機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】   作:王子の犬

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《10》オークリッジの幽霊と監視(U.C.0080年 5月〜8月)

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八〇年五月。

 

 北米大陸の奥深く、広大な針葉樹林に隠匿されたオークリッジ第四軍事療養施設には、遅まきながらの穏やかな春が訪れていた。

 だが、その風光明媚な偽装の裏側には、高圧電流が這う鉄条網と重武装の警備兵という、軍機構がひた隠しにする「不都合な真実」を封じ込めるための、醜悪極まりない巨大な牢獄としての素顔が横たわっていた。

 入所から一ヶ月が経過したシイコ・スガイ中尉の容態は、担当医であるアーサー・クレメンス少佐のカルテに、極めて平坦かつ無機質なテキストの羅列として記録され続けていた。

 

『オークリッジ第四軍事療養施設 月次療養記録:第1回』

『カルテ番号:OR-80-402』

『患者名:シイコ・スガイ(中尉)』

『担当医:アーサー・クレメンス少佐』

『[UC〇〇八〇年五月三一日・総合所見]

 患者の当施設への収容から約八週間が経過した。

 だが、その精神的、あるいは行動的ステータスにおいて、特筆に値する変化は一切観測されていない。

 彼女の日常は、狂いのない時計の振り子のごとく正確で、かつ極限まで簡略化されたサイクルの反復に終始している。

 本日も発語なし。

 自発的なコミュニケーションの試みは、入所初日から現在に至るまで完全にゼロである。

 提供された規定量の食事を残さず摂取しはするものの、そこに味覚への執着や生物としての嗜好の偏りは微塵も見受けられず、生命という内燃機関を維持するための燃料補給を、ただ機械的に遂行しているに過ぎない。

 表情筋の稼働は極端に乏しく、喜怒哀楽といったホモ・サピエンスの基本的な情動の表出は完全に欠落している。

 今日に至るまで、クロルプロマジンをはじめとする各種の抗精神病薬、および抗うつ薬の投与を幾度も試みた。

 通常のPTSDや解離性障害であれば、これらの薬物療法に対して何らかの陽性・陰性反応(鎮静、あるいは副作用による錐体外路症状等)が惹起されるはずである。

 しかし、彼女の中枢神経系はこれら化学的アプローチに対して完全なる沈黙を保っており、投薬は文字通り「一切の医学的効果を示していない」。

 彼女のこの絶対的な虚脱状態は、凄惨極まる戦場体験から自己の自我を防衛するための、極端な解離症状の一種であると推測される。

 しかしながら、その防壁の分厚さは私の臨床経験においても類例を見ない。

 彼女は外界を拒絶しているのではない。

 彼女の精神構造内部において、「外界」という概念そのものがとうの昔に完全消滅してしまっているのだ。

 次月以降は無意味な投薬を最小限に留め、非言語的な心理療法へとアプローチを移行するが、予後が絶望的に不良であることは論を()たない』

 

 治療という美名のもとに隠蔽された「飼い殺し」。

 その実態は、彼女を連邦軍の表舞台から永遠に消去し去りたい上層部の官僚たちにとっては、むしろ至極好都合な推移であった。

 彼女が物言わぬ精巧な人形であればあるほど、連邦軍の描く「輝かしい一年戦争の正義」というプロパガンダの欺瞞は安泰なのである。

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八〇年六月。

 

 地球連邦軍という巨大な官僚組織の内部。

 とりわけア・バオア・クーの泥沼を生き延びた前線帰還兵たちの間において、ひとつの悪性腫瘍のごとき噂が静かに、だが確実に増殖しつつあった。

 

『喪服の魔女』

 

 暗黒の宙域で敵機の骸を物理的な盾とし、十字の聖痕を穿ちながら血みどろの進軍を敢行した、あの狂気的な黒いガンキャノンの存在である。

 軍上層部は、この噂がガンダムを頂点とする英雄譚に回復不能な汚泥を塗りたくり、軍紀の根底を揺るがす事態を病的なまでに恐れていた。

 ゆえに、地球連邦軍情報部(防諜部門)は各部隊の酒保での雑談に至るまで徹底的な盗聴を行い、噂の出所を力技で圧殺して回ると同時に、すべての「元凶」たるスガイ中尉が幽閉されているオークリッジ施設に対し、極秘裏に特務査察官を派遣したのである。

 

『機密指定:レベル五(極秘・要将官級クリアランス)』

『文書番号:UC0080-INT-0622』

『地球連邦軍情報部 第三課 監視対象者定期レポート』

『提出者:情報部特務査察官 リチャード・オルトン大尉』

『[対象:シイコ・スガイ中尉の現状評価について]

 六月二〇日より三日間にわたり、当職はオークリッジ第四施設に滞在し、対象の監視および施設スタッフへのヒアリングを実施した。

 結論から具申すれば、対象が現在の連邦軍の安全保障、および防諜上の脅威となる可能性は「皆無」であると断定する。

 対象の精神は完全に崩壊、あるいは不可逆の休眠状態にあり、ア・バオア・クーにおける自己の作戦行動に関する記憶を外部へ発信する意思はおろか、その能力すら有していないものと見受けられる。

 当職が意図的かつ唐突に、対象の耳元で「ア・バオア・クー」「ワイヤーアンカー」「キシリア・ザビ」等のトリガーとなり得る単語を囁いた際も、対象のバイタルサイン(心拍数・呼吸数)には一パーセントの乱れすら生じなかった。

 彼女はもはや軍人ではなく、生物としての最低限の機能のみを残した「ただの肉の塊」に等しい。

 また、施設長および全スタッフに対し、対象の過去の経歴に関する強固な箝口令(かんこうれい)を再通達した。

 彼らには対象を「精神に異常を来した不遇なテストパイロット」とだけ偽装説明しており、星一号作戦における彼女の異常な戦果(MS二八機撃墜)や、それに伴う猟奇的戦術についての事実は完全に秘匿されている。

 現在の隔離環境は極めて有効に機能している。

 対象(スガイ中尉)に外部への情報漏洩の意志なし。

 引き続き、現在の隔離状態および実質的な軟禁体制を維持されたし』

 

 情報部の査察官が残した冷徹な報告書。

 一人の人間から一切の尊厳を剥奪し、巨大組織の維持のために「最初から存在しなかったもの」として処理する、官僚主義の極致にして最も醜悪な勝利宣言であった。

 彼女が何も語らぬ無害な肉塊であることは、軍にとって「完治」などよりも遥かに望ましい、完璧な状態だったのである。

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八〇年七月。

 

 オークリッジ施設のカウンセリング室。

 患者に不要な圧迫感を与えぬよう白一色で統一されたその部屋は、担当医たるクレメンス少佐にとって、もはや息をすることすら困難な拷問室へと変貌しつつあった。

 彼は、机の向かいにただ座るだけのシイコ・スガイ中尉の深淵から、何らかの人間的な反応の破片だけでも引き出そうと、絶望的な試みを続けていた。

 

『記録ファイル:COUNSEL-OR-0712』

『カウンセリング録音データ:七月分(抜粋)』

 

[録音開始]

 

クレメンス少佐:

「……スガイ中尉。今日の体調はどうですか。

 外は随分と日差しが強くなりました。

 少し、庭を散歩する気にはなりませんか」

 

(対象者の応答なし。衣擦れの音すら記録されていない)

 

クレメンス少佐:

「中尉。あなたが過去にどのような地獄を経験したのか、私にはその全てを知る権限が与えられていない。

 ですが、心に重い蓋をしたままでは、いつかその重圧にあなた自身の魂が圧殺されてしまう。

 ……話したくないのなら、それでも構わない。

 だが、せめて私を、一人の人間として認識してはくれないだろうか」

 

(約三〇秒の完全な沈黙。その後、ひどく乾燥した紙が擦れるような音がマイクに拾われる)

 

クレメンス少佐:

「……その本は? 入所時に、唯一の私物として持ち込みが許可された詩集ですね。

 ディラン・トマスの。

 ……それが、あなたの心に何かを訴えかけるのですか?」

 

(対象者が本を開く音。そして、極めて低く、冷気を孕んだ、精巧なガラス細工のように無機質な声が響く)

 

対象者(スガイ中尉):

「……And Death Shall Have No Dominion(そして死は覇者にあらず)……」

 

クレメンス少佐:

「中尉? それは……」

 

対象者(スガイ中尉):

「……死した者たちは、裸となって……風の男、西の月とひとつになる……骨が拾われ、綺麗な骨が砕け散ろうとも……彼らの足元と肘元には星があるだろう……狂っていても、彼らは正気を取り戻す……」

 

クレメンス少佐:

「中尉、待ちなさい。あなたは今、私に何かを伝えようとして……」

 

対象者(スガイ中尉):

「……海に沈んでも、彼らは再び浮かび上がる……恋人たちは失われても、愛は失われない……And Death Shall Have No Dominion……」

 

(対象者は、クレメンス少佐の問いかけを完全に黙殺し、ページを捲ることもなく、狂った自動機械〈オートマタ〉のごとく同じ詩のフレーズだけを、一切の抑揚を交えずに反復し続ける)

 

クレメンス少佐:

「やめなさい、中尉! 詩の朗読をやめるんだ!

 君はそこに隠れているだけだ!」

 

(少佐の焦燥に満ちた怒号が響くが、対象者の朗読のテンポと音量は、一デシベルの狂いもなく一定のまま継続される)

 

対象者(スガイ中尉):

「……そして死は覇者にあらず……」

 

[録音終了]

 

 後にクレメンス少佐は、この日の録音データに付随する所見として、自らの完全な敗北と、精神の根底を揺るがす恐怖を正直に書き残している。

 

『彼女の朗読を聞いている間、私の背筋を氷結するような悪寒が這い上った。

 彼女は言葉を発してはいるが、それは私という他者との対話を目的としたものでは断じてない。

 彼女の瞳は、私ではなく、私よりもずっと後ろにある「死」という絶対的な概念そのものを凝視している。

 彼女の静けさは、精神の平穏などではない。

 絶対零度に凍結された狂気そのものだ。

 私は、彼女の担当医をこれ以上継続することに、耐え難い精神的な限界を感じ始めている』

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八〇年八月。

 

 シイコ・スガイ中尉が内包する絶対的な虚無は、もはや彼女個人の輪郭に収まりきるものではなくなり、担当医のクレメンス少佐のみならず、施設で働く一般スタッフや他の入院患者たちの日常をも、明確な「恐怖」として侵食し始めていた。

 オークリッジの第二病棟。

 デイルームと呼称される広い談話室が設けられていた。

 一年戦争という狂気の坩堝で四肢を失った者、視力を失った者、あるいは砲撃のショックで精神を破壊された帰還兵たちが集い、微かな社会との繋がりを辛うじて維持するための、数少ない安寧の場であった。

 だが、そのデイルームに彼女が姿を現すようになってから、空間の性質は致命的に変容した。

 第二病棟を担当する古参の看護師、マーガレット・ハリス准尉の業務日誌には、その異常な空間の汚染が、生々しい筆致で克明に記録されている。

 

『オークリッジ第四軍事療養施設 第二病棟 業務日誌』

『記録者:マーガレット・ハリス准尉(主任看護師)』

『UC〇〇八〇年八月一五日』

『今日の午後も、デイルームの空気は最悪だった。

 原因は言うまでもない。

 四〇二号室のスガイ中尉だ。

 彼女は毎日、午後の決められた時間になると、無言のままデイルームの隅にある一人掛けのソファに座り、ただ窓の外の森を眺めている。

 彼女自身は決して暴れたり、奇声を発したりはしない。

 ただ、そこに「存在」しているだけだ。

 だが、彼女が部屋に入ってきた瞬間から、他の患者たちは明らかな恐慌状態(パニック)を来すのである。

 ソロモン攻略戦で右足を失った元砲兵のミラー伍長は、彼女の姿を視界に収めただけで過呼吸を起こし、「来るな! 黒いのが来る!」と絶叫して車椅子ごと床に転倒した。

 星一号作戦の生き残りである数名の患者に至っては、彼女がデイルームにいる時間は絶対に部屋に近づこうとすらしない。

 彼らは皆、怯え切った声で彼女のことを『黒い幽霊』と呼び、病的なまでに忌避している。

 

「ハリスさん、あの女をここから追い出してくれ。

 あの女がいると、俺のとうに失くなったはずの左腕が、ギシギシと痛むんだ。

 あいつは死神の匂いがする」

 

 と、ある患者は子供のように泣きながら私に懇願した。

 私自身も、患者たちを理屈でたしなめることができずにいる。

 彼女の傍に近づき、体温や血圧を測定しようとすると、文字通り「空気が冷たい」と感じるのだ。

 物理的な室温は空調の設定通りであるにもかかわらず、彼女の周囲一メートルだけが、局所的な熱力学の法則すら歪めているかのように冷え切っている。

 あるいはそこだけ重力が異常に重くなっているような、説明のつかない錯覚に陥る。

 彼女のあの、焦点の全く合わない、無機質なガラス玉のような黒い瞳で見つめられると、自分が人間として立っている足場が、音を立てて崩壊していくような強烈な不安に襲われる。

 不気味の谷、という陳腐な言葉があるが、彼女の静けさは、まさに人間の形をした人間ではない「何か」に対する、ホモ・サピエンスの本能的な恐怖を呼び覚ますのだ。

 彼女の存在は、他の患者たちのPTSDの回復プロセスを著しく、かつ致命的に阻害している。

 彼女の抱える巨大な虚無が、事象の地平(ブラックホール)のごとく、この病棟全体の生気を無慈悲に吸い尽くしていくような気がしてならない。

 クレメンス少佐に対し、彼女のデイルームへの立ち入りを厳禁とするか、あるいは別の完全隔離施設への速やかな移送を強硬に具申する』

 

 「飼い殺し」。

 地球連邦軍上層部の目論見は、ある意味において完璧に機能していたかに見えた。

 だが、彼らは致命的な計算違いを犯していたのである。

 シイコ・スガイという存在は、ただ大人しく隔離されているだけの従順で無害な患者などでは断じてなかった。

 彼女の行動が静かであればあるほど、彼女が発する「死の残滓」は周囲の人間を圧倒し、その精神を確実に蝕んでいく。

 彼女はオークリッジという隔離施設全体の中で、完全に孤立しながらも、その絶対的な虚無の質量をもって他者を支配し始めていたのである。

 ジャブローの安全な執務室にふんぞり返る官僚たちはまだ気づいていない。

 彼らが北米の森の奥に隠匿したものは、単なるPTSDの患者などではなく、いつ起爆するとも知れない、純度一〇〇パーセントの狂気を高密度に圧縮した「呪いの爆弾」であるという事実に。

 そして、この底知れぬ狂気に魅入られ、自らの企業利益のために利用しようと企む巨大な影が、軍産複合体という名の暗黒の中から、すでに彼女へとその強欲な触手を伸ばしつつあったのである。

 

 

 

 

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