機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
宇宙世紀〇〇八二年、四月。
北米大陸を横断する車列が到達したのは、西海岸のキャリフォルニア・ベース跡地であった。
かつてジオン公国軍の地上における最大拠点であり、後に地球連邦軍が血みどろの代償を払って奪還したこの巨大な軍事施設は、終戦から二年余りを経て、連邦軍と
AE社の上層部が、特務パイロットであるシイコ・スガイ中尉に長期の「地球旅行」を与えた表向きの理由は、宇宙空間での過酷な任務によって損耗した心身の
だが、巨大な軍産複合体が一個の「部品」のために無償の休息など提供するはずがない。
真の企図は、重力下環境における彼女の適応能力の評価であり、同時に進行中である次世代機動兵器――とりわけ地上戦仕様――開発のための基礎データ収集に他ならなかった。
到着した日の午後、シイコはAE社地上支部が管理するテストセンターへと案内された。
そこには、重力、大気摩擦、地形の起伏といった地球上のあらゆる物理条件を容赦なく再現する、最新鋭のMSシミュレーターが鎮座していた。
地上支部の技術者たちは、宇宙の先進開発部門から送り込まれたこの『取り扱い注意の特務パイロット』に対し、最大限の警戒心を抱いて応対した。
暗礁宙域のテスト施設からは、彼女がいかに常軌を逸した機動で機体を自壊寸前まで追い込むか、その異常性を示すレポートが嫌というほど共有されていたからだ。
しかし、実際に姿を現したシイコは、漆黒の衣服に身を包んだ小柄で静かな女に過ぎなかった。
威圧感もなければ、戦場を生き抜いた軍人特有の殺気すら皆無。
ただ無表情に、指示されるがままシミュレーターのコックピットに収まる彼女の姿に、地上の技術者たちは拍子抜けした。
シミュレーターが起動し、仮想の重力下空間での機動テストが開始された途端、彼らの安堵は一瞬にして凍りつくこととなる。
『宇宙の連中が「
実際に来たのは大人しくコックピットに座る静かな女であり、事前の脅しは過剰だったのだと笑い合っていたのだ。
……だが、テスト開始から五分後、メインモニターのスコアと機体負荷のグラフを見て、私は戦慄を禁じ得なかった。
彼女は、一Gの重力環境を再現した峡谷地帯のマップにおいて、宇宙空間と全く同じように、ワイヤーアンカーを用いた『振り子機動』を
無重力ならいざ知らず、ここには地球の重力と空気抵抗が存在する。
機体の自重が下へと牽引する力に逆らい、ワイヤーの張力のみで急旋回を行えば、支点となる関節部やアンカー射出機構にどれほどの負荷がかかるかなど、物理学の初歩を知る者なら容易に想像がつくだろう。
システムが弾き出したフレーム負荷数値は、瞬く間に設計限界値のレッドゾーンを振り切った。
仮想空間の機体は、地面スレスレで強引なベクトル変換を強行し、警告音を喚き散らしながら岩肌を削り取って飛翔していた。
重力下でも、あの狂気じみた機動をそのまま実行する気か?
宇宙での感覚が抜けていないなどという牧歌的な次元の話ではない。
彼女は、地球の重力という絶対的な自然法則すらも黙殺し、己の脳内にある戦術を機体に強要しているのだ。
実機で敢行すれば、空中分解を起こすことは明白である。
彼女は狂ってはいない。
だが、狂気を一切喪失してもいないのだ。
あの静かな佇まいのまま、機械を最も残酷に破壊する操縦を正確に入力し続けている。
宇宙の連中の警告は真実であった。
あれは、人間が扱っていいパイロットではない』
地上の重力という巨大な力に直面しても、彼女の根底にある
地球の環境は彼女の人間性を解凍するどころか、彼女の戦術がいかに外界の法則から乖離した異質なものであるかを、技術者たちにまざまざと見せつける結果となったのである。
宇宙世紀〇〇八二年、五月。
北米でのデータ収集を完了した一行は、空路で南米大陸へと移動した。
目的地は、連邦軍の最大拠点ジャブロー基地の近傍に広がる、アマゾン川流域の熱帯雨林地帯。
北米の荒野や再建都市とは明確に異なる、地球の生命力が最も濃密に集積された空間であった。
空を覆い隠す巨大な樹木。
足元を蠢く無数の昆虫。
絶え間なく交わされる鳥獣の声。
そして、むせ返るような湿気と、腐敗した落ち葉から立ち昇る濃厚な土の匂い。
密林においては、『生きる』という行為そのものが、暴力的なまでのエネルギーを伴って展開されていた。
あらゆる生命が太陽光と水と養分を奪い合う。
死した者は瞬時に分解されて次なる生命の糧となる。
圧倒的な循環の輪が、厳然として存在していた。
護衛と監視を務めるAE社のエージェントたちは、不快な湿気と纏わりつく熱気に苛立ち、常に周囲を警戒して疲労の色を濃くしていた。
しかし、シイコは違った。
汗を拭うことも不快感を示すこともなく、巨大な緑の壁を凝視しながら、静かに歩みを進めていた。
彼女の双眸は、極彩色の鳥や珍しい植物の姿を追うことはない。
空間を満たす生命の圧力を、全身で受容しているかのようであった。
監視員たちには、彼女がこの生命の坩堝において何を感じ取っているのか、全く推し量ることができなかった。
だが、彼女が日々の終わりに端末へ打ち込んでいた手記には、圧倒的な自然に対する深い違和感と、自己の存在との決定的な断絶が、静謐な言葉で記録されていた。
『シイコ・スガイの手記(UC〇〇八二年、五月某日)』
『緑の、息詰まるほどに濃密な体臭が、私の鼻腔の奥深くに粘りつき、決して離れようとしない。
這い回る蟲も、吠える獣も、根を張る植物も、ここでは万物が飢えた獣のように生存の肉を渇望している。
隣人の温かい命を喰らい、泥を貪り食い、空の喉笛に向かって盲目的に枝葉の指を突き伸ばす。
その生への執着は、あまりにも剥き出しで、血が滴るほどに力強い。
かつて、星々の死骸が浮かぶ真空の暗闇の中で、私はあの詩人の呪文を、何度も何度も乾いた心で反芻したものだ。
「そして死は覇者にあらず」と。
骨が砕け肉が塵と化そうとも、死という王がすべてを統べることはない。
その言葉だけが、凍てつく死の恐怖を麻痺させる、私にとっての唯一の甘い阿片であった。
だが今、この脈打つ密林の腹の中に立つと、偉大な詩句すらも、風に舞うただの紙屑のように、ひどく軽く空虚に響くのだ。
ここでは、死は覇者ではない。
それどころか、ただの惨めな踏み石に過ぎないのだ。
倒れた者は即座に貪られ、腐肉は泥の口づけに溶け込み、次に芽吹く命の導火線の、ただの養分として喰い尽くされる。
死は抗うべき敵ですらない。
怒り狂う生の炉端に投げ込まれ、燃やされ、完全に消費されるだけの薪なのだ。
一方、私の骨の髄まで染み付いているのは、あの星々のない真空に放り出されたような、一切の命を孕まない、冷たく無機質な『死の匂い』である。
鋼鉄の装甲に冷たい楔を穿ち、燃え盛る血潮を瞬時に消し炭へと変えるだけの、乾ききった殺戮の記憶。
その死の灰を纏った私が、この緑に燃え盛る森に立っていることは、なんというグロテスクな不釣り合いだろうか。
葉群れも、泥の底で蠢く見えない微生物たちでさえも、私という存在が、この狂乱の生命の輪舞から完全に弾き出された、冷たい異物であることをはっきりと見抜いているのだ。
命あるものたちの立てる
彼らが狂ったように命を謳歌し、その存在を世界の喉元に突きつければ突きつけるほど、私の中にぽっかりと穿たれた、黒い虚無の淵の深さが際立ってゆく。
地球は、圧倒的なまでに生命に満ち溢れ、溺れんばかりに脈打っている。
ああ、だからこそ、私には、この大気を吸い込むことが、ひどく、苦しいのだ。』
産業医は、自然環境の刺激が彼女の凍結した感情を融解させると期待した。
しかし、地球の持つあまりにも巨大な生のエネルギーは、死を内包して生きる彼女にとって、猛毒でしかなかった。
彼女は自然に癒やされるのではなく、己がすでにこの星の生態系から排斥された、帰るべき場所を持たない亡霊であることを、より深く自覚したのである。
宇宙世紀〇〇八二年、六月。
南米の密林を後にした一行は、大西洋を渡り、ヨーロッパ大陸へと足を踏み入れた。
訪れたのは、一年戦争初期のコロニー落としによる地球環境の激変と、その後の長期にわたる地上戦によって、壊滅的な被害を受けた都市の跡地である。
表通りでは連邦政府の支援による近代的なビルディングの建設が進み、復興の象徴として華々しく喧伝されていた。
しかし、一歩裏通りへ足を踏み入れれば、未だに瓦礫の山が放置され、戦禍によって家や家族を喪失した人々が身を寄せるスラム街が広がっていた。
ある日の午後、視察のスケジュールの合間に車両を降りた一行は、迷路のように入り組んだ路地裏で、十数人の戦災孤児の集団に包囲されることとなった。
やせ細り、泥と煤に塗れた子供たちは、裕福そうなよそ者の姿を認めるや、施しを求めて一斉に群がってきた。
中には、監視員たちのポケットに手を伸ばそうとする手癖の悪い小悪党も混じっていた。
AE社のエージェントたちは舌打ちをし、子供たちを乱暴に払いのけようと声を荒らげる。
しかし、シイコは彼らの制止を黙殺し、その場に立ち止まって子供たちを見下ろした。
子供たちは、黒衣を纏った小柄な女を見上げ、一瞬にして動作を停止させた。
彼女の瞳の奥底にある底知れぬ冷徹さ。
いかなる感情も反射しないガラス玉のような眼差し。
ストリートで生き抜いてきた子供たちは本能的な恐怖を覚えたのである。
彼らは数歩後ずさり、静寂が支配した。
だが、その中で最も幼い、五歳にも満たないと思われる一人の少女だけが、何かに引かれるようにおずおずと前に進み出た。
泥にまみれた小さな手で、シイコの黒衣の裾をぎゅっと掴んだのである。
その瞬間の顛末を、同行していた監視員は所見報告として詳細に記録している。
『対象者(スガイ中尉)が戦災孤児の集団と接触した際、一名の女児が対象者に直接触れるという事態が発生した。
我々監視員は、対象者が防衛本能から女児に対して反射的な物理的攻撃を加えるのではないかと危惧し、即座に制圧できるよう態勢を整えた。
対象の近接格闘能力が常軌を逸していることは、すでに確認済みであるからだ。
しかし、対象は攻撃行動には移行しなかった。
女児に服を掴まれた対象は、表情を変えることも、言葉を発することもなく、ただ静かに女児の顔を見つめ返した。
その時間は約十秒間。
対象は自らのコートのポケットに緩慢な動作で手を入れ、携帯用の固形レーションを取り出した。
そして、女児の小さな手に、無言で押し付けたのである。
女児がレーションを抱え込んで走り去ると、対象は何事もなかったかのように再び歩行を再開した。
この一連の行動において、対象は子供に対し、一切の慈愛や憐憫の表情を見せなかった。
頭を撫でることも、微笑みかけることもなく、物理的に「所持していた食料を移動させた」という以上の感情の機微は観測できなかった。
対象の行動の真意は何か。
戦禍に傷ついた子供への同情か。
それとも、単に纏わりつく障害物を排除するための合理的な処理であったのか。
危害を加えることはなかった。
そこに人間らしい温かな感情の交歓があったとは、到底思えない。
彼女の中に、人間としての『情』が解凍されつつあるのか、それとも完全に喪失されたままなのかは、未だ不明である』
監視員の報告書は、理解の範疇を超えた事象に対する戸惑いに満ちていた。
シイコ・スガイの行動は、善意でも悪意でもなく、ただの静かな物理現象のようであった。
地球の圧倒的な自然に触れ、戦争の傷跡を残す人々と接触しても、彼女の内なる虚無が解凍されることはなかった。
外界との関わりを持てば持つほど、彼女がもはや通常の人間と同じ感情の回路を共有していないという事実が、より決定的な断絶として浮き彫りになっていく。
魔女は地球の重力の下を歩きながら、その魂は依然として、暗礁宙域の凍てつく暗闇に縛り付けられたままであった……。