刹那や冷徹冷静なティエリア、優しいアレルヤや朗らかなクリスとも違う。様々な想いと揺るがぬ決意で集まった自分たちの中においてさえ、これほど異質な気配を持った人間がいただろうか。
世界の特異点である自分たちですら持ち得ない「深淵」が、この名もなき少年の内側には広がっている。まるで彼の周りだけ位相が違っているようにすら見える。
自分たちが破壊しようとしている、どこまでも非情な現実。その歪んだ世界の中に、このような少年が存在しているなど、フェルトは想像すらしていなかった。
「あなたは……」
言葉が喉の奥で震えて消える。フェルトは自分が信じてきた世界の形が、どこか変わっていくのを朧げに感じ取っていた。
街の喧騒が遠く聞こえる。流れる沈黙は、二人の間に埋められないほどの溝を刻んでゆく。それは時を重ねるごとに重く深く澱み、見えない圧力となってこの場を満たしていた。
ユニオンの軌道エレベーター「タワー」が巨大な影を街並みに闇を落しはじめても、それが薄れることはない。空が燃えるような茜色から深い紫が混ざり合う黄昏時へと移ろい、テラス席の周囲を照らす街灯が予感に満ちた淡い光をぽつぽつと灯してゆく。
目の前の少年が放つ「静かな拒絶」と「深淵」に射すくめられたまま、フェルトは呼吸を忘れたように彼を見つめていた。
一瞬が進む度、痛みを伴うような時間。
だが、その中にいた少年の気配が和らいだ。視線を遠い空へと向け、独白を再開するように呟く。
「……不快にさせたのなら謝るよ。でも、少し気になったから」
「何が……ですか……?」
その声は掠れていた。少年の言葉の端々に、自分たちが信仰に近い形で守り抜こうとしている「イオリアの計画」……そのの裏側を土足で踏み荒らすような色が混じっていても、もう反論することはできない。
しかし、彼の口から紡ぎ出されたのはフェルトの予想だにしなかった言葉だった。
「ソレスタルビーイング……彼らは、現実を見ていないわけじゃない。彼らに明確な『意志』や『目的』が存在するなら猶更にね……少なくとも、その在り方を定義した人たちは戦いによって生み出される歪みをきっと最初から想定している。ガンダムなんていう世界の常識を塗り替える『規格外』を運用できる存在が、その可能性に気づかないはずがないから」
「……え……?」
フェルトの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
自分たち、ソレスタルビーイング。そして、二百年前からすべてを見通しているとされるイオリア・シュヘンベルグの意志。その計画の中に、今、目の前の少年が指摘した「憎しみの連鎖」や「力による歪み」までもが、あらかじめ織り込まれている……?
紛争を根絶した先に待つ未来。彼の言葉は、その事実が為す「平和」が、争いがなくなったという単純な事象を指すのではなく、いま自分達が目指しているものとは別の、何か重大な側面を併せ持つことを示唆していた。
「だからこそ危ういと思ったんだ。僕には、まるで……」
キラはそこで言葉を切り、苦しげに喉を鳴らした。
──まるで、全世界の憎しみを自分たちに集めようとしているように見えたから──―。
その言葉をキラはかろうじて飲み込んだ。
かつて、コズミック・イラの戦火を駆けた日々。自分と共に戦いの道を歩んだラクスやアスランたちは、世界が自壊という名の
だが、この世界の「ソレスタルビーイング」が選んだ道は、あまりにも過酷で、あまりにも救いがない。
もし、自分の推測が正しいのなら、ソレスタルビーイングという組織に「未来」はない。今の行動を続けた先に待っているのは、世界の敵として討たれ、誰にも理解されず、誰からも憎まれ、ただ汚れ役として歴史の裏側へ消えていくだけの滅びだ。
(……そんな悲しいやり方しか、ないんだろうか……)
何よりも、彼らがその命を賭して役目を果たしたとて、人の心に残った歪みは残り続ける。それを残したまま、これからこの世界が直面するであろう危機は、自分の知る歴史と同じくらい、あるいはそれ以上に凄惨な、出口のない混沌になるのではないか──。
「ど、どうしたのですか……?」
困惑した少女の問いかけに、キラはハッと我に返ったように表情を和らげた。
「……ううん、なんでもないよ」
すっかり冷えてしまった紅茶の水面に、沈みゆく夕日が反射している。少年はその揺れる光を寂しげに見つめた。
(自分は何を話しているんだろう。偶然出会っただけの、ましてや自分よりも年下に見える女の子に……これじゃただの八つ当たりじゃないか)
一瞬、彼女に大切な人の面影を見たからだろうか。女々しいにもほどがある、とキラは自嘲気味に笑う。
そこに浮かんだ彼の感情を朧気ながら感じ取ったフェルトは、心に強く引っかかったものを手繰るように眉を寄せた。まるで何かを諦めたのようなその表情に、彼女は強く覚えがあったからだ。
だがそれを問う前に、少年は話を早々に切り上げる。
「ごめんね、偉そうなことを言って……少し、話しすぎたみたいだ」
ふっと憑き物が落ちたように表情を緩める。それは最初の彼と同じ、穏やかな微笑だった。
先ほどまでの圧倒的な重圧など微塵も感じさせず、優しすぎる彼本来の性分を如実に表している。
だが、今の自分にならわかる。彼の宿した優しさはそれ以上に癒されない、哀しみの色を帯びていることを。
「い、いえ……! それは別に……」
フェルトは首を振ったが、あとが続かない。彼の言葉は、彼女がこれまで培ってきた「世界の捉え方」に、修復不可能なほどの
周囲の景色すらもどこか違って見える。穏やかな中に在りながら、その実、崩壊へと進んでいくのをただ見ていることしかできないような、そんな恐ろしささえ彼女の中には生まれ始めていた。
その時、少年の手元にある端末で短い電子音を鳴る。視線を落として画面を確認した彼は、優し気な眼差しをフェルトに向けて微笑んだ。
「そろそろ、迎えの女性が到着するみたい……僕はこの辺で失礼するよ。無事に合流できそうでよかった」
「え……あ……そ、そう……ですか……」
まだ戸惑いから抜け出せぬ中、彼は静かに椅子から立ち上がった。店員に声をかけて手早く勘定を済ませ、荷物を肩にかけ直してフェルトに向き直る。少年との縁が切れかけていることをぼんやりと感じていたフェルトもそこに至って我に返ったのだろう、慌てたように頭を下げた。
「い、色々とありがとう……ございました……」
「気にしないで。それじゃ、この先も気をつけて」
少年は元の穏やかな笑みで答えると、静かに背を向けて歩き出した。
気配が少しずつ遠ざかる。フェルトの心中に溢れていたのは複雑な思いだった。
自分の信念を揺さぶる危険な「毒」が去っていくという安堵。だがそれ以上に、自らの心の深い部分を照らされてしまったような、あるいは自分が見て見ぬふりをしてきた「真実」を手渡されたような、得体の知れない感覚が彼女を満たしていく。
答えを得た充足感のようでもあり、何か大切なものを失ったかのような、ある種の喪失感に近い痛みも同時に感じていた。
カフェテラスの喧騒の中をその細い背中が歩いていく。フェルトは俯き、自分の膝の上で握りしめた拳を見つめていた。
(……これで、いい)
関わってはならない相手だったのだ。
自分はソレスタルビーイングの構成員、彼はただの民間人。
このまま別れれば、二度と会うことはないだろう。かけられた言葉も、自分の中にあるわだかまりも、夕暮れが見せた幻影として片付けられる。
片や戦場に身を置く自分と、平和の中に生きているであろう少年。いくら彼の過去が……その身が抱えているものが想像以上に重いものだろうと、今の二人は決定的に違う世界に生きる人間同士だ。
もうその道が交わるべきではない。自分の理性はそう断じている。
だが──。
(……イヤ、だ)
理屈ではない衝動が、フェルトの胸を突き抜けた。
このまま彼を、名もなき『誰か』として終わらせてはいけない。否、終わらせたくない。
彼が抱えている、あの底なしの虚無。それを齎した現実や感情の正体……それらを自分はまだ何ひとつ知らない。だが、このまま俯いていればそれはすべて露と消え、もう二度と届くことはないだろう。
自らの中に生まれた『焦燥』に弾かれたように顔を上げる。両親を失ったことで長らく消え去っていたはずの衝動が無意識に腰を上げさせた。
それは、組織という優しく静かなゆりかごの中で育ってきた彼女が人生で初めて抱いたであろう、剥き出しの『欲』。
その少年の奥底に見えた『何か』に不思議なほど強く引き付けられた心を、彼女は抑えることができなかった。
「っ……ま……待って、ください……!」
椅子を蹴るように立ち上がり、去りゆく背中に向かってフェルトは声を張り上げた。
「え……?」
カフェテラスを出て、雑踏の中に消えようとしていた少年が足を止めた。ゆっくりと振り返るその瞳は穏やかなものだったが、微かに困惑に揺れている。
一方のフェルトも言葉が止まったままだった。
呼び止めたはいいものの、喉は緊張で引き攣り、声が出てこない。数秒の、けれど永遠にも感じられる逡巡。夕日が少年の輪郭を逆光で強く描き出し、彼がこの世のものではない存在のようにすら見える。
しかしその中にあってもなお、自分の心が止まることはない。フェルトが気づいたとき、胸の内から湧き上がる思いは、その小さな口元を通じて、禁じられていたはずの言葉を紡いでいた。
「私、は……フェルト……フェルト・グレイス……! あなた、は……?」
自ら口にしたコードネーム。それは、ソレスタルビーイングの構成員として絶対にしてはならない、致命的な規律違反だった。組織最年少であるということを考慮しても厳罰は免れ得ないほどの。組織の中に生き、それが自分のすべてだとしてきた今までのフェルトには考えられない行動であった。
だが、不思議とその心に後悔はない。今の彼女は、初めて生まれた感情を制御するすべを持ち合わせていなかった。その視線はまっすぐに、振り返った少年に向けられている。
何故、それほどまでに強く在ることができるのか。彼の奥底にある思いの根幹は何なのか。どんな経験を経ればそこに立つことができるのか……その一切を、フェルトはただ知りたいと思った。
そんな、『人』に対して感じた初めての『興味』と『好奇心』……否、『執着』に近い感情。そこらから生まれた『願い』が、規律を守るという自制心を超え、目の前の少年とのか細い糸を繋ぎ止めたいという強い渇望感となって溢れ出たのだ。
それは自分が失ったと思っていた、自分でない他人へ向ける気持ち。抑えきれない、人としての感情の発露だった。
フェルトの問いかけに少年は驚いたように僅かに目を見開いた。そして少し考えこむように俯き、視線を落として瞑目する。
だがそれも一瞬。僅かな逡巡を挟んだ後上げられた顔には、包み込むような、そしてどこか遠い未来を見つめるような穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「……キラです。キラ・ヤマト……さようなら、フェルトさん」
「……っ」
それが再会を約束しない別れの挨拶であることに、フェルトの胸が締め付けられる。
キラ・ヤマト。
その名が、彼女の記憶に聖痕のように刻まれる中、少年は今度こそ、黄金色の雑踏の中へと消えていった。
フェルトは、彼が去った方向を見据え、その背中を反芻していた。
一体、彼は何を見てきたのか。
やはり、何度思い出しても自分とそうは変わらない年齢に思える。そのはずなのに、ソレスタルビーイングが齎す結末を、その光と影のその深くまでを理解して心から憂いている。
そんな人間などいるわけがない──―そう断じようとしても、あの瞳の奥に満ちていた深淵が、驚くほど強い確信と共に訴えかけてきていた。彼の言っていた言葉が最も真実に近いものなのではないか、と。
「フェルト──! やっと見つけた!」
背後から、騒々しい靴音と共に聞き慣れた声が響いた。それと共に時間の速度が普通のそれに戻っていく。
「……クリスティナ・シエラ……」
「はぁはぁ……途中が、結構、混んでて……ごめん、ちょっと休ませて……」
必死に自分を探していたのはさっきのやり取りでわかっている。その中で連絡を受け、急いできてくれたのだろう、駆け寄ってきた彼女の息は切れていた。
「はぁ、はぁ…………ふぅ~……あれ?」
ひとしきり体の熱を吐き出した彼女が、息を整えるように体を起こす。そこで彼女は自分が想定し、ここにいるはずの人物の姿が見えないことに首を傾げた。
「貴女を助けてくれた人は? 電話口だと、優しい感じの男の子みたいに聞こえたけど」
「……たった今、帰っていきましたよ」
フェルトは、声のトーンをいつもの無機質なものに戻そうと努めながら答えた。
「あ、そうなの……お礼を言いそびれちゃったな。同僚をナンパから救ってくれたヒーローに是非お目にかかりたかったのに」
クリスは少し気落ちしたように肩を落としたが、すぐに慌ててフェルトの両肩を掴んだ。
「あ、それよりフェルト! 私のミスで貴女を一人にしちゃって! 怖かったでしょ? 本当にごめん!」
「別に、気にしていません……」
平謝りするクリス。彼女は、フェルトから鋭いお小言が飛んでくることを覚悟して身を構えていたが、返ってきた反応は、予想に反してどこか上の空だった。
「どうしたの? フェルト。やっぱり、どこか怪我でも……」
「いえ……ただ、少し、考え事をしていただけです」
「考え事? 珍しいわね、貴女がそんな顔するなんて」
クリスは訝しそうに首をかしげたが、すぐに「よし!」とパンと手を叩いた。
「買い物を途中で放り出してきちゃったから、続きをしましょう! 恐怖体験はパァーっと発散して忘れるのが一番よ!」
「……まだ、続けるのですか」
呆れたように溜息をつきながらも、フェルトはクリスの後ろをついて歩き出した。数歩歩いたのち、彼が消えていった大通りの先へと視線を向ける。
(キラ……ヤマト……)
耳の奥に残る名を心の中で何度も反芻した。
彼の姿はもう見えない。だが、別れ際に互いに交し合った
(いつか……紛争をすべて終わらせることができたら……また、貴方と話せる時が来るのかな……)
独り言のようにこぼれた願い。誰の耳にも届かず、夕闇に溶けていくその想いを残してフェルトはその場を後にした。
彼女はまだ知らない。
その願いが自分の想像よりも遥かに早く、しかし思いもよらぬ形で叶えられることを。
穏やかな気配の中に確かな強さを宿した少年、キラ・ヤマト……彼がその手に宿す力が、その身に秘めた哀しみと背負った運命が、どれほど途方もなく巨大で、そして苦しみと葛藤に満ちたものなのかを。
異邦人とソレスタルビーイング。両者の出会いは、本来相容れぬ存在が邂逅するその
交わるも再び離れた道を歩き、異なる場所へと向かう二人を最後の陽光が厳かに照らし出す。
運命の歯車は今はまだ静かに、だが確実に噛み合い始めていた。
【後書き】
今回は一度出来上がったものを何度も推敲し、それに伴って作業の度に少し文章を寝かせています。投稿が若干遅れてしまったのもそのためです
いろいろとこだわってしまった部分もあり、考えたセリフを元にAIに最初の雛型を書いてもらいましたがどうにも納得できず、自分自身でかなりいろいろと書き足す作業が重なり、過去一の長文になってしまいました。当初は7000字程度でした(汗)
結果、私が今小説で想定していた一話限度文字数、1万3000字を大きく超えてしまう事態となりました。地の文をかなり増やしましたので台詞だけを見て読み飛ばしてしまうとよくわからない感じになっているでしょうから、どうぞゆっくりとお読みいただければと思います(冷汗)
そ、それでは次回予告です
[ =次回予告= ]
歪んだ世界によって苦しみに喘ぐ者達
彼らを僅かでも救い上げられるのならと、自らの翼に少年はその意味を問いかける
次回 覚悟の旋律
振るうと決めた刃、その矛先は