機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
宇宙世紀〇〇八二年、一〇月。
ユーラシア大陸の極東に位置する島国、日本。
一年戦争の直接的な戦火を免れたこの地は、
秋の深まりを見せる山間部の歴史ある「温泉郷」。
燃え上がるような広葉樹林の紅葉と硫黄の匂い、計算し尽くされた枯山水の庭園がもたらす静寂。
いかなる者の心をも物理的な時間の流れから切り離し、内省と平穏へ誘うはずであった。
だが、シイコ・スガイ中尉という「異物」の放つ虚無は、地球上で最も平和な情景の中に置かれてなお、いささかの揺らぎも見せなかった。
彼女は旅館が手配した浴衣姿で縁側に座り、何時間も紅葉を凝視し続けた。
その双眸に感情の波が立つことは一度としてなかったのである。
極上の保養環境に安堵した監視チームは、対象の精神がいかばかりか軟化するのではないかという淡い期待を抱いていた。
夕刻に記録された旅館の女将との短い対話記録が、甘美な幻想を根底から粉砕することとなる。
「お風呂上がりですね。
……お湯は、いかがでしたか?」
「……温かかった」
「芯まで温まれば、疲れも綺麗に洗い流せますからね」
「でも、
地球の豊かな自然も、人々の温かな気遣いも、万病を癒やすとされる湯をもってしても、彼女の精神にこびりついた「血の匂い」を洗浄することなど不可能……。
彼女の意識は、過去の戦場で自らが量産してきた殺戮の記憶とともに完全に固定されている。
美しい風景は、彼女の内にある決定的な死の冷たさと拭えぬ業を、残酷なまでに対比させる背景装置に過ぎない。
これ以上の地球滞在は、彼女の人間性を解凍するどころか、外界との断絶をより明確に確認させるだけの無意味な儀式に過ぎないという事実を、監視員たちは完全に悟っていたのである。
宇宙世紀〇〇八二年、十一月。
極東の山間部に冬の気配が忍び寄る頃、AE社本社より監視チーム宛に最高優先度の暗号通信が打電された。
現行プログラムの即時終了と、暗礁宙域の極秘テスト施設への帰還を命ずる指令であった。
この唐突な予定変更の背後には、AE社が社運を懸けて推進する次世代機動兵器開発プロジェクト――『ガンダム開発計画《クラブ・ワークス》』の急速な進展が存在した。
連邦軍の次期主力機開発における覇権を確立すべく、空間戦闘に特化した仕様へのデータ反映が急務となり、シイコが叩き出した限界機動データ『File: STIGMA』の実装検証が絶対条件として要求されたのである。
上層部は、これ以上の休養は高価な「生体部品」の甚大な浪費であると極めて合理的な結論を下したというわけだ。
常に「死の匂い」を纏う歩く虚無を監視し続けるという重圧から解放された地球側のチームが安堵の息を漏らす一方。
彼女の帰還を待つ暗礁宙域の施設では、狂気にも似た異常な熱狂が渦巻いていた。
シイコ・スガイ中尉が地球で退屈な
彼女の専用機であった「RGC-83 ジム・キャノンII "ウィッチズ・ブルーム"」の徹底的な魔改造に没頭していたのである。
限界まで強化されたフレーム、新型ジェネレーター、そして凶悪に再設計された電磁アンカー・ユニット "スティグマMk-Ⅱ"。
帰還命令の当日、整備班長から監視チーム宛に送信された申し送り事項には、現場の狂信的な渇望が生々しく露呈していた。
『地球での長い休暇のご苦労だった。
だが、そんなお遊びはもう終わりだ。
彼女を一日でも早く、無傷で
最新型のジェネレーターを組み込んだ新しい『箒』《ウィッチズ・ブルーム》が主を待って泣いている。
推進剤の供給ラインもアンカーの巻き取りトルクも、以前の比ではない。
あの女がどれだけデタラメな振り子機動を強要しようと、絶対に空中分解など起こさない化け物を我々は組み上げたのだ。
地球の重力や青空なんかじゃ、あの女の本当の姿を見ることはできない。
我々は、魔女が新しい箒に跨り、デブリの海で死神の
道中、くれぐれも丁重に扱え。
彼女はこの施設に君臨する、唯一の女王なのだからな』
暗礁宙域の技術者たちは、彼女の絶対的な虚無と死のカリスマに完全に魅了され、自ら進んで共犯者となることを望んでいた。
彼らにとってシイコ・スガイとは、単なるテストパイロットを超越した、自らの技術の限界を凌駕してみせる絶対的な
宇宙世紀〇〇八二年、十二月。
雪が舞う極東の施設から、シイコを乗せた連絡用シャトルが
大気圏突破の強烈なGと激しい振動の中にあっても、彼女のバイタルモニターは一切の乱れを示すことなく、極めて平坦な波形を維持し続けていた。
眼下に遠ざかる、青と白の美しい球体。
生命の坩堝であり圧倒的な生のエネルギーが満ち溢れるその星は、宇宙の絶対的な虚無の中では、あまりにも脆く儚いガラス玉に過ぎない。
シャトルの薄暗い客室で、彼女は端末を開き、手記の最終ページに極めて冷厳な事実を刻み込んだ。
『あの緑の球体は、残酷なまでに美しかった。
すべてが脈打ち、沸騰するような命の営みに満ち溢れていた。
人々は血塗られた戦争の記憶を泥の底へ沈め、まだ見ぬ明日を啜るために、貪欲なふいごのように呼吸を続けている。
あまりにも生が、緑の血潮が溢れかえっていたのだ。
ああ、だからこそ、その生命の暴風雨は、私をひどく息苦しくさせた。
網膜を刺すあの青い空の下では、私の内側に穿たれた巨大な虚無の暗穴が、決して埋まることはないと悟ったのだ。
私の魂は、一年戦争のあの血塗られた日に、ア・バオア・クーの冷たい泥沼の中で完全に凍りついてしまった。
地球の生ぬるい温もりは、その絶対零度の氷の表面をいたずらに撫で回すだけで、決して内部の髄にまで届くことは永遠にないのだ。
今や私はただ、死の冷たい輪郭をなぞるためだけに従順なる機械を操り、冷酷な十字の楔を打ち込むだけの空っぽの存在にすぎない。
地球という名のあの星には、私が呼吸を繋ぐための場所など、どこにも残されてはいない。
私の真の居場所は、錆びた鉄と硝煙の匂いが充満する鋼のコックピットの胎内と、あらゆる生命の営みを拒絶する、この絶対的な真空のただ中にしか存在しないのだ。
さあ、還ろう。
私を待ちわびている、あの凍てつく永遠の暗闇の胸の中へ。』
シャトルが暗礁宙域の極秘テスト施設に接舷する。
そこには狂信的な熱気とともに彼女を待ち構える技術者たちの姿があった。
彼らの視線の先には、漆黒に再塗装された魔改造機『ウィッチズ・ブルーム』が鈍い光を放って鎮座している。
出迎える者たちには一瞥もくれず、真っ直ぐに己の機体へと歩みを進めるシイコ。
地球の重力下ではただの不気味な亡霊に過ぎなかった彼女の歩調が、無重力空間に入った途端、極めて正確で無駄のない、研ぎ澄まされた刃のような挙動へと変貌を遂げていく。
ハンガーの薄暗い照明の下、振り返った彼女の黒い瞳の奥に、地球では決して観測されなかった暗い光――真の狩場に帰還した捕食者が放つ、絶対零度の殺意の輝きが宿っているのを、整備班長は確かに目撃したのである。
巨大軍産複合体という冷徹なシステムが囲い込んだ、一人の魔女。
地球の自然と平和という無力な劇薬は、彼女の人間性を解凍するどころか、彼女が純粋な『戦闘機械』であることをより強固に立証する結果に終わったに過ぎない。
ガンダム開発計画が進行し、連邦とジオン残党の間に新たな戦乱の火種が燻り始める中、AE社は自らがより凶悪に研ぎ澄ませてしまったこの規格外の怪物を、再び宇宙へと解き放った。
やがて到来する宇宙世紀〇〇八三年。
「星の屑」と呼ばれる絶望的な戦火が蹂躙する時、彼女と彼女の黒い機体は、その圧倒的な虚無と死のカリスマをもって、戦場という名の舞台に再び君臨することになるであろう。
軍産複合体の不気味な胎動は、静かに、しかし確実に破滅への秒読みを開始していた。
魔女の帰還は、その始まりを告げる冷酷な弔鐘に他ならなかった……。
U.C.0083 .1~.10 - Before the decision of the Dellers Fleet - Continued