機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
宇宙世紀〇〇七九年一二月三一日、一五〇〇時。
かつて「鉄壁」と称され、ジオン公国軍における絶対的な防衛の
今や単なる巨大な質量を持った宇宙の粗大ゴミ、あるいは巨大な墓標へと変わり果てようとしていた。
入り組んだ内部通路においては至る所で隔壁が圧壊。
火災に伴う黒煙と有毒ガスが充満している。
主電源はとうの昔に失われた。
非常用照明の赤い明滅だけが、死に絶えた兵士たちの亡骸と、四肢を捥がれたモビルスーツの無惨な残骸を極めて悪趣味に照らし出していた。
我々は、あの「喪服を着た大砲」——搭載弾薬すら尽き果てながらも、撃破した友軍機の残骸から奪い取ったヒート・ホークを振り回して理不尽な殺戮を継続する漆黒のガンキャノン——から逃れるべく、ただ無様に通路を這い回っていたのである。
誇り高きジオンの戦士としての
そこにあるのは、ただ「死にたくない」という、炭素系生命体としての極めて原始的でみすぼらしい生存本能のみであった。
泥水のごとき絶望の只中を逃げ惑っていた時である。
要塞の深部、司令部ブロックに直結する宙域から、一隻のザンジバル級機動巡洋艦が要塞の崩壊から逃れるようにして発進していくのが確認された。
「あれは、キシリア少将閣下の座乗艦か」
誰かがオープン回線で叫んだ。
総帥亡き後、全軍の指揮を執るはずであった最後の将が、我々を置き去りにして脱出を図ろうとしていたのである。
怒りよりも先に、深い諦観が胸を満たした。
要するに、我々は捨てられたのだ。
この救いようのない地獄の底に。
だが、その「見捨てられた」という事実すらも、次の瞬間には全く無意味なものへと変わる。
要塞の暗がりから一条の閃光が奔った。
大型バズーカから放たれた弾頭である。
何者が、あるいはいかなる部隊の生き残りが放ったものかは定かではない。
だが、その一撃は恐るべき精度をもって、加速中のザンジバル級の艦橋を正確に撃ち抜いたのである。
音を伝える媒質のない宇宙空間において、巨大な火球が無音で膨れ上がる。
指揮官を乗せたザンジバル級は推進剤に引火して大爆発を起こし、無数の破片となって四散した。
その瞬間、私のヘルメット内でノイズ混じりに鳴り続けていた司令部からの自動暗号放送が、完全に途絶えた。
完全なる静寂。
それは、一つの軍隊が、ひいては一つの国家が完全に死を迎え、単なる肉と鉄の塊の集合体へと成り下がった歴史的瞬間であった。
我々が守るべき「ジオン」という概念そのものが、あのザンジバル級の爆発と共に宇宙の闇へと溶けて消滅したのである。
もはや、戦うべき合理的な理由はどこにも存在しなかった。
我々を縛り付けていた軍規も大義も、すべてが虚無の彼方へと消え去ったのである。
「……逃げろ。もう終わりだ」
誰に言うともなく、私は通信回線で呟いた。
残存する艦艇やモビルスーツ部隊は、蜘蛛の子を散らすように要塞からの離脱を開始した。
ある者は事前に撤退を呼びかけていたエギーユ・デラーズ大佐の艦隊を追い、またある者は遥か木星圏のアクシズ方面を目指した。
それぞれが目的地すら定まらぬまま、ただこの死地から一秒でも遠ざかることだけを願い、散発的かつ極めて無秩序な脱出を開始したのである。
一六〇〇時。
要塞の組織的抵抗が完全に沈黙したことを確認した地球連邦軍は、容赦のない
無数のRGM-79ジムやRB-79ボールが、まるで飢えたハイエナの群れのごとく要塞の表面や内部へと雪崩れ込む。
動くものすべてに対してビームの雨を降らせていった。
彼らもまた多大な犠牲を払い、憎悪と復讐心に突き動かされていたのである。
降伏という名の甘美な選択肢など、どこにも用意されていなかった。
私は運良く致命的な損傷を免れていた、リック・ドムのメインジェネレーターをカットし、ア・バオア・クー周辺に広がる暗礁宙域の濃密なデブリ帯の中へと機体を滑り込ませた。
各種機能を停止し、周囲に漂う戦艦の残骸や岩塊と同化する。
熱源センサーを欺瞞する、いわゆる「死んだふり」戦術である。
コクピットの生命維持装置の出力を最低限にまで絞り込んだ。
極寒の冷気が足元から這い上がってくるのを感じながら、私はただじっと息を潜めていた。
静かだった。
あまりにも静かすぎた。
連邦軍索敵部隊の放つサーチライトの光芒が、時折デブリの隙間を舐めるように通り過ぎていく。
その光芒を見るたびに、心臓が凍りつきそうになった。
だが、私が真に恐れていたのは、連邦の正規掃討部隊などではなかった。
目を閉じれば、暗闇の中にあの漆黒の機体が明瞭に浮かび上がってくる。
重装甲に身を包み、天井に張り付きながら、味方のゲルググを盾にして降下してきたあの悪魔の姿が、である。
デブリ同士が衝突し、金属の軋む微かな音が響くたびに、「あのワイヤーの楔が打ち込まれたのではないか」という幻聴に苛まれた。
あの「喪服を着た大砲」は、連邦の軍人としてではなく、純粋な死神として暗礁宙域の闇の中から突如現れ、私を狩りに来るのではないか。
ア・バオア・クーが陥落したという国家規模の虚無感。
それよりも、あの理不尽極まりない魔女の恐怖の方が、私の精神のより深い部分を侵食し、ズタズタに引き裂いていた。
生き延びたという安堵など微塵も存在しない。
私の中の時計は、あの十字の傷を見た瞬間から完全に停止してしまっていたのである。
* * *
【戦闘詳報(後日談):ジオン残党軍 撤退部隊の証言】
記録者:エギーユ・デラーズ大佐 麾下 情報将校
宇宙世紀〇〇八〇年。
ア・バオア・クーの陥落から数ヶ月の時が流れた。
我々ジオン公国軍の生き残りは、暗礁宙域に築き上げた秘密拠点「茨の園」において再起の時を虎視眈々と窺っていた。
私は情報将校として、各方面からかき集められた戦闘データ群と、極秘裏に回収されたモビルスーツの残骸の分析を統括する任務に就いていた。
目的は、連邦軍の戦術ドクトリンを解析し、次なる闘争へ向けた対抗策を講じることにある。
だが、ア・バオア・クー宙域から回収された機体の残骸を検分していた私は、ある戦慄すべき事実に直面することとなった。
回収された残骸のうち、近接格闘戦で撃破されたと思われるゲルググやリック・ドム、計二四機の機体に、奇妙かつ不可解な共通点が発見されたのである。
それらの機体は、いずれも頭部から胸部にかけて、信じ難いほどの至近距離から大口径の砲弾(二四〇mmキャノン砲と推測される)の直撃を受けて大破していた。
しかし、真に恐るべきはそこではない。
撃破された二四機すべてのコックピットブロック側面、あるいは背面装甲の極めて装甲の厚い部分に、まるで定規で測ったかのように正確な『
装甲を強引に抉り、内部フレームにまで達するその深く鋭い十字の傷は、通常のビーム・サーベルやヒート・ホークによってつけられたものではない。
高張力ワイヤーの先端に取り付けられた特殊形状の「
報告書に目を通し、私は静かに息を吐き出した。
生存者たちから提出された、錯乱気味の証言記録の数々が、私の脳裏で一つに結びついていく。
『喪服を着た大砲』
『上半身が戦艦の装甲で、下半身が剥き出しの黒いガンキャノン』
『ワイヤーで味方を引き寄せ、盾にして至近距離から撃ち抜く死神』
前線の兵士たちが恐怖のあまり生み出した集団幻覚。
あるいは極限状態における誇張表現だと片付けていた、その狂気じみた噂は、紛れもない現実であった。
この二四機に刻まれた十字の傷こそが、彼女がこの宇宙に実在し、我々の同胞を狩り立てた何よりの物理的証拠であったのだ。
地球連邦軍には、確かに「悪魔」が存在した。
RX-78 ガンダム。
パイロットたるアムロ・レイの超人的な直感と機体の圧倒的性能により、我がジオンの戦線を次々と突破していった白い悪魔である。
だが、彼が戦場の光の中に立つ存在であり、ジオン将兵の『希望を打ち砕く光』であったとするならば、あのア・バオア・クーの暗がりで殺戮を繰り広げた
白い悪魔の戦闘行動は、あくまで軍事的な戦術の延長線上に存在していた。
高機動で敵を翻弄し、正確な射撃で急所を貫く。
それは恐るべき技量ではあるが、軍人としての理解の範疇には収まる。
だが、あの黒い魔女のRX-77Dが行っていたのは、近代軍隊の
わざわざ敵の懐に飛び込み、ワイヤーで機体を拘束し、逃げ場を奪った上でゼロ距離から頭を吹き飛ばす。
撃ち取った味方の機体を盾として再利用し、あまつさえ敵の武器を奪い取ってさらなる殺戮を継続する。
それは戦争などではなく、純然たる殺意に基づく猟奇的な狩猟に他ならない。
あの十字の傷……生存者たちが畏怖を込めて『
十字架を打ち込まれた瞬間、彼らの命運は完全に絶たれ、生贄として魔女の祭壇に捧げられたのである。
私は報告書の末尾に、赤字で力強く追記を行った。
『結論として、連邦軍の当該機体(RX-77D 黒いガンキャノン)およびそのパイロットは、通常のモビルスーツ戦のセオリーを完全に逸脱した存在である。
彼らがもたらす心理的恐怖は、単なる兵器の破壊力を遥かに凌駕し、我が軍の士気を根本から崩壊させる危険性を孕んでいる。
今後、我々ジオン残党軍が再起を図るにおいて、あの「喪服の砲兵」は、忌まわしき白いガンダムと同等、あるいはそれ以上の最警戒対象として扱わねばならない』
ペンを置き、私は重く冷たい金属のデスクに視線を落とした。
茨の園の暗黒の宙域を見つめる兵士たちの目には、今も拭い去れない恐怖が宿っている。
彼らは連邦軍という組織に敗北したのではない。
あの暗い通路で、絶対的な「理不尽な死」という暴力に直面し、魂を圧砕されたのだ。
シイコ・スガイ。
後にその名が判明することになる漆黒の魔女。
彼女がア・バオア・クーの宙域に刻み込んだあの十字の聖痕は、単なる機体の装甲だけでなく、生き残ったジオン兵たちの心臓に深く、そして永遠に癒えることのないトラウマとして打ち込まれていたのである。
我々デラーズ・フリートが、再び大義のために立ち上がるその日まで。
否、宇宙世紀〇〇八三年と呼ばれる激動の時代においてさえ、あの「魔女の恐怖」は、亡霊のように我々の背後に付き纏い、暗礁宙域の闇の中から我々を凝視し続けるのであろう。
彼女の機体に刻まれていたというその詩篇の通り、我々は死の淵から蘇り、再び戦火を交えることとなる。
だが、その胸の奥底には、あの十字の楔がもたらす冷酷な痛みが、いつまでも、そして永遠に疼き続けているのである。
次回から連邦軍視点です。