機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
《16》重力への降下と青すぎる空(U.C.0082年 1月〜3月)
宇宙世紀〇〇八二年、一月。
暗礁宙域に秘匿された
特務パイロット、シイコ・スガイ中尉が叩き出すデータ群は、次世代機動兵器の姿勢制御プログラム開発にとって多大な福音に他ならなかった。
彼女が「
だが、物理法則は誰に対しても平等である。
その代償は、彼女の肉体と精神に確実な「損耗」として蓄積されていた。
先進開発部門医療統括室を預かるハインツ・シュナイダー博士は、端末に表示される絶望的なバイタルデータに険しい視線を送っていた。
彼の職務は医師としてのヒューマニズムの実践ではない。
極めて高価な「生体部品」のコンディションを維持し、計画を停滞させないための保守管理に過ぎない。
ゆえに彼は上層部へ向け、技術者のそれに等しい冷徹な報告書を提出した。
『現行の宇宙空間におけるテストスケジュールの即時凍結、および重力下環境における適応評価ならびに
最大一五Gに達する異常な負荷の蓄積により、対象の肉体は金属疲労に酷似した損傷状態にある。
だが、より深刻なのはその精神的ステータスである。
対象の精神は自己防衛のため完全に感情を遮断し、
致死的な危機にあっても生存本能を示さないそれは、単なる「死への慣性」に過ぎない。
重力という名の強烈な生の刺激を与え、人間としての生存欲求を強制的に
アナハイム・エレクトロニクス社の上層部がこの具申を速やかに承認したのは、言うまでもなく傷痍軍人への慰安などという甘ったるい理由からではない。
重力下における将来的なモビルスーツ運用データの取得と、部品の「
かくして彼女は、監視と護衛を兼ねたエージェントたちを伴い、地球への帰還軌道に乗ることとなる。
宇宙世紀〇〇八二年、二月。
大気圏突入の過酷な熱と重圧を突破したシャトルの窓外には、痛いほどに青い空と果てしない雲海が広がっていた。
暗礁宙域の絶対的な暗黒とは対極に位置する、むせ返るような命のエネルギーを放つ「重力の井戸」の底である。
北米大陸に降り立った一行は、手配された黒塗りの大型車両で広大なハイウェイを駆けた。
途中、かつて彼女が重度の精神錯乱者として幽閉されていたオークリッジ第四軍事療養施設の近傍を通過した。
監視員たちはフラッシュバックを警戒して身構えたが、全くの徒労に終わった。
彼女はただ、窓外を流れる景色を遠い異国の風景のごとく、無関心に見透かしているだけであった。
だが、その内面が完全に静止していたわけではない。
エージェントが密かに抽出し検閲した彼女の端末ログには、重力という枷に対する静かな戸惑いが記述されていた。
『シイコ・スガイの手記(UC〇〇八二年二月某日・データ抽出ログ)』
『重力が、黒い鉄の抱擁のように、私を重く引きずり下ろす。
足の裏は泥の口づけに吸い付かれ、まとわりつかれる。
星々のない黒曜石の虚空で、一本の細い命綱の張力に運命を吊るし、踊り狂うことに慣れきってしまった私の細胞たちは、大地の引力を、不実な鉛の鎖、不自然な枷として呪っている。
一歩踏み出すごとに、地球という名の巨大な墳墓が、私を暗い底へ、底へと飲み込もうと口を開けている。
空が、血を流すほどに青い。
青すぎる。
星を砕く暗礁の、揺るぎない暗黒だけが、私の魂を鎮める唯一の揺りかごであったというのに。
この空の、暴虐なまでに眩しい青は、大気が光を切り裂き乱反射して生んだ、単なる幻影にすぎない。
それなのに、なぜ激しく私の網膜を焼き、眠れる精神を急き立て、鞭打つのだろう。
窓の外を、緑の血潮に燃える木々が駆け抜けていく。
あの葉群れの奥深く、私がかつて葬り閉じ込められていた、骨のように白い狂人の病室が眠っているはずだ。
だが、心には何の波紋も起きない。
一日中、ただ凝視し続けたあの壁の乾いたシミも、私を狂人として恐れ戦いたあの青ざめた医者の顔も、遠い昔に読んだ忘れられた詩篇の一行のように、現実という肉を失い、幻影となって消え去っていく。
過去の影すらも、この重くのしかかる大気の下で、ひしゃげて潰れていくのだ。
ここでは、あらゆるものが、獰猛に、生きようとあがき叫んでいる。
草も、木も、風も、すれ違う人々の熱を帯びた吐息さえもが、怒り狂ったような生への渇望をもって、私に「生きろ」と強要してくる。
緑の導火線を通じて花を駆り立てる、あの暴力的な生の奔流が、私をひどく、骨の髄まで疲れ果てさせる。
ここは、私のような者が、這い入るべき場所ではない。
刈り取り鎌を持つ死神でさえも、重力という分厚い足枷を嵌められては、泥に足を取られてよろめき、歩みが鈍くなるらしい。
私にまとわりつく冷たい鉄と血の匂い、虚無の暗闇のなかで敵の命を摘み取った時のあの冷酷な手触りよりも、この狂乱の青空の下では輪郭を失い、白々しくぼやけて溶けていく。
私には、この星の、緑に燃え盛る生命力は、少し、あまりにも残酷なまでに、眩しすぎる。』
企業が目論んだ人間性の解凍は、彼女の強固な虚無の氷の表面を僅かに濡らす程度の効果しか発揮していなかった。
彼女は地球の風景の中に在りながら、その実、風景の向こう側にある「死の記憶」を未だに見つめ続けていたのである。
宇宙世紀〇〇八二年、三月。
北米横断ルート上の荒野に建つ、一軒の
カントリーミュージックが流れ、長距離トラックの運転手や地元住民が退屈な世間話を交わす。
戦争の狂気から見事なまでに隔絶された平和な空間であった。
だが、そこに喪服のごとき黒衣に身を包んだシイコ・スガイという「異物」が足を踏み入れた瞬間、場の空気は確実に変質した。
彼女の周囲だけが喧騒から切り離されたかのように。
温度が数度低下したかのような錯覚を周囲に抱かせたのである。
注文を取りに来た恰幅の良いウェイトレスとの、何気ない世間話。
その音声は、離れた席に座る監視員の隠しマイクによって不気味なほどの鮮明さで記録されていた。
「お姉さん、随分と遠くから来たみたいな顔をしてるね。
その黒い服……もしかして、兵隊さんかい?」
「……」
「まるで、氷の底からこっちを見てるみたいだ。
前の戦争で、何か辛いことでもあったのかい?」
五秒の沈黙の後、店内の軽快なリズムを切り裂くように、絶対零度の音声が響いた。
「……いいえ。
明確な狼狽と逃避の感情を見せて足早に立ち去る店員。
その光景を見つめながら、監視員N・マクミランは報告書の余白に徒労感とともに私的所見を書き残した。
『あの店員は本能で察知したのだ。
目の前の女が、自分たちと同じ人間の皮を被った、全く別の恐ろしい生き物であるという事実を。
対象の言う墓守とは、誰の墓を指すのか。
かつての戦場で彼女が吹き飛ばした無数の兵士たちか、それとも彼女自身の人間性が埋葬された精神の巨大な墓地か。
気味が悪い。
この戦争を忘却した平和な田舎町において、彼女の存在はあまりにも異物すぎる。
我々は彼女の人間性を解凍しようと企図したが、彼女の放つ底知れぬ虚無こそが、逆にこの平和な風景を侵食し、凍結させつつあるのだ』
青すぎる空も、人々の温かな営みも、彼女の魂を覆う分厚い氷を溶かすには至らない。
濃厚な死の匂いを纏った行軍は、なおも地球の各地へと続く……。