機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】   作:王子の犬

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《50》氷の融解と新しい時間(10月〜12月)

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八四年、一〇月。

 

 秋の深まりとともに、地方都市を包む空気は澄み渡り、吹き抜ける風にはわずかな冷気が混じるようになっていた。

 シイコの肉体は妊娠五ヶ月を過ぎ、外目にもはっきりと分かるほどに柔らかな変化を見せ始めていた。

 それと同時に、彼女の精神を深く蝕んでいたつわりや、過去の凄惨な記憶の逆流といった激しい拒絶反応も、夫の献身的な支えによって、少しずつ息を潜めつつあったのである。

 その日の夕刻のこと。

 夫と向かい合ってささやかな夕食を終えた後、シイコはソファに浅く腰掛け、静かに息をついていた。

 室内に響くのは、壁掛け時計の秒針の音と、夫が台所で食器を洗う微かな水音だけである。

 かつての彼女であれば、何の目的も持たない「静寂」は、次なる任務が与えられないことへの致命的な空白空間でしかなかった。

 しかし今のシイコにとって、この静けさは、夫の確かな体温と存在によって保証された、何よりも安らかな揺り籠へと変わりつつあった。

 その時であった。

 下腹部の奥深くで、何かが、かすかに動いたのである。

 

(……?)

 

 腸の蠕動(ぜんどう)運動か、あるいは筋肉の痙攣か。

 シイコの冷徹な思考回路は、瞬時に体内の数値を解析しようと試みた。

 だが、そのかすかな動きは、神経系が発した命令によるものではなく、外部からの物理的な刺激によるものでもなかった。

 肉体の内側に存在する、全く別の独立した命からの発信であったのだ。

 ポコッ。

 もう一度。

 今度ははっきりと、腹壁を叩くような、小さな、しかし力強い律動が伝わってきた。

 シイコは、弾かれたように目を見開いた。

 これまで、数え切れないほどの「命」を、戦闘の対象としてのみ観測してきた。

 ア・バオア・クーに散布されたビーム攪乱膜の中。

 暗礁宙域の深い闇の中。

 コンペイトウの閃光の下。

 彼女が知る命とは、すべて自分以外の熱源であり、推進器の光であり、恐怖に歪む通信の雑音であり、そして自らの手で物理的な「無」へと還元すべき標的でしかなかった。

 死の匂い。

 金属が焦げる匂い。

 真空に散る血液。

 それが、彼女の知る「命」のすべてであった。

 だが、今、内側から響いたこの小さな動きはどうだろう。

 これは、奪われるために存在しているのではない。

 解体されるための数値でもない。

 自分の血塗られた肉体という暗闇の底で、ひたすらに「生きよう」として脈打つ、純粋で無垢な『生の光』そのものではないか。

 

「……あなた」

 

 シイコは、自分でも驚くほど震える声で、台所にいる夫を呼んだ。

 食器を拭く手を止めて居間に顔を出した夫は、彼女のただならぬ様子に驚き、慌ててソファへと駆け寄った。

 

「どうしたの? どこか痛むの?」

 

 シイコは静かに首を横に振り、自らの腹部をじっと見つめたまま、夫の温かい大きな手を取った。

 そして、自らの下腹部へとそっと導き、押し当てたのである。

 数秒の静寂。

 やがて、夫の掌の下で、再び小さな命が跳ねた。

 

「あっ……」

 

 夫の口から、感嘆とも驚きともつかない声が漏れた。

 彼の目は大きく見開かれ、そして、顔いっぱいに、言葉には尽くせないほどの深い喜びと感動が広がっていく。

 そんな夫の顔を見た瞬間であった。

 シイコの心を長年覆い尽くし、「喪服の魔女」としてこの世に繋ぎ止めていた分厚い虚無の氷が、ピシリ、と微かな音を立てて亀裂を生じたのは。

 亀裂は瞬く間に全体へと広がり、やがて無数の破片となって決定的に砕け散った。

 シイコの瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。

 産婦人科の帰りに焼けつくアスファルトに滴り落ちた、あの恐怖と絶望の涙とは違っていた。

 氷が融け、凍てついていた魂にようやく血が巡り始めた証である、温かくて純粋な「生者の涙」であった。

 

「この子……生きているわ」

 

 シイコは、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、夫の顔を見上げて、静かに微笑んだ。

 無理に作った表情でも、計算された動作でもない。

 心の奥底から自然に湧き上がってきた、初めての、心からの笑顔であった。

 

青年()の日記』

『記録日時:UC〇〇八四年 一〇月某日』

 

 夕食の後、彼女が突然目を丸くして、自分のお腹をじっと見つめました。

 そして、私の手を取ってそこへ当ててくれたのです。

 ポコッ、という小さな動き。

 間違いなく、私たちの子供が、彼女のお腹の中で「生きている」と主張している合図でした。

 彼女はポロポロと涙を流しながら、初めて……本当に初めて、私に向かって心から微笑んでくれました。

 「この子、生きているわ」と。

 彼女がこれまでに背負ってきた罪の重さ、奪ってきた命の数々。

 彼女はそれを理由に、温かい場所から遠ざけようとしていました。

 ですが、彼女の胎内に宿った新しい命が、彼女自身に「あなたは生きて、愛していいのだ」と、静かな許しを与えてくれたように思えたのです。

 その、涙に濡れた美しい笑顔を見た時、私の中で何かが救われた気がしました。

 もう大丈夫だ。

 彼女は過去の死者たちの呪いから解放され、ついに、私たちと同じ「生者の側」へと帰ってきてくれたのだと。

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八四年、十一月。

 

 秋から初冬へと季節が移ろう中、シイコの日常は劇的な変化を遂げていた。

 安定期に入った彼女は、夫に付き添われることなく、一人で近所の商店街やデパートへと出かけるようになっていた。

 彼女の目的は、もはや効率的な栄養摂取のための食材調達ではない。

 数ヶ月後に生まれてくる新しい命のための、産着や日用品を揃えるという「母親としての準備」であった。

 淡い色合いの小さな産着を手に取り、その手触りを確かめる。

 小さな哺乳瓶や、柔らかい毛布を選ぶ。

 かつてのシイコであれば、すべて作戦行動において無用の長物として処理されたであろう。

 しかし今の彼女にとって、これらの品々を選び、買い揃えることは、自らと家族を守るための日常の防衛線を、自分自身の意思で築き上げていくという、尊くも温かい営みであった。

 シイコの顔からは、かつての刃物のような険しさも、機械のような無機質さも、すでに完全に消え去っていた。

 青白かった頬には血色が戻り、その表情には、年相応の、あるいは母性という名の柔らかで温かな光が宿っていた。

 そんな彼女の変化は、周囲の人間たちの目にも明らかなものとして映っていた。

 

『近所の主婦から、夫への立ち話』

『記録日時:UC〇〇八四年 十一月某日』

 

「あら、ご主人。

 いつも遅くまでお疲れ様ね」

「そうそう、最近、奥様とよくスーパーでお会いするのよ。

 奥様、ずいぶんお顔色が良くなられたわね」

「引っ越して来られたばかりの頃は、なんだか影があるというか、大人しくて、ちょっと近寄り難い雰囲気の奥さんだなあって、ご近所でも噂になっていたのよ。

 ごめんなさいね、変なこと言って」

「でも、最近は全然違うの。

 こないだなんて、ベビー服のコーナーで、ご自分のお腹を優しく撫でながら、小さな声で『どっちの色がいいかしらね』なんて、赤ちゃんに話しかけてらしてね」

「その時のお顔が、本当に優しそうで、幸せそうで……見ているこっちまで温かい気持ちになっちゃったわ」

「奥様、すっかりお母さんの顔ね。

 これから寒くなるし、初めての出産で不安なこともあるでしょうから、旦那さんもしっかり支えてあげなさいよ」

 

 

 「影のある大人しい奥さん」から、「優しそうな奥さん」へ。

 シイコ・スガイという一人の女性が、宇宙世紀の暗部における数奇な運命を完全に断ち切り、社会という生者の共同体へと確かに着地したことを意味していた。

 かつて、敵の機体に十字の鋼線を打ち込み、命を物理的に解体することにのみ使われていた彼女の小さな手は、今、自分のお腹の膨らみを慈しむように撫で、産まれてくる子供のための柔らかな産着を畳むために使われていた。

 彼女は、自らの手で過去の呪いを断ち切り、人間としての尊厳と平穏を自らの足で歩き始めていたのである。

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八四年、一二月。

 

 季節は巡り、大晦日が訪れた。

 地方都市の夜空からは、静かに、そして絶え間なく、真っ白な雪が舞い降りていた。

 五年前のこの日。

 宇宙世紀〇〇七九年一二月三一日、ア・バオア・クー。

 彼女は、泥沼のような暗黒の宇宙で、燃え盛る戦艦の残骸を縫うように飛び回り、恐怖に顔を歪めるジオン兵たちを無表情に次々と屠っていた。

 焼け焦げた金属の匂い、そして終わりの見えない殺戮の無限の反復。

 彼女の魂は、「絶対零度の虚無」という氷の棺に閉じ込められ、「喪服の魔女」という呪われた兵器へと変貌したのだ。

 だが、今、彼女がいる場所は、宇宙の暗闇ではない。

 暖炉の火がパチパチと温かな音を立てて揺れる、静かで穏やかな居間であった。

 部屋の中には、珈琲の甘い香りが漂い、テレビからは年末特有の賑やかな番組の声が微かに漏れ聞こえている。

 ソファに座るシイコは、ゆったりとした身重の体に衣服をまとい、編みかけの小さなベビーシューズを膝の上に置いていた。

 その手を動かす速度は、かつての操縦桿を握るような常軌を逸した精密さではなく、不器用ながらも一目一目に愛情を込める、ゆっくりとした人間の刻むリズムであった。

 彼女の横には、夫が座っている。

 シイコは、手を止めて編みかけの小さな靴を優しく撫でると、夫の肩にそっと自分の頭を預けた。

 

「……ありがとう。

 私を見つけ出してくれて」

 

 暖炉の火に柔らかく照らされた横顔は、とても穏やかで、深く満ち足りていた。

 過去の亡霊たちに魂を引かれることも、血塗られた罪に怯えることも、もうない。

 彼女の瞳は、過去の死者たちではなく、これから産まれてくる未来の命だけを、そして隣で支え続けてくれた夫の確かな存在だけを、真っ直ぐに見つめていたのである。

 

青年()の手記(年内最後のページ)』

『記録日時:UC〇〇八四年 一二月三一日』

 

 外は静かに雪が降っています。

 彼女は私の肩に寄りかかり、編みかけのベビーシューズを撫でていました。

 

「ありがとう。

 私を見つけ出してくれて」

 

 と、彼女は小さな声で言ってくれました。

 その言葉を聞いて、私は彼女の温かい肩をそっと抱き寄せました。

 私の方こそ、あなたに出会えてよかった。

 あなたがどれほどの深い絶望と、暗く冷たい宇宙の果てを彷徨ってこられたのか、私には完全に理解することはできないかもしれません。

 あなたが背負わされた戦争という巨大な狂気の前に、私のような平凡な人間の愛情など、あまりにも無力でちっぽけなものだったかもしれません。

 だが、それでも。

 私の差し出した不器用な手が、あなたを覆っていた虚無の氷を融かし、あなたを私たちのこの「生者の世界」へと引き戻すことができたのなら、これ以上の喜びはありません。

 窓の外では、音もなく雪が降り積もり、すべての傷跡と古い時間を白く覆い隠していきます。

 来年の春、この家に三人目の家族がやってきます。

 それは、連邦もジオンも、歴史の大義も関係のない、ただ私たち二人だけで守り、育てていく、新しくてかけがえのない命です。

 私たちの新しい時間は、ここから始まるのです。

 

 

 宇宙世紀という過酷な歴史の歯車の中で、すべてを奪われ、感情を持たない殺戮兵器へと作り変えられた一人の女性。

 彼女は、巨大な権力闘争の果てに社会へと放逐され、一人の平凡な青年の無償の愛と、自らの内に宿した新しい命の光によって、ついに完全なる人間としての魂を取り戻したのである。

 血塗られた歴史の裏側で虚無に生きていた魔女は、今、暖かな暖炉の火と愛する家族に包まれ、静かに、そして確かに息づいている。

 雪が静かに降り積もる聖なる夜に、かつての死神は完全に姿を消し、そこにはただ、未来を愛する一人の優しい母親の姿だけがあった。

 

 

 




U.C.0085年へ続く……。
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