機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
宇宙世紀〇〇八三年、九月。
暗礁宙域の深淵に潜伏するジオン公国軍残党の将兵たちの間には、かつてない異様な熱気と、それに相反する極めて不気味な静寂が交錯していた。
エギーユ・デラーズ中将を指導者と戴く『デラーズ・フリート』内部において、長きにわたり水面下で企図されてきた大反攻作戦――『星の屑』の全貌が、いよいよ末端の将兵たちにも感得され始めていたからに他ならない。
各潜伏拠点においては、稼働可能な機動兵器の最終調整が昼夜を問わず強行され、枯渇寸前の推進剤や実体弾の再分配が慌ただしく進められていた。
兵士たちの双眸には、地球連邦という腐敗した巨獣の喉元に食らいつき、ジオンの真の独立と誇りを奪還するという、狂信的とも言える大義の炎が燃え盛っていたのである。
彼らは三年に及ぶ屈辱を耐え忍んできた。
暗く冷酷なデブリの海で、泥水をすするがごとき生活を強いられながらも、いつか到来する決起の日のために己の牙を研ぎ続けてきたのだ。
その鬱屈した熱情。
作戦発動の足音が接近するにつれて、ついに臨界点を突破しようとしていた。
だが、狂熱の裏側。
彼らの精神を緊縛するもう一つの『異常事態』が進行していた。
あれほど頻繁に暗礁宙域を徘徊し、単独哨戒機や資源回収部隊を無慈悲に刈り取っていた『漆黒の亡霊』――漆黒の装甲に身を包み、犠牲者の機体に猟奇的な
一週間が過ぎ、二週間が経過しても、未帰還機のロスト報告はただの一件も上がってこなかった。
連邦軍の動向を警戒し、不可侵宙域の境界ギリギリまで偵察に赴いた小隊すらも、何事もなく無事に帰投を果たしたのである。
レーダーには無機質なデブリの反応しか映らない。
通信回線にあの引き攣った断末魔の絶叫が轟くこともなかった。
論理的に思考すれば、歓迎すべき事態である。
得体の知れない
安全裏に作戦準備を推進できる環境が整ったのだから。
しかし、残党兵たちの心に平穏が訪れることは決してなかった。
むしろ、その唐突すぎる静寂こそが彼らの神経を逆撫でし、見えざる恐怖を幾倍にも増幅させていった。
ある潜伏拠点の酒保で秘密裏に記録された音声データは、この時期の残党兵たちが抱え込んでいた『嵐の前の静けさ』に対する強烈な疑心暗鬼と、決して払拭し得ないトラウマの呪縛を、生々しい肉声として後世に伝えている。
『ジオン公国軍 残党勢力・第三潜伏拠点』
『兵員食堂(酒保)における下士官たちの非公式な噂話(内部監査用隠し録音より抽出)』
『記録日時:UC〇〇八三年九月二五日 二二三〇時』
[録音開始]
下士官A:
「……おい、聞いたか?
今日も第五セクターの哨戒に出た連中が、無傷で帰投したそうだ。
これで丸一ヶ月、誰一人として『狩られて』いないことになる」
下士官B:
「ああ、承知している。
司令部の連中は、己の不可侵指定が功を奏したのだとふんぞり返っているようだがな。
馬鹿馬鹿しい。
あんな紙切れ一枚の通達で、あの化け物が大人しく引き下がる道理があるものか」
下士官C:
「(グラスに合成酒を注ぐ音)……本当に、気味が悪い。
いっそ、週に一度くらいは顔を見せてくれた方が精神衛生上マシなのではないかと思えてくる。
あいつがどこかの死角で我々をジッと監視しているのではないかと想像すると、寝袋に潜り込んでもデブリが衝突する微かな音だけで跳ね起きてしまう」
下士官A:
「最近、あの漆黒の機体が出没しないな。
連邦の奴ら、ようやく飼い犬に首輪を嵌めたか?
それとも、我々を一網打尽にするべく、どこか見えない場所で牙を研いでいるのか。
……いずれにせよ、背筋が薄ら寒いことには変わりない」
下士官B:
「私の部下だった男……回収された際、コックピットが完全に圧壊し、中身はミンチ肉のようになっていた。
あの装甲に深く刻み込まれていた十字の傷……。
あれを目撃した際の強烈な吐き気を、私は生涯忘却できまい。
我々は間もなく、デラーズ閣下の御旗の下で巨大な花火を打ち上げる。
地球の重力に魂を縛られた連邦の腑抜け共を、心の底から震え上がらせてやるのだ。
だが……我々がいかに士気を鼓舞しようとも、あの魔女だけは、そのようなことなど一ミリたりとも意に介してはいないのだろうな。
政治的大義だの軍人の誇りだの、あいつにとっては塵芥以下の価値すら存在しないのだ」
下士官C:
「おい、やめろ。
縁起でもない言辞を弄するな。
我々は誇り高きジオンの騎士だ。
連邦の猟犬ごときに怯懦を見せてどうする。
今度あいつが出現したら、私がこの手でヒート・ホークを叩き込んでやるまでだ」
下士官A:
「……虚勢を張るな。
貴様だって、手が痙攣しているではないか。
グラスの合成酒がこぼれているぞ。
……我々は、意識の底辺で理解しているのだ。
あいつは人間ではない。
怒りも憎悪も通用しない、ただの『純粋なる殺意』だ。
もし『星の屑』が発動し、宇宙が業火の海と化した時……あの鎖を解かれた狂犬が、我々の陣形の中央に突撃してきたら……我々は、一体いかなる手段をもってあいつを排除すればいいのだ?」
(重苦しい沈黙。グラスの氷が溶けて鳴る音だけが記録されている)
[録音終了]
彼らは皆、アルコールの力を借りて虚勢を張りながらも、本心においては絶対的な恐怖に慄いていた。
アナハイム・エレクトロニクス社と連邦軍の裏取引により、次世代機開発のための
彼らにとって、魔女の消失は『脅威の去った平和』などでは断じてなく、『いつ巨大な断頭台の刃が振り下ろされるか予測不能な、処刑台の上の静寂』に他ならなかった。
星の屑作戦という壮大な歴史の歯車が駆動を開始しようとする中、大義という熱病に浮かされる将兵たちと、その足元にべったりと張り付いた『死のトラウマ』。
その残酷極まりない二面性が、暗礁宙域の潜伏拠点には濃密に充満していた。
彼らが掲揚するジオンの理想は、彼ら自身の精神に巣食う得体の知れない殺戮者への恐怖を、完全に払拭するには至っていなかった。
宇宙世紀〇〇八三年、一〇月。
そして、歴史はついに決定的な一歩を踏み出した。
一〇月一三日。
地球、オーストラリア大陸に位置する地球連邦軍トリントン基地において、『ソロモンの悪夢』の異名をとるデラーズ・フリートの精鋭、アナベル・ガトー少佐が、連邦軍の最高機密である核弾頭搭載型モビルスーツ『ガンダム試作二号機《サイサリス》』の強奪に見事成功したのである。
この報せは、暗号通信ネットワークを通じて即座に暗礁宙域の全潜伏拠点へと伝播した。
長らく燻り続けていた残党軍の拠点は、一瞬にして爆発的な歓喜の坩堝と化した。
三年に及ぶ雌伏の時はここに終焉を迎えた。
我らが英雄が、連邦の鼻を明かし、その絶対的象徴であるガンダムを奪取したのだ。
これで連邦は手も足も出まい。
ジオンの正義が、再び宇宙空間に高く掲揚される時が到来した。
通路では将兵たちが抱擁を交わし、「ジーク・ジオン!」の歓声が絶え間なく轟き渡っていた。
配給用の合成酒の樽が叩き割られ、誰もが勝利の美酒に酩酊していた。
彼らの網膜には、大義が成就する輝かしい未来の幻影しか映っていなかった。
しかし、狂騒と熱狂の渦中において、ただ一人、自室の暗がりで冷たい汗を流し、痙攣する指先で電子端末のキーを叩き続けている男が存在した。
彼は、数ヶ月前にデブリ帯で親友を喪失し、その後も魔女の猟奇的戦術――味方を肉の盾とするという狂気――の噂を追及し続けていた、あの手記の筆者である。
彼がこの日、端末に書き残した最終記録。
英雄的な大義に狂奔する組織の中で、真の恐怖の正体を完全に理解してしまった者だけが味わう、底知れぬ孤独と絶対的な絶望に満ち溢れている。
『ジオン公国軍 残党勢力・第二潜伏拠点』
『機動歩兵小隊 所属兵士の電子手記(最終記録・後に連邦軍情報部により回収)』
『記録日時:UC〇〇八三年一〇月一三日 二三五五時』
『ガトー少佐が連邦の新型を奪取した。
部隊は歓喜に沸騰している。
通路の向こうからは、鼓膜を破らんばかりの万歳の斉唱と、軍歌を張り上げる声が聞こえてくる。
彼らは皆、己が歴史の主役へと躍り出、連邦軍という巨悪を討ち果たす正義の戦士であると信じて疑っていない。
我々の悲願が成就する日も近いと、誰もが目を輝かせているのだ。
だが、私は恐ろしい。
彼らは何も理解していない。
連邦軍から核弾頭を搭載したガンダムを強奪するという行為が、いかなる凄惨な結果を招来するかを。
連邦は決定的に面子を潰された。
絶対にこの事態を座視することはない。
あらゆる強硬手段を行使して、我々を殲滅し、機体を奪還しに来るであろう。
作戦規模が拡大すればするほど、そして連邦が本腰を入れれば入れるほど、奴らは手段を選ばなくなる。
連邦は必ず、あの『鎖に繋がれた狂犬』を放つだろう。
我々に死の十字架を刻み続けたあの漆黒の魔女が、再び
あいつは、九月に入ってから完全に姿を消した。
司令部の連中は「連邦が掃討作戦を放棄した」などと胸を張っていたが、断じて違う。
連邦は、あいつという最悪の兵器に徹底的な
ガンダムを奪還するためであれば、連邦の腐敗した上層部は、あの猟奇的な連続殺人鬼に『無制限の殺戮許可』を付与し、我々の部隊のど真ん中へ放り込んでくるに違いない。
想像するだけで嘔吐を催す。
大義に燃え上がり、ジオンの栄光を狂信して突撃していく若きパイロットたちの横腹に、あの冷徹な黒いワイヤーが深々と突き刺さる。
機体を強引に牽引され、彼らが信じた「正義」や「誇り」などという概念が、一片の価値もない塵芥のごとく蹂躙される。
そして、彼らは絶対的な絶望の中、味方の銃弾を浴びるための肉の盾にされ、ゼロ距離からコックピットを吹き飛ばされるのだ。
あの魔女の、一切の感情を宿さないガラス玉のような瞳に見下ろされながら。
我々は連邦軍と戦争をするのではない。
あの、純粋な殺戮現象そのものと交戦しなければならないのだ。
英雄気取りの司令官たちには、最前線でいかなる地獄が現出するかなど想像もつくまい。
彼らは作戦図面の上でチェスの駒を動かしているつもりだろうが、その盤上にはすでに、一切のルールを黙殺してすべての駒を喰い尽くす『悪魔』が放たれようとしているのだ。
外の狂騒はさらにそのボリュームを増している。
誰かが私の私室のドアを叩き、「一緒に飲もうぜ!」と陽気な声をかけてきた。
私は返答をせず、ただ息を殺して鋼鉄のドアを凝視している。
狂喜乱舞する同胞たちの顔を思い浮かべながら、私は一人、奥歯の震えを噛み殺している。
我々は、本当に勝利し得るのか?
いや、勝敗などすでに意味を成さないのかもしれない。
これから開始されるのは、戦争ですらない。
あの魔女が設営した、巨大で無慈悲な処刑場への行進に他ならないのだから。
誰か、嘘だと言ってくれ。
明日、私が覚醒した時、すべてが悪質な夢であったと……』
手記の記録は、ここで唐突に途切れている。
この手記を残した兵士が、その後の過酷な星の屑作戦を生き延びたのか。
それとも彼の不吉な予感の通り、あの『喪服の魔女』のワイヤーに捕捉され、冷たい宇宙の塵と果てたのかは、定かではない。
確かなことは、彼が抱いた「絶対的な死が迫り来る予感」は、見事に、そして最悪の形態で的中したという事実である。
ジオンの理想という熱病に浮かされた将兵たちの熱狂の裏側で、軍産複合体という冷徹なシステムは、すでに最も凶悪なジョーカーの封印を解除していたのである。
やがて到来するデラーズ紛争という巨大な戦場。
英雄たちの誇り高き闘争の場であると同時に、一人の感情を持たない魔女が、大義という名の虚飾を無慈悲に引き剥がし、宇宙空間を猟奇的な十字の傷跡で埋め尽くすための、血に塗れた狂宴の舞台へと変貌していくのである。
歴史の歯車は、後戻りのできない破滅の淵へ向けて、不快な軋みを上げながら駆動を開始していた――。
- Continued - perspective of the E.F.F.