機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】   作:王子の犬

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【第二部】U.C.0084 - 死人の側から、生者の側へ
《47》帰るべき場所のない空白(1月〜3月)


 

 

 ――――どこにも帰れない。

 

 

 宇宙世紀〇〇八四年、一月。

 

 地球連邦政府の首都ダカールからほど近い、海沿いの衛星都市である。

 その裏路地に建つ、塗料の剥げかけた古びたレンガ造りの安宿の一室で、シイコ・スガイは、ベッドの縁に浅く腰掛けたまま、薄暗い壁の染みをただじっと見つめていた。

 時刻は午後二時。

 窓の外からは、冬の重い雲の下を行き交う車のエンジン音や、市場で値切り交渉をする人々の喧騒、遠くで鳴るフェリーの汽笛といった、無数の生活の音が絶え間なく流れ込んでくる。

 しかし、シイコの鼓膜を震わせるそれらの響きは、何の意味を持つ情報へと変換されることもなく、ただの不規則な雑音として処理され、意識の底へと空しく滑り落ちていった。

 自分が今、なぜこの薄暗い部屋にいるのか、その理由を論理的に辿り直そうと試みた。

 昨年の暮れ、彼女は軍の上層部から数枚の書類を渡され、署名することを求められた。

 それは、彼女のこれまでの軍歴をいっさい「抹消」し、連邦軍から除籍するという通達であった。

 同時に、彼女のデータチップには、一生かかっても使い切れないほどの途方もない額の電子マネー、すなわち口止め料が記録されていたのである。

 餞別も、感謝状も、上官からの労いの言葉も、戦友との別れの儀礼も何一つなかった。

 彼女は、ある日突然、軍の組織から完全に切り離され、宇宙世紀の歴史上「存在しなかった人間」として、この見知らぬ地球の街へと放り出されたのであった。

 だが、理不尽な放逐に対する怒りも、絶望も、あるいは過酷な戦場から解放されたという喜びも、シイコの心をほんのわずかばかりも揺るがすことはなかった。

 彼女の精神の作りは、ア・バオア・クーの泥沼や、暗礁宙域での陰惨な非公然任務を生き抜く過程で、すべての「感情」を処理すべき「手順」へと完全に置き換えるよう、冷酷なまでに最適化されていたからだ。

 彼女にとっての真の戸惑いは、軍を追われたことや、存在を否定されたことではなかった。

 最も深く戸惑わせていたのは、「次の手順」がどこからも与えられないという、その絶対的な空白であった。

 朝起きても、点呼はない。

 機体の整備という手順もなければ、弾道計算の必要もない。

 標的の座標も、鋼線を打ち込むための残骸の配置図も送られてはこない。

 敵がいない。

 守るべき、あるいは盾にすべき味方もいないのだ。

 彼女の脳内は、常に「次の戦闘」に向けて張り詰めた待機状態を保ち続けている。

 だが、いくら待機命令を更新し続けても、こなすべき役割が一向に降りてこないのである。

 そのため、一日中、ベッドの縁に座り続けることしかできなかった。

 空腹を告げる感覚が限界を超えれば、宿の下にある食堂へ降り、水やサンドイッチといった最も手早く腹を満たせる食事を胃に流し込む。

 そして部屋に戻り、再びベッドに腰掛けて、壁の染みを眺めながら待機状態へと戻る。

 食事を取り、眠る。

 その繰り返しを、何の意味も意図も見出さぬまま、ただ機械的にこなすだけの日々であった。

 ふと、窓ガラス越しに眼下の通りを見下ろした。

 北米へのコロニー落としという未曾有の大災厄から、わずか1ヶ月ほどしか経っていない。

 ダカールの周辺は直接的な被害を免れたとはいえ、地球経済は混乱の極みにあり、人々の生活に余裕などあるはずもなかった。

 それなのに、窓の外を行き交う人々は、なぜか皆、何かに急ぎ、誰かと大声で笑い合い、怒り、泣きながら、不規則に動き回っている。

 

(……あの人たちは、なぜあのように無駄な動きをしているのだろう)

 

 シイコは、硝子玉のような虚ろな瞳で、人々の熱を帯びた営みを観察した。

 彼らの動きには、合理性も、生存確率を高めるための緻密な計算も存在しないように見えた。

 無駄な音を発し、無防備に急所を晒しながら歩いている。

 何を目的として生きているのか、なぜあのように笑うことができるのか、シイコの冷え切った思考回路ではまるで理解できなかった。

 窓の外の世界は、彼女にとって、宇宙の暗闇よりもはるかに遠く、理解の及ばない異界であった。

 再びゆっくりとブラインドを下ろし、薄暗い部屋の静寂へと身を沈めた。

 

『夫となる青年の私的手記(後年の回想録より抜粋)』

 

 妻が除隊直後の最初の数週間を、地球のどこで、どのように過ごしていたのかを私が知ったのは、結婚してずっと後になってからのことでした。

 ある夜、ふと思い立って尋ねた私に、彼女は淡々とこう答えてくれたのです。

 「海沿いの、狭い部屋にいた」と。

 なぜその街を選んだのか、なぜその宿にしたのかと聞くと、彼女は少しだけ首を傾げて、本当に不思議そうに言いました。

 

「……安かったから」

 

 莫大な退職金が電子マネーとして記録されていたにもかかわらず、彼女はそれを使うことすらせず、手持ちのわずかな現金だけで、最も底辺に近い安宿に滞在し続けていたのですね。

 そして、その時の彼女の荷物は、軍から支給された無骨な鞄一つと、数着の衣類、文庫本が一冊だけだったといいます。

 私物がほとんどなかったのです。

 

「安かったから、そこにいた」

 

 その言葉の裏にある、背筋が凍るような深い虚無感。

 当時の彼女には、世界に対する欲求も、未来への希望も、自分の居場所を選ぶという「意志」すらも完全に欠落していたのでしょう。

 彼女はただ、誰からも命令されない空間で、自身の存在意義を見失ったまま、放置された機械のように静かに埃を被っていたのです。

 私はその話を聞いた時、彼女がたった一人で過ごしたその薄暗い部屋の冷たさを想像し、胸が締め付けられるような痛みを覚えました。

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八四年、二月。

 

 安宿での何もない日々が一ヶ月ほど続いたある日。

 シイコの脳内に設定されていた、長らく未処理であった義務の記憶が、静かに目覚めた。

 「生存状態の報告」である。

 彼女は一年戦争の開戦以来、故郷である地方都市に住む親族に対して、一度も連絡を取っていなかった。

 軍人として戸籍が抹消された以上、自らが現在も物理的に生きているということを、血縁の記録元へと通知する論理的義務が発生したと判断したのだ。

 彼女はベッドから立ち上がり、宿の近くの文具店で、最も安価な白い便箋と黒いインクのペンを買い求めた。

 部屋に戻り、小さな机に向かう。

 宛先は、実家の両親と、実質的に家を取り仕切っている母方の叔母である。

 ペンを握る彼女の指先は、機体の操縦桿をミリ単位で操作する時と全く同じ、寸分の狂いもない正確さで便箋の上に文字を刻んでいった。

 

『除隊しました。

 落ち着いたら顔を出します。』

 

 書き終えた文字数は、二十文字にも満たなかった。

 そこには、「これまで連絡できず申し訳なかった」という謝罪も、「戦争を生き延びて無事である」という安堵も、「帰るのが楽しみだ」という喜びも、いっさいの感情的な言葉は存在しなかった。

 彼女にとって手紙とは、軍人から民間人への身分の変更と、今後の移動予定を伝達するための、純粋な情報でしかない。

 余分な感情を混入させることは、伝達の効率を下げる無駄な行為であると、凍りついた心が判断したのだ。

 シイコは、定規で引いたように正確な文字で書かれたその二行の便箋を、事務的に三つ折りにし、封筒に入れて郵送した。

 これで一つ、こなすべき手順が完了したのである。

 しかし、感情がいっさい排除された二行の手紙が、彼女を待つ故郷の生者たちにどれほどの戦慄と焦燥をもたらすか、彼女には計算することができなかった。

 

『シイコの母方の叔母から、伯父へ宛てた手紙(速達)』

『記録日時:宇宙世紀〇〇八四年二月中旬』

 

 お兄様、突然のお手紙で申し訳ありません。

 至急、ご相談したいことがございます。

 昨日、シイコから数年ぶりに便りが届きました。

 あの子は、無事でした。

 連邦軍を除隊し、今は地球のどこかにいるようです。

 ですが、お兄様。

 私はその手紙を読んだ時、喜ぶよりも先に、背筋にぞっとするような寒気を感じてしまったのです。

 手紙の内容は、ただ二行。

「除隊しました。

 落ち着いたら顔を出します」とだけ書かれていました。

 まるで、役所から送られてくる事務的な通知か、血の通わぬ機械が打ち出した報告書のようでした。

 お兄様もご存知の通り、軍に入る前のシイコは、もっとよく笑い、おしゃべりで、親戚中のみんなに愛想を振りまくような、明るくて手紙の上手な娘でした。

 便箋の端に可愛らしい絵を添えたり、最近あった面白い出来事を何枚にもわたって綴ったりするような子だったではありませんか。

 それが、あんなにも乾ききった、冷たい文字を書くようになるなんて。

 あの子があの凄惨な戦争の中で、一体何を見て、何をさせられてきたのか。

 私には想像もつきません。

 ですが、あの子の心の中で、何か「人間としての大切なもの」が、根本から壊れてしまったのではないかという恐ろしい予感がしてならないのです。

 このままあの子を一人で放っておくわけにはいきません。

 あんな冷たい手紙を書くあの子が、本当に自分の足で実家に帰ってこられるのかどうかも不安なのです。

 どうか、お兄様からも実家の両親に強く働きかけていただき、一日も早くあの子の居場所を突き止め、実家に呼び戻せるよう手配していただけないでしょうか。

 あの子を、一刻も早く「家族」の元へ引き戻さなければ、あの子は永遠に遠い世界へ行ってしまうような気がするのです。

 

 この叔母の直感的な恐怖と焦燥が、親族会議を急速に動かし、のちの「見合い」という強引な社会復帰の段取りへと繋がる決定的な引き金となったのである。

 

 

 

 そして、宇宙世紀〇〇八四年、三月。

 

 親族からの度重なる帰還の催促を受け取ったシイコは、ついに重い腰を上げ、地球の地方都市にある実家への移動を開始した。

 帰るという行動そのものに対する、内面的な抵抗はなかった。

 実家は彼女の記憶に刻まれた初期の居場所であり、そこへ向かうことは論理的に妥当な帰結である。

 問題は、移動のための手順を組み立てることであった。

 戦場において、移動経路は常に軍の組織や作戦司令部から与えられていた。

 しかし、一介の民間人となった今、どの交通機関を選択し、どのように切符を買い、何を荷物として持っていくべきか、それらすべての過程を自分自身で構築しなければならない。

 彼女の脳は、最適な経路を算出するのにひどく時間を要した。

 民間人の移動手段は、軍のそれに比べてあまりにも非効率で、選択肢が多すぎたからである。

 数日間の旅程を経て、彼女はついに、一年戦争の開戦以来、初めて実家の玄関の前に立った。

 色褪せた木製の扉。

 見覚えのある表札。

 彼女は、数秒間その扉を見つめた後、呼び鈴を押すという手順を選択し、指を伸ばした。

 扉が開いた。

 中から姿を現したのは、急に老け込んだように見える、白髪混じりの母親であった。

 母親は、扉の前に立つ痩せこけた小柄な女性を見て、一瞬、完全に動きを止めた。

 目の前にいるのが、本当に出て行ったきりの娘であるという確信が持てなかったのだ。

 彼女の外見は、実際の年齢よりもひどく若く、成長が止まっているかのようにも見えた。

 しかしそれ以上に、彼女の顔に張り付いた能面のような表情のなさと、足音一つ立てずに立つその異質な気配が、母親の記憶にある「明るい娘」の姿と激しくかけ離れていたからである。

 

「……シイ、コ……?」

 

 母親が震える声でその名前を呼んだ瞬間、シイコの脳内で、目の前の人物が母親であるという認識が完了した。

 母親の目から、突如として大量の涙が溢れ出した。

 彼女は顔をくしゃくしゃに歪め、膝から崩れ落ちるようにして泣き叫び、シイコの細い体を力任せに抱きしめた。

 

「ああ……生きてた、生きて帰ってきてくれたのね……!

 ごめんなさい、止めてやれなくてごめんなさい……!」

 

 シイコは、母親に強く抱きしめられたまま、完全に硬直していた。

 

(なぜ、この人は涙を流しているのだろうか?)

 

 彼女の冷徹な思考回路が、瞬時に母親の行動の意図を読み解こうとする。

 涙を流すという行為は、物理的な苦痛、あるいは極度の悲しみや喜びといった感情の負荷による生理反応である。

 だが、自分がここに立っていることが、なぜこれほどの負荷を生むのか、彼女には全く計算ができなかった。

 彼女の中には、「久しぶり」という感覚が完全に欠落していたのである。

 時間の経過を思い出として蓄積する心の働きは、ア・バオア・クーの戦場で、膨大な敵機の速度と方向を処理するための計算能力へと強制的にすり替えられてしまっていたからだ。

 彼女にとって、五年という歳月は、ただの数値の経過でしかなかった。

 母親の嗚咽が、玄関に響き渡る。

 シイコは、玄関に突っ立ったまま、この異常な状況に対する最適な手順を探し続けた。

 敵ではない。

 迎撃の必要はない。

 相手は自らの帰還に対する反応を示している。

 ならば、ここで自分が発すべき最適な言葉は何か。

 

「……ただいま」

 

 彼女は、感情からではなく、状況に適合する最も正しい合言葉を入力するように、その言葉を口から出力した。

 声に抑揚はなかった。

 彼女の腕は、泣き崩れる母親の背中を抱き返すこともなく、ただ力なく体の脇に垂れ下がったままであった。

 それは、「死人の側の人間」が生者の世界に触れようとした、痛ましくも残酷な最初の瞬間であった。

 

『夫となる青年の私的手記(後年の回想録より抜粋)』

 

 結婚してずいぶん歳月が流れてから、彼女がふと、実家に帰った時のことを話してくれたことがありました。

 

「実家の玄関を開けたら、お母さんが泣いていたの」

 

 と、彼女は静かに言いました。

 

「でも、私は自分がなぜ泣かれているのか、全くわからなかった。

 玄関に突っ立ったまま、この不可解な状況をどう処理すればいいのか、しばらく考えてしまった」と。

 

 その話をしてくれた時、彼女は膝の上で両手を強く握り締め、ひどく申し訳なそうな、苦しげな顔をしていました。

 

「あの時、お母さんと一緒に泣いてあげられなかったこと。

 ただいまって、心から言ってあげられなかったことが……今でも、取り返しのつかない罪みたいに思えるの」

 

 彼女は、自分が母親の涙に何も感じられなかったこと、感情を失った機械のように振る舞ってしまったことを、ずっと一人で恥じ、後悔し続けていたのですね。

 戦争が、彼女からどれほど多くのものを奪い去ってしまったことか。

 彼女は、肉体こそ無傷で帰還したかもしれません。

 しかし、彼女の心は、家族の愛にすら反応できないほど、冷たく無機質な虚無の氷に閉ざされてしまっていたのです。

 私はその悲しい事実を前にして、宇宙世紀という時代の底知れぬ業の深さと、彼女がたった一人で背負わされた呪いの重さに、ただ静かに戦慄するしかありませんでした。

 

 

 

 

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