機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
宇宙世紀〇〇八三年十一月九日、十一〇〇時。
アルビオンのメインフレームに転送された
高度な暗号化パスワードによって厳重にプロテクトされていた『運用編』のデータ・フォルダ。
アルビオンの通信・情報担当士官がロックを解除し、出力されたハードコピーをエイパー・シナプス艦長のデスクに提出した瞬間、艦長室の空気はさらに一段、冷たく重篤なものへと変質したのである。
そこに記述されていたのは、補充パイロットである『シイコ・スガイ中尉』個人の取り扱いに関する、AE社からの極めて公式な申し送り事項であった。
通常の軍の書類であれば、パイロットの経歴、得意とする戦術教義、あるいは性格的特長や部隊連携における留意点などが記載されるのが通例である。
しかし、AE社先進開発部門から送付されてきたその文書は、一個の人類を説明するにしてはあまりにも無機質で、血も涙もない、猟奇的とすら評すべき冷徹な官僚用語によって埋め尽されていた。
シナプスは、卓上に置かれたペーパーメディアに視線を落としながら、己の軍人としての真っ当な倫理観が足元から崩落していくような感覚を自覚せざるを得なかった。
『アナハイム・エレクトロニクス社 先進開発部門』
『特務機材に関する申し送り書(運用編・抜粋)』
『宛先:地球連邦軍 強襲揚陸艦アルビオン 司令部』
『[パイロットの精神状態および運用上の留意点]
補充要員として派遣する対象パイロット(シイコ・スガイ中尉)は、過去の凄惨な戦闘経験(ア・バオア・クー攻防戦における重度の心的外傷)に起因する深刻なPTSDにより、大脳辺縁系の機能が極端に低下しており、喜怒哀楽を始めとするあらゆる感情の起伏が
したがって、対象に軍人としての倫理観、大義への共感、あるいは同僚・部隊への連帯感や協調性などを期待してはならない。
彼女は戦場において「死への恐怖」を一切知覚せず、また敵対対象に対する「情け」や「憎悪」も持ち合わせていない。
貴艦の作戦指揮官は、対象を「感情を有した人間」としてではなく、あらかじめ設定された標的を物理的に沈黙させるための、極めて精巧な『
作戦の目的と排除すべき標的の座標さえ入力すれば、対象は己の生存確率すら考慮することなく、最も効率的かつ機械的に任務を遂行し、
[補給物資に関する特記事項]
本対象の専用機体『ウィッチズ・ブルーム』の運用にあたり、極めて重要な懸案事項を伝達する。
本機体の主兵装である
対象は、敵を撃破する際、このアンカーを対象の装甲に深く打ち込み、自機の肉の盾として
この十字の楔が弾薬庫に存在しなければ、対象は敵を『磔』にできず、システムエラーを起こした機械のごとく出撃を拒絶する、あるいは戦場でのパフォーマンスが著しく低下する恐れがある。
よって、貴艦の補給部門は、同封した図面に基づく高張力ワイヤーと『十字型の楔』を、ビーム・ライフルのE-PACや推進剤よりも優先順位の高い「最優先補給物資」として、常に最大数を弾薬庫に備蓄されたい。
対象がその『作業』を滞りなく実行し得る環境を維持することこそが、部隊の生存率を最大化する唯一の手段である』
「……何なのだ、これは。
これが一人の人間に対する処遇だというのか」
シナプスは、無意識のうちに書類を握りしめ、その紙面をくしゃくしゃに歪めていた。
「人間を部品として扱う」
という言辞は、過酷な戦場においては時に比喩として用いられる。
だが、AE社からの文書は比喩などではない。
彼らは本気で、精神の完全に圧壊した一人の女性を、ガンダムの余剰パーツを組み上げた猟奇的な殺戮機械の『生体部品』として取り扱うよう、連邦軍の正規艦隊に対して公然と要求してきているのだ。
バニング大尉という、人間としての熱い魂を宿し、部下を愛し、部下から愛された本物の軍人を喪失したこのアルビオンに、AE社は、人間の心を完全に喪失した『自律型コンポーネント』を投下してきたのである。
そのおぞましい狂気の片鱗を突きつけられ、シナプスは底知れぬ嫌悪感と、この先の作戦に暗澹たる影を落とす予感に、ただ深く息を吐き出すことしかできなかった。
宇宙世紀〇〇八三年十一月九日、正午。
アルビオン艦長室の重厚な金属製ドアが、規則正しく三度、ノックされた。
「入れ」
シナプスの短い応答とともにドアが静かに開き、AE社の輸送艦から乗り込んできた補充パイロット、シイコ・スガイ中尉が姿を現した。
彼女は、連邦軍の規定に則った正確無比な歩調で艦長のデスクの前まで歩み寄り、微塵の隙もない完璧な敬礼をしてみせた。
しかし、その姿はアルビオンという軍艦の風景の中において、あまりにも異質であった。
彼女が纏っているのは、連邦軍の正規ノーマルスーツなどではない。
極端に装飾を排し、光の反射すらも無機質に吸い込んでしまうような、文字通り漆黒のパイロットスーツであった。
まるで、彼女自身が戦場に参列するための『喪服』であるかのようであった。
「特務機関より出向、シイコ・スガイ中尉。
これよりアルビオン隊の指揮下に入ります」
発声のトーンは極めて平坦であり、張り上げるでもなく、かといって聞き取りにくいわけでもない。
ただ、「意志」や「感情」といった、発声する際に必ず混入するはずの『熱量』が完全に欠落していた。
シナプスは、敬礼を返しつつ、彼女の双眸を真っ直ぐに見つめ返した。
そして、AE社からの申し送り書に記述されていた「感情の完全な凍結」という言葉の真意を、この瞬間、肌の粟立つような恐怖と共に理解してしまった。
彼女の瞳の奥には、光が存在しない。
過去のトラウマに苦悩する兵士の虚ろな眼差しとも根本的に異なる。
そこに在るのは、完全に枯れ果てた荒野のごとき、文字通りの『絶対零度の虚無』であった。
その夜、シナプスは自らの私的な電子手記に、彼女との面会で感得した拭いがたい薄気味悪さと、指揮官としての深い疑念を記録している。
『地球連邦軍 強襲揚陸艦アルビオン 艦長室』
『エイパー・シナプス大佐の私的な手記(抽出ログ)』
『記録日時:UC〇〇八三年十一月九日 二三三〇時』
『本日、バニング大尉の後任としてAE社から補充された特務パイロット、シイコ・スガイ中尉の着任申告を受けた。
だが、彼女の姿を脳裏に反芻するたびに、私の背筋には得体の知れない冷たいものが這い上がる感覚がつきまとう。
AE社からの事前の申し送り書は、決して大袈裟な修辞ではなかった。
彼女の目には生気が微塵も観測できない。
呼吸を継続し、脈を打ち、言語を発してはいるが、彼女の魂は一年戦争のあの暗黒の宇宙において、とうの昔に死に絶えているのだと、直感的に悟らざるを得なかった。
まるで、戦場を彷徨う亡霊を、無理やり軍服――というより喪服に押し込んで、強制的に立たせているかのようだ。
バニング大尉は、我々に「生き残るための戦術」を教示してくれた。
仲間を信じ、背中を預け合い、共に生きて帰るという強烈な意志こそが、彼の部隊を『不死身』たらしめていたのだ。
しかし、スガイ中尉にはそれが完全に欠落している。
彼女は己が生存することすら、どうでもいいと認識している。
彼女の周囲には、ただ「死」という物理的結果を量産するためだけの、冷たく乾いた真空が広がっているのだ。
明日には、ジオン残党の『星の屑』の真の企図が判明するかもしれない。
我々は再び、熾烈な戦闘の渦中へと身を投じることになるであろう。
バニング大尉という偉大なる魂を喪失し、悲嘆と動揺に揺らぐ現在の我が隊に、心を持たない彼女がいかなる影響をもたらすのか。
彼女のあの虚無の引力に、ウラキやキースといった若きパイロットたちが引きずり込まれ、彼らの内にある人間らしさまでが完全に凍りついてしまうのではないか。
私は、艦長として、この得体の知れない『魔女』を抱え込んでしまった事実に対し、一抹の薄気味悪さと底知れぬ疑念を禁じ得ないでいる』
宇宙世紀〇〇八三年十一月九日、一四〇〇時。
サウス・バニング大尉という絶対的な戦術的支柱を喪失したアルビオンのパイロット待機室は、鉛のごとく重篤で、呼吸すら阻害されるほどの沈黙に支配されていた。
平時であれば、翌日に控えた観艦式防衛任務へ向けた小隊単位の連携確認や、弾薬の再分配に関する熱を帯びた議論が交錯しているはずの時間帯である。
しかし、コウ・ウラキやチャック・キースら若手は俯いてコーヒーカップの底を凝視し、アルファ・A・ベイト中尉やベルナルド・モンシア中尉ら歴戦の古参兵たちも、隠匿しきれない苛立ちからロッカーを乱暴に蹴りつけるなど、誰もが行き場のない喪失感に苛まれていた。
彼らの内面には、戦友の死に対する底知れぬ悲哀と、ジオン残党への激甚なる怒りという『人間の熱量』が充満し、出口を失って渦巻いていた。
待機室。
自動ドアが開き、重苦しい大気の中に、場違いなほど足音を立てずに一人の女が入室してきた。
本日付で
彼女は、連邦軍の規定に基づくノーマルスーツではなく、光沢を完全に殺した漆黒のパイロットスーツを纏っていた。
まるで、これから出撃する戦場への戦闘装備というよりも、死者を弔うために設えられた『喪服』そのもの。
しかし、彼女が発散する空気は、死者を悼む厳粛なものではない。
生命活動の熱を一切感知させない、絶対零度の『虚無』に他ならなかった。
待機室のシステムが自動的に記録していた環境音声ログには、この時、悲哀と憤怒に燃焼する生者たちと、とうの昔に魂が死に絶えた亡霊とが交わした、あまりにも不毛で決定的に噛み合わない初接触の顛末が生々しく記録されている。
『地球連邦軍 強襲揚陸艦アルビオン パイロット待機室』
『環境音声マイクによる非公式録音データ(抽出)』
『記録日時:UC〇〇八三年十一月九日 一四〇五時』
(ドアが開放される音。
数秒の沈黙の後、モンシア中尉が荒々しく立ち上がる衣擦れの音)
モンシア:
「……何だ、あんたは。
幽霊でも出たのかと思ったぜ。
真っ黒なツナギなんか着込みやがって。
ここを葬式会場とでも勘違いしてんのか?」
ベイト:
「よせ、モンシア。
……あんたが、例の特務パイロットか。
アナハイムのお偉いさんの差し金で、大尉の穴埋めに寄越されたっていう」
シイコ:
「(感情の起伏が完全に欠落した平坦な音声で)特務機関より出向、シイコ・スガイ中尉。
アルビオン隊への合流を命じられた。
私のパーソナルスペースはどこ?」
モンシア:
「(舌打ちをして)へっあんたがオヤジの代替品かい?
随分と冷てえ目をしてやがる。
挨拶もそこそこに自分の席の確認かよ。
俺たちはな、昨日、誰よりも頼りになる親父を喪ったばかりなんだ。
仲間が戦死したってのに、少しは愛想よくできねえのか?
あんた、血が通ってんのか!」
(モンシアがロッカーを殴打する鈍い音。
しかし、シイコの呼吸音すら乱れる気配はない)
シイコ:
「……死は、ただの静寂。
機能が停止し、宇宙のノイズが一つ消去されただけ。
そこに特別な意味など存在しない」
モンシア:
「何だと……!?
貴様、オヤジの死をノイズだと抜かしたのか!」
シイコ:
「悲しむ理由が、私には理解できない。
怒りや悲しみは、作戦遂行において不必要なエラーを誘発するだけ。
あなたたちも、無駄な熱量を放出するのは推奨しない。
酸素の浪費よ」
コウ:
「(遮るように、激しく震える声で)スガイ中尉……!
バニング大尉は、僕たちを守るために、最期まで……!
大尉の死は、決して無駄なんかじゃありません!」
シイコ:
「守る……? 無意味な行為……。
自己の機体の生存確率を低下させるだけの、極めて非合理的な選択。
私は誰も守らないし、誰の背中も必要としない。
私の障害にだけはならないでちょうだい」
(無機質な靴音が響き、シイコが部屋の隅の空きシートに腰を下ろす音)
キース:
「(極小の声で、コウの耳元に囁くように)……コウ……何だか、背筋が寒くなるよ。
あの人の目、まるでガラス玉みたいだ。
僕たちのこと、同じ人間だと思ってないんじゃないかな。
……あの人、本当に味方なのか?
背後から撃たれそうな気がしてならないよ……」
バニングという血の通った人間の熱を喪失したばかりの空隙。
コウたちは、人間としての感情を完全に凍結させた『冷徹な機械』を強引にねじ込まれたような、強烈な拒絶反応と生理的恐怖を抱いていた。
戦死した同僚への哀悼。
ジオンへの怒り。
生き残ろうとする生存本能、
これらは何一つ存在しなかった。
ただ、入力されたプログラムを冷徹に処理するためだけに呼吸を継続している。
その異常なまでの『静寂』は、明日の激戦を控えたパイロットたちの精神構造を、内側から確実に凍結させていく。
宇宙世紀〇〇八三年一一月九日、一六〇〇時。
アルビオンのシミュレーター・ルームでは、コウ・ウラキ少尉が暗闇の中でモニターの冷たい光を浴びていた。
彼は、バニング大尉の後任として着任したシイコ・スガイ中尉に対し、待機室での会話から強烈な違和感と生理的嫌悪感を抱いていた。
しかし、明日の観艦式防衛任務において、彼女が特務〇一機として自分たちアルビオン隊の宙域に展開することは、覆しようのない決定事項である。
コウは、ガンダム試作一号機フルバーニアン《GP01Fb》のパイロットとして、少しでも彼女の戦術ドクトリンを理解し、最悪の事態(部隊連携の致命的破綻)を回避すべく、AE社から提供された彼女の過去の戦闘シミュレーション映像――『File: STIGMA』の再生データ――を確認しようと試みる。
しかし、モニターに投影されたその『戦闘の軌跡』は、コウの戦士としての矜持と、バニング大尉から受け継いだ尊い教えとは相容れない代物だった。
『地球連邦軍 強襲揚陸艦アルビオン シミュレーター・ルーム』
『コウ・ウラキ少尉の独白(訓練用システム連動マイクによる音声記録)』
『記録日時:U.C.〇〇八三年十一月九日 一六三〇時』
「……何だ、この機動は。
これが、あのウィッチズ・ブルームの実際のデータだというのか?
スラスターの噴射光がほとんど観測できない。
デブリの影から影へと、信じ難い相対速度で跳躍している。
……あっ! ワイヤーを、あんな巨大な岩塊に打ち込んで、その張力と振り子の遠心力だけで……!
こんなの、モビルスーツの力学じゃない。
ワイヤーの反動のみで直角にベクトルを変換し、敵の死角に完全に潜り込んでいる。
機体のフレームが軋む音響までシミュレートされているじゃないか。
こんなGが加われば、通常の人間なら一瞬でブラックアウトするはずだ。
……嘘だろ。
敵のザクの背後を完全に掌握したのに、何故トリガーを引かない?
アンカーを……敵の肩部装甲に打ち込んだ?
そのまま急激にウインチを巻き取って……ザクを強引に牽引し、自機の正面に……!
盾にした!? 敵のザクを盾として保持している……!
そして、拘束したザクの背面越しに、至近距離からキャノン砲を……!
(コウの荒い息遣いと、コンソールを激しく殴打する音)
……吐き気がする。
大尉は……バニング大尉は、僕たちを守ってくれた。
いかに過酷な戦況下にあっても、常に部下の相対位置を把握し、連携を維持し、絶対に一人として死なせないという強靭な意志で僕たちを導いてくれた。
大尉の背中には、温かい血が通っていたんだ。
でも、スガイ中尉は……あの女は、僕たちを守る気など微塵もない。
彼女の戦術アルゴリズムには、僚機の存在を考慮する余白が完全に欠落している。
彼女はただ、最も効率的に目標を『処理』するためのプログラムを実行しているに過ぎない。
もし僕が敵に包囲されていても、彼女は僕を援護するどころか、僕の機体にアンカーを打ち込んで、自己を防衛するための
彼女の視界には、命の価値など一切結像していない。
敵も味方も、デブリもモビルスーツも、すべてがただの『物理的障害物』か『利用可能な質量』に過ぎないんだ。
こんな……こんな狂気に満ちたデータが、連邦軍の、いやガンダムの開発の礎になっているというのか?
僕たちは明日、ジオン残党の核の脅威と対峙しなければならない。
それだというのに、味方の陣形の中央に、敵よりも遥かに恐ろしい、人間の心を完全に喪失した『魔女』を抱え込んで戦うというのか?
大尉……教えてください。
僕は、明日、あの暗黒の宇宙で、一体誰を信じて背中を預ければいいんですか……!」
コウ・ウラキの悲痛極まる独白は、シミュレーター・ルームの冷徹な壁面に虚しく吸い込まれていった。
バニング大尉という『人間の熱量』を喪失し、悲哀と憤怒に燃焼する生者たち。
そして、唐突に出現した、AE社のエゴと戦争の狂気が純粋培養した『絶対零度の虚無』であるシイコ・スガイ。
二つの決して交わることのない決定的な断絶は、明日の観艦式における絶望的な戦場を目前にして、アルビオンクルーたちの精神構造を限界まで削り落とし、生理的な恐怖のどん底へと無慈悲に突き落としていく……。