機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】   作:王子の犬

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《18》暴力の残滓と静寂の荒野(U.C.0082年 7月〜9月)

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八二年、七月。

 

 ヨーロッパから地中海を越えたシイコ・スガイ中尉とアナハイム・エレクトロニクス(AE)社の監視チームは、中東地域へと足を踏み入れた。

 乾いた風と強烈な日差しが支配するこの一帯もまた、一年戦争の傷跡を色濃く残していた。

 だが、都市部の市場(バザール)には、戦後の混乱を逞しく生き抜こうとする現地の民の活気が充満していた。

 多種多様な香辛料の匂いが鼻をつき、商人の怒声めいた客引きや荷獣の鳴き声が、迷路のような路地に反響する。

 生命のエネルギーが熱を帯びて渦巻くこの喧騒の中にあって、喪服のごとき黒衣を纏い、無表情に歩を進めるシイコの存在はあまりにも異質であった。

 彼女の周囲だけが、熱量を奪われたかのように静まり返り、現世から完全に隔絶された「絶対領域」を形成していたのである。

 監視員たちは、周囲の雑踏に紛れながら彼女との距離を保っていた。

 彼らの主任務は、貴重な「生体部品」が自傷行為や突発的な精神錯乱(パニック)を起こさないよう管理することであった。

 まさか、彼女自身が周囲に対して決定的な「物理的破壊」をもたらす加害者側になるとは、この時点において誰一人として想定していなかった。

 発端は、路地の交差点で発生した現地のならず者たちと商人との、荷降ろしを巡る些細な口論。

 治安の悪化を極めるこの地域においては、文字通り日常茶飯事の光景に過ぎない。

 だが、男の一人が威嚇のために振り上げた腕が、たまたま傍らを通過しようとしていたシイコの肩に激突したことで、事態は致命的な方向へと転がり始めた。

 男は苛立ち紛れに、ぶつかってきた小柄な東洋人の女に対し現地語で粗野な罵声を浴びせ、胸ぐらを掴まんと腕を伸ばした。

 少し離れた位置にいた監視員たちが制止の声を上げ、駆け寄ろうとしたその刹那。

 シイコは、一切の表情を変化させなかった。

 驚愕も、憤怒も、恐怖の片鱗すら見せることはない。

 極めて流麗かつ自然な動作で、己に向かって伸長された男の腕を捕捉したのである。

 直後に展開された光景は、監視員たちの網膜に、早送りされた映像記録のごとく焼き付いた。

 男の腕を掴んだシイコの身体が沈み込んだかと思うと、鈍い破砕音が響き、屈強な男の巨体が宙を舞って石畳に叩きつけられた。

 男が悲鳴を上げる暇すら与えず、彼女はその顔面に躊躇なく膝を落とし、意識を完全に刈り取った。

 仲間の唐突な無力化に逆上した残る三名の男たちが、ナイフや鉄パイプなどの凶器を抜いてシイコへと殺到した。

 彼女は彼らを「敵」としてすら認識していないかのようであった。

 迫り来る刃物の軌道を最小限の体捌きで回避。

 すれ違いざまに一人目の膝関節を的確な蹴撃で粉砕。

 バランスを崩したその男の頸動脈に手刀を叩き込み、速やかに沈黙させる。

 背後から鉄パイプを振り下ろしてきた三人目の腕を捕捉し、自身の体幹の回転を利用して関節を逆方向へとへし折った。

 骨が砕け散る生々しい音が市場に響き渡る。

 男は絶叫と共に崩れ落ちた。

 

 全行程、僅か十数秒。

 

 四名の男たちが石畳に転がり、呻き声を上げるか、あるいは完全に意識を喪失している。

 その中心に立つシイコは、乱れた衣服の埃を軽く払い、何事もなかったかのように歩行を再開しようとしていた。

 彼女の呼吸は全く乱れておらず、その双眸には、路傍の石礫を蹴り飛ばした時と同程度の感情すら浮かんでいなかったのである。

 駆けつけた監視員たちは、流血して倒れる男たちと、完全な無傷で佇むシイコを交互に見比べ、背筋を這い上がる冷たい汗を自覚せざるを得なかった。

 このインシデントは、即座にAE社上層部へと打電された。

 

『本日一四一五時頃、対象者(スガイ中尉)が現地の武装民間人四名と偶発的に接触し、白兵戦へと発展。

 我々が介入する前に、対象者は単独かつ徒手空拳で四名全員を完全に無力化した。

 民間人側の損害は、一名が顎骨粉砕および脳震盪、一名が右膝関節の完全破壊、一名が右腕橈骨(とうこつ)および尺骨の複雑骨折、残る一名が頸動脈洞への打撃による一時的心停止(現在蘇生済み)である。

 対象者に損耗は一切認められない。

 本官は、対象に対する評価の根本的な改訂を具申する。

 我々は対象の異常性を「MS搭乗時における空間認識能力と機体制御」に限定していたが、それは致命的な誤謬であった。

 対象の白兵戦闘能力は、MS搭乗時と何ら変わらず常軌を逸している。

 交戦中、対象のバイタルに一切の感情的起伏(怒り、恐怖、焦燥)は確認されなかった。

 彼女はただ、最も効率的に目標の骨格を破砕し、急所を破壊するという『作業』を、プログラムされた機械のごとく実行したに過ぎない。

 彼女の『殺意』のスイッチは、地球環境下においても常にオンの状態である。

 平和な街路を歩行しようと、ダイナーで休息を取ろうと、彼女の根底に流れる戦闘教義(ドクトリン)は「敵対対象の物理的排除」から一歩も後退していない。

 彼女という存在そのものが、常に臨戦態勢を維持する『歩く戦場』に他ならないのだ。

 我々は、いつ暴発するとも知れぬ歩兵用爆薬の信管を抜いたまま、人口密集地を徘徊しているに等しい。

 今後の旅程において、対象を不特定多数の民間人が存在するエリアに滞在させることは、極めて高いリスクを伴うと警告する』

 

 中東の眩しい太陽の下で現出させたこの流血の惨劇は、シイコ・スガイの纏う「死の匂い」が、単なる比喩的表現ではなく、極めて物理的かつ暴力的な現実であることを監視員たちに突きつけた。

 彼女の魂は地球の風景に融解するどころか、周囲の環境がいかに平和であろうとも、己の周囲だけを冷酷な戦場へと作り変えてしまう力場を持っていたのである。

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八二年、八月。

 

 中東での流血事態を受け、監視チームはシイコの行軍ルートを大幅に変更した。

 人口密集地や民間人との接触を極力排除。

 より人里離れた環境へと彼女を誘導することを選択。

 結果、一行が次なる目的地としたのは、ユーラシア大陸の黒海沿岸、かつての最大激戦地であるオデッサであった。

 一年戦争における連邦軍の地球反攻作戦、その最大の分水嶺となったこの地は、現在においてもなお、見渡す限りの荒野を曝け出していた。

 熾烈な砲撃によって穿たれた無数のクレーターが大地を痘痕(あばた)のごとく覆い尽くす。

 破壊されたモビルスーツや戦闘車両の残骸が、赤茶けた錆に塗れて無数に放置されている。

 資源採掘拠点としての復興は一部で開始されていたが、この荒野の深部には、未だ回収されざる兵士たちの遺骨や不発弾が眠り、何人たりとも近づこうとしない『死の領域』が広がっていた。

 シイコは車両を降り、荒野のただ中に立った。

 乾いた風が吹き抜け、錆びた鉄の臭気と微かな硝煙の記憶を運んでくる。

 どこまでも続く灰褐色の土壌と、転がる兵器の死骸。

 それは、彼女がかつて地獄を見た宇宙の要塞、ア・バオア・クーの泥沼を、重力下にそのまま再現したかのような光景に他ならなかった。

 監視員たちは、この凄惨な景色が彼女のトラウマを励起し、精神的なパニックを引き起こすのではないかと危惧した。

 中東での暴力的な反射行動を目の当たりにした後では、彼女がいかなる予測不能な行動に出るか、全く予想がつかなかったからである。

 しかし、シイコの反応は彼らの予測を完全に裏切るものであった。

 荒れ果てた大地を緩慢な歩調で進み、半分土に埋もれたジオン軍のザクの頭部や、連邦軍の六一式戦車の砲身の傍らに立ち止まり、ただ静かに凝視していた。

 その横顔には、恐怖も悲痛も、あるいは中東で顕現させた冷徹な殺意さえも浮かんでいない。

 これまで以上に深く、静謐で、圧倒的な『虚無』であった。

 彼女がこの荒野で何を思考し、何を感じ取っていたのか。

 後に回収された彼女の端末のログによって、極めて冷厳な言葉で記録されていた。

 

『オデッサ。

 何万という燃え盛る息吹が、炎の舌と爆風の牙に無残にも喰い千切られた場所。

 連邦とジオンが血で血を洗い、骨で骨を砕き合ったこの見捨てられた荒れ野には、今も無数の命の燃え滓が、赤錆びた鉄の亡骸とともに泥深く埋もれている。

 私の背後をうろつくAE社の青ざめた随行者たちは、この死の景色を凝視する私の横顔を、怯えきった、あるいは気味の悪い化け物でも覗き込むような卑屈な瞳で窺っている。

 彼らは、私がここで死者たちの泥塗れの合唱を聴き、過去の血みどろのトラウマに発狂して踊り出すのを、密かに期待しているのだろうか。

 だが、ここにはもう何もない。

 ただ盲目の風が吹き抜け、乾ききった土が黙しているだけだ。

 死者たちの怨嗟の叫びも、無念の歯軋りも、この虚空のどこを探しても存在しはしない。

 そのような亡霊めいた甘ったるい感傷は、ただ生き延びてしまっただけの者たちが、己の胃袋の底で蠢く罪悪感を誤魔化すために捏造した、傲慢極まりない錯覚の阿片に過ぎないのだ。

 死は、ただの絶対的な静寂でしかない。

 ア・バオア・クーの星なき暗黒の底で、私が冷たい十字の楔を打ち込み、肉の盾とし、その頭部を容赦なく吹き飛ばした名もなき兵士たちも同じことだ。

 彼らの命の明滅がふっと吹き消されたあの瞬間、そこにはただの物言わぬ肉の塊と、冷え切った鉄の残骸が取り残されただけであった。

 彼らが私を呪って地獄の泥から這い上がってくることなどあり得ないし、私を赦免し、血の罪を洗い流してくれることも永遠にない。

 死とは、冷酷なる大鉈のひと振りによる完全なる切断であり、それ以上でも、それ以下でもないのだ。

 私はこの広大な荒れ野に立ち尽くし、その冷たい鋼鉄のような事実をただ反芻している。

 もはや息絶えた者たちは、いかなる意味の欠片も持ち合わせてはいない。

 意味が脈打っているのは、今こうして私が忌まわしい呼吸を継続し、この不愉快な重力の鎖に縛り付けられて立っているという、この血と肉の物理的現実の中だけである。

 この荒れ野は、あの南米の息詰まるような密林や、中東の熱を帯びた市街地のように、私に向かって「生存」を強迫的に喉元へ押し付けてくることがない。

 ただ、巨大な沈黙を横たえている。

 ああ、だからこそ、ここでは少しだけ呼吸の糸を紡ぐのが容易になるのだ。

 だが、ただそれだけのことだ。

 私はこの絶対的な静寂のただ中で、己がどこへ歩みを進めるべきなのか、あるいは何のためにこの呪われた呼吸のふいごを動かし続けているのか、その解答の欠片すら見つけ出すことはできない。

 私の内側で蠢いているのは、かつての戦場で網膜に焼き付いた狂乱の火線の記憶と、ただ次に排除すべき対象を機械的に求める、無機質な殺戮の機能のみである。

 私の中にぽっかりと口を開けたこの巨大な虚無を満たしてくれるものは、この地球の泥をどれほどかき分けて捜索しても、決して存在しないのだと、私は今、はっきりと理解したのだ。』

 

 彼女にとって、死の大地は恐怖の対象ではなかった。

 むしろ、生命の過剰なエネルギーから逃避し得る、唯一の安息に近い場所ですらあったのだ。

 しかし、彼女の精神が治癒したことを意味しない。

 自らが「死」の側に属する存在であることを、このオデッサの荒野において完全な確信として抱き込んでしまったのである。

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八二年、九月。

 

 オデッサを後にした一行は、さらに東進を続け、ユーラシア大陸のアジア山岳地帯へと入り込んだ。

 標高数千メートルに位置するその領域は、大気が希薄であり、気温は常に低く保たれていた。

 周囲には岩肌を剥き出しにした険峻な山々が連なり、植生の姿もまばらである。

 文明の喧騒からは完全に隔絶された、人を寄せ付けない厳格な自然の領域。

 AE社の産業医が立案した「重力と自然環境による刺激」を与えるための旅程としては、最後の長期滞在先となる予定であった。

 彼らが拠点としたのは、山腹にひっそりと佇む古い修道院の跡地である。

 電力供給すら絶たれた石造りの冷徹な建造物の中で、シイコは毎日、夜明けとともに外へ出た。

 彼女は、寒風吹きすさぶ崖の縁に座り込み、ただひたすらに遠くの山並みを見つめて時間を消費した。

 ヨガや座禅の類ではない。

 彼女は目を閉じることもなく、姿勢を正すことすらしない。

 ただ、岩石の一部と同化したかのように微動だにせず、何時間もその場に座り続けているのである。

 食事の時間になれば監視員が配給するレーションを無言で咀嚼し、日が暮れれば冷たい石のベッドで眠りにつく。

 翌朝になれば、また同じように崖の縁に座る。

 一週間、二週間と、全く変化のない日々が継続した。

 希薄な空気と寒冷な気候、そして娯楽の一切排除された環境は、交代で彼女を監視するエージェントたちの精神を確実に削り取っていった。

 しかし、彼らを最も苛んだのは、過酷な自然環境ではなく、シイコ・スガイという人間が発散する「完全な静止」の圧力であった。

 監視チームのリーダーであるN・マクミランは、その極限のストレスに耐えかね、自身の携帯端末に私的な音声メモとして、誰に宛てるでもない悲痛な叫びを記録している。

 

『……もう限界だ。

 早く、早くここから出してくれ。

 私は、彼女を監視しているはずだった。

 だが、今は彼女の背中を見ているだけで、頭がおかしくなりそうだ。

 彼女は今日も、八時間連続で崖に座っていた。

 風が吹いて髪が揺れようと、鳥が眼力線を横切ろうと、瞬き一つしない。

 彼女の呼吸が薄い空気に溶け込んでいくのを見ていると、私自身の呼吸まで停止してしまいそうになる。

 彼女の周囲だけ、時間が静止しているのだ。

 いや、違う。

 彼女は時間からも、空間からも、この世界そのものから完全に切り離されている。

 あのように座っている彼女を見ていると、私は時折、彼女が本当に存在しているのかどうか分からなくなる。

 彼女の輪郭が周囲の岩と同化し、ただの『黒い穴』に見えてくるのだ。

 あの穴に引きずり込まれたら、私の意識も、記憶も、何もかもが消滅してしまうのではないかという恐怖で、夜も眠れない。

 産業医の愚か者共は、彼女の人間性を解凍するなどと嘯いていたな。

 ふざけるな……。

 解凍どころか、彼女の虚無は地球の環境を吸収し、さらに巨大で絶対的なものへと肥大化しているではないか。

 中東で彼女が民間人を徒手空拳で破壊した時、私は彼女を「歩く戦場」だと評価した。

 だが、それすら生ぬるかった。

 彼女は戦場ですらない。

 ただの『死』そのものだ。

 感情も、目的も、理由もなく、ただそこに存在し、触れたものを沈黙させる絶対的な現象なのだ。

 頼む、本社に打電してくれ。

 テストはもう十分だろう。

 彼女を早く宇宙の、あの暗礁宙域のテスト施設へ送還してくれ。

 彼女の居場所は、鉄の棺桶(モビルスーツ)の中と、真空の闇の中だけだ。

 重力のあるこの星に、人間の暮らすこの地球に、あの女をこれ以上滞在させるべきではない。

 私たちが発狂する前に、あの魔女を、元の暗闇に帰してくれ……!』

 

 監視員の音声メモには、嗚咽にも似た荒い息遣いが記録されていた。

 シイコ・スガイの精神の『凪』は、もはや彼女個人の内面の問題に留まらず、周囲の人間の精神構造をも侵食し、破壊し始めていた。

 彼女がただ座っているだけで、圧倒的な虚無は監視員たちの平穏を強奪し、狂気の淵へと追い落としていく。

 重力も、青い空も、圧倒的な自然も、彼女の魂を繋ぎ止めることは不可能であった。

 地球という星は、彼女にとってただの巨大な墓標の羅列であり、彼女自身がその墓標の一つに成り果てるための、退屈な待合室でしかなかったのである。

 旅は、いよいよ極東の地を残すのみ。

 彼女が再び、自らの真の狩場である宇宙(そら)へと帰還する日は、もう目前に迫っていた。

 

 

 

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