機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】   作:王子の犬

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《49》命の恐怖と過去の幻影(7月〜9月)

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八四年、七月。

 

 初夏のまとわりつくような湿気が、地方都市の空気を重く淀ませていた頃である。

 シイコの寸分の狂いもない機械的な日常に、最初の明確な綻びが生じたのはその時期であった。

 朝、夫の食事を整える手順のさなか、唐突な吐き気に見舞われた。

 視界が明滅し、平衡感覚が失われる。

 とっさに流し台の縁に両手をつき、自身の脈拍や体温といった数値を、頭の中で冷ややかに走査した。

 

(胃粘膜の炎症か、あるいは自律神経の乱れか。

 心拍数の上昇……原因不明の不具合)

 

 一時的な身体的負荷と見なし、自己を修復しようと試みたが、不調は数日経っても消えるどころか、むしろ頻度と深刻さを増していった。

 食事を摂る効率は著しく落ち、身体には常に重い倦怠感が付き纏うようになる。

 見かねた夫に強く促され、彼に付き添われるようにして近所の総合病院の産婦人科を受診することになった。

 診察室の薄暗がりの中。

 超音波検査の小さな画面に、白黒の不鮮明な影のような画像が映し出された。

 医師は影の一部を指さし、穏やかな声で告げた。

 

「おめでとうございます。

 まだ小さいですが、ここに確かに心拍が確認できます。

 妊娠八週目ですね」

 

 その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、シイコの冷徹な思考回路は、かつてないほどの致命的な破綻をきたした。

 

(……心拍。命)

 

 画面の中で微かに明滅するその影を、空虚な瞳で見つめ続ける。

 記憶の底にある「命」という概念は、すべて「自らの手で奪い、解体し、ただの数値として処理するもの」でしかなかった。

 コンペイトウの暗黒の宙域で、あるいはアイランド・イーズの絶対防衛線で、数え切れないほどの命の瞬きを、コンマ数秒の狂いもなく十字の鋼線で絡め取り、物理的な「無」へと還元してきたのである。

 命とは、己の指先で消し去るための標的に過ぎなかった。

 殺戮と破壊のためだけに最適化された血塗られた肉体の奥深くに、新たな「命」が創り出され、脈打っている。

 あまりにも残酷で不可解な矛盾は、これまで強固に保ってきた「感情を持たない機械」としての防護壁を、内側から粉々に打ち砕いてしまった。

 病院からの帰り道。

 初夏の強い日差しがアスファルトを焼きつけ、足元には陽炎が揺らしていた。

 夫は少し前を歩く彼女の背中を、案じるように見守っていた。

 いつもであれば、一定の歩幅で無駄なく歩行するはずの足取りが、今日に限っては明らかに乱れていたのである。

 ふいに、シイコは立ち止まった。

 

「シイコさん?」

 

 夫が声をかけても、彼女は応えない。

 彼女の両手は、自らの下腹部を、まるでそこに巣食う恐ろしい異物を封じ込めようとするかのように、激しい力で掴んでいた。

 

(……汚い)

 

 彼女の脳裏に、自らの血塗られた両手の記憶が鮮明に蘇る。

 敵機の操縦席を至近距離で焼き切った手。

 生きている人間を、肉の盾として引き寄せた手。

 数え切れないほどの兵士たちの尊厳と未来を、虫けらのように踏み躙ってきた、呪われた己の肉体。

 

(私のような人間が、命を創っていいはずがない。

 この無垢な細胞を、私の血が汚してしまう。

 私は、何かを生み出すための機能など持っていない。

 持っていてはいけないのだ……!)

「怖い……!」

 

 シイコの口から、掠れた悲鳴が漏れた。

 彼女はその場にうずくまり、熱いアスファルトの上に膝をついた。

 

「シイコさん!」

 

 夫が慌てて駆け寄り、肩を抱き起そうとする。

 だが彼女は、拒絶するように身を固く丸め、腹部を押さえたまま、ついに声を上げて泣き崩れたのであった。

 

青年()の日記』

『記録日時:UC〇〇八四年 七月下旬』

 

 産婦人科からの帰り道、彼女は突然立ち止まり、お腹を強く押さえてうずくまってしまいました。

 

「怖い。私みたいな人間が、命を創っていいはずがない」

 

 彼女は、アスファルトに滴り落ちるほどの涙を流し、幼い子供のようにしゃくり上げていました。

 私の前で、あんなにも激しく震え、声を上げて泣いたのは、あの日が初めてのことでした。

 お見合いの席で感じた、決して触れてはならない冷たい刃物のような静謐さ。

 新婚生活のなかで見せていた、機械のような完璧な無表情。

 そうしたものがすべて崩れ去り、そこにはただ、過去の恐ろしい罪悪感と、新しい命に対する根源的な恐怖に押し潰されそうになっている、一人の無力で脆い女性がいたのです。

 私は、道行く人々が怪訝な顔でこちらを振り返るのも構わず、隣に座り込み、震える細い背中をただひたすらに擦り続けることしかできませんでした。

 彼女の流す涙は、かつて奪ってきた数多の命への深い慟哭であり、それと同時に、凍りついた心がようやく「人間の体温」を取り戻し始めた、痛ましくも残酷な産声であったのだと、私は思っています。

 

 

 

 UC〇〇八四年、八月。

 

 妊娠という事実が彼女の精神に巻き起こした嵐は、そう容易く収まるものではなかった。

 つわりが本格化するにつれ、シイコはこれまでの日常の役割を完璧にこなすことができなくなった。

 自らの存在意義を「与えられた任務の正確な処理」にしか見出せなかった彼女にとって、己の存在を根底から否定される事態であった。

 

「……申し訳ありません」

 

 薄暗い寝室のベッドで青ざめた顔で横たわる彼女は、仕事を早退して駆けつけ、消化のよいスープをこしらえてくれた夫に対し、力なく呟いた。

 

「私は、欠陥品です。

 正常に稼働することもできず、ただあなたに負荷をかけている。

 私は、ここにいるべきではない……」

 

 彼女の口をついて出る言葉は、かつての無機質な響きを失い、深い絶望と自己嫌悪に沈み込んでいた。

 胎内に宿った命を愛おしいと思うよりも先に、自分が母親というものになることへの底知れぬ恐怖が勝るのだ。

 血に塗れた魔女の手で、無垢な赤ん坊を抱きしめることなど、この世界が許すはずがない。

 その強迫観念が、彼女の心を暗い深淵へと引きずり込もうとしていた。

 夫はベッドの傍らに腰を下ろし、温かい濡れタオルで彼女の額に浮かんだ冷や汗をそっと拭った。

 彼は、シイコの自嘲を頭から否定することはなかった。

 彼女が背負い続けている罪の重さを、安っぽい同情や綺麗事で誤魔化すような真似は決してしなかったのである。

 その代わり、シイコの冷たい手を自らの両手でしっかりと包み込み、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて、静かにこう言った。

 

「シイコさん。

 君が過去に、どんな戦場で、何を壊してきたとしても。

 君が自分を化け物だと思っていても。

 ……僕が、全部一緒に背負うから」

 

 彼の声は静かであったが、鋼のような揺るぎない決意に満ちていた。

 

「君の罪も、君の恐怖も、僕が半分持つ。

 だから、この子は二人で守ろう。

 ……君の手は、何かを壊すためだけにあるんじゃない。

 僕の手を握るためと、生まれてくるこの子を抱きしめるために、今ここにあるんだ」

 

 不器用で温かな言葉は、シイコの心の最も奥深く、固く閉ざされていた氷の殻へと、確かな熱を帯びて浸透していった。

 

(……この人は、私が壊れることを恐れていない。

 私が奪ってきた命の重さを知りながら、それでも私を手放そうとしない)

 

 夫の掌の温もりを確かめるように、わずかにその指先を握り返した。

 それは、宇宙世紀という巨大な狂気の渦が彼女に押し付けた「殺戮機械」としての重い呪縛を、一人の平凡な人間の無償の愛情が、少しずつ、しかし確実に解きほぐし始めた瞬間であった。

 

 

 

 UC〇〇八四年、九月。

 

 心身が回復へ向かう道のりは決して平坦ではなかった。

 胎内の命が育つにつれ、シイコの精神はより過敏に、より脆くなっていった。

 心を覆っていた防護壁が取り払われた彼女の脳裏には、かつてはただの記録として処理し、無意識の底へ封じ込めていた凄惨な記憶が、生々しい血の匂いや感覚を伴って逆流し始めていたのである。

 それは、秋の気配が色濃くなり始めた、ある夜のことだった。

 

(……暗闇。無数の光の筋。

 そして、焦げる金属と肉の匂い)

 

 夢の中で、再びあの漆黒の機体、ウィッチズ・ブルームの操縦席に座っていた。

 舞台はア・バオア・クーの泥沼のような宙域か、コンペイトウ宙域か。

 シイコは音もなく死角から滑り出し、照準器に捉えた敵機――血の通った人間が乗る機体へと、十字の鋼線を射出する。

 分厚い装甲を貫く鈍い手応え。

 高圧電流が激しく弾ける。

 通信回線越しに、恐怖に歪んだ男たちの絶叫が流れ込んでくる。

 

『来るな! 俺を盾にするなァァッ!』

 

 彼女は機能を停止した敵機を無造作に引き寄せ、背後からの被弾を防ぐための、物理的な「肉の盾」とする。

 直後、味方の放った一条の光が、盾にされた敵機の背中を無惨にえぐり取る。

 いっさいの感情を交えることなく、残骸となった盾の脇下から銃口を突き出し、次の標的を撃ち抜く。

 そして、用済みとなった盾の操縦席を、至近距離で焼き切った。

 その瞬間、弾け飛んだ装甲の隙間から、焼け焦げ、顔の半分が欠損した敵兵の死体が、彼女のカメラ越しに真っ直ぐに睨みつけてきたのである。

 

『お前も、いずれ同じ目に遭う。

 お前のその腹に宿る命も……!』

「……十字が……十字が……ッ!!」

 

青年()の手記』

『記録日時:UC〇〇八四年 九月下旬』

 

 夜中、隣で休んでいた彼女が「十字が……」という恐ろしい譫言を叫んで、弾かれたように跳ね起きました。

 私はすぐに目を覚まし、部屋の明かりを点けました。

 彼女は全身を激しく痙攣させ、滝のような冷や汗を流しながら、毛布を固く握りしめて激しい過呼吸に陥っていました。

 瞳孔は開ききり、その焦点は私を通り越して、はるか彼方の地獄のような空間を彷徨い歩いているようでした。

 

「シイコさん! 大丈夫だ、ここにいる、僕はここにいるから!」

 

 私は彼女の細い肩を引き寄せ、その冷え切った身体を力一杯、強く抱きしめました。

 彼女はしばらくの間、私の腕の中で暴れ、何か恐ろしいものから逃れようとするように喘いでいました。

 ですが、私が彼女の名前を呼び続け、その背中をゆっくりと撫で続けるうちに、彼女の激しい呼吸は徐々に落ち着きを取り戻していったのです。

 彼女の瞳に、ようやく現在の寝室の景色が、そして私自身の顔が焦点を結びました。

 彼女は、私の腕の中にいるということを理解すると、ポロポロと涙をこぼし、震える声で何度も繰り返しました。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 私がどれだけ「謝る必要なんてないんだよ」と告げても、私の胸に顔を埋めたまま、ただ謝り続けていました。

 彼女が見た夢がどれほど恐ろしいものであったのか、私には知る由もありません。

 ですが、それが彼女を苛む過去の罪悪感そのものであることは、痛いほどに伝わってきました。

 私はただ、冷たい手を両手で固く握り締め、「もう戦わなくていいんだよ」と、耳元で静かに囁き続けました。

 朝陽がブラインドの隙間から差し込み、部屋を白く染め上げるまで、私たちは手を繋いだままベッドに座っていました。

 柔らかな朝の光の中で、疲れ果てて私の肩に寄りかかって眠る横顔は、悪夢から生還した、一人の弱い人間のそれでした。

 

 

 

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